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二人の男の幼稚な口論を背に、俺はこっそりと部屋を抜け出した。侯爵という御仁も、執事長という御仁も、どっちも年甲斐がないのは同じだな。だが、おかげで貴重な自由時間を手に入れられたぜ。
俺の足取り(まあ、実際は這って進んでるだけだが)が向かった先は、当然ながら図書室だ。さっきのあの紫色の正体と、俺が魔法を使えなかった理由をどうしても突き止めなきゃならないからな。
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図書室の空気は相変わらず、重苦しい紙の匂いで満ちていた。俺はさっき読んでいた本ではなく、もう少し専門的っぽく見える本を何冊か選んで床に広げた。
『魔力の起源と希少事例研究』、『術式の構造と限界性』、『魔法が発現しない101の理由』……。
ページをめくり、集中していた時のことだ。後頭部がチクチクするような感覚を覚えた。前世の道化じみた振る舞いのおかげか、それともこの体の魔力感応力が鋭敏なおかげかは分からないが、誰かに見られているという確信があった。俺は本を読んでいるフリをして、こっそり視線をずらし図書室のドアの隙間をうかがった。
……セストだな。
ドアの隙間から、見慣れた白い髪の毛がほんのわずかに見えて消えた。親父が差し向けた監視役か? それとも本人の好奇心か? まあ、どっちでもいいけどな。どうせもう気づかれてるだろうし。
さらに数冊の本を漁った末、俺はついに一冊の古書の隅っこに書かれた一文を見つけ出した。
『[術式の崩壊:過負荷に伴う魔法具現の失敗事例]
ごく稀に、術者の魔力の質が高すぎる場合、既存の定型化された基礎術式がその魔力の圧力に耐えきれず崩壊する現象が発生する。これは例えるなら、木の桶に溶岩を注ぎ込むようなものである。魔力は確実に放出されているものの、魔法の形を成す前に術式そのものが砕け散ってしまうため、表面上は何も起きていないように見えるのだ。』
……っ!
まさか、これか?! 魔力が無いとか回路が詰まっているとかじゃなくて、その逆。俺の魔力があまりにも圧倒的すぎて、この世界のありふれたウォーターボールごときの術式じゃ、俺の魔力を到底収めきれなかったってことかよ?!
確認が必要だな。俺は本棚に刺さっている無数の魔法陣の中から、基礎魔法が描かれた紙を一枚取り出した。この魔法陣に魔力をほんのわずかに流し込んで、術式がどう反応するか直接見てやろう。
俺は慎重に魔法陣の上に小さな手を乗せた。
頼む……一度だけでいい……!
俺はさっきウォーターボールを試した時のように、内なる魔力を手のひらの先に集めた。今度は、ごく微弱に放出してみる。
ジジッ、ジジジッ!
黒いインクで描かれた魔法陣が白く光るよりも早く、インクそのものがブクブクと沸き立ち、紙が真っ黒に焦げ始めた。魔法陣の幾何学的な模様が歪み、引き裂かれ、形を失っていく。
俺の魔力が触れた途端、術式が溶けてしまったんだ。
だが……これは俺の手のひらの下で起きた出来事だ。外から見ている者の目には、ただ何の光も発さず、水滴一つ結ばない『失敗』にしか見えないはずだ。
「……あ。」
唇の間から、虚無感に満ちたため息が漏れた。
結局、結論は同じか。魔法が使えないってことだ。
俺が絶望していると、図書室のドアが完全に開き、セストが入ってきた。その顔には隠しきれない安堵と……いや、気の毒そうな同情の念が浮かんでいる。さっきドアの隙間から、俺が魔法陣に手を乗せても何の現象も起こせず、ただ呆然と立っている姿(ヤツの目にはそう映ったのだろう)を見ていたらしい。
「……坊ちゃま。」
彼の声は普段よりも低く、悲しげだった。ヤツは俺のそばに歩み寄り、膝をついて座り込むと、焦げた魔法陣の上に置かれた俺の小さな手をそっと包み込んだ。
「あまり気を落とさないでください。魔法がすべてではありません。剣術や体術といったものもありますから……」
セストの目には、俺が『魔力を一滴たりとも放出できない可哀想な子供』として映っているのだ。
俺は答える代わりに、うつむいてみせた。
(フッ、同情を誘うこの物憂げな演技……我ながら10点満点中8点ってところだな。もう少し眉間にシワを寄せて哀愁を漂わせれば完璧だったか)
セストの手から温もりが伝わってきたが、俺の内側は冷え切っていくようだった。
放出はできてるんだよ、このポンコツども……術式が耐えられないだけだっての……。
だが、まだ1歳にすぎない赤ん坊が、こんな高等魔法理論を説明する術はない。もし説明できたとしても、信じてもらえるわけがないしな。
それに、剣術なんて元の世界とたいして変わらないだろうし。
……待てよ。セストの言う通り、強くなる方法が魔法だけってわけじゃない。セストが普段、ほうきで掃除する時に使ってるアレ……『魔力運用』があるじゃないか!
魔力の質が高すぎて魔法が使えないなら、魔力そのものを武器にすりゃいいだけの話だろ!
俺は希望を抱いて、もう一度手を持ち上げた。そして、指先から魔力を放出する。
体の外へと抜け出した魔力を、体と繋ぎ合わせて……動かす!
ウウゥン。目の前にある古書が一冊、ふわりと浮かび上がる。
よしっ! 成功だ!
数秒後、魔力運用を止めると、古書は再び床に落ちた。
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隣で見守っていたセストの目が、飛び出さんばかりに見開かれた。ヤツは普段の沈着冷静な執事長らしい面影はどこへやら、口をポカンと開けたまま固まってしまっている。
「……ぼ、坊ちゃま? 今のは一体……?」
セストは床に落ちた古書と俺の手を交互に見たかと思うと、突然俺をガシッと抱え上げた。
「シュ、シュタイクト様!! 当主様!! こんなことをしている場合ではありません!!」
セストは俺を小脇に抱え、再び当主の部屋へと全力疾走した。部屋に到着するなり、ヤツは足でドアをバンッと蹴り開けた。
「当主様!!! ルヒグ坊ちゃまが魔力運用をなさいました!! 生後1年の赤ん坊が、物を宙に浮かせたのですよ!!」
部屋の中で、先ほどの口論の余波で頭を掻きむしっていた親父――シュタイクトが、ビクッと驚いて立ち上がった。
「はあ? セスト、お前正気か? 魔力運用だなんて、そいつは剣士や上級魔法使いが使うような高等技術だろうが!」
「この目でしかと見ました! 古書が空中にフワッと浮いたのです!」
二人の男は俺を真ん中に置いて、再び指を差しながら言い争いを始めた。魔力運用ってそんなにすげぇのか? セストは毎朝の掃除の時、ほうきを5、6本いっぺんに浮かせてやってるから、てっきりこの世界のごくありふれた技術だと思ってたんだが。
俺はこの状況にただ戸惑うばかりだった。『いや、みんなしてどうしたんだ? そんなに驚くことかよ?』と思いながら、無意識のうちに手を伸ばしていた。
俺の視線が止まったのは、親父の机の上に置かれていた重厚な水晶のインク瓶だった。さっき図書室でやった時の感覚を呼び起こし、魔力を伸ばす。
フワッ。
「……?!」
「……!!!」
言い争っていた二人の首が、同時にインク瓶へと向けられた。水晶のインク瓶は俺の手の動きに合わせて空中でゆっくりと回転し、親父の鼻先まで浮かび上がった。
「お……おおっ?」
親父は魂が抜けたような顔でインク瓶を見つめ、セストは感極まった様子で「ご覧ください! 私が申し上げた通りではありませんか!」と叫び声を上げた。俺はそこではじめて空気が妙なことに気づき、魔力を引っ込めた。
インク瓶が机の上にコトンと落ちる。
(ふむ、無言で圧倒的な力を誇示するミステリアスな赤ん坊……このクールな演出、10点中9点は堅いな)
それと同時に、全身から力が抜け落ちていくような感覚に襲われた。そして、その後のことはよく覚えていない。
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うーん……。
寝てたのか? 生まれて初めて味わう感覚だったぜ。これが『魔力枯渇』ってやつみたいだな。
だが、たった2回使っただけで魔力枯渇とは……。まあ、今の俺の魔力総量は『黄色』だったからな。
そのうち成長するだろうし、気にすることはないか?
それにしても、魔力運用について調べてみないとな。
図書室の隅で『魔力について:魔力運用』という本を見つけ、ページを開く。そして俺は、すぐに自分の勘違いに気がついた。
[魔力運用の難易度
一般的な魔法が術式という決められた器に魔力を注いで結果を得るのに対し、魔力運用は魔力そのものを己の意志のみで直接制御するものである。
これは魔力感応力と精神力が極限に達してはじめて可能となる高等技術である。術式という補助装置なしに魔力を外部へ放出し、形態を維持すること自体に、極めて高い魔力の質と濃度が要求されるためだ。]
……言ってることはなんとなく分かるが、それならセストのヤツ、一体何者なんだよ?
ま、とにかく、魔法よりこっちの方が俺の性に合ってるのかもしれないな。




