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エルハイム王立アカデミーの朝が明けた。
昨日の演説は、確かに効果があったようだ。廊下を通るたびに感じられる視線の密度が、昨日よりもずっと重くなっていたからな。普通の高校生だった前世の俺なら、きっと顔を真っ赤にして逃げ出したくなっただろうが、今の俺は違う。魔力で顔の筋肉一つ一つを細かく抑え込んで作った、冷徹なポーカーフェイス。これこそが、俺の最強の防具であり武器だ。
今日の最初の授業は、剣術理論。
ここアカデミーには魔法理論や訓練、魔道具学など様々な科目があるが、剣術は貴族の基本素養の一つだ。俺は大理石で作られた講義室の扉の前に立った。数十人の学生たちが中で会話する声が聞こえてくる。俺は手を伸ばしてドアノブを掴む代わりに、紫色の魔力を極めて微細に放出した。
ギィィ……。
魔力運用で音もなく扉を開け、中へ足を踏み入れる。すると、瞬間的に講義室の中の騒音が引き潮のように消えていった。学生たちの視線が俺に集中するのがわかる。おい、あいつ昨日の一……、手も触れずにドアを開けたのか? なんて囁きが鼓膜をくすぐった。
ふふ、いいぞ。非常に自然だった。今のドア開けパフォーマンスは10点満点中8.5点といったところか。魔力の放出が少し過剰で、扉から音が鳴ってしまったからな。
心の中で点数稼ぎをしていたが、表には一切感情を出さなかった。ただ無心に空いている席に向かって歩を進めるだけだ。ところが、俺の前を遮る奴がいた。
「ルヒーグ・ハエルトン!!」
ビエール伯爵家の令嬢、カイ・ビエールだった。彼女は昨日、俺が家門牌をぶち壊したのがよほど気に入らなかったのか、毒気を含んだ目で俺を睨みつけてきた。
「あんた、正気なの? いくらあんたの家が凄いからって、家門の証を人前で壊すなんて……一体何を考えてるのよ! ビエール家を挑発するつもりなら――」
「……」
俺は彼女をじっと見つめた。ああ、また始まったよ。朝から元気なもんだな。そんなことを考えていたが、口から出る言葉は冷酷そのものだった。いや、正確には返事すらしてやらなかった。
無視だ。
真の無口系キャラクターは、いちいち言い訳などしないものだからな。俺は彼女の肩をかすめるように通り過ぎ、講義室の最後列の席へと向かった。後ろで「ちょっと!」と地団駄を踏む音が聞こえたが、もはや俺の知ったことではない。
俺は一番隅の席に座り、頬杖をついて窓の外を眺めた。やはり後ろの席が一番落ち着くな。主人公っぽい雰囲気も出るし。そんなふうに安心した矢先、隣の椅子がズルリと引かれる音が聞こえた。誰かと思って不意に視線を向けた俺は、魔力で抑えていた顔の筋肉が一瞬痙攣しそうになるのを必死で堪えた。
「……隣、空いているかしら?」
第2王女、クララ・エルハイム。この国の実質的な権力者が、なぜこんな隅の席に、それも俺の隣に座るんだ。
おい、どういうことだ。王女なら普通は最前列の中央や専用席に座るもんじゃないのか。まさか昨日の演説のせいで俺を監視するつもりか。それともハエルトン家の真意を探ろうとしているのか。頭の中では数万通りの仮説が暴走して悲鳴を上げていたが、俺の顔は相変わらずツンドラのように冷たかった。俺は短く頷くだけに留めた。すると、すぐさま反対側の椅子からも荒々しい音が響いた。
「私もここに座るわ!」
カイ・ビエールまで俺の反対側の隣席を陣取った。左には王女、右には宿敵の令嬢。これはもう、四方が敵か監視者だらけじゃないか。助けてくれ……退学したい。このメンバーで一学期を耐えろっていうのか。冗談じゃない。
嘆きが溢れ出そうだったが、俺はポーカーフェイスを維持し、机の上に置かれた紙を無造作にめくった。そこへベラー教授が入ってきて、嵐のような静寂の中で授業が始まった。正直、授業の内容なんて一つも頭に入ってこなかった。両隣から感じられる強烈な魔力の圧迫感のせいで、背筋に冷や汗が流れるほどだったからな。
──────────
どうにか理論授業が終わり、ついに実戦訓練のために訓練室へと移動した。
広々とした訓練室には、数百本の木剣と魔力測定装置が並んでいた。俺は適当な木剣を一本手に取った。他の学生たちは剣を握り、基本の構えを取ったが、俺は剣を握らなかった。
紫色の魔力を糸のように紡ぎ出し、木剣を包み込む。そしてゆっくりと虚空へ浮かび上がらせた。
さて、今日の理論で学んだ通りなら……。
木剣が俺の意志に従って虚空を切り裂き始めた。ブン、と空気を切り裂く音が聞こえ、やがて目で追うのが困難なほどの速さで振り回される。術式などは使わない。ただ、俺の中の膨大な魔力を直接投射し、物理的な力へと置換するだけだ。
ヒュッ! パッ!
木剣は、まるで見えない剣士が握っているかのように精巧に、斬撃、刺突、払いといった動作を繰り返した。概ね今日の教授の説明した軌跡を模倣したものだったが、魔力の濃度があまりに高いため、木剣の周囲に微かな紫色の残滓が残った。
「……こ、これは!」
ベラー教授が俺に駆け寄ってきた。彼の目は驚愕に見開かれていた。
「術式もなしに魔力だけでこれほど精密な操作を? しかもこの速さは……ルヒーグ君、君! こんな才能は我が人生で初めて見る。これは単純な魔力運用ではない。既に一つの境地に達しているな!」
周囲の学生たちも訓練を止め、俺を見つめてざわついた。あいつマジで何なんだ、魔法が使えないっていうのはただの謙遜だったのか、怪物みたいな奴だ……。
口角がひくつき、笑みが零れそうになったが、俺は必死で魔力を動員して表情を固めた。ここで笑えば、これまで積み上げてきた『冷徹な天才』のイメージが崩壊する。俺は教授の感嘆を余所に、無造作に木剣を収めた。
そして訓練室の壁際まで行き、ストンと背を預けて座り込んだ。片膝を立てて腕を乗せ、視線は床の埃でも数えているかのような無関心な構え。
あ、今のこのポーズ、ちょっと格好良かったかもしれないな。孤独な強者感が溢れ出ているじゃないか。心の中ではこんな情けないことを考えていたが、表向きは誰よりも冷ややかだった。周囲のざわめきはさらに大きくなった。うわ、あんなことをしておいて表情一つ変わらないなんて、凄いな……なんて声が聞こえてくる。
その時、遠くから俺を射抜くような視線を感じた。カイ・ビエールだった。彼女はいつものように苛立っているような顔をしていたが、何かが微妙に違っていた。単に嫌いで見ているというよりは、何というか、何かを探索しているような……そんな感じだ。
まあ、どうでもいいか。彼女が俺をどう見ようと、俺は俺の道を行くだけだ。
俺は目を閉じ、瞑想に耽っているふりをして休息を取った。
もちろん、ベッドの上に戻れば今日あった恥ずかしいことを思い出して悶絶するかもしれないが……今この瞬間だけは、俺はこの世界の誰よりも冷徹で強い『ルヒーグ・ハエルトン』だ。




