手紙
職場を出るために靴を履き変えながら外を伺うと雨が降っていた。雨音は聞こえないが、目を懲らしてよく見れば霧のように雨が降っているのがわかる。鞄の中に折りたたみ式の傘が入っていたけれど、傘を必要とするほどの雨ではないと自分に言い聞かせて社屋を出た。
地下鉄の駅に向かって朝晩の通勤で慣れた順に道を辿る。夕方の駅周辺は多くの人で溢れていた。それでも比較的空いた道を選び、歩行者用信号の変わる頃合を慎重に見計らって、霧雨の中を周りの人々と同じように忙しなく足を動かした。
駅に着いて電光掲示板の文字を確認する。目当ての電車に間に合ったようだ。取り立てて急ぎの用がある訳ではないが、乗り継ぎも悪くないし、この時間ならそれほど混雑もしていない。傘も開かず、最短距離で帰路を急いだ甲斐があったというものだ。
定刻通り到着した電車に乗り込み、乗り換えの駅で開く側の扉に体を預け、立ったまま目を瞑って考え事をする。今日の仕事について(ろくでもない電話がかかってきたな)、明日の仕事について(たいした予定も無いし、つまらない用事を押し付けられるだろう)、これから食べる夕食の事(何を作ろうか、それとも買って帰ろうか)、そして、彼女の事。
最近は直接会うどころか、声を聞く機会すら減ってきていた。やはり学生の頃のようにはいかない。久しぶりに電話をかけてみようか。週末に映画を観る約束をしても良い。それくらいなら、なんとか都合を付けられるかもしれない。今週が駄目なら、来週でも再来週でも構わない。約束をするという事、それ自体が大切なのだから。
地下鉄からJRへ乗り換えて、またしばらく電車に揺られる。地下鉄に乗ったときと同じように、降りる予定の駅で開く扉の側に立って目を閉じる。駅前にある二十四時間営業の弁当屋さんで弁当を買おう。飲み物は麦茶が冷蔵庫にあったはずだ。食べ終えたら、歯を磨いて、風呂に入って、それから彼女の家に電話をしよう。
電車を降りると、生暖かく湿った空気を残して雨は止んでいた。予定通り弁当を買い、十五分ほどの距離をゆっくり歩いて家に辿り着く。入り口脇の郵便受けを覗くと、水周りの修理屋さんの広告、電気料金と電話料金のお知らせ、そして、彼女からの手紙が入っていた。
部屋に入ると、鞄と弁当と広告と料金明細を食卓の上へ放り投げる。悪い予感がした。いつも電話で連絡してくる彼女が、初めて手紙を送ってきたのだ。良い予感なんてしようはずがない。そして、残念ながら悪い予感というものは、往々にして当たるものだ。
鋏を探すことすらもどかしく、指で手紙の封を破って開ける。そして、当然のように悪い予感は当たっていた。手紙は、「ごめんなさい」で始まっていた。そして、会えない日々は辛い、もう会う気はない、手紙の返事は必要ない、というような内容が続き、「さようなら」で終わっていた。
それほど長くもない手紙を三度読み返して、それからしばらく呆然としていた。たった一枚の紙切れで、二人の間にあったものが終わったという事がうまく頭に入ってこない。とにかく、これは現実で、たぶん決定事項なのだろう。手紙の文面には、疑問も提案も見つけられなかった。ただ、ごめんなさい、さようなら、と書いてあるだけだ。難しくも何ともない。
手紙から視線を外すと、食卓の上の弁当が目に入った。もうすっかり冷めてしまっているだろう。食欲だって全然ない。そのかわり、喉はどうしようもなく乾いていた。冷蔵庫から麦茶を出し、湯飲み茶碗で一気に呷る。いつもなら冷たくておいしいはずなのに全く味がしなかった。
もう一度最初から手紙を読んで、元通り封筒に入れる。鮮やかな紫陽花の柄があしらってある薄水色の封筒だった。彼女は紫陽花が好きだっただろうか。水色の物を好んで使っていただろうか。そんな事も分からない自分を不思議に思った。結局、彼女について何も知らなかったのだ。知ろうとしてもいなかったのかもしれない。愛想を尽かされても当然だった。
封筒を弁当や広告や料金明細と同じように食卓の上に並べる。それから、椅子に座って目を閉じて考えてみた。本当にやり直す事はできないのだろうか(もう会う気はないと書いてあった)。自分の気持ちはどうでもいいのだろうか(手紙の返事は必要ないと書いてあった)。どこにも出口は無いのだろうか。誰かに教えて欲しかった。
思えば冷静に考えている自分がいた。涙も出ない。その程度だったという事だろうか。しかし、食欲がなくなるほどに動揺もしていた。悲しみに似た感情が渦巻いているのも本当だった。
ふと、電話をかけるつもりだった事を思い出す。久しぶりに映画を観る約束を取り付けるのだ。手紙を読んだ事は言わなければ分からないだろう。郵便は遅れる事だってあるし、事故で紛失する事だってある。それに、手紙の返事は必要ないと書いてはあったけれど、電話をしてはいけないとは書いていなかった。
心の中で愚にも付かない言い訳をしながら、受話器を手に取る。番号は忘れていなかった。考えるまでもなく、指が覚えている数字をなぞる。目を閉じたまま呼び出し音を聞いていた。どちらにしろ手紙のことを言わないわけにはいかないだろう。下手な演技は見抜かれるに決まっている。泣いてすがりつけば、この手紙は無かった事になるのだろうか。そして、週末に二人で映画を観る事ができるのだろうか。
やがて、七度目の呼び出し音の後、相手側の受話器が上がった。
(了)
生まれて初めて書いたものです。なぜか投稿していなかったので、いまさらですがアップします。話としては、このあと『電話』に続きます。
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