涙の数だけ大人になる
古い本の匂いに囲まれると、妙に落ち着くのは何故だろうか。それともそれは、明るさを確保しながらも眩し過ぎないように抑えられた照明のお陰だろうか。
どっちでもいい。今はただ、疲れた体を休めながら好きな小説を好きなだけ読める幸せを噛みしめたい。
「それで?決闘大会の予選は上手く行ったのかい?」
「はい、取り合えず予選は勝ち抜きました。」
そんな私の隣で、彼はいつも通りの穏やかな声で、手元の本に目を落としたまま話しかけてきた。
今色々と話題のシュルト殿下だ。
彼は随分と変わった。
まず、当たり前のことだが彼は成長した。
背は伸び、顔も大人びた。以前に人形の様な美少年ではなくなったが、代わりに誰もが見惚れる様な美青年へと変貌しつつある。
しかし、独特な雰囲気は変わらない。ギラギラとしたガルス殿下とは対照的な淡く儚いオーラが特徴的で、今こうやって本を読んでいるだけでも様になる。アンニュイな雰囲気を纏った美形を周囲が放っておくはずもなく、婚約したにも関わらず彼のファンクラブは日に日に勢いを増しているとか。
「そうか、流石だね。倍率はどれくらいだった?」
成長と反比例するように、以前よりも彼の笑顔が減ったのは気のせいだろうか。
「例年と同じくらいで、5倍程度です。とはいえ、まだ予選ですからそこまで激しい戦いはしていませんよ。余り詳しくは話せませんが……ある程度戦って、互いの技量を確認できれば審判がそこで試合を止めます。」
「予選ってそんなものなのか?それだと結果に不満を持つ人もいるんじゃないか?まだ自分は戦える、負けていないって。」
「そんなことは稀です。これは戦術部でもよく言われていることですが、戦い慣れていればいる程相手の技量と自分の技量の差というものが良く分かるのです。数回技を交えれば、自分と相手の力関係位は何となく察せます。それに予選は合計で10試合分位やりますから、無理に判定に盾ついて試合続行しても魔力や体力の無駄遣いになってしまいます。」
「なるほど、意外に合理的な方法なのか。勉強になる。」
予選の試合内容の詳細は外部にあまり話してはいけないことになっているが、勝利条件程度なら大丈夫だろう。
予選は単純な勝ち抜きではなく、10戦程度手合わせをして戦績が高い順に出場権が手に入る仕組みだ。一度負けたとしても即座に失格になる訳ではない為、誰と当たるかの運要素を排除してくれている。
「倍率が5倍で試合数は計10回ですから、単純計算で8勝2敗すれば大会に出られることになります。試合に勝てないと分かったら早めに降参して魔力消費を抑えるのも戦略の1つでした。」
「で、君は何勝したの?」
「9勝。中盤で運悪く部長と当たりましてね。魔力量は同等だったのですが技術力が高く、苦戦すると予想して対峙した瞬間降参しました。」
「現部長か、誰だっけ?」
「ルーカス・フィオレンティーノです。」
「ああ、なるほどね。」
シュルト殿下は頷いた。
一昨年の大会に出ていた記憶がある。彼は今現部長としてこの戦術部を取り仕切っている。
彼の恐ろしさはいつも間近で見ているおかげで良く知っている。戦術を練れば戦えないことは無いが、いずれにせよ体力と魔力の消費はかなりのものになる。しかも予選前半で当たってしまったので、後半の事を考えれば本気で戦う理由もない。
「フィオレンティーノ家の長男が強いという噂は聞いているが、そこまでとは。」
「はい、それはもう恐ろしい部長だと私達後輩からは恐れられていて……あ、そういえば、フィオレンティーノ公爵家の御令嬢と御婚約されたと聞きました。おめでとうございます。」
フィオレンティーノ家と言えば、と連想しただけで、特別な意味を込めたつもりはない。ただの挨拶だ。
ただ、この何気ない挨拶に、シュルト殿下は顔を歪めた。しまった、と慌てて頭を下げた。
「……申し訳ございません、失礼なことを申し上げたようで。」
「いや、僕の態度が悪かった。気にしないで。」
冷静に考えてみれば、確かに私は何も失礼なことは言っていないし、どちらかと言えば祝辞を聞いて顔を顰めた方に問題がある。シュルト殿下の返事は妥当だ。
そうは言ったものの、シュルト殿下の顔色は晴れなかった。
正直、何とも珍しい、と思った。
遠目で友人達と談笑する彼を見るときは、大体いつもふんわりとした笑みを浮かべていた。王子たるもの、下手に負の感情を素直に出すのは良くないのだろう。
それにしたって、ここまで彼が感情を露にすることなんて見たことがない。それも、婚約に言及しただけで。
「何か、あったのですか?」
「……君は、貴族間において婚約がどれだけ大切な意味を持っているか、知っているか?」
私は首を振った。
「政略結婚が大切だということは聞いていますが、具体的にどう、とまではあまり……」
「結婚というのは、家のやりとりだ。血筋が何よりも大切な貴族にとって、血を分ける行為というのは同盟を組むのと同義。」
「話には伺っていますが、私にはどうも結婚が家を結びつけるという感覚が中々理解しにくいのです。普通にコネを作るのと何が違うのでしょうか。」
「嫁ぐということは、子を産むということだ。嫁を貰うという事は自分の子の母を選ぶということだ。子の人生というものは母によって大きく左右される。その子が跡取りとして家を継ぐことを考えれば、誰と結婚するかは長期的に見ても大切なんだ。」
シュルト殿下はゆっくりと言葉を紡いだ。
「母、ですか。」
「そうだ。子は母に逆らえない。しかし、子が生まれ育つには母が必要だ。だからこそ、婚約というものは慎重に決められるべきだ。」
「シュルト殿下の御婚約も、そうではなかったのですか?」
「いや、僕の婚約もしっかりと念入りに計算された結果だ。そして、最終的な決断を下したのは、王妃殿下だ。」
王妃殿下。私の中で彼女はガルス殿下とその母君を虐待した人であり、あまりいい印象は無い。だが、同時に彼女はシュルト殿下の母親である。
「本人の意思なんてそこにはない。当然だ、王族に生まれた宿命だ。何も結婚相手だけじゃない、関わる友人や時間の過ごし方、読み物から食事まで何もかも王妃殿下に決められて、僕の意思なんて存在しなかった。でも、それを我慢するのが僕の役目だと思っていた。兄上――ガルスが表舞台に現れるまでは。」
シュルト殿下の目線は天井へと向いていた。天井の淡いオレンジの光を放つ魔力電灯をぼんやりと見つめている。最早私に話しかけているのではなく、独り言のように呟いている。
しかし、彼の声には力が篭っていた。悲鳴のような、暗い感情が彼を蝕んでいる。
「あいつは、自由だ。何もかも自分で決めて好きなように行動できる。雁字搦めに捕らわれた僕とは違う。それでも尚、王子としての生活と特権を享受している。その時僕は初めて不公平だと感じたんだ。」
王族だけじゃない。貴族だって特権を得る代わりに人生を縛られている。しかし、何物にも縛られずに生き生きとしているガルス殿下の姿は、シュルト殿下にとっては羨望、いや嫉妬の対象だろう。
行き場のない感情を吐き出す様に、荒い口調はエスカレートし、早口になっていく。
「君は、ガルス殿下と仲が良かったね。ねえ、どう思う?なぜ僕は操り人形の様な人生を強いられて、ガルスは自由気ままに生きていられるんだ?」
シュルト殿下は突然私の両肩を掴んだ。私の手よりも大きい、少し骨ばった男の手が私の身体を揺さぶった。
普段上品で乱暴な真似は一切しないはずの殿下が、ここまで荒ぶるなんて。今まで溜めて耐えてきたものが爆発したかのように、我を忘れている。
取り乱した彼とは対照的に、私は極めて冷静だった。
考えろ、失礼に当たらずに何とか彼を宥める言い方を。何とか頭をフル回転させ、言葉を絞り出す。
「……シュルト殿下、シュルト殿下が苦しんでいることはよく分かります。殿下の努力は私なぞには理解できないでしょう。」
話しかけても彼は酷く混乱しており、話を聞いているかも分からない。
らちが明かないので彼の両頬に手を添え、無理矢理目線を合わせる。
彼は若干の涙を浮かべていた。
その時、私は何とも言えぬ感情を抱いた。
ああ、この子はまだ子供なのか、と。
私の精神年齢はとっくに大人だ。この世の理不尽はある程度仕方ないと割り切っている。
それに、普段はシュルト殿下も他の友人も皆大人びている。自分の身分と引き換えに存在する不条理を黙って受け入れているから、彼らがまだ10代半ばであることを忘れていた。
だが、それでも皮を剝げば中身はまだ子供だ。
「殿下、貴方は頑張っていらっしゃいます。不条理によく耐えて、よく受け入れています。」
「だが、あいつは」
「ガルス殿下を羨ましく思っておいででしょう。ですが、あの方もまた不条理に耐えていらっしゃるのです。」
ガルス殿下は幼い頃から虐待を受けていた。それに耐え続け、母君の犠牲と引き換えにようやく普通の生活を手に入れた。
しかしその後も、彼は感情の暴走に苦しんでいた。今だってトラウマに苦しめられることがあるという位だ、口に出さないだけで本当はもっと痛ましい目に合っていたのだろう。
「人は不平等の中で生きています。しかし、誰もが陰で不条理を抱えて生きているのです。自分の力ではどうしようもない、耐えがたい苦痛を隠して生きているのです。」
シュルト殿下の顔が歪んだ。説教など聞きたくないと言わんばかりに首を振った。
ああ、この子は聡い。こんなこと、私が言わなくても十分に理解している。兄の境遇なんて、きっと私よりもずっと前から知っていたはずだから。
「それでも人は努力するのです。不条理の中で足掻き、人前では平気な顔をして影で泣きながら生きています。だから、人は生きるだけで尊いのです。」
この子の努力を無視してはならない。だが、同時にガルス殿下の努力も無かったことにしてはならない。そんな想い故に出た言葉だった。
彼の目線が揺れた。
何とか溜めていた涙が零れ落ちそうになり、慌てて私にその顔を見せまいと俯いた。肩に掛けた手に最早力は無かった。
私は彼をそっと抱き寄せ、幼い子をあやす様に背中をゆっくりと摩った。音を出さずに震える背中は大きくとも、この時ばかりは非力で無力。
彼は、人生で何度こうやって泣くことを許されたのだろうか。涙を流す時に、こうやって宥める人は居たのだろうか。
知らない、推測でしかない。
ただ、私は黙って彼が落ち着くまで待った。辛い時に好きなだけ涙を流せることこそが、自由だと思っているから。




