結末はいつも本能寺 本能寺の鈴鳴り武者
「……ゼロ、か」
八月の茹だるような暑さの中。愛知県清須市にある『喫茶厨房 本能寺』のバックヤードで、店長である明智光秀は、胃薬を水で流し込みながら深くため息をついた。
手元の売上帳簿には、見事なまでに「ゼロ」しか並んでいなかった。客数、ゼロ。売上、ゼロ。
普段であれば、ブラック企業顔負けの無茶振りをしてくるオーナー・織田信長の怒号が響き渡り、財務担当の丹羽長秀が冷酷に電卓を叩き壊している時間帯だ。しかし、今日の店内は不気味なほどに静まり返っていた。
理由は二つある。
一つは、つい先週、駅の反対側に巨大なライバル店『本願寺カフェ』がオープンしたこと。彼らは広々とした本格的な畳張りの座敷席を完備し、心休まるお香を焚き、精進料理をベースにした和風メニューで清須市のカフェ需要を根こそぎ奪い去った。昼にこってりしたラーメンを食べてしまった客などは特に、あの日本人のDNAに刻まれた安心感と胃への優しさには抗えない。
そしてもう一つ。
「よりによってこんな日に、営業本部長の柴田勝家が警察の厄介になるとは……」
売上が落ち込んだことに焦った柴田勝家が、駅前で『本能寺へ来い!!』と叫びながら通行人の腕を力任せに掴みまくった結果、即座に職務質問を受け、そのままパトカーへ連行されてしまったのだ。現在、本能寺は物理的な呼び込みすらできない状態に陥っていた。
「うちの『焦熱地獄ハンバーグ』や『怒りのデス・エスプレッソ』が売れないのも無理はないが……それにしても静かすぎる」
光秀がぼやいていると、厨房の奥から信長がぬらりと現れた。
「……光秀」
「ひっ! は、はい、オーナー!」
「客が来ないな。本願寺の坊主ども……あの畳敷きの店、やはり焼き討ちにするしかないか。それに柴田の奴め、戻ってきたらただでは済まさん」
「お待ちください! 現代日本で放火をやると即座に逮捕、いえ、実刑判決です! ここはぐっと堪えて経営努力で対抗しましょう!」
「経営努力だと? 貴様、この俺に頭を下げて客を呼べと言うのか?」
信長の目が危険な光を帯び始めたその時だった。
――チリン。
静まり返った店内に、微かな音が響いた。
光秀は顔を上げた。
客は、いない。
なのに。
――チリン、チリン。
入り口のドアベルの音ではない。もっと古めかしい、くすんだ金属が触れ合うような音。
「……オーナー、今、音が」
「ああ。ついに客が来たようだな。出迎えろ、光秀。極上の『接客』を見せてやれ」
光秀は恐る恐るフロアへ出た。
エアコンの効きすぎか、やけに空気が冷たい。真夏だというのに、吐く息が白くなりそうなほどの冷気だった。
入り口のドアが、音もなく開いている。
そこに立っていたのは、十人ほどの「客」だった。
* * *
「い、いらっしゃいませ……何名様でしょうか?」
光秀は営業スマイルを作ったが、すぐにその顔は引きつった。
客たちの様子がおかしい。
全員、泥にまみれたボロボロの足軽の甲冑を着ている。しかも、顔が青黒い。瞳には生気がなく、足元を見ると……影がない。それどころか、足そのものがうっすらと透けているように見えた。
(幽……霊!?)
光秀の胃が激しく自己主張を始めた。
しかし、後ろから信長が冷酷な声を投げかける。
「何をしている光秀。席へご案内しろ。たとえどんな姿であろうと、金さえ払えば客だ。うちの経営危機を救う財布だと思え」
「いや、絶対にお金(現代の通貨)持ってないですよこの人たち! 六文銭とかですよ!」
そんな光秀のツッコミを無視して、客たちはズロズロと店内へ入り込み、テーブル席に腰を下ろした。
彼らはメニューを見ることもなく、ただ一点をジッと見つめていた。
厨房から出てきた、バイトリーダーの秀吉である。
「おや? お客様、ずいぶんと時代がかったコスプレだがね! ご注文はお決まりで?」
陽気な秀吉が近づくと、幽霊たちの虚ろな目が見開かれた。
「あ、ああ……」
「殿……」
「殿が、ついに迎えに来てくださった……」
彼らの口から漏れ出したのは、底冷えするような声だった。
「違うがね! 俺はしがないバイトリーダーだがね!」
秀吉が笑って誤魔化そうとするが、幽霊たちの目は据わったままだ。
「では、なぜ……あなたには、あの方の面影があるのでしょう」
「……え?」
「あなたが、私たちを置いていったのです」
「俺じゃないがね!」
「それでも――今度こそ、共に」
「共に行きましょう……我らの、黄泉の国へ……」
彼らは遠い昔の古戦場を彷徨う怨霊たちだった。なぜか秀吉の持つ特有の――美人の人間女性を除けば、動物だろうが幽霊だろうが何でも惹きつけてしまう――謎のホイホイ体質に強烈に惹きつけられ、かつての主君の面影を勝手に見出しているのだ。
幽霊たちが一斉に立ち上がり、秀吉へと手を伸ばす。
その手は氷のように冷たく、触れられた秀吉の腕から急速に生気が奪われていく。
「ヒィィッ! 信長様! 光秀さん! 助けるがね! このままじゃ俺、あっちの世界に連れて行かれるがね!」
「ふむ」と信長は腕を組んだ。
「秀吉が黄泉へ行けば、シフトに穴が空くな」
「心配するところそこですか!? 早く除霊的な何かを!!」
光秀が叫ぶが、塩を撒いても効果はない。信長が火縄銃を構えても、物理攻撃が効く相手ではない。
店内の温度はマイナスに達し、窓ガラスにはびっしりと霜が降り始めた。
このままでは秀吉が死ぬ。
その時だった。
ベンッ!!!
凄まじい音圧の琵琶の音が、店内に響き渡った。
* * *
「そこまでになさい」
入り口に立っていたのは、編笠を深く被り、ボロボロの法衣を纏った一人の男だった。その手には立派な琵琶が握られている。
「誰だお前は」
信長が睨みつけると、男は静かに編笠を取った。
「通りすがりの、琵琶法師にございます」
琵琶法師はベン、ベンと弦を弾きながら、幽霊たちを見据えて語り始めた。
「この者たちは、帰る場所を失ったのではありません。……語られるべき『物語』を、失ったのです」
「物語、だと?」
「ええ。己が何者で、なぜ死んだのか。それすらも忘れ、ただ強き光――あの猿顔の男の生命力に惹かれてやってきたに過ぎません。無理に引き剥がそうとすれば、より強い怨念となり、この店ごと黄泉へと引きずり込むでしょう」
「迷惑な客だな。で、どうすれば帰るのだ?」
「だから、音です」
琵琶法師は断言した。
「荒ぶる魂を鎮めるのは、古来より『音』と決まっております。私の琵琶の音色で彼らの失われた物語を紡ぎ、鎮魂の調べを奏でましょう」
光秀は安堵した。これで助かる。
琵琶法師が激しく弦を弾き始める。幽玄にして荘厳な音が店内に響き……響いたのだが。
「……おかしいですね」
五分ほど経った頃。琵琶法師は汗だくになっていた。
幽霊たちは全く成仏する気配がなく、むしろ琵琶の音色に合わせてリズムを取り始め、秀吉を黄泉へ引っ張る力が強くなっている。
「鎮魂の音が、足りない……! この数の怨霊を鎮めるには、私一人の琵琶では音圧が足りません! 誰か、音の出るものを!」
「どうするんだがね! 俺、もう足の先が透け始めてるがね!」
秀吉が半泣きで叫ぶ。
絶体絶命のピンチ。その時だった。
――チリン、チリン、チリン、チリン、チリン、チリン!!!!
けたたましい金属音の爆発とともに、バックヤードの扉を蹴破って現れた男がいた。
「仙石殿!?」
そこに立っていたのは、本能寺の臨時従業員(ただし無許可)であり、秀吉の取り巻きの一人、仙石秀久だった。
「仙石殿!? また全身に熊避けの鈴ですか! 以前、小田原でツキノワグマ数頭に懐かれてお姫様抱っこで連れ去られた秀吉を助けるために、あなたが全身鈴だらけで特攻した時以来ですが……まさかあなた、毎日そんな姿で生活しているんですか!?」
光秀は目を剥いた。
「それに、なんだその両手に持っている馬鹿でかい鈴は!?」
仙石秀久はただの鈴だらけではなかった。
全身には無数の『熊避けの鈴』。腰には大小様々な『ハンドベル』。そして両手には、神社の拝殿から太い縄ごと力任せに取り外してきたとしか思えない、真鍮製の巨大な『本坪鈴』が握られている。まさに歩く音源、異常者である。
仙石秀久は胸を張り、両手の巨大な鈴と全身の鈴を激しく振った。
「ジャラジャラジャランッ!」
「……なんだ? 今、何やら『借りてきた』と言っている気がしたが……」
光秀が困惑しながら呟くと、秀吉だけが真顔で完璧な通訳を始めた。
「『近所の神社から全部借りてきたがね!』って言ってるがね」
「秀吉、お前は何故そこまではっきりと分かる!?」
どうやら仙石秀久の鈴会話は、他の人間には「なんとなくこういう感情、あるいはこんな言葉を言っている気がする」という漠然としたニュアンスしか伝わらないらしい。しかし、なぜか秀吉だけには、明確な意図を持った明瞭な名古屋弁として完璧に翻訳されて聴き取れるのである。
「借りたのか?」と信長が腕を組む。
「シャララン……」秀久は目を逸らした。
「……何か、肯定したような響きだな」と信長。
「『……そうだがね』と言ってるがね」と秀吉。
「神主の許可は?」
「チロ……リン」
「……明確に否定の音がしたぞ」と光秀。
「『……ないがね』と言ってるがね」
「それを世間では盗んだと言う」
「ガランガランガランッ!!」
「なんという開き直った厚かましい音だ……!」
「『必要経費だがね!!』と言ってるがね!」
罰当たり極まりない男の特大の鈴の音に、幽霊たちすら一瞬動きを止めた。
「琵琶の坊主!」
仙石秀久は全身の鈴をかき鳴らしながら、琵琶法師の隣に立った。
「チリリリンッ!」
「『あんたの琵琶と、俺の鈴!』と言ってるがね!」
「シャンシャンシャンッ!」
「『セッションするがね!』と言ってるがね!」
「ガランガランガランッ!!」
「『この幽霊どもを、音の暴力で極楽浄土まで吹っ飛ばしてやるがね!!』と言ってるがね!!」
琵琶法師は、しばらく無言で仙石秀久を見つめ、そして秀吉を見た。
「……なんとなく『共に奏でよう』という熱意は伝わってきますが、そこまで明確な言葉としては、さっぱり分かりません」
「俺には完璧に分かるがね!」
「なぜです?」
「俺にも分からんがね!」
* * *
かくして、日本の怪談史上最も罰当たりな『除霊ライブ』が幕を開けた。
「ジャララランッ!!(行くがね!! ワン、ツー、スリー、フォー!!)」
ベンッ!! ベベンッ!!
チリリリリリリリリリンッ!!!
それはもはや鎮魂歌ではなかった。
琵琶法師の超絶技巧による弦の強打の「ベンッ!」。
仙石秀久が全身を振り乱して鳴らす鈴の「チリンチリンチリン!」。
そして秀久自身の「うおおおおおっ!」。
三つの音が混ざり合い、店内を暴力的な音の渦へと変えていく。
ジャラララランッ!!
チリリリリリリリリリンッ!!!
仙石秀久は完全にトランス状態に陥り、神社の本坪鈴を振り回しながらフロアを駆け回る。
その異様な熱量と圧倒的な音の渦に、幽霊たちの怨念が共鳴し始めた。
「おお……おおお……!」
彼らの虚ろな目に、涙が浮かんでいる。
「良い、音だ……」
「我らの魂が、震えている……」
「ありがとう、鈴鳴り武者よ……」
怨念の冷気が、熱狂の熱気へと変わっていく。
彼らを縛り付けていた現世への未練と哀しみが、爆発的な音楽のエネルギーによって焼き切られようとしていた。
一人、また一人と、幽霊たちの姿が薄れていく。
輪郭がブレて、空気に溶けるように、音の中へと還っていく。
最後に残った一体の幽霊が、ふと立ち止まり、秀吉を見た。
「……殿」
「俺は、あんたらの殿様じゃないがね」
「……それでも、似ておりました」
「チロリン……(音楽って……すごいがね……)」
汗だくになった仙石秀久は、満足げに消えていく幽霊たちを見上げながら、腰のハンドベルをポツリと鳴らした。
この夜が、後に『鈴鳴り武者』としてメジャーデビューし、音楽業界を席巻することになる男の、音楽人生の始まりだった。
そして幽霊がふっと姿を消した瞬間――
チリン。
小さな鈴の音だけが、静寂の戻った店内に響いた。
琵琶法師は静かに立ち上がり、秀久の肩に手を置いた。
「素晴らしいグルーヴでした。あなたには、音楽の才能がある。……どうです、琵琶を弾いてみますか?」
「チリリンッ!(本当かがね!? かっこいいがね、琵琶!)」
秀久は目を輝かせて琵琶を受け取り、力強く弦を弾いた。
ビョオオオン……(酷く間抜けな音)
全員が沈黙した。
「シャララン……(……難しいがね)」
「……あなたは、鈴のままでよいでしょう」
琵琶法師はそっと琵琶を取り返した。かくして、彼の音楽の師匠は琵琶法師という不思議な系譜が誕生したのである。
「ふう、助かったがね……」
秀吉がへたり込む。店内の温度は元に戻り、夏の蒸し暑さが戻ってきていた。
しかし、事件はまだ終わっていなかった。
「おい、光秀」
信長が、厨房の奥を指差して言った。
「あそこを見ろ」
光秀が振り返ると、厨房の奥に設置された奇妙な茶釜――本能寺の『感情をエネルギーに変換する特殊設備』の一つである『平蜘蛛』が、異常な唸り声を上げながら激しく振動していた。
「お、オーナー! 平蜘蛛の様子がおかしいです!」
光秀が血相を変えて叫ぶ。
「鎮魂によって幽霊たちが現世への未練から解放された。その瞬間、彼らが抱えていた膨大な『哀』が一気に現世へ放出されたんです! その哀を、哀を消費するあの設備が一気に吸い上げちまった! 明らかにいつもと違う異音を放ちながら小刻みに揺れています!」
平蜘蛛は激しく鳴動し、その周囲の配管からはシューシューと危険な蒸気が吹き出している。
「光秀」
信長は、いつものようにニヤリと笑った。
「逃げるぞ」
次の瞬間。
ドガアァァァァァァァン!!!!!!
凄まじい爆発音とともに、厨房の設備が大破。
限界を超えて蓄積・暴走したエネルギーが爆発し、喫茶『本能寺』はあっという間に紅蓮の炎に包まれた。
「ああっ! また店が! 夏のボーナスが!!」
燃え盛る店舗を前に、光秀が頭を抱えて絶叫する。
全身鈴だらけの仙石秀久は「ジャラランッ!(最高のライブハウスだったがね!)」とサムズアップし、琵琶法師は静かに鎮魂の琵琶を弾いている。
そして秀吉は、燃え上がる炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「おっ、いい火加減だがね」
夏の夜空に、チリン、と一つ、涼しげな鈴の音が響いた。
(了)




