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86 森の獣にご用心

 授業のようなブリーフィングが終わり、杉野達は装備を充分に整えてから、校舎を出た。

 博士の話では、この廃校から少し歩いた所に樹海に入る遊歩道があるらしい。

 遊歩道を通って行けるのなら、案外簡単なのかもしれない。

 この時の杉野達はそんな感じで楽観的に考えていたので、あとになってもう少し準備してくればよかったと後悔することになるとは夢にも思わなかった。



 閑静すぎる住宅街をしばらく歩くと、「青木ヶ原樹海散策遊歩道」と書かれたわりと奇麗な看板が見えてきた。

 廃校からはせいぜい徒歩十分くらいしか離れていなかったが、道中の地元民からの視線には参った。

 どうにも杉野達を自殺志願者か何かと勘違いしているらしい。

 皆一様に、幽霊でも見るかのような顔でこちらの様子を伺っているのだ。

 やはり、樹海に入っていくような人間なぞ、自殺志願者か相当な物好きくらいなのだろう。

 とはいえ、さすがに樹海の中へ入ってしまえば、そう気になることもないはずだ。

 杉野達は視線から逃げるように遊歩道の奥へ突き進んだ。



 奇麗な看板があったわりには、遊歩道自体はかなり荒れていた。

 秋らしくそこら中に落ち葉の絨毯が出来ているのはなかなか見応えがあっていいのだが、足元が見えない分、危険でもある。

 落ち葉の下に潜む木の根っこや地上に突き出た岩などに足を取られ、一行は何度も転んでしまった。

 落ち葉のクッションで多少は衝撃が軽減されるとはいえ、痛いものは痛い。

 杉野達は早々に帰りたくなってきた。

 こんな深い森の中、しかも有名な自殺スポットを歩くというのは、精神的にも肉体的にも辛いのだ。

 とはいえ、勝手に帰ろうものなら、もうすぐ貰えるらしい冬のボーナスがなくなってしまうかもしれない。

 坂田はともかく、杉野達未成年組にとっては人生初ボーナスとなるので、それだけは避けたい。

 月給五十万のボーナスとなれば百万は下らないだろうし、なによりここまで頑張ったご褒美が貰えるかどうかというのは、今後のモチベーションにも関わってくる。

 ここで諦めたら、あとは後悔しかないのだ。

 だがしかし、このままでは精神的に耐えられても、肉体的にはいずれ限界が来る。

 やはり、やり方を変えるべきだろう。

 そう考えた杉野はある提案をしてみることにした。


「すいません、ちょっと止まってもらってもいいっすか?」


「なんだぁ、杉野? 小便でもしたくなったか?」


「いや、そういうわけではないんですけど。今、落ち葉の山の上を歩いているじゃないっすか? これだとちょっと危ないんで、即席のほうきみたいなのを作って落ち葉を掃きながら進みませんか?」


「おぉ、確かにそんなら転ばんな! んじゃ、早速枝集めてほうき作ろうぜ」


 かくして、「落ち葉掻き分け大作戦」が始まった。



 まず最初に、ほうきを作る為の枝を集めるところからだ。

 枝に関しては簡単に調達できた。

 さすがに樹海と言われているだけあって、それなりの太さの枝がそこら中にごろごろ落ちているからだ。

 枝の長さもお箸くらいの短いのから、人の背丈とさして変わらないくらい長い物もあるので、選り取り見取りだ。

 材料が確保できたら、早速製作していこう。

 ほうきを製作する際はなるべく長い枝を持ち手に使い、細くて短い枝をそこらに生えているエノコログサで持ち手に縛って固定する。

 これで、お手製ほうきの完成だ。


「これはなかなか、丈夫そうですなぁ」


 そう言って、神谷がほうきを振り回すと周りの落ち葉が舞い、赤や黄色に彩られた落ち葉の波が坂田に降りかかった。


「おぶっ! 気をつけろよ、神谷~」


「すいやせん、つい」


 落ち葉の波が止んでから、今度は杉野が静かめにほうきを動かして、落ち葉を掃ってみる。

 杉野の思惑通り、落ち葉が浮かび上がることなく、自分達の進むべき道が奇麗になった。

 幸いにも、落ち葉の絨毯の下にはコンクリの道がしっかりとあったので、これでようやく転ばずに先へ進めそうだ。



 しばらくは遊歩道のコンクリロードが続いていたが、どういうわけか途中でレンガ造りの道に変わった。

 遊園地へと続く道なのだろうか。

 レンガ自体はわりと奇麗で、きっと落ち葉がなければワクワクするような光景なのだろう。

 杉野は無意識のうちに鼻歌などを歌いながら先へ進んだので、他のメンバーとはぐれていることに気づかなかった。


「いや~凄いですねぇ、このレンガ。びしーっとずっと先まで敷き詰められてますよ」


 杉野がその一大事に気づくのは、誰からも返事がないなぁと思ってあちこち見回した時だった。

 後ろを見ても横を見ても、誰もいない。

 もしや、この道はまた違う道で、他のメンバーは正規のルートを進んで行ったのだろうか。

 そう思い、杉野が元来た道を戻ろうと後ろを向くと、目の前に黒い大岩が佇んでいた。


「こんなのあったけ?」


 杉野が独り言を言うと、その大岩がピクっと動いたような気がした。

 試しに触ってみると、ごわごわとした触感でほのかに暖かく、表面には無数の黒い毛らしき物が生えている。

 果たして、岩に毛が生えるものだろうか。

 もしや苔か何かかと思って、一本だけ抜いてみると、岩から「ブオッ!」と声がした。

 そこで、杉野の疑惑は確信に変わった。

 杉野は咄嗟に後ろに飛び上がり、岩との距離を取る。

 予想が正しければ、そうしなければまずいことになるからだ。

 その答え合わせをするように、岩がこちらを振り向き、のそのそと近づいてきた。

 そう、これは岩なんかではない、熊だ。

 胸に三日月のような白い模様があることから、どうやらツキノワグマらしい。


「あっ……あ……」


 杉野は熊に遭った時の対処法を記憶の海から探しだした。

 しかし、行動に移すのは少々厳しかった。

 あまりの恐怖に足がすくんでしまったからだ。

 これでは、後ずさりで逃げ出すのもできない。

 そんなことはお構いなく、熊の方はジリジリとこちらへ近づいてくる。

 このままでは、熊の引っ掻き攻撃の射程範囲に入ってしまうといったところで、熊の後ろから声が聞こえてきた。


「おーい! 杉野ー! 何処だー!」


 あれは間違いなく、坂田の声だ。

 熊がその声に気を取られているうちに、杉野は背負っていたリュックを熊に投げつけ、一目散に逃げた。

 あのままあそこにいれば、きっと坂田達が助けてくれるだろう。

 しかし、相手は猛獣だ。

 怪我の一つや二つは避けられない。

 特に、戦闘経験が乏しい清水には荷が重いだろう。

 となると、最善の手は杉野一人で逃げまくり、現場まで辿り着くことだ。

 現場にはあのエリックがいるのだから、そこまで辿り着きさえすれば助かる可能性は高い。

 ただ、心配なのはこの道で合っているのかどうかだ。

 わざわざレンガの道に変わっているのだから、おそらく合っているとは思うが、万が一違ったら命はない。

 熊はまだ追いかけてきてないが、リュックを弄るのに飽きて、こちらを追いかけてくる可能性は非常に高い。

 もし、追いかけてこなかったら、それはそれで困るが、あまり早く来られても困る。

 そんな心配をしていると、ついに熊はリュックをそこら辺に捨てて、杉野へ向かってきた。

 少しずつ加速していき、ついには車とさして変わらないほどのスピードで走る熊はもうすぐそこまで迫っている。

 ふと、杉野は自分が武器を持っていることを思い出した。

 もちろん、即席のほうきではなく、腰のホルスターに差しっぱなしの拳銃だ。

 あまりの恐怖に、銃の存在をすっかり忘れていたのだ。


「これでも食らえ!」


 杉野は銃を抜き、走りながら熊の眉間を狙って、引き金を引く。

 銃弾は惜しくも熊の頭のすぐ横を通り過ぎた。

 しかし、初めての銃声にびっくりしたのか、熊は一瞬止まったかと思うと、道を外れて草むらへと消えていった。

 無事に熊を撃退した杉野だったが、坂田達が到着するまで足が震えて一歩も動けなかった。



 坂田達が到着し、杉野はこの旅の危険性を大いに説いた。

 しかし、思ったよりも反応が薄く、坂田なんかは目をキラキラさせながらあちこち見回して、逃げた熊を探したりしている。


「なんで、平気なんですか!? 熊が居たんですよ!」


「んなもん、銃でどうにかなるっての。ってか、今迄もデカいムカデとか色々と討伐してきたんだから、熊くらい余裕よ」


 さすがの杉野も、坂田の蛮勇にはほとほと呆れてしまった。

 いくら、自分達が化け物退治に秀でたハンターだとしても、今回ばかりは厳しい。

 我々の武器は、即席で作ったほうきと支給品の拳銃だけなのだ。

 ほうきはともかく、こんな拳銃が四つ集まったところで、大岩のような巨大熊を倒せるとは思えない。

 やはり、一刻も早く現場へ辿り着いて、エリックに保護してもらうのが最善だろう。

 だが、あの獣がそれを許すだろうか。

 この次期の熊は冬眠の為に食料を探して彷徨っているらしいので、もしかしたら杉野達を襲って冬眠前のディナーとして美味しくいただかれるかもしれない。

 そればかりは、なんとしても避けたい。

 こんな深い森の中で死んだら、遺体すらも回収してもらえないだろう。

 そうなれば、今迄に捕まえてきた幽体達のようにこの鬱蒼とした森の中を彷徨うことになってしまう。

 そんな恐ろしい妄想に取り憑かれている杉野の横で、坂田はまだ熊を探していた。


「まだ探してるの? 早く行くわよ」


 見兼ねた八坂が声を掛けると、坂田がこちらに振り向いて頭を掻く。


「いやー、なんもいなかったわ。杉野、ほんとに居たんか?」


「間違いなく、あれは熊でしたよ! 実際にこの手で触ったんですから!」


 あまりにも杉野が必死に言うので、坂田はそれ以上聞いてこなくなった。


「それにしても、樹海にも熊が出るのですなぁ。自分、熊を生で見たことがないので、一度お目にかかりたいのでありますよ」


「……そんな面白いものではなかったよ」


 神谷の戯言に、杉野は少し苛立ちながら答えた。



 今になって気づいたのだが、ただひたすらに同じ景色が続いていると人は方向感覚がおかしくなってしまうらしい。

 現に、さっきから同じ所をぐるぐる回っているような気がするのだ。


「あっ! あの大木はさっきも見ましたぞ!」


 神谷が鬼の首でも取ったかのように言っているが、その大木を見るのはかれこれ十回目だ。

 このままでは、現場に辿り着くどころか遭難してしまう。

 現在持っている食料は約二日分、それも昼飯を抜いての計算でだ。

 これでは、熊に食われる前に飢え死にしてしまうだろう。


「うーん、ちょっと休憩するか。疲れちまって、頭が回ってねぇのかもしれんし」


 坂田はそう言って、そこら辺に転がっている、苔がこびり付いた倒木へ腰掛けた。

 そして、自分のリュックから貴重な食料であるチョコバーを取り出すと、愚かにもかぶりついたではないか。


「なにやってんすか! まだ先は長いんすよ! そんなペースで食ってちゃすぐなくなっちゃいますよ!」


「大丈夫だって。ほら、お前も食え」


 そう言うと、杉野の口に自分の分のチョコバーを突っ込んだ。


「どうだ、美味いだろ?」


「わっぷ! ……いや、美味いっすけど」


 チョコバーを食っていると、次第に頭が働くようになってきたようで、杉野にも多少の余裕が出てきた。

 よく考えてみれば、樹海くらいの広さの森を一日で踏破するなど、そう難しいことではないだろう。

 チョコバーの甘味で、杉野の思考も少し甘くなってきたところで、八坂が現実に戻すようなことを言ってきた。


「っていうか、杉野が会ったっていう熊、どうするの? まだ近くにいるんでしょう?」


「んなもん、ほっとけばいいだろ。銃声で追い払えたんなら、しばらくは近寄ってこないだろうし」


「そんなにうまくいくかな?」


 楽観的な坂田とは違って、八坂はやけに心配しているようだ。

 まあ確かに、杉野も熊のことは気になる。

 たが、なによりも重要なのは遭難しないことだ。

 熊のことは一旦忘れて、どうにかして目的地へ行かねばならない。

 現場に着きさえすれば、どちらも解決するのだから。


「そういえば、地図を全然見ていなかったのであります。試しに自分達が今何処にいるのか、確認してみましょうよ」


 唐突に、神谷が神がかった提案をしてきたので、他の四人はいたく感心してしまった。

 ついさっきまで、のほほんとしていたわりには、神谷はとても現実的な考え方をしていたのだ。

 もしかしたら、この四人の中で一番冷静なのかもしれない。


「ナイスアイディーア! 早速確認してみようぜ!」


 坂田が神谷から地図を奪い取るような勢いで貰うと、手近にあった平たい岩の上に広げる。

 地図には樹海の地名が書かれており、いくつかの洞穴などに混じって、キャンプ場跡もあった。

 これまで歩いてきた地形から現在地を割り出すと、どうにも「熊ヶ桶(くまがおけ)キャンプ場跡」の近くらしいことが分かった。

 さらに嬉しいことに、そのキャンプ場からは目的地へ繋がる遊歩道が敷かれているようだ。

 なんとも不穏な名前だが、とりあえずは行ってみるしかないだろう。


「よーし! じゃあ、しゅっぱーつ!」


 坂田の元気いっぱいな号令により、杉野達は再び深い森の中を歩き始めた。

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