18 ワイルドボア騒動 前編
ヴァーヴ王国の東寄りには、国境となっている山脈がある。しかし、厳密にはどこまでが東国との境界かは明確ではなかった。
というのも、両国との間には魔物が住まう森が存在しているからだ。かつて交易路として作られた山道はいまだに残っているが、そこから山中へと一歩足を踏み入れれば、そこは野生動物と魔物が蔓延っている。
そんな東の山よりの土地を北上していく馬車の中、ディナードはどっかと腰を下ろしていた。
馬車は道を行くうちにがたんと大きく揺れて、居眠りしていたゴブシは荷物に頭をぶつけ、ディナードも何度も尻が浮き上がる。
「こうも揺れると、ケツが痛くなっちまうな」
ハースト王国から馬車の旅を続けてきたが、主要な交通路ではないため、道がしっかり舗装されているわけではないのだ。
そうしていると、ティルシアがはっとして、貫頭衣の裾を持ち上げて、大きなふわふわ尻尾を外に出して、ディナードの前で振ってみる。
クッションにするにも、抱き枕にするにもちょうどいい。けれど、ディナードはそんなティルシアの尻尾をふわふわと撫でて笑った。
「ありがたい申し出だが、俺が座ったらつぶれっちまうぞ」
そう言われて、ティルシアは困ったように首を傾げる。
レスティナもそんな彼女を見て、苦笑い。
「ティルシア、お尻が見えていますよ」
衣服の裾を持ち上げているため、小さなお尻を隠している下着が露わになっていたのだ。
人の機微には疎いレスティナも、少しずつ慣れてきていて、指摘するくらいにはなっている。そしてティルシアも両手でお尻を隠す。
けれどそう言うレスティナも、座り方のせいでスカートがめくれて下着が見えていた。
そんなところを見ていたディナードは、どちらも淑女にはほど遠いな、などと笑うしかなかった。
やがて馬車が地方でそこそこ大きな都市に到着すると、一行は大きく伸びをした。
これまで幾度か馬車を乗り換えていくつかの都市を経由してきたが、うまく乗り継げる馬車が出ているわけでもなく、さらには数日に一度くらいしかなかったりしたため、予想外に時間がかかってしまったのだ。
歩いても構わないのだが、土地鑑に乏しいため、誰かに頼ったほうがいいと判断したのだ。
途中の都市ではあまりおいしいものは食べられなかったため、自然と期待が膨らむ。
「まずは冒険者ギルドに行くか。ハースト王国から話がいっているはずだ」
こちらで手続きを済ませなければ活動することはできないが、ハースト王国はヴァーヴ王国とは友好国であるため、煩雑な作業は必要ない予定だ。文化や言語もさほど変わらない。
街中を歩いていくと、どうにもこちらは騒々しい印象を受ける。なにか問題でもあったのだろうか。
ディナードはあちこちに目をやり、情報を集めつつ、冒険者ギルドに到着する。
「ごめんくださいよ。ハースト王国にいた冒険者ディナードだ。こちらでの活動を行いたい」
受付嬢は頭を下げると、すぐに書類を持ち出してきた。
「ディナード様ですね。承っております。こちらにご記入をお願いします」
さらさらと業務継続の旨を書いていく。多少、冒険者ギルドの規則が異なることなどがあるため、その確認だ。
そうした記入を済ませると、受付嬢が確認した後、彼に告げる。
「お疲れのところ申し訳ございません。ディナード様に依頼が届いております」
「ふむ。俺を待たねばならなかったということは、魔物関連か?」
「はい。住処を追い出されたと思しきワイルドボアが出没しております」
「なるほどな。ここでも一連の流れが影響しているということか」
ワイルドボアは巨大イノシシの魔物だ。
魔物としては珍しくもなくさほど強いわけではないが、元々イノシシ自体が巨大になるため、人では相手をするのが難しいのだ。
しかもイノシシですら人の十倍の重さにもなるというのに、魔物ワイルドボアはそれよりも大きくなるという。そこまで巨大化すれば当然皮が厚くなり、矢も通らなくなる。
だから通常兵器ではどうしようもなくなるため、大都市では攻城兵器や大規模な罠の類を用いて追い払ったり仕留めたりするのだが、こちらではそんな備えがないのだ。
しかしそんな魔物に対してディナードが抱く感想は、
「ワイルドボアか。食べ応えがありそうだな」
などというものだった。
ゴブシも大きいというのを聞くと、喜んで仕方がない。腹一杯に食えるだろう。
しかし、受付嬢は不思議そうに告げるのだ。
「食べるのですか? ワイルドボアの肉は、すぐに痛むためおいしくは食べられないと言われていますが……」
「それは、仕留めたあとの処理が悪いからだ。死ぬと使用されない魔力が熱になって、ただでさえ高い体温でダメになっちまうのが加速して、あっという間に煮えてまずくなっちまうんだ」
そこらへんのイノシシでも、腹を開けると湯気が出てくるほどで、水で冷やすなど処理をしないとダメになってしまう。ワイルドボアはその性質が激しく、とても食べられやしない、と彼女は言うのである。
しかし、詳しいわけでもないのだろう。ディナードの説明を聞いても曖昧に頷くだけだった。
「ええと……もし、受諾のご検討をしていただける場合、仔細をお話いたしますが、いかがいたしましょうか?」
「頼む。……ティルシア、少しいいか?」
ディナードは長旅で疲れ気味のティルシアに尋ねると、彼女は何度も頷いた。すっかり、彼女に合わせているディナードである。そして彼女も食いしん坊なので、おいしそうな話となれば、頷かないはずがない。
詳しい説明のために別室に案内されると、早速資料が運ばれてくる。
「すでに聞き及んでいるかと存じますが、北から魔物が流れてきている現状がございます。それにともない、こちらに一頭のワイルドボアがやってきました」
「一頭ってことは、雄か。牙が厄介だな」
一般にイノシシは雌が子供を連れて群れを成すが、成長した雄は単独で行動すると言われている。そして雌の牙は成長が止まるが、雄では大きくなって上向きに突き出た牙で、鼻先を上げるようにして攻撃を行うそうだ。
ワイルドボアの牙は強力で、大人でも食らえば腹に大穴が空いてしまう。
受付嬢は頷き、さらに説明を続ける。
「東の山沿いにある農村の畑を荒らしており、こちらから手出しができないため、このままでは壊滅に追いやられてしまいかねません」
地図上には出没している地域が描かれているが、その範囲は複数の村々に及んでいる。ただのイノシシでさえ高い柵を乗り越えて、さらには簡素なものであればぶちこわしてしまうのだ。ワイルドボアを相手にするには、そこらの村の防備ではどうにもならない。
それゆえに、ワイルドボアは暴れまくっているらしい。たった一頭だということだというのに、それほどの被害になるとは。
「しかし……随分と食い意地が張ってるんだな。こりゃ、痩せててまずいかもしれない」
イノシシは冬に備えてたっぷり食い、脂肪が乗っているのがうまいとされている。しかし、今回の獲物は追われてきたことから、小さめの個体であったり、以前にあまり食えていなかったりする可能性がある。
本音を言ってしまえば、農村の畑でたっぷり作物を食ったところを捕らえたいが、そういうわけにもいかないだろう。
「もし、討伐していただける場合は、どこかの農村を拠点に探していただくことになるかと存じます。報酬はお支払いいたしますので、いかがでしょうか?」
「さて……せっかく都市に来たのに、また田舎に逆戻りだが……どうだ?」
ディナードが尋ねると、レスティナとティルシアが頷く。迷いはないようだ。
「大丈夫です、ディナードさん。ワイルドボアでしたら、お手伝いします!」
レスティナが張り切っている。
キツネはイノシシの子であるうり坊を取って食う性質もある。野生のときは、そうして暮らしていたのだろう。
ティルシアも
「がんばる!」
と元気に答えた。子狐が成体のワイルドボア相手にどうこうできるかはわからないが、その気持ちだけありがたくいただくことにした。
そしてゴブシは待ちきれずにそわそわしている。こちらは食い物のあるところなら、どこでも飛んでいくのだろう。
こんな一行は、雅な都会での暮らしより、おいしいものがたくさんある田舎暮らしのほうが向いているのかもしれない。
そうと決まれば、早速そちらに向かうことになる。
かなり被害が大きいらしく、ご丁寧に馬車まで用意してくれる有様だ。
「またしても、この堅い床の上に座らねえといけないとはな……」
ディナードは都市で準備を終えると、馬車の荷台に乗り込みながらぼやくのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
ジビエの動物と言えば、イノシシやシカでしょうか。私は以前、北海道に住んでいたので、道路にひょいと現れるのはシカでしたね。イノシシは北海道にはいないので、ばったり出くわすことはありませんでした。
さて、イノシシと言えばE型肝炎ウイルスです。
これはイノシシやブタ、シカの生肉を食べると感染します。通常は発症から一ヶ月ほどで完治しますが、致死率が1~2%ほどあり、妊婦さんでは致死率が20%にも至ることがあるそうです。
昔は猟師さんはイノシシのレバーを生で食べていたそうですが、国立感染症研究所の2014年の調査によりますと、イノシシの肝臓で6.9%、血液で2.8%、筋肉で1.0%が感染していたそうです。
こう見ますと、宝くじより当たりやすい感じがしますね。
食べる機会がありましたら、加熱してくださいませ。
今後ともよろしくお願いします。




