054 大きいの、来る
「シエル、大変」
ティフォーネの声がして、振り向くと、彼女は小さい羽根を必死で動かしながら、風で飛ばされないように頑張っていた。だんだんと疲れてきたらしいティフォーネは、ふらふらと私の元へ降りてくる。
小さなコガラスを、私は両手で支えた。ティフォーネは、ふう、と息をつくと、話し始めた。
「大きいの、来る」
「大きいの?」
ティフォーネは空を見上げる。私もそれにつられて上を見ると、そこにはただ灰色の雲が渦巻いているだけだ。
「さっき、見た。大きいの」
「大きいの、とは……具体的にどのような?」
レインも上を見ながら首を傾げている。
「大きい、……魚?」
「さ、魚?」
私が聞き返すと、ティフォーネは小さく頷いた。
「……なるほど。勇者パーティーの皆さんとシャインがこの船に乗った理由は、それですか」
「どういうこと?」
私の質問に答えようと口を開きかけたレインは、はっとして空を見上げた。私も同じように空を見上げる。
――その瞬間、雲から何かが飛び出した。
水色の鱗で覆われた、長い長い体。頭から生えた銀色の角と、鼻の辺りから伸びるひげ。少しだけ開いた口から見える鋭い牙と、鋭い眼光は、明らかにこちらを狙っている。
「なに、あれ……」
見たことのない生物。人間では絶対に敵わない、大きくて強い何か。その恐怖に、私の声は震えていた。
そんな怪物を目にしても、無表情を崩さないレインは、冷静な声で言う。
「あれは竜です。上級魔物よりもっと強い、伝説級魔物とされています」
「竜……」
「何もしなければ人に危害を加えることはありませんが、今回はずいぶんと怒っていらっしゃるようですね」
まるで他人事のように話すレインは、伝説級とされる竜に勝てると思っているのだろうか。魔王軍四天王って、どこまで強いんだろう。竜に勝てるぐらい、強いのだろうか。
「イル、しっかりしてください!」
チユの声が聞こえて、私たちは振り向いた。
苦しそうな顔をしたイルが、チユに支えられている。
「解毒薬、持ってますよね?」
イルは頷く。チユは彼のバッグをあさり、解毒薬を探した。
「クラーゲンに刺された?」
「マリーナさん、何が――」
レインがマリーナのほうを向くと、そこに彼女の姿はなかった。代わりに、さっきまでマリーナがいた場所には、黒いローブが残されている。
「え……どういうことです?」
レインは船を見回す。
「ねえ、レインくん。アストは?」
さっきまで、アストはクラーゲンに捕らえられていたはずだった。だが、その黄色っぽい足には、彼の姿はない。ただ、行き場なく足をさまよわせているだけだった。
「……いませんね」
どこにも、アストはいなかった。そして、マリーナの姿もない。
「竜に驚いたクラーゲンが、イルさんを刺したのでしょう」
イルは、チユに解毒薬を飲ませられたようだが、冷や汗が止まっていない。イルの話では、クラーゲンの毒は激痛と麻痺を起こす、とのことだった。おそらく、イルは今、体を思うように動かせないのだろう。
「アストさんは……」
そう言いながら考え込んでいたレインは、はっと顔を上げると、手すりまでゆっくり歩いていく。そして、海を覗き込んだ。
「海に、落ちた……?」
私が尋ねると、彼は何も言わずに、ただ海を見つめるだけだった。
「マリーナ、は?」
ティフォーネが、マリーナの残したローブを見ながら言う。
「助け、行った?」
「わかりません」
レインは海から私たちへ視線を戻すと、そののちに空を――竜を見上げた。
「まず最優先で考えるべきは、あの竜です」
アストとマリーナのことは心配だが、もしアストのことをマリーナが助けに行ったのなら、そっちは任せておいて大丈夫だと思う。マリーナは泳ぎが得意なマーフォーク族だから、きっと大丈夫。
今はあの竜をどうにかしなければ、私たちの命も危ない。
「なんで、こんな……シャインはどこぉ……」
勇者は竜を見上げながら、今にも泣きそうな声で言う。恐怖で気絶しなかっただけ褒めてあげよう。
「蒼炎の騎士さん、連れてくる?」
「……いえ、いいです」
私は目を見開いた。
「え、一人で戦うの? あんな強そうなのに?」
レインは答えず、黙って竜を見上げている。
「いくらレインくんでも無茶だよ。怪我したらどうするの?」
「それでも、やるしかありません」
「せめて蒼炎の騎士さん呼んでこよう?」
「彼が得意とするのは火魔法です。見たところ、あれは水の竜……相性的に、シャインは戦力外です」
火は水で消えてしまう。魔法も同じで、火魔法は水魔法で打ち消せる。威力の高い火魔法を放ち、水魔法では打ち消せないようにしたとしても、水の竜ならたぶん、火魔法なんて効かない。
「でも、蒼炎の騎士さんは剣も使えるでしょ? いてくれたほうが絶対――」
「足を引っ張られたら困りますから」
イルはクラーゲンの毒で動けない。アストは行方不明。勇者は腰を抜かしてしまっていて、チユは元々戦力外。この場で戦えるのは、レインしかいなかった。
「でも――」
私が言いかけたそのとき、竜が動き出した。こっちへ、近づいてくる。
クラーゲンは自分が食べられると思ったのか、海の底に隠れた。
「貴様らか、我の住処を荒らす者は」
耳を塞ぎたくなるような、大きな声。脳内に響いてくるようにも感じるそれは、まるで通信魔法のようだった。
「竜って話せるの!?」
「はい。ほとんどの竜は言葉を理解するようです」
レインは恐怖の色も何もないその瞳で、竜を怖いほどに見つめていた。