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《ここまでの話》
喫茶Paradisoから姿を消した黒猫レヴナントを探していると、今度は飼い主のサキがいなくなった。
黒人の、声帯が無い、ろう者の霊能力者のおばあさん「ミセス・ウィークエンド」は、サキは生霊に憑かれていて、「向こうの世界」に連れて行かれたという。
“つながり”で出来たこの世界の裏側には、もうひとつの世界がある。
“つながり”を失ったものがたどり着く世界。
ツムギはケイと共にサキを追って、その世界を目指す。
主な登場人物
・ツムギ(私)
Y市の高校一年生。新作ゲームにうつつを抜かし、年末の中間テストで散々な結果を残した。
・ケイ(長良 景子)
Y市の高校一年生。「私」のクラスメイト。くせ毛気味の黒髪ショートヘア。ちっこい。いつもやる気の無いジト目と平坦な声をしていて、何を考えているのか分かりづらい。“誤ったつながり”が見え、ミセス・ウィークエンドの下でアルバイトをしている。
・サキ
Y市の高校一年生。「私」たちのひとつ隣のクラス。良く下校時に二人に置いていかれる。長い金髪をポニーテールにしている。スラッとしていて、朗らかな笑顔と目の持ち主でクラスの人気者。喫茶店Paradisoの店主の娘で、忙しい時は店の手伝いをする。喫茶店で黒猫レヴナントを飼っている。絶賛、行方不明中。
私はケイと一緒に電車に乗って、再びK街へ戻ってきた。このK駅の改札を、私は昨日今日で何度通ったのだろう。私は少しうんざりしながら改札を通り、駅前の歩道橋を渡った。喫茶Paradisoはもう目の前だ。
道中、黒猫レヴナントは恐ろしく静かだった。彼はケイが持つ大きな藤のバッグの縁から顔だけをひょっこり出して、辺りを観察していた。道行く人々が時々それに気が付き、すれ違い際に嬉しそうな声を上げて彼の頭を撫でた。
その人種は様々だった。中年のおばさんや私たちと同じ年頃の女の子たち――それから昼休憩中らしき、スーツ姿のOLさんたち。電車の中では二人の小さな子どもが駆け寄ってきて、遅れてこちらにやってきたその両親と一緒に黒猫を愛でていた。
多くの人の目に触れ、一躍人気者と化した自らの状況を、黒猫レヴナントは冷静に受け止めていた。鳴き声ひとつ上げず、身じろぎもしなかった。
彼は自らに与えられたその小さなテリトリーの内側で律儀にルールを守っていた。伸ばされた手に向かって、額や頬をこすりつける仕草さえ見せた。
ケイはこうして誰かがレヴナントに魅了される度に、ジト目を幾ばくか柔らかくして気の利いた一言を投げかけた。
「K街の喫茶Paradisoをよろしく」
この様子を隣で見ていた私は、先月のParadisoの悲惨な売上を思い出した。初めから彼にParadisoの広報を任せていれば良かったのだ。こんなに単純な答えはない。
宣伝に最適な人材と手法――それは他でもない、店で飼われた一匹の黒猫。彼に活躍の場を与えてやる事だったのだ。
このように、思いもよらず店の知名度を少しばかり上げながらも、私たちは喫茶Paradisoにたどり着いた。
通常営業だった。入口の重たいドアが立てる悲鳴に歓迎されながら店内に入ると、サキちゃんがいた。窓際の席からこちらに向かって、ちぎれんばかりに大きく手を降っている。
同じ席にはミセス・ウィークエンドもいて、メロンフロートを飲んでいた。
他の席には(当然のように)誰もいなかった。私が早足で駆け寄ると、サキちゃんが奇妙な掛け声と共にハイタッチを要求してきたので、それに応えるように私は両手を掲げた。
ぱちんと小気味良い音が力強く鳴り響く。私は全てが終わった事を悟った。
私が感極まりながら振り返ると、緩慢な動作でのらりくらりとこちらにやって来るケイがいた。丁度良かったので、私が同じ要領で両手をリクエストすると、彼女は力強いジト目でこちらを見ながら両手を持ち上げた。私が奇妙な掛け声でハイタッチすると、「……このノリ、何?」とケイが疑問を呈した。
私はそれを無視して、サキちゃんの隣に座った。ケイは遠慮がちにミセスウィークエンドの隣に座った、するとミセス・ウィークエンドは突然にっこりと笑い、ケイの頭をくしゃくしゃにして思い切り抱きしめた。
しばらく二人がそんな風にしているのを見ていると、ケイの足元に置いた藤のバッグから黒猫レヴナントがぴょんと跳ね、テーブルの上に乗った。
サキちゃんは大袈裟に泣き喚きながら彼の身体を抱き寄せ、良く分からない言葉未満の言葉をうわ言のように並べだす。
しばらくすると、今度は私やケイに向かって、感謝の言葉を送りだした。およそ解読不能な、未知の言語を相手取っているような気分だった。
それでも何とか感謝の意を汲み取れたのは、我々が今日までやってきた基礎研究の賜であると言える。あらゆる複雑な事態にこそ、基礎は息づく――これをもって喫茶Paradisoは、すっかり元通りになった。
感動の再会が終わると、サキちゃんとミセス・ウィークエンドは手話で会話をした。サキちゃんは笑ったり驚いたりしながら、しばらく二人だけの会話を続けた。やがてサキちゃんはケイを見て驚いた。
「初耳だあ! ケイってバイトやってたんだ?」
どうやら手話でケイの話が持ち上がったようだった。
「なんで言ってくれなかったのさ!?」
サキちゃんがそう追求すると。ケイは視線だけを器用に外に泳がせた。少し気の毒だったので、私は興奮するサキちゃんをなだめた。
「まあまあ、仕方なかったんだよ。色々あって、言うタイミングが合わなかったんだってさ」
私がそう言うと、サキちゃんは私に視線を合わせた。何だか今にも何かを言い出しそうだった。
まずいな、と思った。次は私の番だ。助けを求めるように私はミセス・ウィークエンドを見た。
彼女はにっこりと笑って深く頷いた。それはひとつの符丁だった。私は少し迷ったが頷いて、全てをサキちゃんに話す事にした。
長い話になった。どこから話していいか分からなかったので、初めから全部話した。時々ケイが私の不十分な説明に補足を入れ、ついでに入れなくてもいい茶々をねじ込んできた。
私はその度に彼女を咎め、話が散らかってしまわないよう軌道修正を試みるはめになった。
話の途中、何度かサキちゃんの耳から大量の湯気が放出されるのが観測された。明らかにキャパオーバーを起こしていた。入力される情報量が、彼女の脳の処理速度を上回ってしまったのだ。白目を剥いていないだけマシだった。
私が心配しながら時々、「大丈夫?」とか「ここまでは良い?」とかの確認を入れると、「はい」という恐ろしく無機質な返事がやってきた。そんなでも続けざるをえなかったので、最後までやり遂げる事にした。
私が全てを話し終わると、サキちゃんはたっぷり5分近く静止していた。若干、間抜けな笑顔のまま。どこか虚空を見据えながら。それからようやく情報の処理が終わったのか、サキちゃんはぽつりと感想を述べた。
「なんか、すごいと思った」
サキちゃんは続けて述懐する。
「あたしたちの住む世界が上手く回っているのは、本当はすごいことなんだな、と思いました」
こんなにひどい感想に触れたのは久しぶりだった。まるで小学生の頃に無理やり書かされた読書感想文のようだった。
それでも私はサキちゃんの言葉に共感を覚えざるを得なかった。なにせ私も似たような感じになったから。
私がしみじみ思っていると、オーバーフロー状態から正常に戻りつつあったサキちゃんが「っていうか」と言った。
「え、じゃああたし本当に呪われてたって事……?」
私は「そういう事みたい」と言った。
「正確には生霊に取り憑かれてた、的な?」
「なにそれうける」
彼女は頭を抱えてうずくまってしまう。
無理もない話だった。自分が同じ状況になったら、気味が悪くて仕方がない。私はサキちゃんの背中をさすりながら言った。
「でももう終わったんだよ。そうでしょ?」
私は苦笑いを浮かべてケイを見た。彼女は何も言わずミセス・ウィークエンドを指さした。
ミセス・ウィークエンドはフロートを食べている最中だった。彼女は口をもごもごさせながら私を見返し、すぐにスマホを取り出してグループラインにこう文章を送った。
【まずは何事も無くこちらに戻ってこれた事を祝福しますよ! おめでとうございます。特にツムギさん。私の見込んだ通り、あなたは短い時間で大きな仕事を成し遂げましたね!】
ミセス・ウィークエンドは満面の笑みで拍手をした。イカした指笛すら飛んできた。隣にいたケイもそれに同調して、ニヤニヤしながら拍手を送ってくる。
いつの間にか復帰していたサキちゃんも私に向けて勢いよく拍手していた。
私は何やらムズムズした。どうして良いか分からなくなったので、グループラインに【よせやい】と送って、右手で小さくピースを作ってみせた。
それを見たミセス・ウィークエンドはまた大きな拍手をしてから、メッセージを追加した。
【色々と聞きたい事もあるでしょうが、今は皆さんの無事を讃えましょう。サキさんに“誤ってつながって”いた生霊もすっかり取り除くことが出来ました。今だから伝えますが、私は以前行った儀式同様、今回も何かを失うんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていました。ですが、ご覧なさい! 無事です! 神様に感謝しなくてはなりませんね】
私は顔を上げてミセス・ウィークエンドを見た。自然と笑顔が溢れた。そんな私を見た彼女はまたゆっくりと深く頷いた。私が彼女の目を覗き込むと、ミセス・ウィークエンドは目を伏せてスマホに向けて文章を打ち出した。
【灰色の世界についてや、あの世界で経験したこと、それから今まで私が話してきた事――それら全てを今すぐに忘れなさい、とは言いません。
どうせ無理な話でしょう? ただ意識の外に置いておいてください。それだけで構いません。
水や空気みたいなものです。この世界にありふれた、単なる構成要素のひとつ、そう思ってくださいな。
どんなに時間がかかっても構いません。
そしてこれだけは約束して下さい。決してアレを深く見つめないこと。そしてどんなに興味深かろうとも、決して足を踏み入れようなんて考えないこと。いいですね? ケイさん、あなたにも同じことが言えますよ?】
「まじか」と、ケイが苦い顔をする。
【私はいくつもの過ちを犯してきました。人間、何かひどい目に遭わないとなかなか改心出来ないものですね。私も今回のことで多くの事を学ばせてもらいました。
この物語から得た教訓はこうです。
「アルバイト、長良景子は今日を持ってクビです。今までご苦労さまでした。そして二度と我が社に顔を出さないようにしてもらいたい」
――そういう事ですので、それでは】
ミセス・ウィークエンドはケイに向かって手の平を首元でぶんぶんやる。「クビ」のジェスチャーだった。「げ」と、ケイが声を上げる。
ミセス・ウィークエンドは微笑んでから、また彼女の頭をぐしゃぐしゃやった。それが済むと彼女は立ち上がり、出口へと向かっていった。
立ち去り際に彼女は一度だけ振り返り、サキちゃんに手話で何かを伝えた。それが終わると彼女は店を出ていってしまった。店内にはドアが奏でる、悲しみに満ちた音だけが残った。私はミセス・ウイークエンドのセーターのデザイン、ソラールさんの太陽を思い起こしながら、「太陽万歳」と、小さく呟いた。
ミセス・ウィークエンドが店からいなくなると、見計らったように店主さんがやってきて、私たちの席にカフェオレを並べた。
相変わらず何も言葉は無かった。サキちゃんが代わりに「これ、お店からのおごりだってさ!」と彼の気持ちを代弁する。私たちはお礼を言って自分の分を取り、カフェオレをすすった。
「あのばあさん、ホントは最初から知ってたのかな」
ケイが独りごちるように、コーヒーカップに向かって言った。彼女は大量の砂糖をカフェオレに流し入れ、飽和するギリギリのラインまでそれを続けた。そうやって甘みで満たされたカフェオレを、ケイはスプーンで退屈そうにかき混ぜた。
「わたしが“アルバイト”だってこと」
私は何も言わなかった。サキちゃんも同じだった。私は気を紛らわす為に、サキちゃんに訊ねた。
「ミセス・ウィークエンド、最後に何て言ってたの?」
「……秘密!」
会話はそこで途切れてしまった。
私たちが沈痛の面持ちを並べていると、店内にBGMがかかった。ノラ・ジョーンズの『サンライズ』だった。冬の朝一番、窓を開けると入り込んでくる、無愛想な温かみのある、冷たいそよ風のような歌声が店内を満たした。
スマホを見ると、いつの間にか私たち4人のグループラインからミセス・ウィークエンドが退出していた。彼女個人のものは健在だった。
けど恐らく連絡は取れないのだろう。彼女は過ぎ去ってしまったのだ。
結局、ミセス・ウィークエンドの事は分からない事だらけだった。
ケイの疑問や、サキちゃんに最後にかけた言葉も――その他もろもろ、不明瞭な点が多すぎた。
何もかもが終わった今、この2週間に起きた事でさえ、本当のことだったのか疑わしい事ばかりだった。
本当は生霊など初めから存在せず、“向こうの世界”と“つながり”なんてシステムもデタラメで、ケイのバイトも……交通量調査か何かだったのかもしれない。
燈火岬で釣りをしたのは三人が気まぐれに思いついた単なるレジャーだし、N東公園でペットボトル・ロケットを打ち上げたのも同じく遊びの一環、ニトリで恥ずかしい思いをさせられたのも夢だったのかもしれない。そんな気がした。
夢。その単語から私は、夢の中で出会った緑色の発光体の事を連想した。あの夢と同じことが灰色の世界で繰り返された。
夢はもうひとつある。ニトリに行った日に見たもの。そしてそれは――ある予感がよぎった。
私は再び心の中で祈った。何故かは分からない。そうする必要がある、そう思った。世の中、意味が分からなくても、やらなくてはならない事があるのだ。
私は祈った。サキちゃんがもう二度と妙な事に巻き込まれないことを。ケイがあんな危ない世界にもう足を踏み入れないことを。そしてミセス・ウィークエンドのことを。
――それから、どこかにいるはずの、悲しみに押しつぶされた誰かの無事を。
参考資料
・Pat Metheny「From This Place」,2020年
・くるり「There is (always light)」,2014年




