85 仮の名は
緑の壁沿いを二十分ほど走っていくと、集合場所である旧珠海小学校が見えてきた。
知らない学校にバイクで入っていくのは気が引けるが、こんな所で足踏みしているわけにはいかない。
杉野は勇気を出して、学校の敷地内へ入った。
博士の話だと、ここは廃校らしいが校舎自体はそんなに古くはなく、まだ誰かがいそうなほどに奇麗だった。
しかし、校舎に用はない。
博士が待っているのは、運動場のど真ん中だ。
渡り廊下の下をくぐり、乾いたダートトラックに入ると、遠くの方に博士のハイエースが停まっているのが見えた。
どうやら杉野が一番乗りなようで、ハイエース以外には何も停まっていない。
あの博士と二人きりというのは少々、いやかなりきつい。
性格が嫌ってわけではないのだが、どうにも受け付けないのだ。
とはいえ、これもいい機会なのかもしれない。
試しに話してみたら案外楽しかったりするのかも、なんて甘い気持ちで杉野は死地に飛び込んだ。
相棒をハイエースの隣に停め、軽く博士を探してみるが何処にもいない。
ふと、何処からか視線を感じ、なんとなく校舎の方を見てみると、一階の教室らしき部屋からこちらへ手を振っている博士を見つけた。
わざとゆっくり歩いて近づくと、博士が窓を開ける。
「おー早いのう。君らのことだから、もっと遅くなるかと思っとったぞ」
現在の時刻は午前十一時ちょい前、集合時刻は十一時半だ。
杉野自身も少々早く着き過ぎたとは思っていたが、これも坂田の為なのだ。
「たまには早めに行こうかなと思いまして」
「いつも早めに来るようにしてほしいのう。特に、坂田君にはな」
博士はそう言っているが、もし坂田が一番乗りだったら、色々問題があるだろう。
坂田のやらなくていいことを良かれと思ってやってしまう性格が原因で、何かしらの事件や事故が起こる可能性は極めて高い。
なので、できることなら他のメンバーが揃ってから、坂田が来るくらいが一番ちょうどいいのだ。
そんな話をしていると、校門の方から聞き覚えのあるエンジン音がした。
間違いない、坂田のバイクだ。
なんともタイミング良く渦中の人が来たからか、杉野達二人の間には一時だけ沈黙が流れた。
その沈黙を破らんと、坂田がカッチョイイ音をかき鳴らしながらグラウンドに入ってきたので、博士は深い溜め息をついた。
「……まったく、騒がしい奴じゃな」
その呟きはバイクの音でかき消され、坂田はもちろん、杉野の耳にも届くことはなかった。
杉野のバイクの隣に自分の愛車を停めると、坂田はしばらくキョロキョロと周りを見回したのち、こちらへ気づいたようで、手を思いっきり振りながらこっちに走ってきた。
「ふぃ~、すげー渋滞で大変だったぜ」
「お疲れ様です。そんなに酷かったですかね?」
杉野からすると、今日の渋滞はまだマシな方だった。
もっとも、国道などのデカい道は避けているので、そこまで影響を受けることはないのだが。
「いやね、指定された通路の出口が高速から遠くてさぁ、おかげでアホみたいに下道走るはめになったんよ」
「あーそういうこと」
そういえば、坂田はすり抜けもせず、脇道もほとんど使わない、所謂優良運転者だった。
おそらく、渋滞していてもそのまま高速までのんびり走っていたのだろう。
「その割には、かなりお早い到着ですね」
「軽く飛ばしたからね。新東名で行ったから、140kmくらいなら問題ないのよ」
そうだった。細かいルールは守っても、基本的にスピードは守らないのだ、この坂田という男は。
「なんとも呆れたもんじゃ。言っとくが、移動中に事故ったとしてもうちの保険は効かんからな」
坂田の蛮行に、博士は怒る気も起きなかったらしく、一言だけ忠告しただけだった。
「別にいいもーん。こっちはちゃんと保険入ってるし、服の下にプロテクター付けてるから事故ったとしても、そこまで酷くはならんもん」
「その油断がいかんのじゃ! そんなことをやっとると、いつか痛い目に会うぞ」
「けっ、説教は仕事が終わった後にしてほしいもんだね」
博士の忠告を無視して、坂田は自分の愛車の所に戻っていった。
「ちょ、待ってくださいよー、坂田さーん」
この好機を逃すまいと、杉野もその後を追いかける。
これ以上、あの博士と二人きりになるのは御免だ。
運の良いことに坂田と二人っきりに慣れたので、杉野はあの事を聞いてみることにした。
もちろん、清水との関係についてだ。
「坂田さん、ちょっといいですか?」
「ん? なんか聞きたいことでもあんのか?」
「清水さんとは別れたんですか?」
「おーなかなか唐突だな」
「すんません。でも、忙しくなってきてからよりは、今のうちに聞いておいた方がいいと思いまして」
仕事が終わってから聞けばいいのでは、といったツッコミがあるかも知れないが、こんな重大な事がいつまでも謎なままではまともに仕事ができるわけがない。
そう、これは業務上必要な事なのだ。
「いや、別に、別れたってわけじゃねぇけどよぉ。ちょっと前に奥多摩行っただろ、そん時に色々とすれ違いというか、まあそんな感じで気まずくなっちまってな」
「はぁ、なるほど。じゃあ、別れてはいなかったんですね! 良かったぁ」
「そんなに気にしてたのか?」
「それは、まあ、大事な兄貴分の恋路ですから、そりゃ気になりますよ」
奥多摩から帰還してしばらくの間、我らが兄貴分は心配になるほど落ち込み、たまに溜め息なども吐いていたのだから、気にならない方がおかしい。
あの、普段は二次元にしか興味がない神谷でさえ、坂田の様子を気にしていたのだから、相当な一大事なのだ。
「すまんな、心配かけちまって。でも、大丈夫さ。そのうちいい感じになるだろうよ、多分」
坂田の根拠のない「多分」はいつもなら不安になるところだが、今回ばかりは安心できる。
きっと、坂田ならばどうにかしてくれるだろうと思わせてくれるからだ。
「それにしても、奥多摩で何があったんですか? よかったら、聞きますよ」
「いや、大した話じゃねぇのよ。それに、本人がいないところで、こういう話をするのは気が引けるから、ちょっとな」
やはり、坂田という男は人間が出来ている。
杉野は久しぶりにそれを確信した。
「なんかすいません、変なこと聞いちゃって……」
「気にすんなって。元はと言えば、俺が無駄に落ち込んでたのが悪いんだし。ほら、他の連中も着いたみたいだぞ」
坂田の優しさのおかげで、変に角が立つこともなく収まった。
とはいえ、またもやはぐらかされたような気もするが……。
十一時半ちょい前の時点で全員が無事に集まったので、博士が現場への突入前の最終ブリーフィングをしてくれることになった。
さすがにまだ秋とはいえ、少々肌寒い外でやるわけはなく、廃校舎の教室を借りてやる。
「では、これよりブリーフィングを始める。……杉野君、号令を頼む」
「へっ? 号令ですか?」
今迄はブリーフィング前の号令などなかったはずだが、どういう風の吹き回しだろうか。
「せっかく教室でやるのじゃから、学生時代のようにやるのもたまにはいいものじゃろう?」
「はぁ、分かりました。では、起立!」
校舎の中を探し回ってどうにか確保した椅子に座っていた若者達は、杉野の号令で一斉に立ち上がった。
「礼!」
次の号令が来ると、若者達はてんでバラバラのタイミングでお辞儀した。
すると、教壇の方から博士の溜め息が聞こえてくる。
「着席!」
特に気にせずに、杉野は号令をやりきった。
「まったく、最近の君らはどうにもおかしい。いつもならもう少し息が合っているはずだが、今はただの烏合の衆じゃ」
その原因は分かり切っていた。
色恋沙汰を仕事に持ち込んではならぬのは杉野達も重々承知してはいるのだが、如何せん若すぎるので、そう簡単には割り切れない。
「すんません。プライベートで色々あって……」
珍しく、坂田が申し訳なさそうに謝るので、博士はそれ以上聞こうとはしなかった。
「まあ、よい。くれぐれも事故死には気をつけろよ。今回は戦車を使うから、油断したら死ぬぞ」
「戦車ってことは、エリック教官が帰ってきたんですか?」
杉野達が奥多摩から帰還しても、エリックはまだ帰ってなかった。
博士から聞いた話では、射撃大会で決勝まで残ったらしく、しばらくは帰れなかったはずだが。
「ああ、帰ってきたとも。なんでも、大会で優勝したらしくてな。景品と一緒に現場へ直接降りてくるらしい」
「景品と一緒に?」
「確か、戦車だったかな?」
「戦車ですか!!!」
案の定、重度のミリオタな神谷が食いついた。
「今回はなんの戦車なのでしょうか!? アメリカの大会なら、やはりシャーマンですかなぁ」
「いや、ワシもそこまでは聞いておらん。ただ、電話口のエリックはやけに喜んでおったのう」
あのエリックがそんなに喜ぶのなら、さぞ立派な戦車なのだろう。
ぶっちゃけ、杉野からしたらそこまで興味はないが、鬼教官の喜ぶ顔は見たい気がする。
最近はほとんど会ってないし……。
「まあ、戦車に関しては着いてからのお楽しみということで、ちゃっちゃと説明するぞ。あまり無駄話をしているとドンドン時間がなくなっていくからな」
「はい」
唐突に坂田が手を挙げた。
「なんじゃ?」
「今回はタイムリミットとかあるんすか?」
「特にはないが、あまり長いこと同じ現場にいるのは回転率が悪いな。なるべくなら二日くらいで終わらせてほしい」
「そんじゃ、のんびりやりますか」
反抗心が強めな坂田が冗談交じりに言うと、博士が教壇を強めに叩いた。
「馬鹿者! 現場にいる間は、君ら一人一人に手当が出ているのだぞ! 少しは社会人としての自覚を持たんか!」
「へいへい、分かりましたよ。んで、俺らは何を探せばいいんだっけか?」
「もう忘れたのか!? 禁后じゃよ、禁后! 自分が探す物くらいちゃんと覚えておけ!」
そうは言われても、肝心のターゲットの名前が聞こえないのだから、覚えようがない。
ふと、杉野は疑問が湧いてしまった。
さっきの坂田の態度で博士の機嫌が悪いが、どうしても気になった杉野は思い切って聞いてみた。
「そういえば、なんで博士は読み方を知ってるんですか?」
「それはじゃな、情報源にフリガナが振ってあったのじゃよ」
「その、情報源って?」
「確か、ここに……ありゃ、ないな。そうじゃ、ズボンのポケットに入れたんじゃ……ないぞ」
博士があちこちのポケットや持ってきていた鞄を隈なく調べるが、いつまで経っても見つからない。
「どうにも会社に置いてきてしまったらしい。こうなったらしょうがない。君らの為に仮の名前を考えてやろう」
そう言うと、博士は黒板に「キンコ」や「タマテバコ」などの様々な単語を書き連ね、その中の一つに丸を付けた。
「ターゲットの仮名は『パンドラ』じゃ」
「パンドラ……ですか」
神谷が意味深に呟いたので、博士が聞き返す。
「なんじゃ、神谷君。何か問題でもあるのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが。パンドラって、あの『パンドラの箱』のパンドラですか?」
「そうじゃよ。まあ、ギリシャ神話とは直接関係ないじゃろうが、情報源であるチラシに正しいフリガナと一緒にこう書かれておったのじゃよ」
言いながら、博士が単語で埋め尽くされた黒板の数少ない空きスペースにある文章を書いた。
「それを開ければ、災いが訪れる?」
ご丁寧に神谷が音読してくれたので、長ったらしい話に飽きて外を眺めていた坂田にもちゃんと伝わった。
とはいえ、話半分で聞いているっぽいので、ちゃんと覚えたのかは定かでないが。
「パンドラの箱の逸話にピッタリじゃろ? 果たして、開けたらどうなるのだろうな。君らからの報告が今から楽しみじゃわい」
「博士も一緒に行かないんですか?」
てっきり、博士が現場まで案内してくれるのだと思っていた杉野は意外な顔をした。
「ワシも歳じゃからのう。樹海を越えるのはちょいと厳しいのじゃ。なんだ、一緒に行ってほしかったのか?」
「いや、そういうわけじゃないっすけど、現場までの案内がないのはちょっと不安で……」
「なんじゃ、そんなことか。そんなに心配せんでも、渡した地図を頼りに行けば、馬鹿でも辿り着けるわい」
果たして、本当にそうだろうか。
いつもの自分達なら、そう難しくはないのだろうが、今回は皆の足並みが揃っていない。
こんな中途半端な状態では到底辿り着けるとは思えない。
「まったく、しょうがないのう。そんなに心配なら、ちょくちょく連絡しろ。君らの位置は端末に仕込んだGPSで常に把握しておるから、心配なら道案内してやるぞ」
「それじゃあ、お願いします。すいません、なんか無駄な仕事増やしちゃったみたいで」
「気にするな。こんなところで死なれたら、ワシが困るからな」
今はもう慣れたが、博士はマジっぽい顔で冗談を言うので、どうにも心臓に悪い。
「では、ブリーフィングはここらへんにして、そろそろ出発してもらおうかな。おっと、そうだ。何か質問はあるか?」
博士が聞くと、一番端っこの席に座っていた清水が遠慮がちに手を挙げた。
「なにかな? 清水君」
「今回は私も行くんですか?」
普段の任務では、清水が現場に行くことはほとんどない。
あったとしても、比較的危険性が薄い所だけだ。
「もちろんじゃとも。いつでも通信できるように通信手が一人はいた方が良いからのう」
「でも、私、運動音痴だから、足引っ張っちゃうかも……」
「そんなら、俺らで助けてやればいいだろ」
唐突に坂田が口を開いたので、一同はビクッとしてしまった。
言われた清水などは、目を見開いて驚いている。
「なんだよ、いつもやってることだろう」
「ふむ、少しずつではあるが、調子が戻ってきたようじゃな。では、坂田君が上手い具合に締めてくれたところで、出発してもらおうかのう。杉野君、号令」
「起立、礼。着席」
杉野は再び、しょうがないなといった感じで、自分の役目を全うした。




