81 死者の国
儀式が終わったところで、芦屋が彦星ノ神を呼んだ。
「おい、神とやら、お前の為に模擬とはいえ夫婦の契りを結ばせたのだぞ。いい加減、姿を現わせ」
『ご苦労だった。おかげでほとんどの力を取り戻せたようだ。どれ、ちょいと己ら生者にも見えるようにしてやろうか』
彦星ノ神の声が御社殿の中に響いたと思うと、御社殿の最奥、御神体が安置されている場所に透明なシルエットが浮かび上がった。
「な、なんですか!? あれは!? あれが我々の神なのですか!?」
自分達の神社にも祀っている神の姿を見て、宮司は酷く狼狽えていた。
無理もない、杉野達だって神どころか幽体を肉眼で見ることになろうとは思わなかったのだ。
しかし、そのシルエットに色がつくことはなかった。
せいぜい輪郭がはっきりと分かるくらいで、人型の何かがいるようにしか見えないのだ。
『ふむ、少しばかり力が足りないか。すまぬが、完全に姿を見せるのはまた今度だ』
彦星ノ神はそう言うと、杉野達の目の前で胡坐をかいて浮いて見せた。
神というよりは、インチキマジシャンのようだ。
「それでどうするんや、芦屋ちゃん。確保するんか?」
「いや、まだ八坂君の意識が戻ってない。先程の話では、この彦星ノ神とやらが黄泉の国に飛ばしたのだろう?」
「神の御前だぞ! 慎みたまえ!」
芦屋の失礼な態度に宮司が憤る。
「神が生きている人間を植物状態になどするか。こいつは悪霊だ。我々が退治せねばならぬ」
「じゃあ、尚更確保しねぇと駄目だろうが!」
坂田も声を荒げて、今にも芦屋へ飛びかかりそうな勢いで詰め寄る。
「君達は仲間を見捨てるのか!? このままでは、一生寝たきりなのだぞ!」
確かに、幽体を確保したからといって八坂が元に戻る補償は何処にもない。
彦星ノ神が嘘をついている可能性も考えられるが、どちらにしろ、彦星ノ神は八坂を殺すこともできるのだろう。
そう考えると、あまり下手なことはできない。
『己らは何か勘違いをしていないか? この女は我が生かしているのだぞ」
「どういうことだ? 貴様が植物状態にしたのではないのか?」
『この女は今、魂が抜けた状態なのだ。それを我が生かしてやっているのだよ。神通力を使ってな』
彦星ノ神から聞きなれない言葉が飛び出した。
「じんつう……なんて?」
「神通力、仏や菩薩が持つとされる不思議な力のことだ。まさか、こんな土着神紛いにもあるとはな」
「んで、その神通力がどうしたんだよ」
『神通力でその女の臓器を動かし、血を巡らせ、体が腐らないようにしているのだ。それなのに、己らはあろうことか我を退治しようなどとのたまうのだから、おかしな話だな』
彦星ノ神の話が本当なら、八坂の身体はまだあったかいはずだ。
それを知る為に、杉野が八坂の手を握ろうとすると、それまで杉野の右腕にくっついていた小田がうーっと唸った。
果たして、それは八坂に対しての嫉妬なのか、それとも杉野に対してなのか。
それは、杉野にも分からない。
ただ、わりと悪い気分ではなかった。
「ちゃんと体温があるのか、確かめるだけだから」
「俺にならいくらでも触っていいけど、美紀姉に触るのはだめー!」
小田はそう言うと、ますます強く抱きついてきた。
まさに、役得だ。
『なんだ、己は二股でもかけているのか? 面白い奴だ、気に入った。特別に己を黄泉の国に飛ばしてやろう』
「二股じゃないです! 僕には八坂さんしか――痛ててて!」
あらぬ疑いをかけられた杉野が弁明しようとすると、小田に右手の甲をつねられた。
『ふっ、まあいい。では、その八坂とやらの所へ行かせてやろう。我に感謝しろ、生者よ」
「えっ、それってどういう――」
何がなんだか分からないまま、彦星ノ神に頭を掴まれた杉野は一瞬にして意識を失った。
「――ことですか? って、あれ?」
気づくと、杉野は外にいた。
どういうことか分からずに周りを見回してみると、どういうわけか夕方かと思うほど薄暗い。
まだ朝の九時くらいだと思っていたのだが、いつの間にか寝てしまっていたのだろうか。
そう思い、ポケットに入れていたスマホを取り出そうとするが、ポケットの中で手が空を切った。
「ありゃ、どっかで落としたかな?」
時間の確認は一先ず置いておいて、今度は現在位置の確認を試みることにした。
月か太陽が見えれば、方角くらいは分かるはずだ。
そう思って、杉野は空を見上げてみたが、そこには月や太陽どころか星も雲も何もなかった。
ただ、漆黒の虚空が広がっているだけだったのだ。
よく見ると、地面の色もおかしい。
普通の土にしては黒すぎるし、黒土や腐葉土だとしても匂いがまったくない。
それになにより、風がないのだ。
今日は風が強い日だったし、無風になったとしてもこれは違和感がある。
なんというか、空気が動いていないような……。
もしや、ここが彦星ノ神が言っていた黄泉の国なのだろうか。
そうだとしたら、きっと八坂はこの国の何処かにいるはずだ。
こんなところで呑気に現在地確認などやっている場合ではない。
一刻も早く、八坂を見つけださねば。
そう、心の中で意気込むと、杉野は黄泉の国の死んだように黒い地面を踏みしめ、適当な方向へ歩き始めた。
杉野が黄泉の国に到着した頃、八坂はピンチに陥っていた。
彦星ノ神とかいう神様に番いの神を探してほしいと言われて、黄泉の国に来たまではよかったのだが、その黄泉の国の住人に捕まってしまったのだ。
というのも、黄泉の国に着いたばかりの八坂はとりあえず近くに見えた建物へ向かい、その道中に見つかり、逃走を試みたが、いとも簡単に捕まってしまった。
その住人は、皆、半透明の白いベールで口元を隠しているので、どんな顔なのかはまったく分からない。
一応、日本語は通じるっぽいが、あっちが話している言葉は八坂には古すぎてほとんど理解できない。
おそらく、神か何かなのだろうが、その姿は生きている人間とそう変わらなかった。
しかし、見たこともないくらい奇麗な着物を着ていることから、神の中でもかなり身分が高そうだ。
というか、神にも身分や位はあるのだろうか。
八坂は黄泉の国の住人に連行されながら、子供の頃にお父さんから教えてもらった日本神話の内容を思い出していた。
八坂が連行されたのは、黄泉の国へ着いた時に見つけた和風の城のような建物だった。
「戸を開けなされ」
八坂の腕を掴んでいた一人が、その城の閉じたままの門へ呼びかけた。
すると、三階建てのビルほどもありそうな巨大な大扉がゆっくりと開いていく。
大扉が開ききると、八坂は再び黄泉の国の住人に歩くよう促された。
門の内側には奇麗な小川が流れていて、その畔では黄泉の国の住人が蹴鞠や和楽器を弾いたりして楽しんでいた。
神もああいう風に遊ぶのだなと八坂が意外に思っていると、敷地の真ん中にある大きな城の入り口が開き、中からとても美しい白い衣をまとった女性が現れた。
その女性もやはりベールで口元を隠していて、赤いアイシャドウらしき化粧が施された目元しか見えない。
「ここに生者が来るとは珍しい。ここ何百年と誰も来なかったからのう」
普通に理解できそうな日本語を喋ったので、八坂は少しだけ安心した。
しかし、その女性が軽く地面を蹴り上げると、一瞬にして八坂の目の前まで迫ったので、少なくとも人間ではないことはあきらかだった。
さらにその女性は、八坂の顎を掴み、顔をさらに近づけてマジマジと見回してきた。
「な、なんですか? 急に」
八坂が聞いても、その女性は八坂の目や胸、着ている服などを不思議そうに眺めていた。
「お前、外の人間か?」
「そ、外って、黄泉の国の外ですか?」
「……まあ、よい。麻呂の部屋へ案内しろ。ちょうどつくちゃんも来ていることだし、茶でも飲もうではないか」
その女性はそれだけ言うと、再び城の中へと引っ込んでしまった。
何がなんだか分かってない八坂は、またもや黄泉の国の住人に城の中へと連行された。
城の中は、襖や畳など和風な内装となっており、各部屋には舞を踊っていたりする黄泉の国の住人が大勢いた。
もし、こいつらが敵だったら、八坂一人では勝ち目はないだろう。
しかも、ここは黄泉の国だ。
死んだりしない限りは、仲間が来ることもない。
八坂を送った時のように、彦星ノ神が誰かを送り込んでくる可能性もなくはないが、無事にここまで辿り着けるかは分からない。
とりあえずは、なるべく怒らせないようにしようと、八坂は決心した。
「さあ、入れ。数百年ぶりの生者だからな。存分にもてなしてやろう」
城の一番奥の部屋へ案内されると、そこには先程の女性ともう一人、とても艶やかな女性が座っていた。
その女性は、他と違ってベールは付けておらず、女の八坂でさえ見惚れるほど整った顔立ちを曝け出していた。
「何をぼさっと立っているのだ。早く、座れ」
「あっ、えっと、ごめんなさい」
美しい女性の隣に座ると、ベールをしている方の女性が忠告してきた。
「言っとくが、つくちゃんは人間などにはやらぬぞ」
「いえ、私は男の人が好きなので……」
「だから、いかんのだ!」
どうにか弁明しようとしたが、怒られてしまった。
ほんとに、そういう気はないのに。理不尽なものだ。
確かに、子供の頃に幼馴染の春樹ちゃんにチューされたこともあったが、所詮子供の遊びで、それ以上の感情など生まれなかった。
なんなら、最近は好きな男の人も出来たし、わりと健全に恋する乙女をやっていたと思うのだが。
「ま、お前などにつくちゃんが釣り合うはずもないか」
何か失礼なことを言われた気がしたが、口答えするとまた怒られそうなので止めといた。
部屋の中には、ぐつぐつと湯が沸き立つ茶釜や渋い色をした茶碗、竹で出来た茶筅などの茶を点てる道具が一式揃っていた。
どうやら、この部屋は茶室らしい。
「神様もお茶を点てるんですね」
「ちょこちょこ人間界を覗いているからな。お前らの言葉もある程度は覚えたぞ」
「例えば?」
「ナウなヤングにバカ受け、とかな」
思いっきり流行に後れていた。
「それは、ちょっと古いんじゃ?」
「何を言うか! お前のような若者に合わせてやったというのに、失礼な奴じゃのう」
「ごめんなさい」
少ししょぼんとしてしまった八坂を気遣ってか、女性は急に思い出したように言った。
「そうじゃ、お前の名前を聞いていなかったな。特別に、名乗る機会を与えてやる」
実は良い神様なのかもしれないと八坂は思った。
「えっと、八坂美紀です」
「ほう、なかなか悪くない名前じゃのう。では、次は麻呂が名乗る番じゃな」
そこまで言うと、その女性は姿勢をピンと正してから再び喋りだした。
「麻呂の名は、伊邪那美命。人によっては、麻呂のことを黄泉津大神と呼ぶ者もいるようだが、お前はどちらでも好きなように呼べばいい」
どうやら、かなり気に入ってもらえているようだ。
なんだか、親戚のおばさんと話しているみたいだと八坂はつい思ってしまった。
「えー、じゃあ、伊邪那美命さんで」
「さんではなく、様を付けよ。お前は神の御前にいるのだぞ! あと、命はいらぬ、伊邪那美でいい」
「あー、すいません。つい、いつもの癖で」
怒っているようにも見えるが、実際はかなりゆるい言い方だったので、八坂はいつの間にか目の前の神様へ心を許していた。
そういえば、伊邪那美様の横で八坂の一挙一動を観察している女性は誰なのだろうか。
気になった八坂は、まだちょっと不機嫌な様子の伊邪那美様に聞いてみた。
「ところで、そちらの方は?」
「知りたいか? よし、特別に教えてやろう。麻呂の可愛い子の一人、月読命だ」
伊邪那美様に紹介され、それまでじっと胡坐を組んでいるだけだった月読様が深々と頭を下げた。
その時、八坂は気づいてしまった。
伊邪那美様が「麻呂の可愛い子」と言った時に、月読様の眉間に皺が寄ったことを。
多分、色々と複雑な事情があるのだろう。
「各々の紹介が終わったことだし、そろそろ茶を点てるとしよう」
伊邪那美様はそう言うと、まず白い竹で出来た茶杓を右手で取り、抹茶が入っている筒形の容器――棗というらしい――の蓋を取り、中に入っている深緑の粉末を黒茶色の口が広い茶碗に一杯入れ、さらに先程の半分ほどの量を入れた。
そのまま茶碗を軽く揺すり、中の抹茶を均してから、茶杓の先端を茶碗の口の右上辺りで叩き、茶杓の先っぽに残る抹茶を落とす。
そうしたら、先程開けたままで放っておいた棗に蓋をし、その上に茶杓を置いた。
棗と茶杓を片づけ終わると、今度は黒々とした平たい茶釜の蓋を取り、そこから熱々に煮えたぎったお湯を柄杓で掬う。
そのお湯からは、何故か火薬の匂いがした。
いったい、自分は何を飲まされるのだろうと、八坂は今になって不安になってきた。
咽るような匂いがするお湯を茶碗に入れ、使い終わった柄杓は茶釜に立てかける。
そして、待ってましたと言わんばかりに茶筅を右手で持つと、茶碗の中でお湯と混ざりかけた抹茶をゆっくりと静かに混ぜ、茶筅を少しだけ浮かせてからいくらか泡が立つまで点てた。
「よし、完成じゃ」
そう言うと、出来たばかりのお茶が入った茶碗を月読様の前に置いた。
月読様は、先程紹介された時よりかは浅めにお辞儀をし、次に茶碗を自分と八坂の間に置いてから、また軽くお辞儀をした。
そして、また茶碗を自分の正面に置き、今度は伊邪那美様にお辞儀をする。
飲む前の挨拶を済ませたら、ようやっと茶碗を右手で取り、そのまま左手に乗せると、ぐいっと飲んだ。
かのように見えたが、月読様が飲み終わった茶碗をよく見ると、中に入っているお茶はまったく減っていなかった。
八坂がじろじろと見ている間にも、月読様は茶碗を時計回しに二度ほど回し、また軽くお辞儀をしてから、八坂の目の前へまだお茶がたっぷりと入っている茶碗を置いた。
もしや、自分は飲まずに八坂に全部飲ませるつもりだろうか。
そうだとすると、この月読様はかなりの極悪人、いや邪神だ。
とはいえ、このまま飲まないでいれば、伊邪那美様に何をされるか分かったもんじゃない。
八坂は覚悟を決めて、さっき月読様がやったように飲む前の挨拶を済ませると、茶碗を取って口元に運んだ。
その時、何かが自分のポケットの中で光ったような気がして、思わず手を止めてしまった。
「どうした? 何故、飲まぬ?」
唐突に手を止めた八坂を不審に思ったのか、伊邪那美様が詰め寄ってくる。
「早う、飲め!」
伊邪那美様が、八坂が口元で止めた茶碗を掴むと、ぐいっと傾けて強引に茶を飲まそうとしてきた。
八坂はどうにか飲まないようにと、口を固く閉ざした。
「何を抵抗しておるのだ! 麻呂の点てた茶が飲めぬと言うのか!」
八坂が口を閉ざそうが、伊邪那美様は容赦なしに茶碗を押し付けるので、茶碗の端から熱々のお茶が零れ落ちて八坂の首にかかり、その熱さに驚いた八坂は口を開けてしまいそうになった。
だが、それもどうにか我慢し、茶碗を離そうと伊邪那美様の腕を掴むと恐ろしい力で茶碗を押し付けてくるのが分かった。
これでは、どのみち殺されてしまうと思った八坂が諦めかけたその時、隣で事の成り行きを見ていた月読様が伊邪那美様から茶碗を奪い取り、中に少しだけ残っていたお茶を伊邪那美様に浴びせかけたではないか。
「よくぞ、我慢した。逃げるぞ」
月読様の口から鈴の音のような澄んだ声が聞こえたと思うと、月読様が八坂の手を取り、風の如き速さで部屋から連れ出した。
「裏切りおったなぁ! 黄泉醜女達よ! あの者共をひっ捕らえよ!」
「ははっ」「御意」
伊邪那美様の号令が城の中に響き渡ると、それまで舞や歌を披露していたベールの女達が一斉に八坂達へ襲いかかってきた。
「人の子よ、何か武器を持っているか?」
いきなり月読様に聞かれた八坂はすぐに返事ができなかった。
「……あっ、えっと、な、ないです!」
「では、その懐で光っている物はなんだ?」
月読様に言われて、八坂がポケットの中を探ってみると、入れた覚えのない奇麗な鏡が入っていた。
八坂の小さな手のひらにも余裕で収まるほどの大きさのその鏡は、どういうわけか何処かで見たような気がした。
何処だっただろうか?
「それはきっと、私が作った物だ。こんなこともあろうかと、人の子の世界にばら撒いておいて正解だった」
「もしかして、あの祭りの景品の?」
「ああ、そうだとも。うまい具合に調整して、君らが手に入れるように仕組んだのだ」
まさか、あの古い円盤がこんな奇麗な鏡だとは八坂も思っていなかった。
「それでこの鏡はどう使うんですか?」
「こう、使うのさ」
八坂から鏡を奪った月読様は、伊邪那美様の手下共に鏡を見せた。
するとどうだろう、手下共は自らの目を手で塞いでうずくまったではないか。
「黄泉の国の住人は自らの醜悪さから目を背けているのだ。だから、鏡を向けてやれば撃退できるわけだ」
わりと、いやかなり惨いやり方だなと八坂は少し引いてしまった。




