偽善の我儘。
「それを渡せ」
「遠慮します」
扉の先にはるっくんがいた。顔は無表情のままなのに何故か怒っているのがわかる。
それは目の前の彼から溢れるどろっと冷たい透明が殺気立って今にも私を殺しそうだったからとか、青白い中に煌々と燃える赤の目が此方を睨んでいたからとか、そんなものから推測される恐らく間違いのない事実。
なにより
「やだなぁるっくん、そんなもの早くしまってくださいよ、怖いじゃないですか」
確かな殺気とともに向けられた幾つもの凶器からわかる。
別にちっとも怖くはないが痛いものは痛い。痛いものは嫌だ。殺されるくらい痛いのはもっと嫌だから遠慮したい。
誰だこんなにるっくんを怒らせた奴は。
……私だけど。
「怖い?此処に逃げ込むまでに腕が爆ぜようが足が捥げようが顔色ひとつ変えなかったくせにそんなことを言うのか」
「やだなぁ、痛いんですよ?」
「ならもっと痛そうな顔でもすればいい。第一欠けた部位は何処から持ってきた」
「乙女の秘密、ですよ」
乙女ってわけでもないけれど。
「……もう一度言う。それを渡せ。それは人の手には余るものだろう」
「やだるっくんったら、この出来損ないみたいなのを人って言ってくれるだなんて……なんて優しいんでしょう」
「茶化すな、死にたいのか」
「とか言いつつまだぎりぎりで踏み止まって殺せないるっくんが大好きです」
……別に巫山戯ているわけではない。からかっているだけだ。しかも楽しくてからかっているわけでもない。癖なだけだ。
機嫌が悪くなれば誰だって集中力が切れるしそうすれば何がしたいか、次に何をするのか読み易くなる。
もっと昔はそれを狙っていたのだけれど、今となっては無意識だ。相手の集中力やらなんやらが途切れてやっと相手の神経を逆撫でしていたことに気付くなんてところまで落ちてしまった。
それにしてもるっくんはまだまだ若いらしい。
るっくんは代々の魔王様の記憶を引き継いできたとは聞いていたもののこれではあまりにもお粗末だ。彼から漏れるどろりは彼の気分に忠実、くるくる冷たくなったり暖かくなったりと本当に賑やかだ。それに顔は無表情とはいえきらきら綺麗な赤の目は怒ったり笑ったり困ったり本当に正直だ。
それなら初代の魔王だと名乗った彼女の方が上手だったろうに。
「殺して死ぬのか?」
「残念それは難しい質問です」
難しいというより不可能だろう。この世界で私が死ぬことはない。手足が捥げようが頭が爆ぜようが腹が抉られようが関係ない。それも私の意思には関係なく。痛みを伴い。そして何事もなかったかのように。
どれだけの痛みが、苦しみが付いて回ろうと私はまだ壊れるわけにはいかないし、ゆえに気が狂う筈もない。
私には、まだやらなきゃならないことがあるのだから。
「ではるっくん、私そろそろ行きます。時間がないので」
「それを置いて行けと言っているだろう!」
「かりかりしないで下さい、禿げますよ。ていうかその台詞三流の追い剥ぎやらみたいですね。魔王様から賊徒にランクダウンですね」
ていうかさっきのうっかりの所為で上司からの干渉が始まるかもしれない瀬戸際なんだ。
そんなことになれば減給どころの騒ぎではない。無報酬での長期奉仕は辛い。主に精神的に。
周りに満ちた圧倒的存在感な魔力に触れる。
るっくんのお怒りが反映されているのか触れなくてもちりちりと痛むそれだ。触れれば当然拒絶される。触れた指先は火花を散らして焦げた。
けれどそれは無視した。
「やめろ!」
何故目の前の彼が声を荒げるのだろう。
青褪めた白の肌に朱が散ってまるで生きているみたいだ。その様はさっきまで一緒だった彼女に似ている。
そんなところに妙な既視感を覚えてしまった。嗚呼、記憶が、記録が引き継がれるというのはこういうことなのか、なんて何処かで思う。
けれどそれも無視した。
ちょっとずつ侵食するように範囲を伸ばしていこうと思ったのだけれどそんなことしていては時間が掛かるだけだろう。それ程までに彼は怒っているのか。
仕方ないから宥め賺して侵食するのは諦めよう。面倒臭い。
「るっくんまるで生きてるみたいですね」
だから叩き付けた。
向こうが力尽くで此方を捩じ伏せようとしたから。此方はそれよりもさらに大きな力を叩き付けて捩じ伏せる。
まるでなんの意味もない言葉を吐きながら。
私に向けられていた凶器が力を失ったかのように床に落ちてカランカラン、なんて軽い音を立てた。
幾重にも重なって展開されていた魔法の式が存在を保てなくなったかのように霧消した。
少なくともこの一帯は私の思うまま。
そしてその代償のように真っ黒に焦げて使い物にならなくなっていた手が落ちた。
「形勢逆転、どうやって取り返しますか?」
「それは手をひとつ無駄にする程大事なことなのか」
「まさか」
落ちて砕けた手を踏み躙った。
細かな破片が散った。
目の前で彼は顔を青くした。
「私の腕やら足やら消し飛ばしてた方に言われたくはありませんね」
欠けていない方の手で抱えていた本やら資料やらをポケットに仕舞う。
空いた手で欠けた手を隠して両手を開く。
「じゃーん、どうでするっくん。罪悪感は薄れましたか?なら良かったですね。それに免じて私のことは放っておいて下さい。どうせいつか帰ってきますし?」
魔王様は目を丸くした。
表情が変わる様はなんだか面白い。
さっさと殺してやろう殺してやろうばっかり思っていたけれど別にそうでなくてもいいかもしれない。
だって放っておこうがおくまいがこの世界はすぐに壊れてしまうんだった。
ひとつの世界に囚われ他を観測しない人は幸せだ。
例え他の世界を観測してしまったとして、それでもひとつの世界に囚われたままその生を閉じるならば同じ。幸せなことだ。
けれどそれはとても哀れなことに見える。
私にとって哀れに見えるだけなのかも知れないけれど。
幸せは哀れだ。哀れは幸せだ。
端から見て哀れであればある程本人にとっては幸せであり、本人が哀れだと思えば思う程にそれはきっと幸せに映るのだろう。
だって、自らを哀れむことが出来るのは幸せを知っているから。
だって、自らを幸せだと思うのはそれ以上の幸せを知らないから。
るっくんは外の世界を知っているのだろう。彼の中には何代にも渡る魔王様方の記憶があるのだろうし、初代の彼女の代に異世界から渡ってきた異分子もいる。何より今、ヒナと言う名の彼女がいる。
それでも彼は他の世界に目を向けないから面白可笑しく幸せに暮らせているのだろう。元々の設計の時点で他の世界に興味を持たないようにされているだろうし。
それでも知ったのならば。と願うのはやはり私の勝手な押し付けなのだろう。
考えたところで意味がないというのはこういうことなのだろうな、なんて思ってしまった。
段々と逸れて行ってしまった思考を目の前のるっくんに戻す。
「……動かないで」
心の中のほんの少しの罪悪感と。
自分に向けた嘲り笑いと。
そんなもの欠片程も見せないままに言葉をぽつりと。
溢れ零れた言葉がぽつりと落ちて波紋を描く。
そして、止まった。
目の前の魔王様は動きを止めた。息も、鼓動も、流れも、魔力も、思考も、全て。
きっとここから私が何を言ったとして聞こえていないに違いない。私が作った空気の振動は決して彼の鼓膜を揺らさないから。
「……ねぇるっくん」
それでも、何故だろう。聞いて欲しいと思ってしまったのだ。聞こえる筈もなのに。聞かせるつもりもないくせに。
「私は……本当は……」
見開かれて零れ落ちそうで、それでいて空虚な紅の煌きは色褪せない。
言いかけた言葉は吐き出されなかった。緩く私は首を振る。コレは言ったってどうにもならない言葉だ。
だから、ほんの少しだけの本心で頭を下げる。
同時に意識だけは返してやる。赤い虚ろに命が吹き込まれるようなそんな気がした。
「邪魔して、引っ掻き回して、ごめんなさい。……でも、もう少しだけやることがあるから」
顔を上げた。
「もう少しだけ、目を瞑っていて下さいね」
見開かれたままの彼の目をそっと閉じてやった。
◆◇◆
「あ、ヒナさん私、あなたに言いたいことがありまして」
「何?」
「私はあなたが大嫌いで、なおかつ哀れんでいます。あなたなんて早々に死ねばいいと思っていました。……けど、そのまま惨めに死なれてもこっちとしても困るわけでして」
「ちょっとまって!何の話をしてるの?」
彼女は困った顔をしている。驚いた、というような、狼狽えたというべき言葉を吐いたのにもかかわらず、だ。
私は努めて笑った。
「カエシテあげます」
感情を。
故郷を。
「だから、あなたは何も出来ないで私がこれからすることを見ていれば良いのです」
◇◆◇
こんな世界糞食らえだ。




