駅前のバルコニー
《ここまでの話》
黒猫レヴナントが喫茶Paradisoから姿を消した。
偶然出会った黒人の、声帯が無い、ろう者のおばあさん、「ミセス・ウィークエンド」の占いに従って、「私」たちは猫を探し始める。
魚釣り、ペットボトル・ロケットの打ち上げ、ニトリでのバグ技じみた行為――色々あった末、占いが示す「すべき事」はこれで完遂した。
黒猫は見つかるのか。そして端々で見え隠れする、ミセス・ウィークエンドの本当の姿とは。
主な登場人物
・ツムギ(私)
Y市の高校一年生。新作ゲームにうつつを抜かし、年末の中間テストで散々な結果を残した。
・ケイ(長良 景子)
Y市の高校一年生。「私」のクラスメイト。くせ毛気味の黒髪ショートヘア。ちっこい。いつもやる気の無いジト目と平坦な声をしていて、何を考えているのか分かりづらい。
・サキ
Y市の高校一年生。「私」たちのひとつ隣のクラス。良く下校時に二人に置いていかれる。長い金髪をポニーテールにしている。スラッとしていて、朗らかな笑顔と目の持ち主でクラスの人気者。喫茶店Paradisoの店主の娘で、忙しい時は店の手伝いをする。喫茶店で黒猫レヴナントを飼っている。
帰宅してすぐに私はお風呂に入った。何も考えずに湯船にたっぷり30分は浸かり、その暖かさが過ぎてしまわぬうちに着替えを済ます。
灰色のズボンと茶色のパーカー、フード付きのカーキ色の中綿ジャケット。トドメとばかりに、手袋と大量のホッカイロも用意した。
私は自分の格好で怪しまれないよう、ノースフェイスの黒のリュックサックにそれを詰め込んだ。
ボリューム不足だったので、追加でタオルやら何やらを突っ込み、いかにも着替えが入ってそうな演出をした。
階下に降りると、会社から帰ってきてビールを楽しんでいたお父さんに、仕事で使うモバイルバッテリーを貸してもらった。
充電は充分だった。私が家を出ようとすると、玄関でお母さんが「くれぐれも迷惑をかけないように」という、紋切り型の言葉をかけた。私は頷いて「行ってきます」と言った。
20分かけてまたK街に戻った私は、スマホで時計を確認した。9時だった。
駅前のコンビニでツナ・マヨネーズと鮭のおにぎり、ホットの緑茶を買う。レジカウンターでそれをリュックに入れて商店街に向かった。
喫茶Paradisoとサキちゃんの自宅が入っている雑居ビル前に着くと、私はどこに「陣取る」べきか辺りを見渡した。
道路を挟んだ向かい側、ちょうどドラッグストアのすぐ脇に、青い柵の折り返し階段付きの雑居ビルがあった。ピッタリの位置だった。
私はそのビルの階段を上がり、3階の踊り場で立ち止まった。
3階は高い位置にある。道路からはわざわざ見上げないとならない。ここなら道行く人達に怪訝な目を向けられる心配も恐らくない。
向かいに喫茶Pradisoの窓が見えた。営業時間は午後8時までなので、店内は真っ暗だった。
中を窺い知ることはできない。その下を見ると雑居ビルの入口と、路面に少しはみ出す形で「猫ちぐら」が置いてあるのが見えた。
私はリュックを下ろしてフードをかぶった。それからリュックを開けてホッカイロをふたつ取り出した。
封を開ける時のビニールが擦れあう音が無性に気になった。少しの物音にも敏感になってしまう。
私はなるべく知らないフリを決め込みながら、ホッカイロを上着の左右のポケットにひとつずつ滑り込ませた。
それと入れ替わりでポケットに入れていたケースからAirPodsのイヤホンを取り出して両耳に付け、ランダム再生をオンにした。
これで準備はオーケー。後はあの眼下に見える雑居ビルの入口に、サキちゃんの姿が認められなければ良いのだ。
これが今の私に出来る精一杯の行動だった。こうして一晩をサキちゃんの監視にあてる事。凡人の私が、ミセス・ウィークエンドの助力になれるとは到底思えない。
何なら余計な情報を与えて、彼女を混乱させてしまう自信すらあった。そっちの事はミセス・ウィークエンドと、今も痕跡とやらを辿って調査を続けてくれているアルバイトさんに任せるべきだ。二人ならきっと上手くやってくれる。
私はLINEで、ミセス・ウィークエンドにメッセージを送った。調査の進捗具合が気になったのだ。それが済み、温かいお茶を一口飲むと、まるで見知らぬ土地に潜り込んだ気分になった。
私は雑居ビルの入口から目を離さないようにしながら、YouTubeで様々な動画を垂れ流した。
くりぃむしちゅーのオールナイト・ニッポンのバックナンバー。
Apex Legendsの立ち回り講座の動画を3種類。
スタイリッシュ・ヌーブの切り抜き動画。
ウメハラの公演動画。
ゆっくり解説動画
――画面を直接見れないので、なるべく音だけでも楽しめそうな物を選んだ。
私はいくつかの動画を聴きながら、サキちゃんの事について考えた。
一緒にゲームをすると、いつも賑やかし役を買って出てくれるサキちゃん。ボイチャ越しに彼女の歓声や悲鳴を聞きながらゲームをするのは楽しかった。
特にケイは対戦ゲーをやると、しばしば物言わぬ殺人マシーンのようなプレイをする。それと比較すると、余計にサキちゃんのリアクションは際立った。
普段の生活でもそうだ。彼女無しの高校生活は想像ができなかった。
サキちゃんと出会ったのは今年の5月の事だった。
あれは何の時だったかな? 私は思い出そうとした。話すようになったのは、ほんの些細な機会からだったと思う。
……そうだ、ケイと一緒にParadisoに入ったのがきっかけだ。
下校途中に、ふとあの入口の急階段が目に入って、子供心をくすぐられたケイが入ってみようと言い出したのだ。きまぐれに、ちょっとした冒険をしてみたくなった私はそれに乗っかり、そこでサキちゃんが働いているのを見たのだ。
当時私は、働く彼女の立ち振舞いにひどく感銘を受けたのを覚えている。それをケイに茶化されたのも――
翌日、隣のクラスで教室じゅうの注目の的になっている彼女を入口から見たときは、思わず二度見してしまった。同じ高校で、しかも同学年だとはまったく考えていなかった。
年上だと勝手に思っていた。私は自分では気がついていなかったが、どうしてこんなに自分と違うのか、という旨の言葉をぽつりと漏らしたらしい。
隣りにいたケイがそれを聞いて、例の不気味な怪鳥の鳴き声で笑い出した。周囲の人たちがざわめき、漏れなくこちらに不審の目を向けてきた。
私が笑い崩れるケイの背中を押しながらそそくさと退散しようとした時、サキちゃんが教室から飛び出してきて、私達の背中に向かって言ったのだ。
「お昼休み、また来てよ!」
ケイの不吉な笑い声が、サキちゃんの中のどの部分に響いたのかは今でも分からない。
……とにかくそういう事になった。で、それから私たちはしょっちゅう“つるむ”ようになった。それが始まりだった。
小さなくしゃみがひとつ出た。数時間ぶりにスマホをポケットから取り出して時間を見る。12時20分。ミセス・ウィークエンドからの返事は来ていなかった。私はシャケのおにぎりを頬張り、緑茶でそれを流し込んだ。ポケットに手を突っ込むと、ぬるくなったホッカイロに手が触れた。
ダメになるの早くない? どうやら外れを引いたっぽかった。私はリュックの中からまたカイロを取り出して、よく振ってからその不良品と入れ替えた。
夜が更けて闇が一層深くなった。それでも路上は明るかった。歩道を間隙無く照らし続ける商店街の街頭のおかげだった。
これならビルの入口もしっかり見える。歩道ではスーツを着た男性や大学生のような風貌の人物が歩いていて、冷たい夜の街に乾いた靴音を一定の間隔で響かせながら通りを横切っていった。
長い時間私はここでじっとしていたが、階段を利用する人間は一人もいなかった。本当にここは利用されているのだろうか。
振り向くと玄関扉があった。一つ上の階にも同じものがある事を、私は登ってくる途中で把握していた。
私が知る限り、どちらも一度も開いていない。扉は頑固な強面の軍人のようにその口を閉ざし続け、いるかどうかも分からない主の帰りを待っていた。
私は扉に付いている小さな新聞受けの隙間から誰かが覗き込んでいる想像をした。本当にそうだったらどうしようと思ったが、全くそんな気配はしなかった。
私はスマホを操作して、できるだけ明るい曲を探してかけた。“ポケモン歴代道路BGMメドレー”がYouTubeにあったので、それでやり過ごすことにした。
しばらくしてまたスマホを確認すると、2時半だった。私はシャケおにぎりを頬張った。緑茶はもう残っていなかった。食べ終わるとLINEを開いてメッセージを確認する。ミセス・ウィークエンドからの返事はない。
そもそもまだ既読すらついていなかった。私はサキちゃんに電話することにした。
長い発信メロディが流れ続けた後、ようやくサキちゃんが電話に出た。
「うえぇ、なに? ん何のようぅ?」
……ふにゃふにゃだった。電話口からごそごそと音が聞こえる。寝ていた彼女がベッドの上で半身を起こしたらしい音。私は、いの一番に謝った。
「ホントにごめん、こんな夜遅くに――」
「うえぇ、なに? ん何のようぅ?」
……再放送だった。そして電話をかけておいて何だけど、私は何を話すべきか考えていなかった。
ただ無事を確認したいだけ。見切り発車の早計なやり口の為に、何か要件をでっちあげなくてはならかった。
私はよっぽど、うるせえこっちだって眠いんじゃ。こちとら心配で一苦労かけとるんじゃい、と、慣れない方言で言いたい気持ちを抑えた。
「体調は大丈夫?」
「え~~~~と……う~ん、だいじょぶだぁよぉ」
ぐにゃぐにゃだった。
「ホントに大した用事じゃないんだ。夜中目が覚めて、それで心配で電話かけちゃって。ごめんごめん」
「あぁりがとぅ。心配のラインはねぇ~、友達からぁ、たくさん来たんだけどさぁ~、電話くれたのツムギとケイだけだぁよぉう――」
長い沈黙があった。それから突然彼女は歌い出した。
「しぃ~んぱぁ~い無いかぁねぇ~」
KANの「愛は勝つ」だった。ニトリでの一件を思い出して顔が赤くなる。
気が付いた時には電話を切っていた。すぐにメッセージで「夜更けに本当ごめん! ゆっくり休んで!」と送っておいた。本当にごめん。
それから30分が経った。私はスマホを携帯バッテリーに繋いで、再び音楽をかけた。リー・リトナーのアルバム「リッツ・ハウス」をタップする。すぐに一曲目の「モジュール 105」が流れた。
通りにはもはや誰も歩く人はいなかった。私は遠くに見える猫ちぐらを見ながら考えた。
ミセス・ウィークエンドはこの世界を「つながりを持つモノの世界」だと言った。この世界のあらゆるモノは“つながって”いるのだと。
私は彼女の言う“つながり”のイメージを思い浮かべてみる。
私と家族。家族と祖先。
友達と学校。学校と生徒たち。
市民とY市。Y市と駐在外国人。
世界と経済社会。貨幣と人類。
造る者と造られたモノ。生まれるモノと死にゆくモノ。
……こうも言っていた。この世界の裏側には、「つながりを失ったモノがたどり着く世界」があると。同じようにしてみる。
私達の祖先や歴史上の人物。
かつてあった制度や、これから失くなるであろうシステム。
古い生活様式、文化――例えば、長い歴史の中で失われた音楽。
記録されなくなったモノ、観測されなくなった出来事。
……頭が痛くなってきた。私の理解力を超えている。考え方を変えてみることにした。
“つながる”事で成り立つ世界。それは言い方を変えれば、“つながり”から逃れることの出来ない世界と言える。
全てを投げ出してどんなに遠くに逃げようとも“つながり”は追いすがってきて、最後には首根っこを掴まれる。
そして元の位置に戻されるのだ。
いともたやすく、何事もなかったように。
そうしておいて、それはその哀れな人物を路上に引っ張っていって衆目にさらした後、こう言うのだ。
「皆さん、拍手と喝采で彼の帰還を歓迎しましょう。
よろしい! 素晴らしい!
皆さん。これからも、ひとつひとつの“つながり”を大切にしましょう!」
なんだか道徳の授業に先生が付け足す教訓みたいだと思った。何が起きているのか良く分からなかった。眠いせいだ。それとも寒さのせいかな? 私は時間を確認した。
4時。良い子はとっくに寝ている時間だ。大きなあくびが三度、続けてやってきた。雑居ビルからは誰も出てこなかった。
頭の中で猫の長い鳴き声がした。その猫は我慢できないのか、興味津々な様子でそこらを探索し始めた。
うろうろしちゃダメだよ。私の頭の中は今、散らかっていて危ないんだから。何を踏むか分からないよ。
私がそう思っていると、猫は大人しくなった。どうやらポケットの中のホッカイロが上手い事言って事を収めてくれたようだった。
安心するのもつかの間、目の前で水しぶきがあがった。ペットボトルロケットが上がったようだった。
聞く所によると、遠く北海道は紋別市で流氷観光のオープニングセレモニーがあって、その開幕の為に打ち上げられたらしい。
私がチケットを持っていないことを心配して、それを隣の人に打ち明けると、安心しなよと言ってくれた。
それによると、どうやら今年のみかんの収穫量は例年の110%になる見通しだそうだった。
私が心底ほっとすると、また猫の長い鳴き声が聞こえた。 隣にいた人は見たことがある人だった。
彼は名倉潤だった。テレビで見るまんまだった。
条件反射から私は「ナグラやないかい」という古いネタを言いそうになるが、すぐに代表者のスピーチが始まったので、なんとか助かった。
長いスピーチの途中、壇上の人が明日の山陰地方の湿度をしきりに気にしだした。私は段取りに従って小脇に抱えた鳥かごから、流暢な韓国語を話すカラスを引っ張り出してくる。事前の打ち合わせ通りだったので、非常にスムーズにそれは取り行われた。
そのカラスに私が、およそ300年前の江戸で流行したという、アイスクライマーで高得点を取る裏技の手順を礼儀正しくしゃべらせると、拍手が巻き起こった。
この裏技が成功すると、ボーナスステージのナスの得点量が二倍になるようで、当時の庶民の間で常識とされていた事だったのだ。、
西洋の大航海時代にも記録があるくらいだ、とここで代表者の脇に控えていた秘書が得意げに声を上げた。
いわく、ラム酒に豚肉を漬ける保存食の製法を確立させたのは、まさにそのテクニックありきでの話だという。
それから猫が短い鳴き声を発するから、そこにあるベイクド・ポテトを潰して、それを名倉に――
……目を開けた時にはすでに日が登っていた。私は寝てしまっていた。
体育座りの姿勢から飛び起き、私はすぐに時間を確認した。
午前9時だった。
踊り場の手すりから身を乗り出してParadisoの入口を確認する。ちょうど女の人が立っていた。彼女は落ち着かない素振りで、何かを探すようにキョロキョロと辺りをうかがっている。
私はすぐに階段を降りていって、その女性に話を聞いた。彼女はサキちゃんのお母さんだった。私は彼女に、サキちゃんの姿を街で見かけなかった訊ねられた。どうやら今朝から彼女の姿が見えないらしい。
参考資料
・Pat Metheny「From This Place」,2020年
・くるり「There is (always light)」,2014年