④⑤⑥⑦⑧⑨
〔4〕八月一日
油蝉が鳴いていた。白黒の車両の窓からは、徐に外の風景を眺めると、空間が歪んでいる。猛暑のせいである。今年の夏は、昨年度より平均気温が二度ほど高いのだと言う。今朝のニュースでも、熱中症に気をつけるようにと、美しい女性キャスターが注意を促していた。私は、空調の整えられたパトカーの中で、手拭いで汗を拭いながら歩く人々の群れを醒めた目で見ていた。歪む空間の中、歩道を生気の無い目で歩く会社員達が、酷く憐れに映った。パトカーのラジオでは、何故か流行りのアイドルグループの歌が流れている。仲尾刑事の趣味だろうか。
「しかし、もの凄い暑さだね。こうしてクーラーを入れても、汗が噴き出してくるよ」
運転席でハンドルを握りながら仲尾刑事は愚痴をこぼしていた。確かにバックミラーに映る彼の顔からは、粒子状の細かな汗が滲んでいる。
「仲尾刑事――わざわざ、パトカーで街の中を走ること無いじゃないですか。何だか連行されているようで、気分が悪い」
「まぁ、気にすることないさ。 誰も気にしてやしない。それにガソリン代も経費で落とせるし、パトカーの方が都合がいいんだ」
私達は、三宮の大通を通り、黒宮白陽の事務所があるビルへと向かっていた。仲尾刑事は、気にするなと言ったが、時折、公道と並ぶ歩道を歩く人々が、パトカーの後部座席に座っている私に向って、ちらちらと視線を投げてくるものだから、私はすっかり犯罪者の様な背徳的な心境であった。
「完全な私情の癖に、パトカーなんて使って、貴方本当に刑事なんですか?――また堀口警部に起こられますよ」
私が嫌みを言うと、仲尾刑事は鼻で笑っていた。
「大丈夫さ。堀口警部は、今、六人目の被害者の件で忙しいみたいだからね。しばらく署には戻ってこないって言ってたし、問題ない」
六人目の被害者――少女の事か。
しかし、相変わらず犯人の目的が分からぬ事件である。
「一体、今度はどんな事件だったんです?」
私が訊ねると、仲尾刑事はラジオの音量ダイヤルを摘んで、回した。
「僕も詳しいことは、まだ分からないんだけどね――六人目の少女は、小学生だった。この近辺に住んでいる女の子で、帰宅途中に、襲われたそうだ。――そこからは、他の被害者の人たちと同じで、知らない廃墟で眠っていたらしい」
この近辺という事は、やはり犯人は三宮周辺に住む女性を目的としているということか。
「そういえば、この辺りの動物病院は当たってみましたか?」
私がそう訊ねると、仲尾刑事は、小難しい表情を作った。クロスワードで苦脳している主婦の様な陰険な面持ちである。
「――残念ながら君の推測は外れていたよ。あれから僕はこの辺りにある動物病院を何軒か廻って、医者に例の薬品について詳しく訊ねたんだ。確かにクロロホルムには麻酔作用がある。しかし、両刃と剣にもなりかねぬ怖ろしい薬なんだよ。例えばクロロホルムを濃厚に染み込ませた布を被害者の口元に当て気絶させようとする。――そうするとどうなるか。被害者は、腎不全や死に至らしめる可能性が高いだけではなく肌に触れる爛れ、最悪、火傷の様に生涯消えない傷が残るそうだ。――だが、被害者にはそのような症状は出ていない。そんな危険な代物だから、動物の麻酔薬としても余り使われていないみたいだ。正し、実験用の小動物を安楽死させる場合に用いる事はある」
やはり医者の方が薬品に詳しいか。
「そうですか。では、犯人は一体どうやって被害者達を眠らせたんでしょうね」
「そこが分からないんだよ。被害者は全員、布きれで眠らされたと言っているし、やはり睡眠作用のある薬物を用いたんだろう事には変わりないんだが、犯人がそれをどこから入手したのかも皆目見当がつかない。それだけじゃなく無差別と来たものだから、もうお手上げ状態さ」
私は、仲尾刑事の言葉を聞き、何かが引っ掛かった。――何だ。
被害者の共通点が無い。
無い――
いや、あるではないか。
「仲尾刑事――ありますよ。被害者の共通点」
私がそう言うと、仲尾刑事は後部座席の方を見返った。
私は慌てて、前、前と彼に注意を促すと彼は弾かれたように前を向いた。彼はバックミラーに映る私に向って、「なんだい?」 と訊ねた。
「――被害者は全員、女性です」
私が人差し指を立てて、自信満々に言うと、彼は大きなため息を一つ零した。
「そんなの分かっているさ。連続婦女暴行事件だって言ったじゃないか。僕が知りたいのは、犯人が被害者を襲った動機や、きっかけさ」
呆れたような物言いであった。
「ですから、それが動機なんじゃないですか」
「え」
仲尾刑事は頓狂な声を上げた。私はその真意を彼に話して聞かせた。
「犯人は女性を酷く軽蔑している。十分な動機じゃありませんか」
仲尾刑事の目が大きく見開く。彼は、おもむろに口元を綻ばせ、
「なるほど! そうか」 という。
「そうですよ。きっと犯人は過去に痛々しい女性遍歴でも持っているのかもしれない。その疎ましい過去の想いが積りに積もって、彼の中で爆発した」
「それで、無差別婦女暴行を始めたということか」
「そうです」
仲尾刑事は少年の様な顔になった。
「昨今では奇怪なニュースが飛び交う時代ですからね。一般人では想像すらつかないくだらない動機でも犯罪を犯す人達にはとっては、人を襲う十分な理由かと」
親が子を殺し、子が親を殺す。教師が生徒を殺し、生徒が教師を殺す。
平成とは、そんな時代なのだ。
「どんな理由でも犯罪者にとっては、人を襲うだけの理由に成りうる――確かに、そう考えると犯人は女性に深い恨みを抱いているという共通点が見出せるな」
「これで、動機は一致しました。次は、犯人の行動範囲が狭いという事に触れてみてはどうでしょうか」
「三宮周辺でしか事件が起きていないといことかい」
「おかしいとは思いませんか? 夜遅くに三宮近辺にいる女性達を同じ手口で襲う――僕が犯人ならきっと地域を転々としながら犯罪を繰り返す。――その方が警察の捜査の眼も眩ませることができますからね――という事は、犯人は三宮近辺に住む、女性達に狙いを定めていると言う事になる」
「――三宮近辺に住む女性か。成程」
私は、犯人に感情移入した。
これも職業病かもしれぬ。私がくだらない私小説を書く時、私は何時だって私の生み出した人物達と一体化し、その人物に成りきるのだ。この世に存在にしない人物に、自分が如何にして感情移入するのか? それが、小説家の考えるべきところである。
職業病だ。
私が、連続婦女暴行事件の犯人ならば、何を想い、何の為に罪なき人々を襲うだろうか。
私は瞼を閉じた。暗く色の無い世界。 しばらく思想した後、私はそっと目を開けた。フロントガラスから差し込む陽光が眩しい。
「どうしたんだい? 御影くん」
「犯人の目的は、警察に捕まる事じゃ無いのか……」
私が小さく呟くと、仲尾刑事は、きょとんとしながら、
「何を言い出すんだ? 君は」
と、呟いていた。
だが私が言った言葉は本心である。もし、私が犯人ならば、何故これほど密集した地域で無差別に犯罪を繰り返すのか?――私には、犯人が早く警察に捕まりたがっている様にしか思えなかったのである。まるで追いかけっこをする子供の様に。だから、犯人は、被害者を殺さずにいるのだ。
「鬼ごっこですよ。刑事……」
私が言った事は単なる思いつきだったのかもしれない。それでも私は、直観的に閃いたその言葉を吐き出さずにはいられなかった。
「御影君? これはごっこなんかじゃないんだ」
仲尾刑事は呆れたように言った。
「分かっていますよ。僕が言った事はそういう意味じゃない。要するに犯人は早く警察に捕まりたいと思っている。あるいは、捕まるまでの過程を楽しんでいる」
「何の為に?」
「それは――僕にも。ただもう一つ犯人が行動範囲を限定している理由を掲げるとしたら、身体のどこかに障害があるのではないかと」
「その方が賢明な推理だと思うが――」
仲尾刑事は、ハンカチで滲みでる汗を拭いた。
「しかし、そう考えると、果たして不自由な体で女性達を強引に抑えつけらるのか? 被害者が小学生だとからならまだ理解できますが、大人の女性となると――」
「確かに。――となると、やはり、犯人は我々をからかっているのか」
私は、窓の外を見た。歩道を行きかう人々の群れが視界に映える。様々な表情をした人たち。笑っている人。虚ろな人。寂しそうな人。
渋滞に捕まってしまったせいだろうか。車の窓からでも人々の表情を明瞭捉える事が出来た。
「仲尾刑事――貴方は、僕達と犯罪者の明確な境目がわかりますか?」
仲尾刑事は、へ? と声を漏らす。
「何を言い出すんだい?」
「いいから答えてください」
仲尾刑事は、眉間に皺を寄せて、何やら神妙な顔で考えている。問いかけられた問題を必死に考える子供のように。
「境目か――幼い頃に育った家庭環境の違いか、もしくは精神的な病にやられている――そう思うが」
「確かにそうかもしれませんね。だけど僕はこう考えています」
私は、窓の外に行きかう人々の群れを見据える。
境目なんてありませんよ。答えはやるか、やらないか――それだけです。
「やるか、やらないか。 要するに君は、どんな人でも犯罪者になりうる――と言いたいのかい?」
私はコクリと顎を引く。明確とした考えは無かったが、本心でぁる。如何なる人も、度重なる負の感情の爆発により、犯罪者になれる。――何故かそんな気がした。
「だって、貴方にも殺したいほど憎い人ぐらいいるでしょう」
仲尾刑事は、ははっっと笑い声を洩らし、「そりゃいるさ」 と言った。
「それですよ。その感情。どの犯罪者だって、その純粋な想いを実行に移しているだけなんです」
「純粋な想いか……そういえば、どこかの心理学の本で目にした事がある。犯罪者は、我々なんかよりずっと心が綺麗なんだって。綺麗すぎるが故に、自分たちが醜いと感じる人を、憎みたくなる」
「――だから、違いなんてないんですよ。 よくニュースとかで、我々にとっては奇怪な事件が多い。そして、その報道を見た僕達は彼らを――頭の狂しい人間なのだ――と認識する。罪を犯した人間がどのような家庭で育ち、何を学び、どうして犯罪を犯したのか? その経緯も知らずに。知らないだけだと言うのに」
「――君は一体?」 仲尾刑事が怪訝そうに問うた。
「あっ、いや、ただの意見ですよ。別に犯罪者に肩入れしているわけじゃない。――ただ、ふとそんな事を思いましてね」
「そうかい。まぁ、君が言う通り、如何に極悪非道な犯罪者でも、同じ人間なのだから、我々と同じ心を持っている。犯人は自分の純粋な狂気を抑制する事が出来ずに、このような通り魔行為を繰り返しているわけか」
「どちらにしろ、赦せない行為には違いありません。刑事、捕まえましょうよ。犯人を」
仲尾刑事は、眩しいほどに白い歯を見せた。
◆◆
私達が乗ったパトカーは、繁華街を通るには余りにも目立つために、一先ずは近くのパーキングエリアに停めた。そこから、黒宮の事務所までは徒歩十分ほどの距離であった。私達は、この猛暑の中を歩く嵌めになってしまったが、黒宮の事務所の前に彼女の何の断りもなしにパトカーを停車させるよりかは幾分がマシな気がした。
平日に来たせいか、黒宮の占い館には客足が少なかった為に、予約客の相手を済ませた彼女は、すぐさま私達の闖入を赦してくれた。
私と黒宮の付き合いは長い。彼女は口が悪いのだが、素人作家の頃から私の抱える悩みを親身になって聞いてくれたのだから、心の奥底では私は彼女を懇意にしていた。付き合いは長いとは言っても私達は友人ではなく、それこそ師と弟子のような関係で、私が本当に困った時の相談係として私の中の彼女は存在する。西洋の皇妃を彷彿とさせるような風貌も、妖しい蝋人形の様な顔立ちも、蒼い瞳も、何もかもが普通の人間と掛け離れているのだが、それでも彼女の占術は、確かな人気を誇っていたのだから、強ち彼女の商売は詐欺とかの類では無いのだろうに。
紅いカーテンを潜ると、黒宮が、黒衣を纏いながら私達を招き入れてくれた。頭巾を被っているためか、表情は上手く読み取れない。
彼女は、テーブルの上に置かれた水晶や、タロットカードを棚に仕舞うと、ゆっくりと椅子に腰を下ろして、
「――それで、何の用かしら」
と、訊いた。
仲尾刑事は、まず黒宮に深く頭を下げ、先日に起こった事件に関して、彼女の偉大な功績に感謝していた。
今の黒宮は占術師の顔ではない。透けてしまうほどに白人の様な顔。沖縄の海の様な蒼い双眼はただ真っ直ぐに仲尾刑事に向けられていた。ココナッツの様な甘い香の香りが、鼻腔内に忍び込む。私は不思議な感覚を覚えた。
「警察がここに来ると言う事は、何か事件でもあったのかしら」 淡々と訊いた。
「実は黒宮先生にまた、協力してもらいたく、ここへ来ました。私達兵庫県警は、一月の頭から発生している連続婦女暴行事件の犯人を追っているのです。しかし、今だに手掛かりの一つも掴めていなくて、困っているわけなんです」
仲尾刑事が、早々に要件を話すと、黒宮は大きなため息を吐いた。
「御影吉秋くん。 仲尾刑事をここに案内したのは貴方ね」
「はい。それが何か?」
「貴方は、私を何だと思っているの? 探偵? 霊能力者?」
「いえ、占い師です」
「じゃあ、どうして警察の捜査協力を私に依頼するのよ。私はただの占い師、困っている人の味方である事には変わりないけど、刑事事件にまで口を出す権限は、私には無いと思っているけど」
「この前の事件に関与した事は、覚えていないのですか?」
黒宮は困惑の色を浮かべた。
面倒なのだろう。
「勿論覚えているわ」
ここで仲尾刑事は、野口秀雄を三枚、テーブルの上に差し出した。
「先払いです。 これで僕達は先生の客人になったわけだ。――相談、乗ってもらえますね」
仲尾刑事が溌剌とした声でそう言うと、黒宮は眉間に小皺を寄せ、また大きな吐息を一つ零した。呆れたのだろう。この強引な誇り無き公僕に。
「まぁ、お話だけは聞いてあげるわ」
黒宮が、不機嫌そうに呟くと、仲尾刑事は、両手を空に掲げ万歳をしていた。
それから制限時間の間、仲尾刑事は何も知らない黒宮に事件の詳細を話した。
◆◆
「犯人の特徴は被害者からの証言で中年男性と特定されている。そして、もう一つのヒントは犯人がこの近辺に住んでいるということ。間違いないわね?」
「はい」
「気になるのは、犯人が使用した薬品。――どんな薬品を使ったか分かれば、何か容疑者を特定するヒントになるんだけど、被害者は全員白い布を当てられたと証言している。だけど実際に布に麻酔薬を湿らせて眠らせるなんて事、映画だけの世界であって、現実では無理なの」
「では、犯人は特殊な薬品を用いたとか?」
「仲尾刑事、他に被害者から気になる事を聞けなかったのかしら?」
仲尾刑事はしばらく険しい表情を作って考え込んだ。
すると突然あっ っと短い声を上げ、
「思い出しましたよ」 と言う。
「何を?」
「最初の被害者、鳴沢南美が言ってたんですけど、白い布を当てられて犯人ともみ合いになった時に右腕に何かチクっとした痛みが走ったとか」
「それよ!」
黒宮は弾かれた様に椅子から立ち上がり、仲尾刑事を指差した。彼女は以外と機敏な動きも出来るのだとこの時思った。
「先生、何がそれなんですか?」 訊ねた。
「犯人が使用したのはね吸入麻酔薬よ。よく手術で使われる麻酔薬の事。犯人は薬品を特定されるのを恐れている為に、わざわざそんな回りくどい真似をして被害者を錯覚させたの」
「成程。要するに犯人は被害者達に白い布で眠らせたと思わせる。しかしその実犯人は被害者と揉めている最中に被害者の腕に注射を打ったという事ですね?」
「その通り」
私は納得した。
そう言うことだったのか。
確かに突然犯人に襲われ、口元を布きれで塞がれたなら誰でも犯人と揉み合いになるに違いない。そんな極限状態の中で、僅かな腕の痛みなど記憶に残る筈もないのだ。
人間の記憶力ほど乏しいものはない。
「――では黒宮先生。犯人は医療関係の人間という事ですね。早速被害者の関係者に医療関係の人間が居ないか探ってみます」
「待ちなさい。そうあせらなくてもいい。後は動機が分かればいよいよ容疑者特定に繋がるかもしれない。仲尾刑事。貴方が被害者の女性から訊いた話を私に出来るだけ詳しく話して頂戴。どんな些細なことでもいい。無差別犯罪といえども動機が無い犯罪などこの世にありはしないのだから。被害者には必ず女性という以外の共通点がある筈よ」
仲尾刑事は頷くと、背広の内ポケットから警察手帳を取り出す。
彼はそれをペラペラとめくった後、瞼を閉じて何やら追憶を始めた様であった。
〔5〕被害者への事情聴取
1 鳴沢南美 【24】 OLの場合
「――犯人の顔は余り覚えてません。多分中年男性だったと思います。何か変な匂いしたし。揉み合っている最中に右腕にチクッとした痛みが走ったこと以外は記憶に残ってないんです。犯人から逃げようと必死だったし」
仲尾は県警の一室に鳴沢南美を呼び出し事情聴取をした。彼女は終始困惑の色を隠せないと言った表情であった。
「誰か貴女を怨んでいる人に心当たりはありませんか?」 仲尾が訊ねる。
「そんな人いない。――私何にもしてない。――あっ……」
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません。まさか、うん。そんな事ありえない。だって犯人は男だったし」
「やっぱり思い当たる節でもあるんじゃないですか?」
「ありません。――ありま、せん」
そう言ったきり鳴沢南美は黙り耽ってしまった。仲尾は彼女から有力な情報を仕入れる事が出来なかった。
2 豊崎亜樹 【18】 高校生の場合
仲尾は一人目の被害者鳴沢と同じような質問を豊崎亜樹にもしたが、彼女も鳴沢と同じくして曖昧な返答であった。
「――私の事を怨んでいる人なんていません。多分だけど」
「多分?」
「――でも、アイツにそんな度胸あるわけないし。うん、大丈夫」
豊崎は曖昧な返答を繰り返すばかりである。
何か犯人に思い当たる節があるのではないか。そう睨んだ仲尾は豊崎に対して有力な情報を期待した。しかし、この質問以降豊崎は決して口を開く事が無く、結局は有力な情報は得られなかった。
3 古沢美紅 【30】 パート主婦の場合
「知ってるのは犯人の特徴だけ。後は抵抗するので必死だから何も覚えてないわ」
「失礼な質問なのですが、貴女に個人的な怨みを抱いている人物に心当たりはありませんか?どんな些細な事でもいいんです。貴女以外の被害者二人にも同じ質問をしましたが、有力な情報は得られませんでした。これ以上被害を増やさない為にも情報は必要なんです」
「そう言われてもねぇ……本当に心当たりがないんだから仕方ないじゃな――あっ」
「何か思い出したんですか」
「――いえ、何でも」
明らかに古沢は、何かを思い出した様子であった。
仲尾は彼女の返答を訝しく思い、この後も情報収集を続けたが、結局彼女も前者と同じくして黙秘を続けるばかりであった。
4 瀬川夏海 【22】 大学生の場合
これ以降仲尾は、被害者に対して個人的な怨みを抱いている人物を徹底的に訊き出そうとする。
「知りません。私を怨んでいる人なんて大学にもバイト先にもいる筈ない」
瀬川夏海は感情を剥き出しにしてきっぱりと言い切った。
「皆さんそう言うんですがね……何かを隠しているみたいなんですよ。本当は心辺りがあるんじゃないかと僕は勝手に睨んでいるんですが」
「他の人はそうかもしれませんけど、私には本当に心当たりが無いんです。これ以上私から刑事さんに言える事は何もありません」
「そう言わずになんとか協力してくれませんか。犯人を捕まえて欲しいとは思わないのですか?」
「思います。だから、私はここに来て刑事さんに事情を話してるんじゃないですか。――でも私の知ってる事はもう全てお話したつもりです」
「はぁ……そうですか。残念です」
仲尾は四人目の事情聴取を終えても有力な情報一つ得られない事を聊か苛立たしく思うのだった。
5 桜木怜奈 【25】 女優の場合
この事件で唯一現金を盗まれた被害者である。仲尾は彼女になら何か貴重な情報を得られるのではないかと期待したが、彼女も前者達と同様、曖昧な記憶しか持ち合わせていなかったのである。
「失礼ですが貴女は女優だ。ライバル会社や、ファン、ドラマの共演者など個人的な怨みを買う事も多々あるでしょう。犯人に何か心当たりはあるんじゃないですか?」
「現金を盗むって事は、犯人はきっと貧乏なんでしょ? 華々しいこの業界にそんなみっともない人間なんていないわ。犯人はきっと低俗で下劣な輩よ」
「はぁ、まぁそうなんでしょうけど、もしかして犯人は貴女にそう思わせる為に、現金を盗んだのかもしれませんよ。事実、他の被害者は何も盗まれてません。わざわざ現金を盗んだのは、貴女と関わりも持たない人物による犯行と見せかける為とは考えられませんか?」
「何が言いたいの?」
「ほら、よくあるじゃないですか。プロデューサーと女優の不仲説とか」
「ふざけないで。私もう帰るから」
桜木怜奈は事情聴取を拒絶し、退室した為に、彼女からも情報収集は出来なかった。
6 古嶋小夜 【10】 小学生の場合
そして仲尾が唯一有力な手掛かりだと睨んだのがこの少女の発言である。六人の被害者の中で唯一彼女だけが、犯人に心当たりがあると証言したのだった。
「――犯人に心当たりがあるのかい?」
仲尾は驚愕した。
「わたし、クラスメイトを苛めてるんです」
「苛め?」
「同じクラスに居る遠藤久美子ちゃん。ちょっと前に久美子ちゃんの上靴を傘箱の中に隠しました。でも久美子ちゃんをいじめてるのはわたしだけじゃないんです。それこそクラスの大半が久美子ちゃんを……」
「だから小夜ちゃんは、久美子ちゃんが自分を怨んでるって思うんだね」
「はい。きっと久美子ちゃんはお父さんとかお母さんに苛められてることを言ったんだと思います。それを聞いたお父さんがきっと怒って、誰か知り合いの人にわたしを襲うように言ったんだと、わたし恐いです」
「成程。確かに辻妻は合っているが」
古嶋小夜から有力な情報を仕入れた仲尾はすぐに久美子の父母からも事情を訊く事にした。だが、仲尾の期待も虚しく、彼らからも何一つとして情報を仕入れる事が出来なかったのである。
今の処、手掛かりとして掴めているのは犯人の年齢や特徴だけで、容疑者の特定すら出来てはいない。
だがこの広い街で、中年男性などどれほどの数がいるというのか。これでは正しく暗中模索である。仲尾は六人から事情聴取を行い度に、まずます混乱するばかりで意気消沈としてしまったのだった。
だから縋るしか無いのだ。
あの女に。
仲尾は追憶から戻り、目の前に居る黒宮に向って刻々とこれら六人から聞いた話を伝えた。
◇◇
「六人目の被害者古嶋さんだけが、犯人に心当たりがあり、他の五人にはそれが無い。でも――何か変ね」
「変――といいますと?」
仲尾刑事は訝しげに問いかけた。
「皆、貴方がある質問をすると不自然な言動をしている。それこそ最初の三人に関してはほぼ一緒の回答よ。何か思い当たる節があるのに、隠している様な不自然な言動――これは裏があるわね」
黒宮にはすでに何か掴んでいるようである。
「ある質問ですか?」
「そう。『貴女を怨んでいる人に心当たりはありませんか?』 っていう質問にね」
黒宮は確信を秘めた笑いを浮かべた。
「あっ、そうです。確かにそうなんですよ先生。 皆その質問をすると急に挙動不審になって、視線をうつむせるんです。それ以降僕が何を訊ねても皆黙ったまま」
仲尾刑事は真摯に鬱積した想いを打ち明けた。
「きっと、被害者それぞれの頭の中には思い当たる犯人象が浮かんでいた。しかし、仲尾刑事の問い掛けに応える事は出来ないとなると、それを打ち明ける事は彼女たちにとって何か都合が悪かったのかもね」
「都合が悪いって、どうして?」
「仲尾刑事、例えば貴方に奥さんが居るとしましょう。そして貴女はその奥さんに内緒で浮気をしている」
黒宮はここで突拍子も無い事を言った。
「はぁ? 何の話でしょう?」
当然の如く仲尾刑事の頭の中にはクエスチョンマークが浮かんでいるようだ。
「いいから聞きなさい。そしてね、貴方はそんな背徳的な行為を楽しんでいる最中で、ある日奥さんから問いただされるの。――『貴方、浮気してるでしょ?』 ってね」
仲尾刑事の額には肌理細やかな粒子状の汗が浮かんでいる。私は何だか滑稽に思った。
「先生、何を言うんですか! 僕は浮気なんてしてませんよ。第一僕には奥さんどころが彼女だっていません!」
仲尾刑事は動揺の色を見せた。
「落ち着きなさい。例えばの話だって言ってるじゃない。――さて貴方だったら、こう奥さんに訊ねられた時、どう答えるかしら?」
黒宮がそう訊ねると、仲尾刑事はしばしの間腕を組んで考え込んだ。最早私には彼女が何を言おうとしているのか皆目見当がつかぬ。私はこの二人の言葉遊びを黙視することにした。
「僕だったら、とりあえずごまかすと思いますね。『知らない』ってね。だってばれたら大変じゃないですか」
「そう。――バレたら何が起こるか分からない。だから人間は嘘を吐くの。これが人間心理の本質なのよ」
黒宮はヘラヘラと笑っている仲尾刑事に対して意味深なことを呟いた。
言っている意味が分からない。
「心理の本質――ですか?」
「だから仲尾刑事の質問に答えなかったの。咄嗟についた嘘とでも言うのかしら」
「先生、回りくどい言い方はよしてはっきり言ったらどうだ」
私がそう言うと、黒宮は落胆のため息を一つ零し、
「貴方ももうちょっと勘の効く男だと思ってたけど、どうやら違うようね。小説家にとって致命的なんじゃないかしら」 と悪愚痴を言った。
「何だよそれ?」
「いい? 他の五人も、六人目の被害者動揺、誰かを苛めていたって事よ。だから、仲尾刑事の前で犯人象に心当たりがある癖に押し黙ってしまった。きっとそれぞれの職場や学校でそうとうな苛めをしているみたいね。だからこそ自分を怨んでいる人間が居るにも関わらず貴方に話せなかったのよ」
仲尾刑事はパンッと手を叩き、
「なるほど!」 と納得した。
詰まりこういう事なのだろう。
六人目の被害者同様、五人の被害者にはそれぞれ自分を怨んでいる人間に心当たりがあった。それはそれぞれが職場、あるいは学校で苛めている人間だったのだ。
だがそれを仲尾刑事に話さないという事は、怨まれても仕方が無いという背徳的な念を抱いていたに違いない。どんな陰湿ないじめをしてきたかは分からぬが、それを無暗に公安に打ち明けてしまっては自分たちも何らかの罪に問われるかもしれぬと、彼女たちは考えたのだ。
だから黙秘した。
罪を隠匿する為に。
「先生。じゃあ、被害者が苛めていた人間の関係者且つ医療に従事していた人が犯人とでもいうのか?」 訊ねた。
「そうとも言い切れないのよ。そこに犯人の焦点を絞ってしまうと、今度はこれらの事件の犯人が同一人物である――という前提が根底から崩れてしまう」
私ははっとした。
当然である。
被害者それぞれが苛めている人物が同一人物である筈が無いのだ。皆、年齢も過ごしている環境も全く違っているのだから。
「分かりませんね」
仲尾刑事が頭を抱えてる。
黒宮も等々煮詰まってしまったのか、先ほどから瞼を閉じ、何かを考えている様である。
「犯人の目的は、いじめている人間に対しての復讐。被害者は女性。同じ手口――」
黒宮は突然独り言を零した。
――かと思うと力強く双眼を見開き、奇妙なことを呟いたのである。
「そんな、まさか――でもだとすれば彼女がここに来たのも何かの縁だとでも言うの?」
そんな独り言を。
彼女の表情には動揺の色が浮かんでいた。額には微かな汗が滲んでいる。
私と仲尾刑事は取り乱した占術師をこの時初めて見た。
「あの、先生、どうかしたんですか?」
「――仲尾刑事、お願いがあるの。もしかしたらこの事件解決できるかもしれない……」
「え? 本当ですか?」
黒宮がもたらした一律の光明。
「えぇ。これから私が話す事を真剣に聞いて欲しい。そしてまた貴方の肩書を利用して知らべて欲しい事が幾つかあるの。いい? 協力して貰うわよ」
私と仲尾刑事は無言で頷き、彼女の話に耳を貸す事した。
私はその話の中で、
ある女の存在を知る事になった。
◇◇
「仲尾刑事、これから私が言う事を調べて欲しい。いいかしら?」
仲尾刑事は黒宮が提示する調べ事を熱心に手帳に書き記す。
1 佐原結城の父親の詳細
2 榎本深雪が交通事故に遭った時に搬送された病院。事故時の診断書の回収。
3 佐原結城が殺した教師の身元詳細。
「調べるのはいいとして、先生の御客のその女性が今回の事件と関係あるっていうんですか?」
「今のところは何とも言えない。――けど、彼女には隠された過去があるような気がしてならないの」 黒宮は半ば神妙である。
「先生、根拠はあるのか?」 訊いた。
「――直感かしら」
私は息を呑んだ。
直観?
そんなものを頼りに彼女は警察の力を利用しようというのか。
「直観なんか頼りにして大丈夫か?」
「貴方はまだ若いから分らないでしょうけど、直観――所謂第六感というのは、いつも私達人間にアドバイスをしてくれるの。素直な心でそのアドバイス通りに行動を起こせばきっと素晴らしい結果に向かう事ができる。私はそう信じてる」
根拠がない説明だが、何となく説得力があった。
「分かりました先生。じゃあ、すぐに調べて来ます」
「分かったらすぐに連絡して頂戴。これが連絡先」
黒宮は名刺を仲尾刑事に渡した。
仲尾刑事がどこかご機嫌な様子で部屋を出ていくのを見送った後、黒宮は私に不可解な質問を投げかけた。
「――失った記憶って取り戻せるのかしらね?」
意味が分からない。
「先生?」
黒宮はそれっきり黙ってしまった。
〔6〕九人目の被害者
影はある現場を目撃していた。
三年前は不動産会社だった建物は経営不振から倒産しすっかりと廃嘘と化してしまっていた。会社の資産だった机やテーブル、椅子などはずさんに放置され、壁紙は湿気で剥がれ落ち、窓ガラスは割れている。
正しく死んだビルである。
廃墟ビルの中には招かれざる四人の姿があった。
四人はそれぞれモノクロの学生服を着ている。彼らは、F中学に通う生徒であった。女学生三人に取り囲まれ怯えている一人の青年。青年は陰鬱な面持ちで、女学生達の不気味な嘲笑を受け止めていた。
そして。
その光景が最早日常の様に繰り広げられていくのである。
青年は三人の少女達に学生服を?ぎ取られて、下着一丁にされた。青年の肉体には数多の痣が残されている。醜い紫色に変色した打撲傷と裂傷だった。無論これらの傷は彼女達三人に付けられた傷である。
少女は青年を裸にした後、それぞれの欝憤を晴らすかの如く、地面に蹲る彼を蹴る。蹴る。蹴る。悲鳴を上げる青年。
だが、悲鳴は虚しく空間に響くだけである。
鈍い打撃音と悲鳴と少女の抑楊の無い笑い声。
青年は苛められていたのだった。
だが青年には自分が何故苛められているのか、思い当たる節が無かった。いつから始まったのかさえ曖昧である。いきなり言われの無い事で少女たちにここに呼び出され暴行を受ける様になった。
何故自分を苛めるのか?
青年は少女達に訊ねた事がある。
――お前見てるとイライラすんだよ。暗いし。そう言えばお前、カメラが趣味だって言ってたよな。まさか盗撮なんて考えてるんじゃない? キモいんだよ。
少女達は青年に根拠の無い因縁を付けてきたのだった。
確かに彼は写真撮影が趣味だった。だが青年が被写体としているのは人間では無く大自然そのもの。清らかな川や、海、空、森、それら大自然をカメラに収めるのが彼の娯楽であった。
だが、そんな娯楽でさえも、少女からしたら迷惑なのである。
青年は少女達の暴行に耐える中で、ふと泣きたくなった。
「何、こいつ泣いてやんの。ダセッ。子供かよ」
少女の一人が泣いている青年を罵倒した。
続けて残り二人も思いつくだけの罵詈雑言を青年に浴びせた。
少女達の暴行は続く。
青年は最早意識が朦朧としていた。
少女から目をつけられてからの半年間、ろくな事が無かった。毎週のように放課後に此処に連れて来られては裸にされ暴行を受ける。
殺してやりたいと思った事が何度かあった。
だが、彼女たちを殺せば自分は豚箱行きである。
彼は自分の嫌いな人間の為に、人生を浪費するのが嫌だった。だから耐える事を選択したのだった。
そして。
青年はいよいよ意識を喪失した。
青年の下着には染みが出来、彼はピクリとも動かなくなった。
少女たちは人形の様な青年を見て再び高らかに嗤った。
そんな日常的な光景を、放置された棚の影から見つめている一人の影。
影は、目標に狙いを定め、ゆっくりと足音を殺しながら接近していく。
一瞬の出来事だった。
床に転がっている瓦礫を拾い上げた影は瞬時に少女たちとの距離を縮め、彼女らの頭部を瓦礫で殴った。
少女たちは悲鳴を上げる事も出来ぬまま床に身を沈めて頭から血を流す。
影は倒れている彼女を見据え、口元に弧を描いた。
「これは復讐だ」
影は横たわる四人を冷徹な眼で見つめ、静かに微笑んだ。
〔7〕八月一五日
更に三人の被害者が出たの知ったのは、八月一五日の早朝だった。
被害者は市内に住む女子中学生だと言う。
そして今度の被害者に対する手口は前回と異なっていた。
少女たちは瓦礫で殴られ意識を喪失したという。
刻々と増え続ける被害者達。
このまま犯人を野放しにしてはならぬ。
そして同日午前九時ごろ仲尾刑事から私の携帯電話に連絡が入り、その知らせを聞くことになる。黒宮白陽から招集命令が下ったのだ。
蝉時雨が降り注ぐ季節。
終戦記念日だと気付いたのは、黒宮の元へ向かう列車内で転寝をしていた頃合いである。
◇◇
「――全てを終わらせましょう」
女の羽織っているドレスは鴉のように黒い。膝まで伸ばされた黒髪。頭部に嵌められた金色のティアラ。普段は黒い頭巾をかぶっているせいで、彼女の明確な髪型は把握していなかったが、これが彼女の私服というのだから恐れ入った。首元にはサファイヤのネックレスがきらめいていて、腕には黒い長手袋をしている。日焼けをしたくないのか彼女は日傘を差していた。気高くて聡明な雰囲気はその周りにいる人達より明らかに異端であり、どこか滑稽でもあった。
これが彼女の真実の姿だった。
黒宮白陽の招集命令が下った後に、私はとある市外墓地に向かった。
麻野霊園と呼称された墓地の一角。集まったのは私と黒宮。そして女が一人。白いワンピース来た女は不思議そうに私の顔を見ている。無理もない。この女の事は黒宮から聞いているだけで、全くの初対面なのだから。
「仲尾刑事はまだ来てないのか?」
「えぇ。彼はもう一人事件に関わっている人物を連れてくる予定なの」
「事件に関わっている人物? 先生、一体何を企んでいるんだ?」
「終わらせるのよ。この偶然にも出来過ぎた事件を」
訳が分からなかった。
何より分らないのは、私達がどうして墓場に呼ばれたのか、である。目の前には黒曜石の墓石がある。しばらく手入れされていなかったのか、花瓶の花は干からび、墓石の表面には苔が生えている。墓石の周りには幾分かの雑草が茂っていた。
「誰の墓だ?」
私は墓石に彫られた文字を読み取る。
――結城家之墓――
墓石の裏には、石の下で眠っている骸の名が刻まれていた。
「ごぼう……」
榎本深雪は私が結城と読もうとした瞬間に訝しげなことを呟いた。
「そう。このお墓は佐原結城の墓よ。榎本深雪さん。貴女が 『ごぼう』 と呼んでいた一人の苛められっ子の墓」
榎本深雪は双眼を見開き、黙然と墓石を見つめるばかりである。
「ちょ、ちょっと待ってくれ先生。話しが見えない。一体何がどうなってるんだ」
「もう少し待ちなさい。仲尾刑事が連れてくる人物が来たら全てを話すから。あっと、その前に浄霊の準備をしなきゃ」
黒宮はそう言うと、ハンドバッグから和紙で包まれた塩を取り出す。
一体に何を始めようというのか。
酷く頭が痛くなった。
矢張りこの占術師は人知を超えている。
黒宮は取りだした塩を深雪に渡した。
「あの、これは?」
「飲みなさい。これから貴女に取り憑いている怨霊を祓うの」
「え……怨霊って 『ごぼう霊』 をですか? でもこの間はどうにもできないって」
「確かに以前に貴女が私に相談しに来た時、結局の所は貴女を追いかえしてしまった。それは、貴女が嘘を吐いていたから。――正確な情報が聞き出せなかったから、祓うべき怨霊の姿を捉える事が出来なかった」
「私、嘘なんて吐いてません。あの時先生にお話した事は全て本当の事なんです。どうしてそんなに疑うんですか」
榎本深雪は根拠もなく嘘つき呼ばわりする黒宮に腹を立てた。
「そう、貴女が話した事には確かに筋書きも信憑性もある。けれど、それは榎本深雪という人物が勝手に創り出した偽りの物語なのよ」
深雪の顔面が氷結した。
私は置いていかれている。
この二人に。
「先生、何を言ってるんだ? この子が嘘を吐いてるって? どこからどこまで?」
「貴方にも彼女が言った 『ごぼう』霊や、佐原結城が殺した担任教師の話をしたわね。――そのほとんどが真実では無いの」
「なんだって?」
「嘘です! 私は本当に本当の事を話しただけなんです!」
深雪が赫怒している。
「榎本深雪さん。貴女は怨霊に憑かれた。その悪しき霊さえ取り祓えば、貴女の記憶は取り戻せる筈」
黒宮はそう言うと、どこか哀しげに深雪に塩を飲むように促した。
彼女が塩を飲んでから、間もなく仲尾刑事と一人の中年男性が佐原結城の墓石の前に訪れた。
百七十センチ前後の中肉中背。薄くなった頭髪。茶色いシャツに、蒼のジーンズ。分厚いレンズの眼鏡。晴れぼった瞼。垂れさがった眼尻。
その中年男性は、意気消沈としている。
「佐原昌三さん。この事件の最後の関係者です」 仲尾刑事が言った。
「さはら……? 先生! まさか」
「そう、この人が榎本深雪が苛めていた男子生徒、佐原結城の父親よ」
「で、でもどうして?」
「彼もこの事件に多いに関係しているからよ。佐原結城が殺した担任教師、柊一。佐原結城が少年院の中で餓死した本当の理由。榎本深雪に取り巻く怨霊。そして世間を騒がす連族婦女暴行事件――バラバラに起こった事件が全て繋がる」
「繋がるって……?」
「黒宮先生に頼まれていた件は全て捜査済みです」
「よくやってくれたわ。御苦労さま」
あぁ――終わるのだ。
全てが。
直観だった。
◇ ◇
「どこから負の連鎖は始まったのかしら……この一連の事件は余りにも哀しい。――まずは榎本深雪さん、貴女の失われた過去の事からお話しましょう。安心なさい。貴女に取り巻く悪しき因縁、私が祓ってあげるから」
黒宮の眼差しは余りにも優しかった。
先ほどまで憤っていた深雪も、その包み込むような視線を受け、ただ彼女の話を聞くばかりである。
「失われた過去……」
榎本深雪が悄然と呟いた。
「榎本深雪さん。貴女は過去に大きな事故に巻き込まれている。それは間違いないわね?」
「――高校生の頃に交通事故に遭った。それは間違いありません」
「そう――では仲尾刑事。あれを」
黒宮がそう言うと仲尾刑事は何やらA4半の小さな用紙を彼女に渡す。
「これは、貴女が入院した海星病院の医師から預かった診断書よ。ここには当時の貴女が運ばれていた時の怪我の症状が事細かく記されている。この診断書に寄れば、貴女は事故の衝撃で肉体的な外傷と軽い記憶障害を負ったと表記されている――しかしここにもトリックは存在する。貴女は記憶を欠損していると言っていいほどに重要な記憶を損失していた。それは皮肉にも貴女に憑き纏う佐原結城との隠匿された過去だった」
「先生は何を言ってるんですか? 私とごぼうに隠匿された過去なんてありません……私は、私は何も知らない」
深雪は耳を塞ぐ。
これ以上話しを聞きたくないと言った風に。
それでも黒宮は話を続ける。
「貴女は本当に何も覚えていないというの? 本当に佐原結城との過去を知らないなんて言いきれるの? 深雪さん、どうかお願い。思い出して。自分に嘘をつかないで」
黒宮は耳を塞いでる深雪に向って歩み寄っていく。
一歩。また一歩と。
「いや、来ないで」
深雪は結城の墓石にもたれ込んで蹲った。
「仲尾刑事……佐原結城の担任教諭柊一の事を、彼女に話してあげて」
黒宮がそう言うと、仲尾刑事は半ば哀しげな面持ちで、柊一教諭の事を話すのであった。
「柊一教諭は、過去に公にはなっていない犯罪歴があったのです」
「教師に犯罪歴だって?」
私は驚愕した。
「柊一教諭は彼がまだ教育大学に通っていた頃に、少女を一人凌辱していて警察に逮捕されています。では列記とした犯罪履歴があるのに、何故彼は榎本深雪、佐原結城が通う中学校の教師に就く事が出来たのか。――それは彼の家族が一肌脱いでいたのです。柊一の家系は裕福でした。それこそお金には困った事なんて無いほどにね。彼の両親は、彼の犯罪歴を隠蔽するように警察に賄賂を渡したのです」
「――賄賂……」
絶句した。
教師が賄賂で犯罪歴を隠蔽するなど赦される筈もない。
だが、公になっていないからこそ赦されたのだろう。
「家族の協力で見事に柊教諭の忌わしい過去は闇に葬られた。だが、如何なる金を積んだ所で柊一という人間の本性は決して変わる事が無かった」
「――仲尾刑事……まさか。まさか」
額に夥しい数の汗が湧いた。
「そのまさかだよ」
仲尾刑事は毅然と言いきった。
「そう、柊一教諭は、深雪さんが通う学校でも犯罪に走ったの」 黒宮が嘆く様に呟いた。
その瞬間、深雪が瞼を見開き、絶叫した。
甲高い金切り声のような叫び。
口を大きく開け、耳を塞ぎ、顔面のありとあらゆる筋肉が硬直している彼女の姿は、まるでムンクの 『叫び』 の様であった。
「いやぁぁ――」
深雪の絶叫は途絶えない。
黒宮は叫ぶ深雪の背中を叩いては摩り、摩っては叩く。
怨霊を祓っている様な絵である。
深雪の嗚咽。噎び泣く深雪。
絶叫。
「深雪さん。頑張って。もう少しで貴女に取り憑いている怨霊を退治できるから」
「先生……何がどうなってるんだ……? 彼女は一体どうしたって言うんだ?」
「彼女は今、記憶を取り戻している最中なの。彼女が記憶を取り戻したその時、彼女は真の意味で佐原結城の怨霊から解き放たれる。仲尾刑事。私がこの子を抑えてるから話しを続けて」
「はい、そして再び本性を抑制出来なくなった柊教諭が目標に選んだ人間。それが榎本深雪だったんです」
仲尾刑事が言った瞬間。
マリオネットの紐が音を立てて切れたかの如く、
深雪は全身を弛緩させて地面に倒れた。
失神したのだ。
意識を喪失した人形の姿を
佐原昌三は、暗い目で見据えていた。
「榎本深雪は事故に遭った時の衝撃で記憶を喪失していた。だから、断片的な記憶を頼りに佐原結城との新たな想い出を創り出したの。それこそ、貴方小説家御影吉秋のようにね。登場人物は変わらない。けれど、筋書きは全く異なる。そんな物語を深雪さんは創り出してしまった。彼女は元々霊感体質……きっと彼女に取り憑いている佐原結城の霊魂は、深雪さんに気付いて欲しかったんだと思う。真実を……」
黒宮は哀切な笑みを零した。
〔8〕回想 隠された過去
「――またアイツにやられたんだな?」
放課後の教室。佐原結城は帰宅の準備をしていた榎本深雪に声を掛けた。
「何もやられてないよ」
「嘘つけ。俺知ってんだよ。お前があいつに視聴覚室で悪戯されてるの見たんだから」
「な……嘘でしょ?」
「助けてやる」
「ほっといて。アンタには関係ないでしょ」
「関係あるさ。クラスメイトだろ」
「面倒臭いな。私アンタの事嫌いだから」
「何でだよ」
「だってアンタごぼうみたいだし。なんか気持ち悪いから。私だけじゃなく、皆アンタの事嫌いだよ」
「そんなのは今関係ないだろ。気持ち悪いってんならお前だって同じじゃないか。知ってるぞ。お前幽霊が見えるって、お前と付き合ってた元彼がお前の悪愚痴言ってたの俺聞いたし」
「煩いわね。黙りなさいよ。アンタには関係ないでしょ」
「関係あるってば」
「何で?」
「だって、俺――」
――お前の事好きだから。
――好きだから。
好きだから。
――殺してやるよ。アイツの事。お前の事助けてやる。
殺してやるよ。
その日の夕暮れ時、帰路を歩いていた榎本深雪は、背後から柊一に襲われたのだった。人気も無く薄暗いトンネルの中で柊と深雪は揉み合い、深雪は柊の魔の手から逃れようと必死に暴れた。
その光景を目撃した佐原結城は、万が一の為に所持していたナイフで柊の躰を突き刺したのだ。
飛び交う出血。返り血を浴びる結城と深雪。
深雪は怖ろしさの余り、声を上げる。
柊の背中をナイフで無残に挿し巻くる結城。
殺してやる。殺してやる。
幾度となく呟きながら柊を刺しまくる結城。
トンネル内での悲劇。
そして柊は薄れゆく意識の中で、トンネルの内壁にある言葉を血でなぞったのだ。
助けて。
柊は死の手紙を壁に綴ってから間もなく息絶えた。
「俺のせいにするんだ。お前は先生を殺した俺を止めようとした。――ただそれだけだ」
佐原結城が血塗れになりながらそう言うと、榎本深雪は号泣した。
〔9〕
深雪は未だに瞼を閉じ、結城の墓に靠れかかっている。潜在意識の中に隠された真実の過去を取り戻す旅でもしているのだろうか。彼女の寝顔が何故か安らかに見えた。それから十分ほどして深雪はゆっくりと目を開ける。
瞳孔は暗く意識ははっきりとしていないようである。
「――眼が醒めた様ね。具合はどう?」
深雪は虚ろな視線を漂わし細い声を洩らす。
「なんだか、不思議な気分です……」
「榎本深雪さん。人間の記憶はね、衝撃によって喪失する事がある。だけどね、衝撃によって再生する事もあるの。記憶っていうのは何も脳だけに保存されているのではなく、その人のDNA、遺伝子にまで染み込んでいる――こんな話がある。ある心臓移植の例をあげましょう。脳死したAさんから心臓移植を受けたBさん。すると不思議な事にBさんは生前のAさんと全く同じ日常生活を送る事になった。この結果より、人間の行動習慣、記憶を司っている臓器というのは人間の心にも既存している事が分ったの」
「先生、私思い出しました。何もかも――」
深雪の眼尻に透明の涙が伝った。
「辛いでしょうけど、皆に話してくれる?」
「――ごぼうは私の事が好きでした。あの日の放課後私は柊一教諭に背後から襲われて、トンネルの中で揉み合いになって――助けてくれたんです。ごぼうが。私を守ろうとして彼を殺したんです。彼は私を助けてくれただけでなく、罪を全て一人で背負おうとしてくれたんです」
私は息が詰まりそうだった。
「トンネル内で見たという男の霊の正体はきっと柊一教諭のものだったんでしょうね。彼もまた貴女に真実を忘れられた事で怨霊と化し、貴女に記憶を取り戻すきっかけを与える為に姿を現したのよ。死者にとって一番辛い事はね、『生前に関わりのあった人間に忘れられること』 なのよ。それが如何なる形で関わったとしても……ね」
「ごぼうとの過去を忘れていた……それが彼を現世に彷徨わせていた理由なの?」
「それだけとは言い切れないけど、きっと貴女に真実を誰かに伝えて欲しかったかもしれない。言うなれば彼も嘘を吐いたまま死んでいった類の人間。きっと未練に思う事もあるでしょう」
深雪は何かを考えてるのか、虚空を見据えている。
「先生――でもどうして貴女は彼女の過去を知ってるんだ。彼女は今記憶を取り戻したんだぞ。まさか、貴女にも霊感があるってわけじゃないだろうな」
「その事については、ここに居る事件の最後の関係者佐原昌三さんに語って貰うとしましょう」
視線を移す。
これまでの一連の流れを傍観していた佐原昌三がここにきて漸く口を開いた。
一体、彼がこの事件にどう関係しているのか。
「御影くん。この人こそ、今回の連続婦女暴行事件の犯人なんだよ」
仲尾刑事がつけたした一言で、私は絶句した。
「なんだって?」
「そしてね、この暴行事件を起こす引き金になったのが、佐原結城と榎本深雪の悲恋物語だった」
深雪は双眼を大きく見開いた。
「どういうことだ? 意味が分からない」
「昌三さん、話してあげてください。もう隠す必要も無いでしょう。榎本深雪さんは全ての真実を話したんだ。ほら、貴方も」
仲尾刑事が彼の背中をそっと押す。
彼は低く濁った声で過去を語り始めた。
「あれは、息子が刑務所内で死んだ日だった。結城は私に一枚の遺書を残していたんだ。――そこには今深雪さんが話した事が訥々と綴られていたよ。息子はさぞかし辛かったんだろうね。全ての罪をあんな小さな体一つで抱え、好きな人と逢えない日々が堪らなく息子を孤独にしたんだ。
果てしない孤独と絶望が息子の小さな心を破壊して、彼は自ら死を選んだんだ。――でもね、その遺書にも結城は、貴女の名前を書いていなかった」
佐原昌三は、深雪を見据えていた。
「どうしてですか……死ぬ時ぐらい、本当の事を言ったらいいじゃないですか」
私の声は恐らく震えていたと思う。
「結城は深雪さんの事を守りたかったんだろうね。だから私にも話せなかった」
「そ、そんなことって……」
「私はね、息子が学校で苛めれているのを知っていた。だからね、息子が死んでからというもの、色々自分に出来ることを考えたよ。息子の結城がどうしてあんな殺人に走ったのか、どうして友達の誰かに相談して解決しようとしなかったのか。考えた。息子には友達が居ない。孤独。孤独が息子を殺人に結びつけた。息子を孤独にしたのが、周りの人間だと考えた。何故皆私の可愛い息子を苛めたのか……私はそう考えただけでどうしても怒りを抑える事ができなくてね」
「まさか、貴方は?」
佐原昌三は静かに顎を引いた。
「苛めの無い世界を作ろうとしたんだ。息子の望んだ世界を私一人で実現しようとした」
「何を言ってるんだ貴方は?」
この男にも怨霊が取り憑いている――と思った。
「息子の遺書にはね、その好きな女の子が自分を苛める類の生徒だとも書かれていた。可哀そうな話だとは思わないか? 息子はそんな自分を苛めている女を守る為に自分の人生を捨てた。私はそんな息子の気持ちを知らないその女が憎くて憎くて仕様が無かった」
「それが、無差別連続婦女暴行事件の発端だったんですか」
「――息子が死んだ日から考えていた計画を私は実行に移した。ただそれだけだ……」
「それだけって……」
「私は悔しかったんだ。息子が憐れに思えてね。そして私を鬼に変えた出来事が、あれだった」
「あれって?」
「見てしまったんだ。子会社ビルの路地裏で、OLが同僚らしき人に喰ってかかってるのを見てしまったんだ。その時だった。私の脳裏に「苛め」という言葉が浮かんだのは」
佐伯昌三は唇を噛み締めた。
「――思い出してしまったんですね……息子さん、結城くんの事を」
昌三がターゲットとして選んだ被害者は全て、苛める側の人間だったのだ。
きっと彼にとっては苛められる側の人間全てが結城に見えてしまうに違いない。
「あぁ、結城はきっと苛めるクラスメイトを怨んでいたに違いない。だから、私は復讐しようとしたんだ。そして息子が見たかった苛めの無い世界を作ろうとした」
「凶器の麻酔薬はどこで仕入れたんです?」
「私は医師だ。そんなもの容易に手に入る」
医師だったのか。
だが、医師と言われる人種が薬品を犯罪に使うとは。
狂っている。
「仕入れた麻酔薬で女性達を眠らす。だが、殺しはしない。それは何故です? 死んだ結城くんの為に苛めの無い世界を創りたいのなら、被害者を殺していてもおかしくないはずだ。それなのに何故?」
私には理解できない。
だから彼は犯罪者なのだろう。
「苛めをする人間など殺す価値も無いからだ……私の目的は苛める側の人間を制裁する事なんだよ。そしてもう私の役目は終わったんだ」
「終わったって……?」
「そこの娘から話しを聞けたからだよ。私は一度息子が好きになったという女に会いたかった。会って話をしたかったんだ。どうして息子を苛めるのか。何故自分を好いてくれている男を迫害するのか。聞きたかったんだ。そしてその少女が今をどんな風に考えて生きているのか知りたかった」
「それを知ったから貴方の気は晴れた……」
「――刑事さんからその女の話を聞いた時は驚いたよ。そしてその女が、息子との過去を忘れているという事実がとても悲しかった。そして私は全てを白状するから、その少女と会って話をしたいと頼んだんだ」
なるほど。
故に佐原昌三は全ての罪を告白し、深雪との接点を持とうとしたわけだ。
深雪は昌三の告白を受け、すっかり意気消沈としてしまっている。
深雪の視線は虚ろで光彩も翳りを見せ、息は荒い。
「あの、私……」
「私は全てを話した。これからしばらくは務所生活だ。息子の結城と同じようにね……」
「違うんです。私、忘れるつもりなんて無かったんです……」
深雪は再び号泣した。
「佐原昌三さん。貴方はいじめの無い世界を作ろうとした。だけど、貴方はそんな理想の世界を作ろうとして、犯罪を重ねてきた。犯罪でね世界は変わらないのよ」
黒宮が言った。
「分かってるさ。それでも私には築きたい理想があった。ただそれだけさ」
「貴方のそんな考え方も、きっと息子さんを怨霊に変えた原因だったのかもね」
黒宮は哀しげに呟く。
「あぁ――そうなのかもしれん……」
佐原昌三は固く口を結び、微かに躰を震えさせた。
何かを酷く悔しがっているのかのように。
「昌三さん。一つだけ訊いてもいいですか?」
「うん……なんだい?」
「どうして五人目の被害者だけ金銭目的の犯行だと見せかけたんです?」
ここで佐原昌三は小首を傾げる。
「何を言ってるんだい? 私はそんな事はしていない」
――え?
私、黒宮、そして仲尾刑事の三人が揃って疑問符を浮かべた。どういうことだ? 思い、私達は昌三の顔を一斉に見つめた。
「私が犯行に及んだ人数は八人だ。間違いない。嘘は言ってない。ここまで話して嘘なんか吐くわけないだろうに」
昌三は動揺している。
「では――あの事件は一体?」 仲尾刑事は呆気に取られている。
「仲尾刑事、彼はきっと嘘なんか吐いてないわ。きっとこれら一連の事件の報道ニュースを見て同じ手口で犯行に及んだ輩がどこかに居るみたいね。五人目の桜木怜奈さんを襲った犯人は、きっとどさくさに紛れて、自分の罪を昌三さんを犯人にしたて上げようとした。――事件はまだ終わっちゃいないわよ」
仲尾刑事は敬礼した。
未だ終わっていない。
「――佐原さん。もう彼女と話したい事はありませんか。そろそろ時間です」
仲尾刑事は新たな事件の事で頭がいっぱいの様である。
「えぇ、もうありません」
昌三は悄然たる物言いである。
仲尾刑事が彼の手頸に手錠を嵌める。
二人は結城の墓前から立ち去っていく。
その哀愁漂う二人の後姿を、私達三人は無言で眺めていた。
二人は数十メートルほど進んだ時、ぴたりと歩を止める。
昌三は徐に振り返って佇む深雪に向って最後の叫びを放った。
「――榎本深雪さん! もう二度と、二度と息子の事を忘れないでくれ。あの子は一度たりとも学校を楽しい場所だとは思わなかった。けれど、貴女を好きになってからはあの子も進んで学校に行くようになったんだ。その事だけは絶対に、絶対に忘れないで欲しい」
哀しい雄叫びに
娘は頷いた。
深雪が了承したのを嬉しく思ったのだろうか。
昌三は口元に微かな弧を描き、そして仲尾刑事と共に姿を消した。
「黒宮先生、ごぼうの幽霊は報われるのでしょうか?」
「ええ、貴女が忘れない限り」
「死者にとって一番辛いのは、忘れられる事なんですよね」
「そう、学習したじゃない」
瞬間、私は深雪が微笑んだのを見た。
柔らかく包み込むような温厚な笑み。
私はその一瞬の間だけ、深雪に恋をした。
あぁ――
今度は私が結城の怨霊に取り憑かれたのかもしれない。
――九月二十三日。
麻野霊園。結城家之墓。
季節は移り変わった。一ヶ月前までは油蝉が小喧しく鳴いていたのにも関わらず、猛烈な暑さも去って、辺りには穏やかな秋風が吹き、ひぐらしの鳴き声が心地よく耳元で響いた。
霊園へ続く道路脇には深紅色の彼岸花が咲き誇り、秋の到来を知らせている。真赤な花火の様な弾けた形状をした花弁が優しい風に揺られている風景はなんとも言葉には言い難いものである。
あぁ、なんと穏やかな気分なのだろう。
それは何も季節だけのせいではなかった。
今まで深雪の心を縛っていた怨霊は解き放たれた。佐原結城との記憶を取り戻したことできっと彼の霊魂は報われたのだろう。深雪はそれからというもの幽霊という奇抜な存在と疎遠になった。
見えなくなったのだ。
幽霊、悪霊、自縛霊の類が一切見えなくなった。
それまでの自分が嘘の様に別人の眼を手に入れた彼女はまるで生まれ変わったかの様な心境であった。誠に不思議であるとしか言いようが無い。ついこの間まで実在した力がすっかりなくなってしまったのだから。
こうして進んで墓場に足を運べるのも、全てはあの占術師の御蔭なのかもしれない。いや、彼女だけの力では無いかもしれぬ。もしかしてこれは結城の霊魂が自分に掛けた魔法なのではないか。そうだ。今まで見えていた幽霊がいきなり見えなくなるなんて、人知を超えた何かの仕業だと深雪は思うのだった。
彼の霊が特別の魔法を自分に掛けて冥界へと旅立ったのだ。
そう考えると不思議と深雪は可笑しく思ってしまう。
深雪は口元に楕円を結んだ。
そして追憶の扉を開く。
この一カ月間で変化を伴ったのは何も彼女の体質だけではなかった。
あの謎めいた事件の結末も判明したのだ。
佐伯昌三の手口を真似た五人目の被害者桜木怜奈の一件の真犯人の事である。深雪はこの事件の情報について無知であった為にこれから記す詳細は彼女がこれら一連の事件の結末が記された新聞を通して知った事だ。
桜木怜奈を襲った真犯人は彼女が所属する事務所で勤務する男性アシスタントディレクターの仕業で、本当に佐伯昌三の証言通り全くの第三者が、佐伯昌三の手口を利用して、犯行に及んでいたのである。動機は桜木怜奈に対する個人的な怨みだった。彼はテレビで報道された佐伯昌三の手口のトリックに気がつき、これを真似して犯行に及んだのだそうだ。どちらにしてもこのディレクターが犯したミスは現金につい目が眩んだという事だろう。佐伯昌三による自供、そして仲尾刑事が俊敏に捜査した事から今回の桜木怜奈事件は呆気なく解決するに至ったのだ。
深雪はこの報道が世間に流布した事によって初めて自分と結城との関わりが昌三を狂わせ、如何に自分とは無関係の人間に被害を齎したのかを深深と理解したのである。
だから自分には結城を供養する責任があった。
――死者にとって一番辛いのは、生前に関わりのあった人に忘れられること。
深雪の脳裏に黒宮の台詞が蘇った。
深雪は墓前で静かに掌を合わせ目を閉じる。墓の周りは雑草一つ無く、墓石も綺麗に磨かれていた。墓石の前には白菊の花が供えられている。
深雪は瞼をきつく閉じ、回想した。二度と忘れる事の無い哀しい想い出の事を。何故自分はあの時――
――お前の事好きだから。
ごぼうの気持ちに。
――え? 何、言ってるの?
――好きなんだ。お前の事。ほんとだ。ずっと前からお前の事ばかり見てた。
――そ、そんな事急に言われても。それに、言ったでしょ。私アンタの事なんて嫌いだし、一度だって男として見たことない……
――お前が俺の事嫌ってるの知ってる。けど、俺はお前にずっとこの気持ちを伝えたかった。だからそれだけは分かって欲しいんだ。
――そんな事言われても……私、私……
答えてやれなかったのだろう。
――俺はお前の事が好きなんだ。だからその証拠を見せてやる。
――証拠?
――あぁ。殺してやる。アイツの事。お前の事助けてやる。
――嘘吐き。
――嘘じゃない。お前の事助けてやる。
――そんなの信じない……
何故あの時自分は、結城の気持ちをちゃんと聞いてやれなかったんだろう。
もしあの時自分が結城の気持ちにきちんと答えてあげていたら、彼はきっと違った未来を手にして筈なのに。
心臓が締め付けられている様な痛みが走る。
痛みに耐えらなくなったのだろうか。
深雪は追憶の扉を閉めて目を開ける。
霊園の上方には果てしない青空が広がり、綿菓子雲が切れ切れに浮かんでいた。
その青空の中に浮かんだ切れ切れの雲の中に、結城の顔の輪角に似た細長い雲を見つけた
ものだから、深雪は思わず哀切な表情を作った。
哀しげに微笑む深雪。
あの時言えなかった言葉が心の奥底から遡ってくる。
深雪はもう少女では無い。
子供の様に泣いていた小娘はもうどこにも居なかった。
一人の大人として今こそ彼に気持ちを伝えなくては。
生まれ変わった深雪はごぼう型の雲に向って優しく微笑みかけた。
――助けてくれてありがとう。わたしの事、好きになってくれてありがとう。忘れないよ。ずっと、ずっとね……
深雪の眼尻から透明な涙が伝った。
少女は生まれ変わっても尚、少女のままだった 〔了〕