第3話 私もこの国は要りません
近くにいらっしゃった先生に「お騒がせして申し訳ありません。授業の邪魔になるかと思いますので、本授業は途中退出させてください」と申し出ると、彼は少々気遣わしげな表情で、私の言葉を了承してくれた。
彼らはみな、人に物を教える才がある方々だ。しかしここが国営である以上、王族の言葉には否を唱えにくい。
私に配慮してくださった事だけでも、十分にありがたい事だ。そう思いながら私はたくさんの視線の間をまっすぐ抜けていく。
ダンスホールを出た瞬間、動揺や騒めきに揺れる会場から解放された。のしかかるような重い空気がなくなり、一気に肩が軽くなる。
さて、と気持ちを改めたのは、すべき事が目前に沢山あるからだ。
――最初にすべきは、もう決まっている。
私がやりたいと思っている事は、もちろん一人でも成せなくはない。けれど協力者がいれば、それだけ私も楽になる。
私の脳裏に思い浮かんでいる人は、間違いなく確実な結果を出すだろう。
これまで特に交流もない。むしろ率先してかかわりを避けていた相手だけど、彼の優秀さには疑いようがない。
引き込めるかどうかは私次第、交渉の仕方次第だろう。
しかし私は、案外分の悪い賭けではないと思っている。
おそらく私は彼の不満を、正しく理解していると思うから。
「シェイド様、少しお時間よろしいですか?」
休み時間、ダンスの実技授業を終えて教室に帰ってきた多くの生徒がいる中で、ある男子生徒に声を掛けた。
それが、シェイド・ローレンツ公爵子息。
右目の下の泣きボクロが印象的な、黒髪の男性だった。
◆◆◆
「普段から来るもの拒まずなのですから、私の想いも受けとめてはくださいませんか?」
にこやかに彼にそう告げれば、返ってきたのは苦笑だった。
「俺を『来るもの拒まず』だと言うんなら、君は俺が普段から適当な性格な人間なのを知っている筈だと思うんだけど」
「貴方は聡明な人間です。だからこそ、そのように振る舞っているのでしょう?」
「……君が俺の何を知っているんだ?」
「そうですね。少なくとも貴方が諦めと共に面倒臭がりを発動させている事くらいは、分かっているつもりです」
私の言葉に彼は「へぇ?」と、ずっと上がっていた顎を引く。
ほら見なさい。私が何のことを言っているのか、心当たりがある態度だ。
やはり彼は聡明だ。だからこそ自らが今何を指摘されているのか、正しく理解できている。
彼の生家である公爵家は、元々王族の家系。即位に際し継承権を失った者たちが臣籍降下したのが始まりで、国内では王族に次ぐ権力の持ち主というだけではなく、時には王族に繰り上がる事も稀にある。
殿下以外に直系の男児が居ない現在、この国では『男性にしか王位継承権が認められない』という古から不文律を守り続けているが故に、シェイド様は殿下の対抗馬になり得る唯一の存在になっている。
その事実に、彼の気持ちは関係ない。
彼がどんなにその地位を拒絶しようとも、時が来てもし彼を祀り上げる人間が出てくれば、その流れには逆らえない。
少なくとも殿下は、自分の地位を脅かす彼を無視できない。自分の地力で勝ち目がなければ尚の事、過剰に彼をライバル視するのはむしろ道理だ。
「この国に来て、早三年。入学から現在において、事ある毎に殿下から突っかかられて迷惑を被り、やがて貴方がすべてに手を抜く事に決めた変遷を私は見る事ができる位置にいました」
もちろん殿下に何かを言ったりはしなかった。
人質姫など周りから見れば腫れものだ。そうでなくとも、強い権力で周りを押さえつけるような振る舞いをしている殿下の婚約者。近寄ってもいい事はないと遠巻きにされてきた私が、この件に関する個人的見解を呟ける相手などいない。
しかしきちんと見てはいたのだ。殿下が彼の排除を選択した事を愚かしく思いつつ、きちんと力と動けるだけの立場を持ちながら、これまで一切の行動を起こさなかった彼を、勿体ないと思いつつ。
「貴方もまた、立場が故に自由を制限された人間です。私と唯一違うのは、行った選択。私は耐える事を選び、貴方は逃げる事を選んだ。しかしだからこそ、今私たちは協力できる可能性を持っていると私は思っています」
おそらく彼には逃げる事が、一番楽で手っ取り早い打開策だったのだろう。
その方法自体を私は否定しない。私自身も『耐える』という、最も楽で手っ取り早い選択をしていたのだから。
しかし私はもう止める。
もちろんそこには『状況が変わりこれしか方法がなくなったから』という理由もあるけれど、それ以上に私はもう、抑圧される日々に飽きた。
彼となら、その気持ちを共有できるのではないかと思っている。
彼もまたきっと、これからもずっと殿下の顔色を窺う生活が自身を窮屈にさせる事を分かっているだろうから。
殿下が即位すれば本格的に今広げている羽さえもがれる事態になる事を、ちゃんと予感しているだろうから。
「へぇ。君は意外と自信家なのかな。でも流石にさっきみたいに公衆の面前で俺に『話がある』って声を掛けるのは、殿下に対してちょっと挑発的過ぎると思わない?」
「『今以上に殿下からの反感を買う可能性を押しても、貴方を逃がしたくなかった』と、解釈していただいて構いません」
「否定しないんだ、わざとじゃないって」
したところで、どうせ分かっているくせに。
こんな非公式な場に呼び出してわざわさ嘘を吐く理由が、少なくとも私には見つけられない。
そもそも彼には、私に声を掛けられたあの時、私の誘いを断る選択肢があった。それでも尚ここまで来てくれたのは、間違いなく彼の選択の結果である。
「厄介な殿下の元婚約者が何の用なのかと興味を惹かれてついてきたのが、運のつきだったな。でも意外だったな、まさか君の口から『学園の乗っ取り』だなんて言葉が出るとは。てっきり君は殿下に対して、従順な姫だと思っていた」
彼の言葉に思わず笑う。
この学園は、この国の縮図。それが国内での常識だ。
学園の自治権限を持つ、学生組織・生徒会。この組織は実質、将来国営を担うべき人材が予行練習を行うべき場所であり、所属するのは国内でも特に五権力や能力がある、将来国を動かす事を期待される生徒たちである。
将来の国営の要である王族が在学している現在、生徒会を仕切るのは殿下である。彼が選んだ人材と共に、この学園は統制されている。
そんな相手からそんな場所を乗っ取るという事が、一体どういう意味なのか。
大それた未来を予感する言葉に、聞こえてしまっても仕方がない。
「国なんて俺はいらないんだけど」
「もちろん私も要りません」
即答すると、ここまでずっと私から一定の心の距離を取っていたシェイド様の、瞳に僅かな変化が見られた。
少し面白がり始めている。
そんな手ごたえを感じ、私は仕掛け時を確信した。