052 勇者が強いだなんて
きらきらとした瞳で見つめてくる勇者に、クラーゲンは動きを止めた。「自分がかっこいいって、あんた感性大丈夫か」と、言葉はなくとも伝わってくる。
クラーゲンは足を、勇者へ伸ばした。
勇者は、かっこいい(?)クラーゲンに出会えた喜びで染まっていた瞳を、今度は恐怖の色で染め上げた。ヒュウッと息を吸い込んだのち、勇者は固まってしまった。
「だから危ないって言っただろ!」
そんな勇者の腕を引っ張り、アストは後ろへと下げた。
それを見計らい、私たちの近くにいたマリーナは手を振り下ろす。と同時に、クラーゲンは足を船へ叩きつける。
「おお、すごい……」
ぽつりと呟いた私の言葉に、マリーナは顔をこちらへ向けた。
突然、マリーナと私の間を、強い風が吹き抜ける。思わず目をつむると、今度は急に雨が降ってきた。横殴りの雨が、肌に当たって痛い。
「この雨はやりすぎじゃない!?」
私が少し大きな声を出しても、誰にも聞こえなかったらしい。
デッキに出ていた乗組員や、クラーゲンと勇者一行の様子を見守っていた乗客は、突然の雨に混乱して騒ぎ出す。だが、その声も雨にかき消され、誰が何を言っているのかなんて、全く聞き取れなかった。
ようやく、痛いほどの雨が少しだけ治まった。目も開けられないぐらいだったから、ティフォーネが対処したのだろう。
「マリーナさん、油断してはいけません」
強い雨の中でも涼しい顔をしていたレインは、マリーナへと声をかけた。彼女はローブのフードをしっかりとつかんだまま、勇者たちのほうへ顔を向けた。
イルが、クラーゲンに狙いを定め、弓を構えている。イル以外の三人は、急な天候の荒れ方に、理解が追い付いていないようだが、彼だけは冷静だった。さすがだと思う。
マリーナはイルを指さし、開いた手を握る。クラーゲンはそれを見て、イルへ足を伸ばす。
イルはクラーゲンの足が迫ってきていることに気づき、よけようと後ろへ下がる。そこには、もう一本のクラーゲンの足。イルがそれに気づくより早く、クラーゲンはイルの体を巻き取った。
「……ッ!」
「イル!」
アストが、イルを助け出そうと、そっちへ向かって走っていく。
「待って、アスト。突っ込んでったらまた同じ目に!」
マリーナは、今度はアストを指さし、開いた手を閉じる。これが「あの人を巻き取れ」という合図なのだろう。
勇者が注意したにも関わらず、クラーゲンへ向かって行ったアストは、案の定、拘束されてしまっていた。注意力散漫なところは、五年前と何も変わっていないらしい。それでよく冒険者になれたな、と思う。
マリーナは、チユを指さし、手を開く。
「マリーナさん。チユさんはおそらく何もできませんから大丈夫です。ですが、もしもの場合はよろしくお願いします」
そう言われ、マリーナは手を下ろす。
「君、やっぱり馬鹿だよね。何してるの?」
「一番最初に捕まったお前には言われたくねーよ!」
ギャーギャー言い合っているアストとイルを見ながら、勇者は顔を青くした。
「動けるの……オレ、だけ……?」
絶望の表情で、勇者はぼそりと言った。
ごめん。本当にごめん。でも、君が成長するために必要なことだから、どうか頑張ってほしい。
「勇者様、大丈夫です。私はまだ動けますし、イルたちだって意識はあります。だから、どうとでもなりますよ!」
チユは、勇者を安心させるように、優しい笑みを浮かべながら言った。だが、勇者の不安や恐怖が完全に拭われるわけではない。
「お前、クラーゲン好きなんだろ! なんでかは知らんけど。じゃあ戦ってみたいと思わないのか!?」
「それは……ちょっとだけ」
「ならさっさとやってくれる? 君の実力なら余裕でしょ?」
イルの言葉に驚いて、私とレインは顔を見合わせた。イルが勇者の実力を認めているという点も驚きだが、それよりも、「勇者が中級魔物を余裕で倒せるぐらいの実力を持っている」ことが信じられなかった。
私の中で、勇者は、素人でも簡単に倒せるコガラスにつつかれて泣いているイメージしかない。彼は、体を動かすよりも、頭を使うことのほうが向いているのだ。
「あの人そんな強いの?」
「知りません」
レインも混乱しているのか、勇者のほうをじっと見つめていた。
「でも……、でも……」
腰の剣を握りしめながら、勇者は震えている。
「あんた、強いのか!? なら、あの化け物を倒してくれ!」
「頼む、このままじゃ船が沈んじまう!」
船の乗組員たちの声が響いた。
「お願いします。子供が乗っているんです!」
「頼みは兄ちゃんだけだ!」
船内から様子を窺っていた乗客たちも、次々と口にする。
「勇者さん、頑張ってください」
ちゃっかりレインも、その声に混ざって勇者に声をかけた。
勇者はのそりと立ち上がった。大きく深呼吸をし、金色に輝く――聖剣を、その鞘から抜いた。
「オレが……やら、ないとっ」
震えながら剣を構えるその姿は、決してかっこいいものではなかった。けれど、船に乗っている人々は、彼の背に希望を見ていたのだ。
そのとき、怖がりで、人見知りで。五年経っても助けに来てくれないあの人は――
――――確かに、勇者だった。