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プロローグ ; 日常

「起きてよ!ケイタ!」

気持ちの良い眠りを邪魔したのは、耳につくようなヒステリックな声、私の妻の声である。


「…………ぅん」


上手く頭は動かず、中途半端な返事しか出来ない。


「………っ!

いい加減にして!もう7時過ぎたのよ!?

集合時間に遅刻するじゃない!」


「7時!?本当か!」


跳ね起きると、7時を過ぎて5分も経過した事を、仮眠所の電波時計が機械的に示していた。


妻は呆れて、配給された包装されたままのサンドウイッチと北海道ミルク(本当に北海道産なのか)を私に渡す。なんだかんだ私を見捨てない、こういうのを良妻と呼ぶのだろう。


サンドウイッチを半分ほど摘みつつ、残りとミルクを寝巻き兼ランニング用スーツのポケットに詰め込む。

朝にミルクはキツイし、いきなり食べ過ぎると朝の走行に影響してしまうのだ。


上下共に寝巻きと走行着を兼用している私は、大方の人に「だらしのない」だの「汚い」だの言われてしまうが、私は朝早く起きる事が如何しても出来ないのだ。

だから妻も嫌がらないで欲しい、せめて理解して欲しい。


一般庶民の私にとって、夢はこんなちんけなモノしかない。


走って、寝て、走って、寝て、走って、寝て…


大学を卒業して、今の「四葉ランニングサークル」には入ってから、あてのない長い距離を走ってきた。


友人達は、大手ランニングサークルに入った私を羨み、両親や兄弟は、安定した配給を得られるだろうと私の未来に安心し、私自身は、これから明るいランニングライフが待っていると思っていた。


確かに他の民間サークルや国の下手な走行団体よりも幾分か良い配給制度を誇る、世界的グローバルサークルの四葉ランニングサークルである。そのかわり、日々のランニングのノルマも非常に厳しいのが現実だ。

課せられたノルマは日平均で50km。それを8時間で完走しなくてはならない。

多くの人達は40代後半にもなると付いて行けなくなってしまい、転職するなり独立するなりといったところだが、それは飽くまで一生出世しない場合の話である。

出世すれば新たに車両が提供され、より体力を消耗せずに走ることが可能となる。


そのため、30代も半ばとい私と、同じ班で走る妻は急いで出世しなければサークル内で生き残れないのである。




そんな状態であるのに、もし遅刻なんぞしようモノならどうなるか。

折角、班内成績でやっとトップをちょくちょく取れるようになったというのに、そういった功績が帳消しされてしまう可能性が高い。


「…急いで行かないと!」


時間は先ほどから5分経過して7時10分。

自分に言い聞かせるつもりで言ったのだか…


「はぁ?貴方がそれを言うの?

まったく…誰のせいで毎朝毎朝…」


妻に聞こえてしまったらしく、かなり機嫌を損ねてしまった。

…今日のランニングは、色んな意味で疲れそうだ。




集合場所は、サークルが独自に所有する体育館の中である。

私達が到着する頃には、既に今回の合同走行会に参加する第6〜第18班が整列していた。

私達の所属する第8班は皆早起きで真面目なため、班長以下18名全員が揃っており、残るは私達だけであった。


「「おはようございます!」」


勤続10年近い私達は既にこの班では古株となっており、私より年上なのは班長と脱退の噂がある50代の佐藤さんだけであった。


「ああ、おはよう。」

「おはようございます先輩!」


班長や、その他の人達は当然の様に私達を温かく迎えてくれた。

なぜなら我々夫婦は、この班内で支持を得ようと様々な班員の相談相手になったりして、仲を深めていた。

全て出世のためであったが、彼等に対する仲間意識というのは本物であるため、特に罪悪感も感じることはない。


それから少しして、サークル役員のありがたい(退屈な)話が始まると、それを子守唄代わりに、今日の不足している睡眠時間を補充する事にした。








「…ちょっと、何寝てんのよ」

突然妻が後ろから私を覚醒させた。

朝の出来事のせいか、かなり機嫌が悪いようで眉間に皺の後がクッキリと残っている。


「いや、ちょっと…ね?」


今理由を話しても居眠りに対する言い訳にしか聞こえないだろうから、私は誤魔化す事にした。


「………はぁ?」


ダメだった様だ。


「いや、ちょっと…

昨日の疲れが、取れなくて、さ」


「それみんな同じでしょ?」


ほらコレだ。だから理由は話したくないんだ。

でも私が悪いのは事実なので、ここで謝った方が意外と収まるかも…


「…ごめんなさい」


「何謝ってんの?」


そりゃそうだよ。誰でも予測できるよ。私でも同じこと聞くよ。


「あ、だから、いまあんまり喋るとそれはそれで不味い…でしょ?」


「………はぁ」


取り敢えず危機は去った様だった。

されどまた寝れば危機はより大きくなって接近してくるだろう。私は寝るのは諦め、おとなしくありがたい(長ったらしい)話を聞き流す事に注力した。






「今日と明日のノルマは130kmだ〜

かなりキツイが何とか頑張ってくれよー」


自転車の班長は面倒臭そうに死の宣告「告げ、走りの我々班員はただ絶望するしかなかった。


普通、これだけの規模の団体で走る場合は、何時もよりノルマがかなり軽減される事が常であったが、今回は違った。

普段のノルマを遥かに超える距離は、おそらく役員会の気紛れ…おおよそ彼等は「君達のため」とでも言うのであろう。

されど、命令は命令。守る他ないのも事実であり、走って逃げる事は許されない。


「みんな、がんばろう!」


碌に人を思いやらない班長に代わりなんとか班員を励ます事で、班員の支持を得、またその様子を他の班長に見せつけられる今回は、出世のチャンスと考えるべきだ。

そう考えないと、2日で130kmなんてやってられない。












「おわったー!」

今日のサークル活動は終わり、サークル経営の仮眠所に向かう道の途中で、妻は気持ち良さそうに伸びていた。

今日だけで80km近くこなした。これで明日は少し楽になるだろう。


「本当、お疲れさま」


そう言って私は妻に配給のスポーツドリンクを渡す。

これは朝の事の贖罪のつもりであったが、妻はそうした下心はすぐ見抜かれてしまうので、疲れた今ならそうした洞察力も鈍っているだろうといる算段である。


「ありがとー!ケイちゃん大好き!」


どうやら成功の模様である。

これだけ長距離を走ったのだ、そんな朝の嫌な気分は発散してしまったのだろうし、もしかしたら忘れてくれているのかもしれない。


「僕も…君の事、愛してるよ」


ここで追撃を忘れない。彼女の記憶に僅かでも残っている悪い記憶を良い記憶で上書きするつもりであった。

妻は蕩けたような目をして、僕に抱きついた。

日も暮れた夕暮れ時、アダルティな雰囲気が辺りに漂い始め、お互い濡れきった瞳を見つめあっていた。


「今夜…どう?」


トドメの一撃。終わり良ければ全て良し。

今日の彼女の記憶は、恐らく地獄の80kmと夜の情事だけで埋め尽くされるであろう。

朝の出来事なんて忘れるに違いない。


「うん…ケイちゃん」


「うん?」


「今日の夕方の配給、譲ってくれたら朝の事許してあげる。」


「うん…」


しっかり覚えていたようだ。





結局今夜はお互い疲れていたので普通に寝る事にした。

明日は残りの約50km、今日の消耗した体力ではきっと苦戦するだろう。


少し憂鬱な気分でいると、横にいる妻が手を握ってきた。

そういえば、今日は一応個室を取ったんだけっけな。


「…久しぶりだね、こういうの」


僕は懐かしそうに言った。

結婚仕立ての頃は、なんとかお願いして毎晩個室を取ってたっけ。


「うん…ケイちゃんと寝るのは、久しぶりかも…」


今にも眠りそうな声で、妻は言った。


「あぁ…おやすみ」


「おやすみ…」


明日は大変なんだ、イチャイチャしてる場合ではないのだ。

ゆっくり目を閉じると、妻の手の感触がより鮮明に伝わってくる気がした。


そうして、私は深い眠りについた。

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