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虹の表層、蒼の深奥  作者: 相宮祐紀
5. 憧憬と献身
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5-2 黄ばみと追憶

 ひとりで、いなければならないのかもしれない。やっぱり、誰かに助けを求める資格なんてなかったのかもしれない。

 ウルカは長椅子の上に転がって、背中を丸めていた。今日は、お客が来てくれた。その人が持ってきたのは、花嫁衣裳だった。婚礼の儀式で、花嫁は祭司たちと同じ純白の衣装を着る。質草にと持ち込まれたものも、きっと以前は白かったのだとおもう。でも今は、全体が黄ばんでいて、あちこちに土色のしみができていた。それに薄くて手触りは粗くて、上等な布でできたものではなかった。三年前に作ったばかりだからと、お客は言った。まだ新しいから、だいぶ汚れているんだけれどこれで金貨一枚貸してほしいとウルカに頼んだ。忘れられた衣装箪笥から出てきたような衣装に、とてもそれだけの価値はなかったけれど、ウルカは望まれたとおりの額を貸した。その人は古びた一枚の金貨を握りしめて、ウルカにお礼を言ってくれた。

 何に必要なのかは知らない。どこで何をしている人なのかもわからない。お客の詳しいことは今まで聞いてこなかったから、今回も同じようにした。でもきっとこの人は、返そうとしてくれるのだろうとおもった。

 ウルカは、壊れたものを持ってきた人にでもお金を貸してきた。それが噂になったのかはよくわからないけれど、店に来る人はたいてい、一般に価値があるとは言えないものを持ってきた。ウルカはその人たちに高額を貸してきた。だからまともに返ってこないこともある。いらないものを担保にして、それを手放すことになっても痛くはないからだろう。ディーオからも返ってこなかったから、彼の割れた皿も今、ウルカのものだ。

 ときどきまともなものを持ってくる人はいたし、壊れたものを持ち込んでも、質料ぶんもきっちり返してくれる人だっていた。本来の役目を果たすことがなくなっていても、手放したくないものは、きっとある。今日来たお客の花嫁衣装も、たぶんそうだ。

 疲れた顔をしていたけれど、まだ若い人だった。衣装を扱う無骨な手はとてもやさしかった。大切な人の頬を撫でるようだった。あの人は、震えるのをこらえたような声で、やっぱりクェパさまみたいな人だと、ウルカに言った。

 やっぱり、と言ったから、ウルカの今までの仕事を知っていてここに来たはずだ。あの人はきっと、ウルカが清廉な心で金を貸すんだとでもおもっているのだ。苦しんでいる人に、慈愛を向けてきたのだとでも。違う。人のことを考えたことなど、ない。酔狂なことをせずにはいられなかっただけだ。救われたかったから。奇妙な振る舞いをしていたのは、本当は自分が人間じゃないなんて、考えたくはなかったから。助けてほしいとおもっていたから。

 何度もおもい知らされる。気色悪い。気色悪い。気色悪くて仕方がない。こんなやつは、消えられないならひとりで、いなくちゃいけないのに。ひとりで。

 そのとき、呼び鈴が鳴った。

「こんにちは、サナルダです」

 扉の存在を感じさせない大きな声が、重たい空気を震わせる。じわりと、視界がにじんだ。

「ウルカ? 入るよ?」

 戸が開いて、軽くてさわやかな風が吹きこんでくる。今は凍える季節なのに、そんなの変だ。

「あれ、ウルカ?」

 ウルカは起き上がろうとした。近頃は自分から戸を開けて迎えていたから、様子がおかしいとおもっただろう。きっと心配をしてくれるだろう。でもそれは、ウルカには受け取れないもので。

「あっ、いた」

 力の抜けた身体が言うことを聞いてくれないうちに、ジンに見つかってしまった。ウルカはせめてもと、こぼれてきた無価値の涙を拭って口元を引き締めた。

「そこに寝てるの見るのひさしぶりだ」

 擦り切れた靴が鳴るやわらかい足音が近づいてくる。長椅子のそばまで来たジンに、上から覗き込まれた。ウルカは目をそらした。

「ねえウルカ」

 ジンはなんだか楽しそうに言った。

「一緒に夕飯食べないか?」

 目の奥が熱くなる。行きたい、またあそこに行きたかった。あたたかい人たちにまた会いたかった。ジンの気配を隣に感じながら、街を歩きたかった。

「うんそうしよう決まり」

 ウルカが何事か言う前に、ジンが強行採決する。ウルカは細かく首を振った。するとジンは、しゃがみ込んで長椅子に手を置いてきた。

「体調悪い?」

 近くで見られたら、情けないことがばれてしまう。ウルカはジンに背中を向けようとした。でも、うまく身体が動かなかった。ジンがまじめくさった様子で言った。

「体調悪いならなおさら来たほうがいいな、ひとりだとどうなるかわかんないし」

「だめ……」

 やっと声を出したのに、ジンはいかにも真剣という顔を崩さない。

「そうだよ、身体がつらいときにひとりはだめだ」

「ちが、う、そうじゃ」

 泣きたい気分で言いかけたとき、ジンが突然に、表情を変えた。ふわりと、微笑んだ。

「うん。だいじょうぶ」

 どうしてこの人は、こんなに上手なんだろう。ウルカの周りのよどんだ空気も、身体の中のぬめったかたまりも、そっと浄化してくれる。全部がなくなるわけではないけれど、楽になってしまう。だいじょうぶだと言われたら、本当にそうかもしれないと感じてしまう。くすぐったいとおもったら、涙が鼻筋をつたっていた。あわてて払うと、ジンが軽やかに笑った。

「そんなに急がなくても」

 ウルカは唇をかみしめた。

「なんかあったの?」

 気負った様子もなくたずねられて、喉が開く。聞いてほしいと、身体が言っている。心も訴えている。

「ごめんなさい」

 そんなことを言っても、ジンを困らせるだけなのに。そんなに謝るならどうにかしろよとおもう。でもできない。ひとりじゃできない。ウルカは弱かった。

「いいよ」

 ジンはあっさりとこたえた。

「行こう。今朝みんなに、今日はウルカ連れてくるって言ったんだ」

 たたんでそばに置いてあったウルカの外套を広げながら、ジンは言った。

「起きて。これ着て」

 急かされて、また涙が流れてくる。堪え性のなさにぞっとする。でもジンは笑っていた。

「起きられない? 抱えていこうか。特にネイレさんがすごく楽しみにしててさ、連れていかないわけにはいかないんだよね」

 ウルカは長椅子に手をついてゆっくり身を起こした。

「ごめんなさい」

 ジンが肩に外套をかけてくれる。

「行きたい」

 ウルカはつぶやいた。あたりまえのように、うん行こう、と返ってきた。




***




 街は相変わらず、褪せた鈍い色をしていた。でもなんだか、いつもより景色がくっきりと、細かいところまで見えるような気がする。地面に敷かれた石のひとつひとつの形、灰色一色のはずの建物たちの微妙な色の違い、人々の表情や、ときどきすれ違う女性たちのささやかな髪飾り。歩きながら、ウルカはあちこちに視線を動かしていた。

「なんか探してる?」

 隣を歩くジンが、同じようにあたりを見回しながら聞いてきた。ウルカははっとしてうつむいた。

「あ、違う?」

 少し腰をかがめて覗き込んでくる。ウルカは顔を背けながらこたえた。

「違う」

「そっか」

 ジンは穏やかに受け入れてくれて、ふとおもいだしたように言った。

「あのさ今日、お客さんが来てた? 花嫁衣装があった」

 机の上に置いた衣装に、ジンは気づいていたらしい。ウルカは、衣装の持ち主の、透き通った感謝の言葉をおもいだした。一瞬、喉が震えた。

「来て、た」

「理解に苦しむ人だった?」

 ジンの軽い調子の問いに、すぐに首を振る。

「すごく、いい人だとおもう」

「そっか」

 衣装を広げてたたむやわらかい手つきと、そっと見つめるまなざしでわかった。ジンは、ウルカが妙な様子でいたからお客と何かあったのかとおもったのかもしれない。でもそれは違う。あのお客はきっとすてきな人だから、それはジンにも言っておきたいとおもった。

「話し方もやさしくて、あの衣装をすごく大事にしてて、いい人だとおもった」

「うん」

「ありがとうって言ってくれた」

「そうか」

 クェパさまみたいって。それは言えずに飲み込んだ。

「さっき寝てたのは、そのお客さんのせいとかじゃなくて」

「うん」

「わたしが勝手に寝てただけ。そんな気分になって」

 ウルカはジンを見上げた。目線が少し下を向いて、口元は静かな笑みの形をしていた。動かないやわらかさをたたえたその横顔は、どこか彫像めいていた。

「そういうときもあるよな」

 ジンが目を伏せたまま言う。石畳につまずいて、ウルカはようやく前を向いた。横ばかり見て歩いていたら転ぶ。

「うん」

 ウルカはうなずいた。

「そういうときばっかりで、もう」

「ごめんなさいっておもう?」

 ジンの声が笑みを含む。見ると、いたずらっぽく笑っていた。ウルカは目をそらしてこたえた。

「おもわないかな」

「そうなの?」

「ごめんなさいっておもうのは、人が助けてくれるとき」

 しばらくしてジンが、そうなのか、とつぶやいた。ウルカは足元を見つめながら続けた。

「助けてくれてるのに、ごめんなさいとか言ってごめんなさい。最低なことばっかり言って、やっててごめんなさい」

 いつも、救いに来てくれるあなたに。

「いいよ」

 ジンはまた、許してくれる。

「好きなだけごめんなさいって言っていいよ」

 ジンがなんだか独特なことを言うので、笑ってしまった。自分の中から軽やかな笑い声が出たから驚いた。

「そういえばウルカはさ、ほんとはものを見る目があるんだろ?」

 急に話が変わって、ウルカは目をしばたいた。横を見ると、ジンはぜひ教えてくれというふうにウルカを見ていた。

「質屋やってるだろ。いいものの見分け方とか、どこで習ったの?」

 素朴な疑問をぶつけてくるジンから目をそらす。

「家で質屋みたいなことやってたから」

 ウルカの家は、セポラ特預使領内の農村にあった。ちょっとした土地持ちで、人にお金を貸すこともあり、担保として貴重な品が持ち込まれることもあった。小さいころのウルカは、それを鑑定している父の膝に座っていることが多かった。

「あ、だから質屋やってるんだ」

 ジンがうなずきながら言った。荒れた王都ではなかなか仕事にありつけなくて、それなら自分で何か始めるしかなかった。生き残ってしまって、たくさん奪って、財産はあったから、始めるのには困らなかったのだ。店に最初に来てくれたのはすでに知り合っていたピョルダルで、店のことを広めてくれた。しばらく人並みに店をやっていたけれど、だんだん自分のしてきたことを振り返ることができるようになって、今のように廃品収集の様相を呈するようになった感じだ。

「そう。家でやってたことくらいしかおもいつかなくて」

 父の膝の上はあたたかかったと、おもいだす。乗っかる権利はやがて弟と妹に譲ったけれど。乗れなかったどちらかが文句を言うと、ウルカが膝の上に抱き上げた。それもあたたかかった。母が、あたたかいお茶を淹れてくれて、みんなで飲みながらとりとめのない話をして笑って。戦いのさなかでも、それはあたたかな、しあわせな、時間で。

 呼んでも帰ってはこない。手を伸ばしても触れられはしない。もう戻れない。戻るすべがあったとしても、ウルカは戻れない。遠い、おもいでだった。

 そのときだった。がたん、と音が響いた。ウルカははっと顔を上げた。少し先の建物の戸が、大きく開いていた。あそこはジンの下宿だ。

「あれ……」

 ジンが横で声をもらす。勢いよく開け放たれたらしい扉に、中から何かが突っ込むのが見えた。痛い、とこちらがおもうような音を立てて扉にぶつかり、外に飛び出してくる。広がって揺れたのは、束ねられた長い髪だった。

「ネイレさん?」

 ジンがすっとんきょうな声を上げた。

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