欠片探し鬼ごっこ◇後
「……げほっ」
踏み込んだ、部屋の中。
正確には後ろを気にして駆け込んだような体だったのが悪いのか。
敷き詰められていたのは灰色の絨毯ではなく、ただ単に降り積もって絨毯に見えていただけの、埃。そんな中に飛び込めば当然埃は舞い上がる。息を吸えばそれは肺を満たす。
当たり前のように噎せた。
少し、目に涙が浮かぶ。この煙たさは何処と無く上司の部屋に似ていて嫌だ。ほんの数日で懐かしさが胸を過るだなんて巫山戯ているとしか思えない。
改めて部屋を見直す。
対して広くもなかった。魔王様の部屋の半分もないように見える。確かに対して広いようには思えなかったけれど、実際に来てみるともっと狭く感じるものらしい。
何より、積み上げられた本の塔からの圧迫感がある。
「……あ」
後ろを向いたなら私が動いたところだけ埃が退けられてくっきりと目立つ。そしてその向こうの無惨にも切り裂かれて宙ぶらりんな扉がぽっかりと口を開けて此方を向いている。
扉を壊してまでこじ開けたのは私だけれど、扉を開けたまま、誰かに見られることを待つかのようなこの状況はなんとなく気分が良くない。自分でやったことだけれど。
対して広くもなくて積み上げられた本で更に行動範囲も狭められているこの部屋、奥に逃げる事も出来ない。
取り敢えず、と宙ぶらりんな扉を元あった場所に戻してみる。
それは私が切ったわけだから、勿論手を離せばまた同じように宙ぶらりんだ。
どうしたものか。
「あー、えー、扉ー、閉じろー」
その通りになると信じて、扉に背を向ける。
そしてふと気付いた。
目の前にさっきまでいなかった筈の人影がふわり、と佇んでいる。
誰だ。
「随分と、無茶な式を組むんですのね。体を壊しますのよ?」
「生憎と、壊れて困るような体は持っていないのでね。無茶ではありませんよ?昔教わったのもこの式だけなのでね」
何処か遠い、透明な柔らかい声は何処か馬鹿にしたように私を皮肉った。
だから私も皮肉で返した。
返してから気付く。
投げられた声は目の前から。元々なかった筈の誰かが私に話しかけてきた。つまり、ここにいるのは私だけではないらしい。
「こんな所に、なんのご用です?」
「それ、あなたに関係あります?」
「ありますよ?だってここはワタシの部屋ですもの」
「じゃあこの部屋にあるものは全部知っていますよね?」
「それは、勿論」
目の前の何処かで見たようなお綺麗なお顔がにたりと微笑んだ。
長く伸びた黒い髪がゆかで蜷局を巻いている。石榴のような溶けた紅の目はまるで血のようだ。触れたら溶けてしまいそうな繊細な作り。病的なまでに白い肌。
よく似た誰かを、知っている気がする。
それも、最近見た筈。
「人の顔をジロジロ眺めて、失礼なお方」
くすくすと目の前の彼女は笑っている。
「すみませんね。なんせ礼儀は教わらなかったもので」
「親は何をしていたのかしら。さっきの式を見ても到底まともとは思えない教育を受けていたとは思えませんの」
痛いところを突かれた気がした。けれどそれを素知らぬ顔で受け流す。
「そう言うあなたはどうなんです?こんなところに娘が引きこもった、だなんて醜聞では?まるで閉じ込められているようにも取られかねませんよ?」
「良いんです、ワタシは。そうあるべくしてここにいるんですから」
華やかに、ほんの少しだけ顔色を変えて彼女は笑った。
「改めて、初めまして。ワタシは『モナ』です。アナタは?」
その言葉にほんの少しの既視感。
そして、カチリと音を立ててピースが嵌る。漠然としたわからないものが理解へ、そして納得に変わる。
「初めまして。仕事ではシシィと呼ばれることが多いです」
「けれどそれは名前ではないですよね?」
「ユゥイ、です」
微妙に責めるような口調が可笑しかった。豊かな表情が新鮮だった。
「もっと正確に言うならばシシバユゥイ、なんですけどね。……でも、そういうあなたは?」
彼女は微笑みを湛えたまま首を傾げる。
「あなたの名前は『モナ』ではなくて……『君主』ですよね?」
誰に似ているかって、昨日あったばかりの彼だ。
まるで鏡に写したようだ、細部は違うのかも知れないけれど。艶やかな黒い髪も、血の如く赤い目も。繊細な感じも、白い肌も。
「あなたは、魔王様ですね?」
彼女の笑みが深くなる。
「えぇ。その通りですよ」
◆◇◆
「遠い遠いその昔。その時代からこの世界は戦乱の世界でした。力のあるものが力のないものを虐げ、って言うんですか?そんな感じでした。……それが、この世界の神様に与えられたシナリオだったからです」
唐突に語り始めた彼女は大仰に腕を広げた。
どろりと濁った魔力が幾つもの小さな人を形どって戦いを演じる。
「しかし優しい優しいこの世界の神様は自らの子供ともいうべきこの世界の住民が傷つけ合うのを望まなかったのです」
ひとりの美しい人型は冊子のようなものを抱き締めてはらはらと涙を零していた。
きっとソレが神様なのだろう。
「神様は知っていました、この世界に生きる者たちはシナリオから逸れるなんてこと、考えもしないことを。そして、唐突に神様は気付きました。この世界のものが駄目ならば他の世界から連れてきたものならば世界を変えられるのでは、と」
可笑しくて堪らないというように語り手たる彼女は美しい人型を見下して首を傾げる。まるで馬鹿にしているようにも見えた。
彼女の口が弧を描く。
「神様はもっと偉い神様の目を盗み、遠い遠い世界から人をひとり誘拐し考えうる限りの力を付与してこの世界に落としたのです。誰も傷付かない世界を作って欲しかったのでしょう」
「けれど、それは失敗した」
私は後を継いだ。
「何故そう思われます?シナリオに縛られない、神様の待ち望んだ存在ですのよ?世界を平和にしてくれたとは思いませんの?」
「それなら今、この世界であんな争いがあるわけないでしょう」
歪な笑みを浮かべた彼女は先を急かすように首を傾げている。
私は小さく息を吸った。
「それとも、他にも何か?」
「いいえ?アナタの仰る通りですわ。世界は変わりませんでした。戦争は今もなお残っています。その神様はもう二度とワタシの前に姿を現すことはなかったのです」
めでたしめでたし、とでも言いたげに彼女は手を打った。くるくると踊っていた人の形をした濁った魔力の塊は崩れ落ちる。
「……え、まさかそれでお終いですか?そんなわけないでしょう。ちゃんちゃら可笑しい。だってまだ、全然足りてないでしょう」
彼女は曖昧に笑顔を浮かべている。
「だって、別の世界から呼ばれた方が如何なったのか。呼び出されてそのあとは?その辺がすっかり抜け落ちていますよ?」
笑みが深くなった。
「あらあら、ワタシとしたことが。すっかり忘れてました」
くすりくすりと手を口元に運んでお上品に。
「嘘ばっかり。此方が尋ねるのを待っていたんでしょう?」
だから此方も真似てみる。手を口元に当てて、死に掛けの表情筋を酷使して、にたりと。
「いえいえ、そんなことありませんのよ?……でも困りました。あまり聞いてて楽しい話でもありませんよ?」
「此処までの話だって楽しくなかったので別に構いませんよ?」
「酷い方。こんなに頑張って話しましたのに」
「その言い方が嘘っぽいんですよ、お気付きですか?」
彼女は顔に浮かべた笑みを消した。
そして私に背を向けると軽く跳ねて山になった本の上に腰掛け上からこちらを見下した。
作り物めいた顔が更に人間離れする。
「そんなことワタシに言ったのはアナタが初めてです」
「私がしたいのはそんな雑談染みたくだらない話じゃないんですよ。あなたには欠片程の興味もありませんので悪しからずや。……あ、でも突然この世界の話をし出したあたり頭が心配ですね、聞いてもないのに。なんで話し始めたんですか?」
その目には何の感情も浮かんではいなかった。まるで凍りついたようで、硝子玉のようで、何より美しいと思った。
何処か濁っていたけれど。
「それをお話しするためにはまず魔王というものについて話さなくてはならないのですがよろしいですね?」
「面倒なのでパスお願いします。出来れば紙切れ数枚分くらいに纏めてくれると嬉しいです、こっちでお願いします」
白紙のプリンタ用紙を差し出す。
彼女は胡乱な目つきでそれを受け取る。
「調子狂います。アナタは何がしたいんでしょう。こんなところまで来たかと思えば随分と螺子の飛んでるお方に見えますし、そのくせ人の話はちゃんと聞いてて、でも自分から質問したことに関して答えようとしたら遮ってくる。ワタシには理解出来ません」
ぶつくさ言いながら何故かさらさらと渡された紙に文字を綴る彼女は良い奴なのだろう。
私からすれば彼女の方がずっと何がしたいのかわからない。結構雑な扱いなのにそれでもこんな風に親切にしてくれるだなんて彼女こそ螺子が飛んでいるのではないだろうか。
「いやぁ、別に最初は最後まで聞こうと思ってたんですけどね。そうもいかなくって」
彼女は一瞬顔を上げて私を見た。彼女は目を見開いた。
「時間がないみたいでして」
私は手を翳して彼女に見せる。
その手はまごうことなく透けていた。
「この場所って世界の中心だと思ってたんですけど違うんですね。此処、世界と切り離されてますね」
「何ですか、それ。なんで透けてるんですか」
「それをお話しするためには涙なしには語れない長いながぁいお話があるんですけど、聞きます?」
「何でそんな飄々として……!早く治しなさい!」
「なんであなたが必死になってるんですか。あなたのことじゃありませんし別に大したことじゃありませんよ?」
本当に。なんで目の前の彼女が泣きそうな顔しているんだか。さっきまで見下して、散々なこと言って、理解出来ないなんて言って、そうしてたくせに。
わからないなぁ。
綺麗な赤の目は潤んでゆらゆらきらきらしている。
人形染みた白に朱が混じってまるで生きてるみたいだ。そう、こっちに来てから、とかそういう問題じゃなくてもうずっと前から見ていないような、まるでちゃんと生きている人間のような表情。
「仕方ないので手短に説明して差し上げます。泣いて喜びつつ私のためにその書きかけのものを完成させて下さい」
何故だろうか。ちょっと、だけ、魔が差したようだ。
その人間染みた顔に、絆されたようだ。
ペンが紙と擦れる音が幽かに走り出す。
「現在、仕事のため私はるっくんが魔王様してるあの世界においてだけ限定的に存在しています。あの世界においては私は無敵です。逆にあの世界から一歩でも出ればうまく存在出来ないんですよね。これはまぁ名前を持たない弊害とでもいいますか、はたまた上司の手先であるが故のジレンマとでもいいますか。まぁそんなんです」
だからあの世界に戻れば治る。
そもそも生きとし生けるもの、生まれた世界から出たら生きていくことはとっても難しい、と思われる筈なんだが。だからこそ、世界間の移動は罰則が科される。
けれどそんなこと言っていては私の仕事みたいに世界を飛び回るようなこと到底やっていられない。
其処で上の方々は考える。その世界ごとに器を用意してそれを毎度使っておけばいいではないか、と。
結果はこの様。その世界においては多分無敵。に近いかもしれない。けれどそこから出ると間に合わせで作られた器の方が壊れる。つまり今の状態になる。
「ぶっちゃけこのまま消えても平気ですよ。ナカミの方は名前があるところに帰りますから無事上司のとこに帰れます。お咎め等が怖いところではありますがね」
「そんなこと有り得ません。その人の存在は名前があるところに生じる筈です。アナタは名乗ったじゃないですか。名前が別の場所にあるなら此処にいるわけないじゃないですか」
「そりゃ、あれは私の名前で他の人の名前ですし」
他の人から奪った名前だ。借り物を名乗っているだけだ。
名前を奪われたから他の人から奪って、それを着服して。私は出来るだなんて言ってこの仕事についたけれど。
そんなことはどうでもいいね。
「シシバユウイ、という奴から盗って、私はそう名乗っています」
「他の人の名前を着服するなんてことしてたら本人の定義が危ぶまれます。元の人にもなれず自分でいることも叶わずという状態になるのでは」
「なりませんよ。だって私の元の名前もシシバユウイですから」
どうでも良いけれど、何故か聞いて欲しかった。
「字が違うんですよ。シシバは同じなんですけどね。ユウイの字が違うんです。ナカミも似ていますよ。性格は真逆でしたけど。存在が近いとでもいいますか」
書き終えたらしい彼女がそれを手渡してくる。
彼女は痛ましそうに私を見た。
「神々廻遊忌と名乗ってます。今は」
彼女には目を向けないままに、紙に目を落とした。
薄っぺらな資料に、ポツンと並んだ無機質な黒い文字は私に告げた。この世界の歪さと真実の欠片、それの在り処。
そして彼女はさっきまで座っていた本の山の中から一冊、本を引き摺り出して手渡した。
ありがたく受け取って開く。掠れた古い文字が見えた。
何てことはない。私の知りたかったそれが集うのが此処だったってだけの話だ。私の手の中の、古びた本。
古びた文字をなぞる。
不在の神様と、歪な魔王様。
「……成る程、そういうことか」
思わず零れた独り言に近い言葉。
もう何十年も人が立ち入っていないように分厚く埃が覆ったその真ん中で。彼女の書いたまだインクの乾かないこの世界についての、魔王についての資料を片手に薄汚れた本を捲る。
其処に記されていたのは何てことはない。この世界で最も神様に近い立場のヒトたちから見た世界の姿と昔話。
「ねぇ。これを書いたのもあなたですね?」
「そう」
「あなたは、初代の魔王様ですね」
「そう」
「あなたはどうして、私に話を?何故これを?」
「……終わらせて欲しかったんです。惰性で続いた魔王の歴史を」
輝かしいであろう魔王の歴史を彼女は惰性だと言い切った。輝かしいと思うのはただ単に私の偏見かも知れないけれど。
「惰性だなんて、魔王様たちは哀しんでしまいますよ?」
「構いません。元々ワタシの代で終わる筈だったモナルクという名前を引き継いでいることから明らかです。馬鹿馬鹿しい」
「モナルクはあなたの名前だからですか?」
「そうですよ?人の名前を引き継ぐということは記憶も記録も全て纏めて引き継ぐことを意味するんですよ、しかも存在が歪むでしょう、自分でないものの名前を名乗るだなんて」
「そんなこと言ったら私も歪んでることになってしまいますね」
「アナタはどう贔屓目に見ても歪んでますよ」
なんて失礼な。心外だな。こんなにも真っ直ぐなのに。
……彼女の目が痛かった。
「とにかく、それによってこの国が栄えたことは確かでしょう?歴代の魔王様の記憶を全部引き継ぐことで」
「否定は、しません」
小さく咳払いをして話を変えた。
そして私にはあまり時間がないようである。即刻この部屋を出て元の世界に戻るようにと何かが急かしている。
やだな。久し振りに素敵な方に出会えて、楽しいとも思ったのに。
もう、時間がない。
「それでは、私はそろそろ行きます。戻れなくなりそうなので、ね」
早くそうすればよかったんだというように彼女は少し睨んだ。優しいな。時間がないとか言いつつ引き伸ばしたのは私なのに。
「えとー、ありがとうございました、資料とか。歴史とか。知りたかったことは全部わかりました」
「それは良かったです、ワタシもある程度楽しかったので礼を言います」
「上からですね、育ちでしょうか」
何事もなかったかのように閉じてそこに佇む扉の前に立つ。
両手が塞がっていたから扉は蹴り開けた。
薄暗い部屋の中にほんの少しの光が差し込む。
「お世話になりました。部屋は定期的に片付けた方が良いですよ、身体に悪い」
振り返る。
眩しそうに目を細める彼女がいた。きっと彼女はここから出ることはないのだろう。出ようとも思わないだろうし、何より世界が違うから。彼女の世界から出てしまえばきっと彼女は淡く解けてしまうのだろう。
だから、一緒に行こうとか、また会おうとか、また話がしたいとか、そんなことは言えない。
私も私で次はないのだろう。世界から出たってことで上司の方にばれているかもしれない。
儘ならないものだ。
「それでは。さよなら。楽しかったですし、久し振りに悪くなかった。あなたのことは、忘れません」
多分ね。
彼女はハッとしたように目を見開いて、そしてほんのりと確かに笑った。
それを見届けて、部屋を出る。本とプリントは餞別としてもらっておこう。
軽い音を立てて閉じる扉が世界を区切る。
「……有り難う、さようなら」
小さな声で、確かにそう、聞こえた気がした。
私の願望と妄想かも知れないけれど、そうであってくれればいいなと、そう思った。