93 人殺しの覚悟
「しまった!」
暗い建物の中を進んで行くと、唐突に八坂が不穏な事を口走った。
間髪入れずに、ティーガーの前方に何かがぶつかった重い金属音が聞こえ、戦車が急に止まった時特有の強烈な横Gがかかった。
「だ、大丈夫!? どっかにぶつかったの?」
「いや、ちょっと……」
いつものぼそっと悪態をつく八坂とは違って、今回は何故か歯切れが悪かった。
「別に怒らないから、正直に報告して」
「えっと、さっき無力化したはずのシャーマンが前にいるんだけど……」
八坂の報告を聞いて、杉野はキューポラから顔を出して、前方の様子を確認してみた。
薄暗くて分かりにくいが、深緑の車体がティーガーの前に陣取っているのがうっすらと見える。
建物の中は細い通路になっているので、これでは先に進めない。
「もう少し行けば、広い戦車置き場に出られるのに」
杉野が悔しがっていると、後ろからエンジン音が聞こえてきた。
先程のシャーマンジャンボとそのお仲間が追いかけてきたのだ。
「まずい、このままじゃ挟み撃ちだ。八坂さん、前のシャーマンを押したりはできないの?」
「やってるわよ! あっちも必死に押してくるから、全然前に行けないのよ」
前に行けないとなれば、もはや打つ手はない。
主砲は前に向けたままだから、こんな狭い通路では後ろを向かせることはできないだろうし、できたとしてもこんなに暗いんじゃ当たるかどうかも分からない。
「杉野隊長! 意見具申をしてもよろしいでしょうか?」
「いいよ、どうせもう助からないし、なんでも言ってよ」
「発煙弾を発射してはいかがでしょうか。煙の中に入れば相手の命中率を少しでも下げられると思いますです」
「なんでもいいからやっちゃって、時間稼ぎにしかならないだろうけど」
杉野はもはや諦めつくしていた。
車長がこれではどっちにしろ、生存率は低い。
そこんところをエリックに教えてもらわなかったのが、敗因だ。
「では、発煙弾発射!」
神谷が威勢よく宣言すると、二発の発煙弾が炸裂する乾いた爆発音が聞こえ、キューポラから見えていた周りの景色が白く霞み始めた。
一瞬にして、通路の全てを真っ白な煙で埋め尽くした発煙弾のおかげで、後ろの戦車達はそれ以上撃ってこなくなった。
しかし、煙はそのうち外へ流れて消えてしまうだろう。
そうなれば、あちらは容赦なくこちらを撃ってくる。
そう、これはあくまで死ぬまでの時間が延びただけなのだ。
「なぁなぁ、前のシャーマンって、どうにかして止められないのか?」
杉野が絶望に打ちひしがれていると、坂田が素朴な疑問をぶつけてきた。
「うーん、変速機を撃てば動かなくなるとは思いますがなぁ……」
「やってみればいいんじゃねぇの?」
「それが、変速機は通信手席と操縦手席の真下にあるので、下手したら相手を殺してしまうかもしれないのでありますよ」
博士からはなるべく殺さぬようにと言われているので、下手な博打は打てない。
しかし、こう考えることもできる。
全員やっちゃえば、最初からいなかったことにできるのではないかと。
「それ、やってみよう。今は殺す殺さないなんて気にしてる場合じゃない」
「いいのですか? 人殺しになるかもしれないのですよ」
「上手くやれば殺さずに済むんでしょ? やってみる価値はあるよ。それに……」
言葉の続きを言うのに、少し勇気が要った。
なので、杉野は深呼吸してから、覚悟を決めて口を開いた。
「それに、もしもの時は僕が責任を取る。なんたって、このティーガーの車長だからね」
杉野の覚悟を聞いて、神谷は酷く驚いた。
と思いきや、ボロボロと大粒の涙を流し始める。
「うぅ、杉野隊長はトンデモなく良い人なのですなぁ」
「ちょ、泣かないでよ。なんか、恥ずかしいから」
慌てて神谷をなだめていると、坂田が背中を思いっきり叩いてきた。
「痛った! なにするんですか!?」
「いや~、杉野も言うようになったなぁと思って。ってか、お前だけが全部背負う必要はねぇって。第一、本来はあの糞教官が車長なんだからよぉ。あいつに全部擦りつければいいんだろ」
「なるほど、そういやそうか」「確かにそうでありますな!」
杉野だけでなく、さっきまで号泣していた神谷もこれには涙が引っ込むほど納得したらしい。
「んじゃ、そうと決まればやっちゃいますかね」
「その意気だ! 装填はもう完了してっから、あとは撃つだけだぜ、神谷」
「了解であります! では、不肖神谷小太郎、撃たせていただきます!」
そう言うと、神谷は照準器を覗き込んだ。
神谷が照準器を覗き込んでからどれくらい経っただろう。
息をしているのかも分からないほどに集中した神谷は、まるで石になったかのように固まって動かない。
「かみ――」
「……いきます!」
心配になった杉野が声をかける前に、神谷が全身の毛が奮い立つほどの覚悟を込めた掛け声を上げた。
ズッカァァァァン!!!
掛け声と共に、ティーガーの砲撃音と前方にいるシャーマンに砲弾が当たった金属音が通路の中にこだました。
「あっ、押されない」
神谷の覚悟が大いに込められた砲撃は見事に目標に当たったようで、八坂のほっとした声が聞こえてきた。
「やりましたよ! 坂田隊員! 杉野隊長!」
「よくやったな、神谷!」「そう簡単にはできないよ、これは」
あの煙が充満する暗い通路の中で、ほぼ接射だったとはいえ命中させたのだから、トンデモない神業だ。
まあ、まだ中の人が無事かは分からないが、それはとりあえず置いておこう。
今はとにかく、動かなくなったシャーマンを押しながら、建物の奥へと逃げることに集中しなければならないのだから。
動かなくなったシャーマンを押していくと、急に視界が開けた。
発煙弾の範囲を抜けて、建物の奥にある戦車置き場に辿り着いたのだ。
「よし、なんとか奥まで行けたみたいだ。八坂さん、ティーガーが完全に部屋に入ったら、左に曲がって。神谷は砲塔回して、主砲が後ろを向くように」
「おー、なんか車長っぽいなぁ」
坂田がなにやら言ってくるが、今の杉野には一々構っている余裕などなかった。
「発煙弾の煙が消えるまではまだ猶予があると思うから、急がなくても大丈夫だからね」
「言われなくても、そんなに早く動けないわよ」
「自分はできますが、杉野隊長がそう言うならゆっくりやるであります」
しかし、杉野の予想は外れてしまったようで、通路の方からシャーマン達のエンジン音が聞こえてきた。
煙があればバレなかっただろうが、なくなってしまえば奥へ行ったことはバレバレだ。
「そう、焦らずに落ち着いて」
それでも、杉野は慌てなかった。
無理に急かしても、壁に引っ掛かったりして逆に遅くなるかもしれないからだ。
ゆっくりと、しかし確実に戦車を通路から出し、部屋の壁際にピッタリつけるのは至難の業であった。
時間はかかったが、ミスなくやれたのは杉野の一言があったおかげなのかもしれない。
ただ単に、運が良かっただけという可能性もあるが。
通路からすぐ出た所で待ち伏せたら、あとは後続のシャーマン達が部屋に入ってくるのを待ち、タイミングよく砲撃してやればいい。
上手くやれば一発で無力化、ミスったとしても相手の動きを牽制できるはずだ。
もし撃たれたとしても、相手にお尻を向けていればエンジンを犠牲にして、人的被害を抑えることができる。
まさに完璧な作戦だといえるだろう。
「杉野隊長! 暗くて、前が見えません!」
ただ一つ問題があるとするなら、視界が悪すぎることだ。
「くっ、こうなったら!」
神谷の不満を解消する為に、杉野は懐から私物のマグライトを取り出し、ハッチを少しだけ開けて前を照らした。
「どう? これで見える?」
「完璧であります。しかし、ずっと点けているとバレるので、ここぞという時に点けてくだされ」
「OK、じゃあその時になったら、声かけるね」
仕事柄、暗い所に行くことが多いので、ライトを買っておいたのは正解だった。
備えあればなんとやらとは、よく言ったものだ。
撃つ時の視界は確保できそうだが、それまでは音だけで判断しなくてはならない。
そのため、杉野はキューポラから完全に顔を出して、通路の奥から聞こえてくるエンジン音に耳を澄まし、シャーマンが出てくるタイミングを見計らうというなんとも重大な仕事をやるはめになった。
もし、さっきのライトで相手がこちらの意図に気づいて、通路から出てきてすぐに撃ってきたらどうなるのだろう。
車内にいる神谷達はまだしも、キューポラから顔だけ出している杉野なんかは間違いなくただでは済まなそうだ。
「おい、杉野」
「なんですか? こんな時に」
「不安なら俺と代わるか?」
「いえ、大丈夫です。車長として最後までやり切ります」
「そうか、強くなったな」
それ以上、坂田は何も言わなかった。
だが、それでいいのだ。
弟分の成長を陰ながら見守り、時に助け、時に見放すのが兄貴分の仕事なのだから。
位置バレを防ぐ為にエンジンを切り、シャーマン達のエンジン音だけが聞こえる暗闇の中に目を凝らす。
暗いので何が何やら分からぬが、通路を通じて外から射している陽光が徐々に狭まっているのに気づくと、杉野はもうすぐ運命の時が近づいているのだと悟った。
それはまさに死へのカウントダウンであり、逆境を乗り越えるまでの他愛無い待ち時間でもあった。
永遠に思えるほどの時間が流れた後、通路から聞こえていたエンジン音はすぐそこまで迫り、もしかしたら自分の目の前で鳴っているのではないかというほどに音が大きくなっていた。
だがしかし、ここで日和ってライトを点けてしまったら、こちらの策を見破られてしまう。
そうなれば、今度こそお終いだ。
なればこそ、杉野は待たねばならなかった。
待って、待って、待ち尽くして、何も知らない獲物が目の前に出てきたら、ライトを点けて合図を出し、奴のどてっぱらに渾身の一発を食らわせてやるのだ。
ただひたすらに待っていると、エンジン音と共にキャタピラのキュラキュラという音が聞こえ始め、ついには部屋の中で反響し始めた。
おそらく、一両目のシャーマンが部屋の中に入り始めたのだろう。
しかし、まだだ。撃つにはまだ早い。
もう少し引き寄せて、相手の車体が八割がた出てきたところを狙わば、一発で仕留めきれない。
「もうそろそろいいのでは?」
神谷が急かしてくるが、無視した。
砲撃のタイミングはあくまで車長が決めるものだから、何も言わなければ神谷は撃たない。
もはや、車長の耳と勘に頼ったタイミングではあるが、そこらへんはしっかりと守らねばならない。
そうしている間に、部屋に入ってきたシャーマンがちょうどいい位置に来たような気がした。
音ではなく、完全に勘だ。
とはいえ、こんな暗い中ではそれくらいしか判断基準がないので、しょうがない。
杉野はすぐさまライトを点け、砲主席で照準器を覗いている神谷に叫んだ。
「今だ、撃て!」
「了解!」
杉野の指示から、ティーガーの主砲が火を噴くまでは一瞬であった。
キューポラから顔を出していたので、車内で聞いていたよりも格段に大きい砲撃音で耳が痛かったが、それでも杉野は握っていたライトは離さなかった。
とはいえ、しばらくの間は耳鳴りがしていたが。
耳鳴りがいくらかマシになってくると、砲撃によって巻き上げられた砂埃が晴れ、ライトの先に火を噴いたシャーマンが沈黙しているのが見えてきた。
「だ、大戦果であります! あのシャーマンジャンボを撃破しましたぞ!」
車内から神谷の嬉しそうな声が聞こえてきたので、杉野は目の前の景色が現実であると気づけた。
しかし、勝利に浮かれている場合ではない。
まだ、もう一両来ているのだから。




