喫茶Paradiso
喫茶paradisoの店内は、案の定がらんとしていた。お客さんは私たちだけ。店内に足を踏み入れると、床材がいちいち軋んで痛々しい。扉が閉まる物々しい音が背後から聞こえた――来店と退店を告げるベルの代わり。この喫茶店は大抵このようにして、私たちを歓迎してくれる。どうやってこの喫茶店が今日今日まで存続するに至ったのかは、ちっとも分からない。
入口前のカウンターの中から、店主さんが私たちに会釈する。店主さんは無口で、私は彼の声を一度として聞いたことがなかった。私とケイが「こんにちは」とあいさつをすると、店主さんは黙って頷いた。そんな彼を横目に、私たちは窓際にある四人がけのテーブル席に向かう。いつもの指定席。腰を下ろして早々に私はホット・カフェラテを注文した。ケイも同じものだった。
注文したものがやってくる間、私は何ともなしに、真新しいカウンター席とテーブル席が配置された、隅の一角を見つめていた。そこは最近改装された箇所で、やはり何度見ても違和感があった。他の古くガタの来ている、従来の調度品とのバランスが取れていない気がしてならない。
「やっぱりあの辺、浮いてるよね」
私が小さく感想を漏らすと、ケイも同じ場所を見て「確かに」と同調した。
「なんかさ、例えるなら――100年続く老舗の秘伝のタレに、そこら辺で買ってきたシーザーサラダ・ドレッシング、混ぜたような感じ」
――同意見だった。
やがて店主さんが飲み物を持ってきてくれた。ケイはすぐにテーブル脇に備えてある砂糖を自分のカフェラテに入れた。ものすごい量だったが、もはや私はそれを見ても何の感想も抱かなかった。目の前で繰り広げられる日常を気にも留めず、私は窓の外の景色を見ながらカフェラテを一口飲んだ。
窓からは往来を行く人々が見えた。私たちと同じY高校の生徒もちらほらいる。やがてK駅の方へと消えていく人の流れを意味も無く目で追いながら、私は店内に流れる音楽に耳を傾けた。ノラ・ジョーンズの『セブン・イヤーズ』だった。葉が落ちて丸腰になった梢を柔らかく撫でる、冬の北風のような歌声だった。私は心地よい肌寒さを感じながら温かいカフェオレを楽しんだ。
「そういやさ、サキの誕プレ、何にするか決めた?」
ケイが私と同じように窓の外を眺めながら言った。文章を短く切って、それを接ぎ木したような口調。私は視線を動かさず、窓枠に話しかけるように「そっか」と相づちを打った。
「もうすぐだったね、サキちゃんの誕生日」
「12月16日、日曜」
「今日が4日だから、あと二週間かぁ――まだ考え中なんだよね。ケイはもう何にするか決めたの?」
「決めたよ」
「何?」
「肩たたき券」
「わお」
「5回分の無料券。あと6回目から10回目にかけて30%OFFになるクーポンのおまけ付き」
「使用期限は?」
「半年間。来年の6月末まで」
「そいつはすごいや」
恐れ入った私は、全く表情を変えずにカフェオレを飲んだ。その時、入り口の扉が開く音と「あ!」と何かを見咎めるような声が同時に聞こえた。
「また二人で下校してるし!」
サキちゃんだった。彼女は何やら物申しながら、ずかずかとこちらにやってくる。
「ここ寄るんなら声かけてよ! どうせあたしも“ここ”に帰ってくるんだからさぁ!」
彼女は朗らかな長い金色のポニーテールを右に左に揺らしながら批難した。
「そっちのホームルーム終わったら廊下で待っててよぉ! あたしのクラス、二人のすぐ隣なんだから、そんなにメンドーでもないじゃん。っていうか、このやり取り何回目!? 今までで、70回くらい言ってるのでは!? ってことはこれ71回目だよ!?」
サキちゃんはコロコロと表情を変えながら、身振り手振りを交えて異議を申し立てた。私は「ごめんね!」と平謝りする。その一方で、ケイは茶化した。
「72回目にはさ、年老いた忠臣の“どやしつけ”みたいな感じでよろしく。愚鈍だけど根は真っすぐな我が主をほっとけないやつ的な」
サキちゃんは、ぎゅっと固く目を閉ざして「殿!」とだけ叫んだ。
言うだけ言って満足したのか、サキちゃんは大きくため息をついて矛を収めた。それから周囲を見渡した後、店主さんのいるカウンターの中に入っていく。
Paradisoはサキちゃんの家族が経営している。さっきから一言もしゃべらずにカウンターの向こうで洗い物をしたり、じっと壁掛けの時計を見つめたり、小さく咳払いをしながらキャンパス・ノートに何かを認めたりしている店主さん――彼がサキちゃんのお父さんだ。普段は無口だが、家族だけの空間では誰よりもしゃべり続けるらしい。
サキちゃんはその“おしゃべりな”店主さんに「ただいま!」と声をかける。それから戸棚を開け、カップとソーサーを取り出してスタッフ用の作り置きコーヒーを注ぐと、そのままこちらに戻ってきてケイの隣に座った。
私はこの一連の流れを見るのが好きだった。というより、サキちゃんが動いているのを見るのが楽しかった。見ていて何だかほっこりする。一番気に入っているのは、店の手伝いをしている時の彼女だった。この喫茶店は時々(偶然、とも言う)、人で賑わう事がある。そういう時、サキちゃんは店を手伝う。そうして忙しそうに店を飛び回るサキちゃんを、私はつい目で追ってしまう。
彼女はしばしば、どことなく演技じみた動作をした。その清々しい、ちょっと強調された動きや言葉遣いが、きっと私の興味を惹くのだろう。おまけに“若干”プロポーションも良く、店の制服である黒いシャツとの相乗効果でかっこ良く見える。それは私のトイメンに座るちっこい無愛想なちんちくりんや、色んな方面に無頓着で究極的に地味な私自身と比べると、一層印象深く見えた。
「ん、そうだった」とサキちゃんはコーヒーカップを傾けながら言った。
「先月は二人ともありがとね! テスト週間入っちゃって、言い忘れちゃってた。お陰で店の傾き具合も、ちょっとマシな角度になったみたい!」
私はそのあんまりな言い様に思わず苦笑いして言った。
「友達だけじゃなくて、お母さんにもサキちゃんの店のこと言ったんだ。そしたらすごい勢いで広めてくれたんだ。近所の友達と、町内会の知り合いと、あとテニス仲間と、パート先と――とにかくたくさんの人に声かけてくれたんだ。多分、その中の何人かがここに来てくれたんだね」
「そうみたい! やっぱり主婦の“つながり”って凄いね! 合言葉も何回か聞いたよ」
サキちゃんはそう言って、思い切りテーブルに身を乗り出した。
11月の中頃、私とケイはお願い事をされた。話は非常にシンプルで、「この喫茶店、今月の売上終わってるから助けて」というものだった。で、私は店の宣伝、ケイは主にネットの口コミの印象操作を行った。
サキちゃんは口コミの件については未だに知らない。私でさえ、その裏工作の事を知ったのは最近だった。サキちゃんはその手の盤外戦術に乗り気ではなかった。実際、ケイがはじめの段階でこの提案をした時、却下されている。しかしケイは実行した。怪しまれないよう投稿タイミングやその文体、分量、投稿数、それから星の数のバランス――これらに細心の注意を払いつつ、彼女は少しずつ店の話題性が上がるような投稿を繰り返した。話題にさえなってしまえば、ある程度の客の流れが出来上がる。思い切りの繁盛ではない、程良い塩梅。それが狙うべき落とし所。そしてケイはほとんど完璧にやり遂げた。
私は口頭による宣伝を担当した。クラスメイトや家族、違う高校に行った中学時代の友達なんかに、この喫茶店がいかに素晴らしいかを説いた。会計時に「優待あります」という合言葉を言うと割引がある、という特典付きで。
……今思うと、地味過ぎる活動だった。だがこの活動の甲斐も少しはあったようだ……あるいは偶然、客足が月の後半に偏っただけなのかもしれないけど。
「――ってかさ」と、ケイがだしぬけに言った。
「今更だけどさ、なんで自分のクラスで宣伝しなかったのさ。サキ、そっちのクラスじゃ人気者じゃんね。未だにこの店の事、何も言ってないの?」
「そだね。言ったこと無いね」
サキちゃんはけろっとした様子でそう答えた。こんな調子でギリギリの運営を続けているにも関わらず、サキちゃんはParadisoの事も、自分の父親がこの店をやっている事も、クラスの誰にも言っていないらしい。それを受けてケイが当然の疑問を口にした。
「言ったら皆、来てくれるんじゃん?」
「んとねえ。まあ、最初はそうしようと思ったんだよね。でも色々考えてやめたんだ」
私が反射的に「なんで?」と聞くと、サキちゃんは笑った。
「だって、ここにクラスメイトの皆がめっちゃ来るようになったら、忙しくなっちゃうもん。お店手伝う時間も増えちゃうし、色んな席から呼び止められちゃうし――それはそれで楽しいけど、何か違うんだよね。今みたいに二人と話せなくなるし――ちっとも面白くない!」
そう言って彼女は残った残りのコーヒーを一息に飲み干し、最後にこう締めくくった。
「ここでは二人と一緒にいたいんだ!」
……サキちゃんは時々、“作り物”みたいな言葉選びをする。朝ドラのドラマチックな場面のような眩しい台詞回し――ケイはその強力な光属性の力をまざまざと見せつけられ、いつも以上のジト目で硬直していた。私は単純にむず痒くなって、全身がそわそわし出した。
サキちゃんは私たちの反応を見て、にやにやしている。彼女はわざとらしく咳払いをした。
「こほん。あたしたちは今、ようやく一つの結論にたどり着いたようです。つまりは何とも不思議な事に、この店は一定の角度以上に、常に傾いている必要があるのです。最新の研究によると、11月の中頃を30度くらいの傾斜角と仮定しますと、だいたい10度から15度くらいの傾きを維持するのが理想でしょう!」
参考資料
・Pat Metheny「From This Place」,2020年
・くるり「There is (always light)」,2014年