どうせ神なんて - 2
頭から足先まで水分を含んだ重い体を引き摺る様に、ダニエルは扉の向こうから姿を現した。
動く度にぴたぴたと水がしたたり落ちる音が広い聖堂に響き、冷気が漂う。
そんな彼にエミリアは我慢ならないようにタオルを投げつけた。
「貴方、こんな神聖な場を汚すつもり?せめて拭いて着替えてから来てくれる?」
「ああ、いや、すまない。考え込んでいて気が回らなかった。」
気が回らないとかそんな次元ではない。どう考え込んだらこんな状態で礼拝堂にやってきてしまうというのだろう。
どう考えてもあの雷雨の中に居たとしか考えられない。それもちょっと校舎を行き来したとかそういうレベルではなく、がっつり雨の中ではしゃいできたとか、滝奉行したとかそんなレベルだ。
「一体この雨の中何していたの?」
「え?ああ、部活をな……」
ダニエルはステンドグラスを眺めながら言った。心ここに非ずな様子に、エミリアは苛立ったように質問を続けた。
「いや、雷雨の日は部活もお休みだけれど。常識的に考えればあんな雷雨の中で戦えるはずも無いし、そもそも周りに誰もいなかったでしょ?」
「暫く自主練してから気づいたんだ。」
私は思わずエミリアと顔を見合わせた。ダニエルらしくない。
彼の反応はどことなくボーっとしており、いつものような鋭い眼付きは感じられない。隙だらけで、今軽く攻撃魔法でも吹っ掛けたら直撃してくれそうだ。
ある程度身体を拭き終わった彼は、祭壇から一番遠い長椅子の端に座った。相変わらず信仰心の欠片も感じられない。
熱心に何か考え込んではいるが、少なくとも祈りでも無ければ懺悔でも無いだろう。
「ねえ、何しに来たの?祈りに来たようには見えないし、からかいに来たわけ?」
エミリアは相変わらず素を出している。彼の前でも自然体を出して構わないと思っているようだ。ダニエルは面倒そうに体ごと私たちの方を向き、前の席に肘をついた。
「そうだな、祈ろうとしてきた訳じゃない――と思う。分からない、ただ無意識に歩いてきたら個々に辿り着いたんだ。」
「何よそれ。たまたま私が今日の担当でメーティアと話してただけだったから良かったけれど、他の人が居たら普通に迷惑だからね。」
「そうか、そうだよな。すまない。」
いつになく素直な彼はすぐに謝ってしまった。いつもだったら負けず嫌いな彼はすぐに言い返してくるくせに。
エミリアはこれでは何を言っても面白くないと悟ったらしい。追い打ちを掛けようとした口を噤んだ。
沈黙してしまった場を何とかしようと、今度は私が代わりに口を開いた。
「ダニエル、何かあったの?最近元気ないじゃない。」
ダニエルは私の言葉にふと頭を上げた。
その時、私はようやく彼の目には深い隈があることに気づいた。
「そう見えるか?」
「自分では気づいていないって事?客観視する余裕もないのかしら。」
エミリアがそっぽを向きながら口だけ挟んでくる。言い方こそ悪いが、エミリアなりの心配をしているのだろう。
「……どうせ言ったところで理解できないだろう、俺とお前達じゃ背負うものが違う。」
「背負うもの?」
「地位も立場も違う。例えばエミリア、お前は神官の娘だ。この学校を卒業した後はどうするつもりだ?」
「上級神官としての地位を継ぐつもりよ。」
突然の脈絡のない質問にエミリアは即答した。迷いのない発言だった。
「そうだろうな、神官は大方世襲制だと聞く。順当にいけば神官としての地位が約束されている訳だ。メーティア、お前はどうだ?」
「私は、冒険者になる予定。世界を見て回る予定だから。」
「そうか――いいな、自由で。」
ダニエルはこちらを一瞥もしなかった。目を伏せて、自らの拳から目線を逸らさない。
「俺は、違う。俺は、大きな役目がある。親の銀行を、この国最大級の銀行の頭取を継ぐという役目が。その為にやるべきことが多いんだ。でも、やらなくてはならないんだ。」
彼は拳を握りしめ、一生身体を丸めた。
それを聞いてようやく理解した。最近の彼の様子がおかしかった理由を。
己の背負った重責に押しつぶされそうになっている。
ずぶ濡れの身体が小さく震え、髪から小さな水滴が滴り落ちる。
そう言えば、彼の弱音を聞くのは初めてだ。いつも胸を張ってちょっとばかり偉そうにしていた姿とは大違いな程に。
「ふーん、で、それは私達――というか他の生徒と何が違う訳?他の特権階級の生徒達だって、私だって背負う役目はあるのよ?立場ある家の子ってのはそういうものよ。メーティアは知らないけど。貴方は一体何が違うっていうのよ。」
「……お前は知っているか?俺は養子だ。あの家の実子じゃない。」
「そんなのとっくに知ってるわ、有名な話。だから何?この国の法律では、養子に与えられる権利は実子と全く同じ。それに、貴方兄弟だっていないでしょう?跡継ぎの座を取られる心配だってないじゃない。」
エミリアは訳が分からない、と首を振った。
「いや、お前は何もわかっていない。そりゃ表面上は違いなんてないだろうさ、家族仲だって悪くないように見えるだろう。だが、実際は違う。……俺の出身はスラム街だ。俺は、スラム街で拾われたんだ。」
ダニエルはエミリアを睨みつけた。マズい、このままでは大喧嘩が始まる。
私は2人の顔を交互に見ながら間に入り、彼らの視線を無理矢理断ち切った。彼らは視線が切れても、会話だけは淡々と続けている。
「スラム街ね、アッパーミドルがスラム街で人を拾うなんてことがあるのね。」
「たまたまだ。クロフトン夫妻は元々子ができないことに頭を悩ませていたんだ。そんなとき、取引の帰りに偶然俺と出会い、そして孤児の俺を可哀想に思い、自分たちの子として受け入れることを決めた。幸運にも、俺は夫妻の子として新しい人生を始められたんだ。」
「で?それがどうかしたの?幸運自慢?」
エミリアはいつの間にか私の視界ブロックを避け、ダニエルのすぐ隣へと移動していた。長椅子にもたれかかり、頬杖をついて話の続きをうんざりした顔で待っている。
「違う、最後まで話を聞け。俺はあのクロフトン夫妻に拾ってもらった恩がある。……夫妻がどこの馬の骨とも知れない俺を拾ったのは、銀行を次世代に受け継がせるため。ならば、俺はその期待に、恩に、応えなくてはならない。俺の今の生活は、ただその血を受け継いだ故の当然の権利ではなく、相続するに相応しい程度の能力の獲得を条件に得たものなんだ。」
ダニエルは息を吐いた。体の震えが一層強まっている。寒いのか、それとも怯えているのか。
「分かるだろ、俺は優秀でなくてはならない。一番でなくてはならない。それが、あの夫妻への恩返しであり、義務なんだ。」
責任感と焦燥感。彼を苦しめているものは、そう表現するのが正しいだろう。
共に平民でありながら、私――メーティアとダニエルの立場は大きく異なる。
上位の中流階級である彼の生き様は、どちらかと言えば貴族の生き方に似ている。己の決断1つ1つに人々の生活が重くのしかかり、常に責任が付き纏うような生き方だ。
だが、平民の世界と言うのは貴族よりも激しく、忙しい。特権に裏付けされることなく、平民同士の競争を経て実力と金で地位を築き上げねばならない。
そして、先代が築いた地位を維持するにも力が必要だ。銀行などと言う、信用第一のビジネスを続ける為にも。
平民には貴族の様に青い血が流れていない。だからこそ、他の人間よりも優れているとはっきり周囲にも誇示しなければならない。
それが、今のダニエルに課された使命である――と少なくとも彼は気負っている訳だ。
ダニエルは再び大きく息を吸い、私の方を見た。
「俺はこの学校で勉強、戦闘技術共に一番になる義務がある。休んでいる暇などない。」
彼は思い出したように立ち上がった。
「あら、どこへ行くつもり?」
「寮に帰る。どうせ外は雷雨で使えない。これ以上校庭を荒らしたら後で部長に怒られてしまう。自室で明日の予習でもするさ。」
「教会に来ておいて祈りもせずに?」
エミリアはかなり不満そうだ。
「さっきも言った通り、本当にここに来る気は無かったんだ。俺は神に対する信仰心なんて無い、そもそも神なんて信じちゃいない。それでも無意識のうちにここに来てしまったのは、ちょっと休みが欲しかったのか、誰かに話を聞いてほしくなったのかもしれない。……変な話だよな、どうせ神なんて、俺を救っちゃくれないのに。」
ダニエルは軽く自嘲した。エミリアはかなり癪に障ったようで、般若のようにダニエルを睨みつけている。
が、ダニエルはエミリアの事なんて気にも留めていない。気にする余裕がないのかもしれない。
ダニエルはそのまま立ち上がり、すたすたと無言で礼拝堂から出て行った。
残された私とエミリアは暫く呆然としていたが、突然エミリアが立ち上がり、私の肩を掴んだ。
「ちょっと、あいつどう思う?」
「どうって……苦労人なんだな、って感じかしら。」
「苦労人、そりゃ苦労人かもしれないけどね、あんな言い方はないでしょうに。まるで、自分しか苦労していないかの様な言い方だったわ。……この学校の生徒は殆どが立場ある家柄の元に生まれた子。その子達だって、各々悩みながら生きている。それをあたかも何でもないように表現されるのは、何だか腹が立つ。」
エミリアは祭壇の方へ移動すると、掲げられた聖像へと手を伸ばした。
「……私だってそう、小さい時から毎日のように神殿で修行させられたわ。偉大な神に仕える為に、毎日冷たい水で体を清め、聖書の言葉を覚え、治癒魔法の練習をした。嫌な事だっていっぱいあったわ。でも、ダニエルはそんなこと考えちゃいない。親の七光りで神官の地位を継ぐだけだと勘違いしている……私、ダニエルの事が前から好きじゃなかったけれど、今回の事でもっと嫌いになったわ。自己中心的で我儘で、子供っぽいもの。ねえ、貴方もそう思わない?」
エミリアの額には深い皴が寄っており、その奥に光る眼は強い反抗心が宿っている。
彼女の言う事には正統性がある。何もダニエルだけじゃない。デリケやメグ、シュルト殿下にガルス殿下。立場は違えど、皆がそれぞれの"事情"を抱えて生きている。
エミリアだってそうだろう。私だってそうだ。ダニエルがそれを考慮せず『自分が一番苦しんでいる』という態度を出せば、反感を買うのは当然である。
だが不思議なことに、それを理解して尚私はエミリアとは反対の感情を抱いた。
「うーん、まあ気持ちも分からなくはないけれどね。でも、私はダニエルっぽくていいと思うわ。」
人より高いプライドも傲慢に見える態度も、全て自分への厳しい基準から来る物。彼の場合、周囲を顧みない性格はそれだけ自分の行動を重く受け止めてのことだ。
「はあ?……私には分からないけど、貴方だって苦労することあるでしょう。それをあんな言い方されて腹立たない訳?奴もちょっとは大人になればいいのに。」
「まあまあ、彼だってまだ齢15、16の子供でしょう。この年代の子がああやって自分と他者を比べて頭を抱えるなんてよくある事よ。寧ろああやって人は成長していくんだから。」
いくら高い魔力と優秀な頭脳を持っていたとて所詮彼も人の子、それも若い子供だ。自己中心的な考え方をしながら自分の存在を確立していく、思春期特有の考え方をしている。抱えている内容はともかく、考え方そのものは青少年の成長段階としては健全な、『誰もが通る道』ではないだろうか。
「貴方だって同年代でしょうに。貴方は貴方で逆に大人過ぎて気味悪いわ……」
エミリアの言葉に、私は軽く笑ってしまった。そりゃ中身はれっきとした大人だ。一度は親になる覚悟を決めた人間だ。
子どものやることは大体が可愛く見えてしまうものだ。
「別に、今現在直接的な害がある訳でも無いから、そこまで怒る必要はないと思うの。」
「のんびりしているんだか、心構えがどっしりしているというか。……でもねえ、あれだけ言われたらただで済ませる訳には行かないわよね。」
エミリアはニヤリと笑みを浮かべた。いつもの慈悲に満ちた微笑みではなく、ヴィランが何か悪いことを考えている時のゾッとする笑みだ。
「……エミリア、虐めはダメだよ。」
「そんな陰湿で神の教えに背くようなことはしませんの。もっと堂々と、実力で白黒はっきりとつけるのよ。適した場がもうすぐあるじゃない。」
一瞬戸惑ったが、直ぐに閃いた。彼女が言及していることは、ただ一つ。
「決闘大会、ね。」
「そう。当然貴方も予選通過したのよね?」
貴方も、ということは彼女も通過したようだ。
「それで互いの実力を見ましょう。彼が私よりもより良い戦績を出せたなら、彼が重い責任を背負いながら努力していることを認めましょう。でも、私が彼よりも良い戦績を出せたなら、彼の力も覚悟もそれまでだったと認めさせるのよ。」
エミリアの声はいつも以上に力強く、やる気で満ち溢れている。これは相当頭に来ているな。
「その戦績勝負、私が勝ったら?」
「メーティアが勝ったら……ダニエルも反省して、他の人にもその人なりの苦悩があるってことを認めざるを得ない、とか?いや、貴方はどちらかと言うと中立的立場だし、それだと直接的なメリットはないわね。」
エミリアは首を捻った。
「まあメーティアが勝ったら、メーティアが認めさせたいことを認めさせればいいか。私もあなたに負けたら、一度だけ貴方の意見を素直に飲むと約束しましょう。――つまり、ダニエルとは別で勝負を貴方とすることになるわね。」
「本当に?いつも難癖付けて襲い掛かってくるエミリアが、素直に私の言う事に賛同してくれるとは思えないんだけれど。」
「約束は守るわ。でも、私に勝ったらの話よ。私が貴方に勝った時は、私の意見を聞いて貰うからね。――神は存在することを信じる、とか。」
「……嫌な約束ね。」
ダニエルとエミリアの喧嘩に巻き込まれる形で、勝手に私も勝負を仕掛けられてしまった。
そもそもダニエルはこの勝負について一切聞かされていないのに、勝手に決めていいのだろうか。まあいいか、ダニエルだし。
この勝負があろうとなかろうと、私が全力であの大会に勝ちに行くことは変わらない。
どうせやるなら、勝ちたい。ダニエルとエミリアとの勝負はおまけだ。




