透明にどろりと。
「ただいまー、帰ったわよ」
景色を歪ませてその向こうに扉が現れた。そしてそれを彼女は蹴り開ける。
何て粗野なんだろうか。人のこと言えた立場でもないけれど。
それにしてもこれは魔法だろうか。
見たところ元々道具か何かで固定していたっぽい座標と現在の座標を歪めて繋げた感じだ。
向こうの座標さえきちんと固定して設置出来たならそれだけで、なんらかのコマンドを入力、即座に展開が出来る転移の術式なんて進んでる。羨ましい。私の仕事でも使わせて欲しい。仕事終わったら適当に回収とか心臓に悪い。せめて一言言ってから回収して欲しい。切実に。
「どうしたの?これあんまり長く持たないから早くして頂戴」
「……いや、この不思議な扉とかに驚いただけです」
蹴り開けた豪奢な扉の向こうから顔を覗かせた彼女が急かしてきた。
「飛んでくる火の玉には驚かないしわたしが人殺しても顔色一つ変えないし玩具で火の玉を切り裂くようなあなたがそんなこと気にするなんて思わなかったわ」
彼女の中での私の認識が非常に気になる。
△▼△
センスがない。て言うか、既視感を覚える。
一言で言うならそれだ。
豪奢な扉を蹴り開ける彼女を見たあたりで薄々そんな気はしていた。けれど予想通りと言うのは少々落ち込む。
扉の向こうは私にとって非常に不愉快な空間だった。
埃を被ったシャンデリア。
擦り切れる程に行使されたのにろくな手入れがされていないことが一目でわかる真紅(であった筈)の絨毯。
部屋の隅に寄せられた埃。
積まれた書類。
質の良い手入れのされていない机。
どれもこれも書類を除けば一級品であることが伺えるのに。手入れされていないというだけでこれ程までに悪趣味な空間に成り下がる。
嫌いな人種の彼女とお話しをした後に見るにはあまりにも、そう。
上司の部屋に似過ぎていて不愉快さが募った。
「勝ったか」
起伏のない無駄に良い声が投げ掛けられた。書類で影になったその向こうからだ。
「勝ったか、じゃないわよ。おかえり、って言って頂戴」
その声に嬉しそうに彼女は文句を言って、その声の方へ向かう。
私の方には目もくれない。動いて良いのかも教えてくれない。
その様はまるで周りの見えていない恋に酔った少女のよう。
仕方がないのでその場から動かないままに声のした方へと目を向けた。
書類と彼女が邪魔で声の主は見えなかったから、この部屋に濃密に満ちているどろりとふわっとした透明なよく分からないモノを介して部屋の中全てを俯瞰する。後でこの神様の力によく似たよく分からない透明なモノについて聞いておこう。
書類の向こう側の顔は恐らく整ったものだった。
触れれば溶けそう、とでも言うのか。繊細な印象を与える顔は無表情に冷めていた。病的なまでに白い肌はその繊細な印象を助長するだけで、毒々しいまでの赤い目が見事に映えている。
訂正。恐らく、ではなくしっかり整っているのだろう、彼の顔は。
机の前まで辿り着いた彼女を彼が見上げるとさらさらとその髪が音を立てる気がした。何故だか何かに負けた気がした。
部屋の中とは違いきちんと手入れされているように見える彼は、自分の手入れさえろくにしない上司とはまるで違って羨ましく思う。こんな上司なら良かったのに。
部屋の汚さはどっこいどっこいなのにこの違いはなんだろう。何故だかまた、負けた気がした。
「それに、勝つのは当たり前よ。だってルクがわたしに勝てって言ったのよ?負けるわけないじゃない」
「なら良い。……ところでお前が連れて来たのは何だ」
手に持っていたらしい羽根ペンで私を指し示す彼。酷いな。誰、じゃなくて何、ですか。
其処でやっと此方を見る彼女。忘れていたなんて頭の足りない子ではないと思っていたい。
彼女は私を呼ぶように手を振った。
最早足音を吸収するしか出来なくなった絨毯の上を行く。大して広くない部屋なのにその机に向かうのを躊躇いたくなるのは恐らく、この部屋があんまり上司の部屋と似ているせいだろう。仕事の報告や仕事に向かうための説明を聞く時に似た気分の悪さがある。
「この子は私と同郷の子。戦場で現状も分からないみたいで、しかもどっちつかずだったから連れて来たわ。多分歪か何かでうっかり引き摺り込まれちゃったんだと思う」
同郷だなんてひとことも言っていないから後で嘘つきと言われる覚えもない。多分。
私の正面に座って頬杖を付いた彼に説明をする彼女の声を聞きながら何と無くそんなことを思った。
紹介に耳を傾けていた彼が私を見た。
スカートの裾を摘まんで軽く腰を折る。幼い頃に叩き込まれた、動き。
「お初にお目にかかります、ユゥイと申します」
「……なかなか礼儀は弁えているようだ」
上からの言葉に少しいらっとする。
「勇者側からは魔王と呼ばれることもある。モナルクだ」
「親しみを込めてルクって呼んであげてね」
「魔王と呼べ。ルクなんて言うな。絶対だ」
茶々を入れた彼女にもいらっとした。
無表情に否定する彼がなんとなく可哀想な気もした。
取り敢えず。
「私は今の現状すらよくわかりません。役に立つとは思えません。けれど出来るだけ早く役に立てるようになります、だから此処に置いて頂けないでしょうか」
言いたくもない言葉を絞り出す。一生懸命使い慣れない敬語を選ぶ子供を装って。
欠片程も思っていない言葉を吐くのは慣れた。
込み上げる吐き気を押さえ込んで無表情の仮面を揺らさない。
きっと私の気持ちなんて知らないで彼女は笑う。
その笑顔を見るだけでくびり殺してやりたくなった。
大儀そうにモナルクの名を冠した彼は頷く。
「精々役に立て」
全部終わったらって思ってたけど適当な時間見計らってサクッと彼だけでも殺して良いだろうか?
▲▽▲
「部屋の用意が出来るまではこの部屋使ってて」
案内されたのはきっちり手入れされていることが伺える部屋。
恐らく、いつも私が生活していた部屋よりずっと質は良い。
「……私、ここに永住しても良いでしょうか」
一瞬そんな考えも頭をよぎった。
嫌いな人や魔王様を無視すれば、上司もいないし生活環境は良さそうだし、降りかかる火の粉は払えば良いから、うん。かなりの優良物件かもしれない。
「はいはい。部屋の使い方がわからなかったら誰かに聞くなりわたしを探すなりしてなんとかして頂戴。何事もなければ明日の朝くらいにまた来るわ」
一仕事終えた清々しい顔で彼女は笑顔を浮かべている。
そしてかなり浮き足立った様子で私に背を向け来た道を戻って行った。
後に残された私。
扱いが雑過ぎて心細くて普通なら泣き崩れそうだな何てことを思いながら開けっ放しになった扉を閉じる。
そして気紛れに窓枠に指を走らせても指に埃は付かなかった。これでは極東で流行りの嫁姑ごっこすら出来ない。
この部屋の手入れをしている方が有能なのか無能なのかよくわからなくなってきた。
「……で、ご用件は何でしょうか」
「これに、気付くか」
振り向かないままに後ろの方に声を投げた。
そしてそれに間髪入れずに返された声。さっき聞いたばかりの無駄に良い声。
「気付かない程の間抜けに思われていましたか、私は」
「彼奴が同郷だと言ったからな。日和見で腑抜けた無能な非戦闘民族だと思っていた」
「酷い言われようですね。極東人にも色々な方がいると思われますよ。彼らの本当に凄いところは手先の技術ですよ。とんでも繊細なものが飛び出てきますから」
ここらでようやく振り返る。
何処か大儀そうな光を映した血の色の目が私を値踏みするように眺める。
「分からんな。……それと、彼奴はその容姿に意識が行き過ぎて気付いていなかったようだがお前は可笑しい。異常だ」
「失礼な人ですね。初対面の女性に対してそんなこと……
「そう言えることが、既に異常だろう」
私は口を噤んだ。遮られたからではない。
彼は腕を組んだ。赤の目がすっ、と細められる。
「お前が最初に現れたのは戦場だと聞いた。まずそこから異常だ。異界のモノが生じるには圧倒的に条件が足りない。それに、何故戦場なんてところにいて、そんなに普通でいられる?」
「普通じゃないかもしれませんよ?実は内心凄くびっくりしてるのかも」
「あそこは大の大人でも長くいれば気が狂うと言われている。それが平和なところから来た女の、しかも子供に耐えられるものか。縋る人間を足蹴に、人の形をしていない死体を眺めて」
「男女差別は悲劇を生みますよ?……それに、私をここまで連れて来た彼女はどうなんですか?」
ここで少し、彼は赤を揺らがせた。
「“神様”とやらに頂いた特典、だそうだ。より早く此方の世界に馴染むため、らしい」
「………………ふぅん。そうです、か」
かみさま、ね。神様を装った誰かが介入したか。
……はたまた、連絡がつかなくなっているこの世界を見守っていた本当の神様が絡んでいるか。
どちらにしろ迷惑な話だ。
「……でも、役に立つならどうでも構わない筈ですよね?そろそろ、休ませてくれませんか。私もそろそろ疲れました」
「……構わない。そうしろ。明日からはお前にも働いてもらう」
「あ、ひとつ聞かせて下さい。どうやってこの部屋に?」
「此処は“わたし”の城だ。どこに居ても可笑しくないだろう」
成る程。
彼は私に背を向けた。普通に扉からでて行くつもりなのだろうか。
「……最後にひとつ、お前に聞きたい」
扉に手を掛けて、彼は背を向けたまま小さく、言った。
「お前はヒナより魔王に近いものを覚えた。奥で燻らせて表に出さない“君主”に近いものを。目的のために他を切り捨てられるモノを。だからこそ、異常に映る。……お前は、何だ?」
「何でもありませんよ、私は。私はただのユゥイです」
彼は、何処か納得していないようだった。
こいつやっぱり面倒臭い。
「話は以上ですよね?では、明日からよろしくお願いしますね、魔王様」
「だからそう呼ぶなと……ッ」
立ち去る気配がなくて面倒臭かったので、いつの間にか部屋中に重たく垂れ込めていた透明などろりとしたのをつかう。
思い出すのは先程の上司の部屋に似たあの部屋。この部屋に満ちたどろりが同じように溜まっていたから繋ぎ安い。
目の前にいた彼がふわっと掻き消えた。
ちょっと失敗して腕とか足とかが外れてないと良いな。内臓とかのこと考えていなかったから変なことになってないと良い。なってたらごめんなさいと言おう。
やっとひとりになった部屋を見回す。なんだか少し馴染んだ気がしたこの部屋。
本当ならばここらで途中報告でもすべきなのだろう。こまめに経過を報告するようにも言われていたから。
でも、少しくらい手を抜いても良いだろう。ばれなければ。
そしてふと気付く。
神様の力に程近いこの、透明どろりについて聞くの、忘れてた。