053 やっぱりだめだった
「ぎゃぁぁぁぁ!」
人々に希望を託されて、「オレがやらないと」と意気込んで、ほんの数秒で勇者は悲鳴を上げながら逃げ回っていた。
レインの肩を叩き、マリーナには聞こえないように話す。
「やっぱりあの人には無理だよ」
「…………」
レインは諦めたように勇者を見て、何も言わなかった。
もうわかりきっていることだ。勇者の臆病な性格は変えられないし、だからいつまでたっても魔王城には来ない。勇者と魔王がどうしても決闘する必要があるのなら、魔王自ら出向い……たとしても、勇者は逃げ出すだろうから、正直もう手はない。
「私、一生人質のままかな……魔王城で、健気に勇者を待ち続けて、結局家に帰れず終わるのかな……」
私はわざとらしく、悲しむフリをする。
「別にそれでも良くないですか?」
「良くな……くはないかもしれないけど……」
毎日ぷにぷにのカメに癒され、不愛想だけど本当は優しいレインと過ごしながら、無邪気でお馬鹿な魔王コスモに翻弄されて、カオスに連れていかれるコスモを「ご愁傷様」と思いながら見送る。正直、そんなに悪くはないのだ。
「ずっと魔王城にいればいいです」
レインは感情のない声で、ぽつりとこぼした。
「そういうわけにはいかないから」
それは、レインが一番よくわかっていることのはずだった。彼は何を考えているのか、ただただ目を閉じているだけだ。
「……深刻に考えているようだけどさ、別に私が勇者に助けられたとしても、二度と会えなくなるわけじゃなくない?」
レインは不意を突かれたように、こちらを向いた。
「会いたいなら人間界に来ればいいだけだし、もし警備か何かがあっても、レインくんなら強行突破できるでしょ?」
「……そう、ですね」
私が勇者に助けられるということは、永遠の別れを意味するのだと、レインは思い込んでしまっていたらしかった。
「勇者が勝つ前提で言っているようですが、魔王様が勝つ可能性もありますよ。いえ……今の状態だと、ほぼ魔王軍が勝ちますよ?」
まあそうでしょうね。クラーゲンから逃げ回るだけで、一向に攻撃しない勇者が、魔王に勝てるとは思えない。
「魔王軍が勝てば、シエルさんを人質として、ずっと魔王城に閉じ込めておくこともできます」
「それってさ、勇者が助けに来ても来なくても、九十九パーセントぐらいの確率で、私は一生人質のままじゃない……?」
レインを見ると、彼は勝ち誇ったような雰囲気を漂わせていた。その表情は相変わらず無表情だが、私にはそう見えた。
「君には罪悪感というものはないのかい? 私を攫った張本人のレインくん?」
「……悪いとは、思っていますよ」
彼は視線を右へ逸らした。罪悪感を抱いているときや、後ろめたいことがあるとき、レインは視線を右へ逸らす癖がある。だから、本当に悪いと思っているのだろう。でも、レインは嘘をつくときもそうするから、正直わからない。
「勇者様、いざというときは私が結界を張ります! ですから、勇者様は安心して攻撃をしてください」
逃げ回って息を切らしている勇者の手を握り、チユは言った。
「う、うん……。オレは、大丈夫。できる…………」
もう一度、勇者は剣を構えた。
「そんなんで世界を救えるわけがない……」
「イル、そんなこと言ってないで、協力してください。クラーゲンの弱点はどこですか?」
「クラーゲンには痛覚がないらしい。だから、どこを攻撃しても一緒」
そうなんだ、とマリーナを見ると、彼女はこくりと頷いた。
「足で攻撃してくるから、それを狙えばいいんじゃない?」
マリーナは、ゆっくりと手を下ろす。その速度と同じぐらいで、クラーゲンも勇者の頭上へ足を下ろした。
勇者は一瞬恐怖に顔を歪めたが、反射的に剣を振った。あれは剣で切ったというより、殴ったと言ったほうが正しい。クラーゲンの足に刃が入ることはなかったが、勇者に軌道を変えられ、クラーゲンの足は勇者の右隣にたたきつけられた。
少し割れた甲板を見ながら、勇者は口をパクパクさせていた。
「船、あまり壊さないでくださいね。沈んだら困るので」
マリーナは頷き、クラーゲンへ次の攻撃を指示した。さっきと同じように、クラーゲンの足が勇者へ迫る。
「やだぁぁぁぁ!」
情けない叫び声をあげながら、勇者は剣を振った。今度は、少しだけだがクラーゲンの足に刃が入った。
「もうやだ、無理ぃ……」
「お前はちゃんと戦えてる! 自信を持て!」
アストの言葉に、私は首を傾げた。
いや、戦えているか……? たしかに、勇者にしては頑張っているほうだが、これを戦闘と呼んでいいものなのか、微妙なところだった。
もう一度、クラーゲンの攻撃が来る。
勇者は、迫りくる足をじっと見つめた。剣に力を込め、クラーゲンの足に切りかかる。
クラーゲンの足は、そこから切れた。切れたほうの足は、ぼとりとデッキに落ちると、灰のように消えてなくなった。
「切っ、た……?」
勇者は、信じられないというように、遠ざかっていくクラーゲンの足を見ていた。
「すごい、すごいぞ、勇者!」
「さすがです、勇者様!」
「まあ……君にしては頑張ったんじゃない?」
アスト、チユ、そしてイルにまで褒められて、勇者は少し笑みを浮かべている。
私も小さく拍手しながら、気が遠くなる思いで呟く。
「何これ?」
「試練というより、訓練ですね」
「クラーゲンも困ってるよ」
足を切っただけ。ただそれだけで仲間たちから褒められる勇者を見て、クラーゲンも固まっていた。
勇者って何だっけ。