56 虫達の王様
朝が来ても、洞窟の中は一定の明るさを維持したままだった。
この洞窟には穴や隙間などがないので、朝日が入ることもないからだ。
暗いのではと思うかも知れないが、唯一の光源である天井の奇妙な形をした電灯が意外と明るいので問題はない。
しかし、普通の人間ならば一日の最初くらいは朝日を浴びたいもので、あんなにも嫌っていた夏の日差しが今では恋しく思えてしまう。
そんな贅沢な悩みが朝っぱらから出てしまうのは、疲れているからだろうか。
昨日は洞窟特有の湿気に悩まされてあまり眠れなかったので、ほとんど疲れが取れていない。
他のメンバーもそれは同じようで、皆一様に眠そうな表情でぼーっとしている。
見兼ねた藤原が、滋養強壮効果が高い長芋をすりおろしてとろろを作り、そこにすりおろしたニンニクを入れたものを棒メシと一緒に出してくれた。
醤油をかけてからいただくと、これがまた美味い。
特に、すりおろしたニンニクが眠気覚ましにちょうどいい。
八坂などは「朝からニンニク臭くなるー」なんて言っていたが、気づけば誰よりも早く一杯目を食べ終わって、さらにおかわりまで所望するほど気に入っていた。
口の周りが痒くなってしまうのがたまにキズだが、それも藤原が用意してくれた白湯のおかげで収まった。
朝飯を食い終わり、今日の仕事を藤原が発表する。
どうやら、今日はこの洞窟の中を徹底的に探索する予定らしい。
昨日だけでは調べきれなかった部分を二人と三人に別れて探索し、洞窟の植生やどんな虫がどれくらい生息しているのかを調べたり、地質調査などの洞窟の構造に関する調査をしたりして、杉野達が帰った後の調査に役立てるというわけだ。
本来、UMAを研究する機関なのに何故そんな調査をするのかというと、こんなにも多種多様な古生物がいるのなら、UMAよりも調べる価値があるからだ。
「昨日の時点で、海外にいる研究員を呼び戻してるから、近いうちに迎えがくるだろう。だから、それまで頑張ってくれ! 頼むよ!」
藤原が必死の形相で言ってくるので、杉野達は手伝わざるを得ない。
どうにも、杉野を始めとした幽体研究所の若者組は人に頼まれると弱いらしい。
やはり、常日頃から無茶な命令に黙って従っているからなのだろうか。
そう考えると、あの博士や教官の下で仕事を続けるのは、かなり危険なのかもしれない。
そのうち、前回の作戦での清水のように殺されてしまう可能性だってゼロではないのだ。
もし、この仕事を無事にやり切ったら、藤原の研究所に転職しようか。
杉野はもはや、それが最善策だと確信してしまうほど、自分の会社に嫌気が差していたのだ。
それから、杉野と八坂の二人チームと坂田達三人のチームに分かれて、洞窟の調査を開始した。
坂田達のチームは地質調査と天井にある謎の電灯の調査を、杉野達は動植物の生体調査を担当することとなった。
まずは最初に、池の周りの植物を調べていく。
ほとんどはシダなどの原始的な植物ばかりだが、中にはヤシの木のような普通の植物も生えている。
だが、その比率は酷く偏っていて、池の近くだけでも約九割がシダ植物であった。
一見すると木のように見えるものでも、分類上はそこら辺に生えている小さなシダの親戚だというのだから驚きだ。
おそらく、虫と一緒にこの洞窟で生き残ってきたのだろう。
そう考えると、ここだけで生態系が完結しているというのは少し危険なような気もする。
もし、この洞窟に外から何者かが侵入して、ここにはない病原菌や植物の種子をばらまいてしまうと、生態系が崩壊してしまう可能性が高い。
すぐに影響は出ないのかもしれないが、一年後、もしくは二年後辺りでどうなっているかは分からない。
今回の調査をしているうちに、杉野はこの洞窟に足を踏み入れたことを少し後悔してきたのだった。
池の周りを調べ終わり、今度は昨日水浴びをした小さな滝の方へ移動した。
ここでは、植物以外にも巨大な虫達があちこちの草むらで蠢いていた。
先程の池よりも手間がかかりそうだ。
しかし、泣き言などは言ってられない。
こうしている間にも、刻一刻と洞窟の環境が侵されているのだ。
一刻も早く専門家にバトンタッチできるように、しっかりと任務を完遂しなければならない。
とはいっても、杉野はまだしも八坂の方は虫嫌いが祟って、あまり進捗が芳しくないようだ。
これでは、いつまでたっても終わらなさそうなので、見兼ねた杉野が声をかけた。
「どう? 順調?」
「見れば分かるでしょ、ダメダメよ。っていうか、昨日の今日でここに戻ってくるなんてね」
「嫌だった?」
「そういうわけじゃないけど……まあ、あんたが居れば大丈夫か」
最後の言葉は、声が小さくて杉野にはよく聞こえなかった。
しかし、八坂の様子からはそんなに不機嫌そうには見えない。
多少、効率が悪くても、八坂にとって楽に作業ができる方がいいだろうと杉野は思っていた。
なので、虫の調査は杉野が、植物の調査は八坂が担当するように、作業を分担することにした。
そうしてから、十分もするとさっきよりも効率が上がっているような気がしてきた。
やはり、仕事はやりやすいに越したことはないのだ。
しばらくの間、滝の周りを調べていると、杉野達は妙な揺れを感じた。
昨日の地震よりも規模は小さいが、すぐ近くに震源があるような揺れ方だった。
その理由はすぐに分かった。
まさに今、杉野は運の悪いことに、揺れを起こしている張本人と目が合ってしまったからだ。
その張本人は、鎌首をもたげてこちらを威嚇するムカデだった。
見た目だけならば、洞窟の外にいるような普通のムカデとそう変わらない。
しかし、他の虫達と同じように、このムカデも体長があきらかに大きい。
というか、今迄にこの洞窟で出会ったどんな虫よりも遥かにデカい図体をしているのだ。
ムカデの赤い頭だけで杉野の身長と同じ、下手したらそれ以上はありそうだ。
そして、その頭に付いている牙は、人間ならば一刺しで貫けそうなほど鋭く尖っている。
あんな牙を持っている相手に勝てるはずがない、ごく一般的な日本人ならそう思うだろう。
だが、杉野達は銃の扱いに慣れた戦闘員だ。
今迄にも、八尺様のような化け物と戦ってきているのに、こんなデカいだけの虫けらに怖気づくような杉野ではない。
早速、肩に担いでいたライフルを構え、一際目立つ赤い頭を狙う。
一呼吸置いてから引き金を引くと、銃声が耳元でこだまする。
飛んでいった弾は、確かにムカデの赤い頭に当たった。
だが、カキーンと気持ちいい音を立てて弾が跳ね返り、弾頭が杉野の足元に帰ってきてしまった。
「そんな……銃が効かないなんて……」
ここに来てようやく、杉野は自分達が危機的状況に置かれていることに気づいた。
「バカ! ぼーっとしていないで、早く逃げるよ!」
すんでのところで平静を取り戻した八坂が、絶望の表情を浮かべたまま呆けていた杉野の手を引っ張って、池の方へ逃げる。
すると、それまで杉野達をじっと見ているだけだったムカデが、獲物が逃げようと走り出したのに気づいたのか、黄色い足をカタカタと動かして猛スピードで追いかけてきた。
しかし、その巨体がつっかえるのか、思っていたよりは速くない。
逃げるだけなら、そう難しくはないだろう。
「と、とりあえず、藤原さんのとこまで逃げよう! 二人では無理でも、五人なら倒せるかもしれないし」
「分かったから、もっと速く走って!」
どうやら、八坂はあのムカデに相当な恐怖心を抱いているらしい。
さっきから前だけを見て走り、後ろにいるムカデを見ないようにしてるっぽいのだ。
やはり、この洞窟に入った時に追いかけらた古代の巨大ヤスデと似ているからだろう。
それならば、このまま八坂に引っ張られていては駄目だ。
そう考えた杉野が走るスピードを上げて八坂を追い越し、逆にぐいぐい引っ張っていく。
すると、さっきまでは軽く握っていた八坂の手に力が入ったような気がした。
置いてかれてしまうのではないかと不安になったのだろうか。
心なしか、手が汗ばんでいるようにも感じる。
これでは逆効果だ。
なので、計画を変更することにした。
まず後ろにいるであろうムカデと自分達との距離を確認した。
大体、50mくらいは離れているだろうか。
これならば大丈夫だろうと判断した杉野が足を止める。
「なに止まってるの! まだ追いかけてきてるのよ!」
当然ながら、文句を言ってくる。
だが、いちいち聞いているわけにはいかない。
杉野はサッと屈むと、こう言った。
「いいから、早く背中に乗って!」
八坂が怪訝な顔で見てくるので、慌てて付け足す。
「左足、痛いんでしょ。さっきから、庇いながら走ってるし」
実は、八坂の足の裏にここまでの道のりで出来たまめが昨日の巨大ヤスデからの逃亡劇の合間に潰れてしまい、血が出ていたのだ。
特に、利き足である左足には多大な負担がかかっていたようで、右よりも出血が酷かった。
そのため、歩く時はもちろん、こうして走っている時にも無意識に左足を庇ってしまっていたのだが、八坂の事をよく見ていた杉野は誰よりも早く気づいていたのだ。
「気づいてたの!? じゃ、じゃあ、えーっと、お言葉に甘えて……」
少しばかし杉野の事を見直した八坂が杉野の厚意を受け取り、背中に乗った。
そして、あるかないかでいえばほんの少しだけある胸の感触が杉野の背中に伝わる。
もちろん、これを期待していたわけではない。
しかし、そのわずかな刺激による効果は大きく、杉野のやる気と体力がMAXまで回復したのだから悪いことではないだろう。
猪突猛進、そんな言葉が似合うほどの勢いで、八坂を背負った杉野が池に向かって走り出す。
後先を考えない杉野の走りは、実に無駄が多かった。
倒木に足を引っかけて転びそうになったり、ぬかるみに足を取られたりと、普通ならしないようなミスをしてしまう。
そのせいで、100mも走る頃にはぜぇぜぇと息を吐いて、顔は青白くなってしまっていた。
杉野がそんな状態でも、ムカデは着々と二人に近づいてくる。
このままでは、二人まとめて食べられてしまうと杉野が諦めかけていると、突然、三つの銃声が近くの茂みから響いてきた。
後ろを見ると、銃声に驚いたムカデがピタッと動きを止めていた。
その隙に、杉野は残った力をふり絞って、銃声が聞こえた茂みへ飛び込む。
茂みの先には、ライフルを構えた藤原達が戦いの準備をしていた。
「おぉ! 杉野ぉ! 生きてたか!」
「おかげさまで助かりました。もう少し遅かったらどうなってたか……」
「いいってことよ」
少し照れながら、心底安心した様子の坂田が、杉野へある物を渡してきた。
それは、一見すると黒いパイナップルのように見える。
しかし、杉野はその物体がそんなかわいい物ではないと知っていた。
何故なら、以前にもこれと似た物の扱いをエリックに教えてもらったからだ。
その時に教えてもらったのは、それが手榴弾という爆弾であることと、それ一つで何人もの命を葬れるということだ。
エリックに教えてもらった時の手榴弾は深緑のパイナップル型で、リング型の安全装置が付いたアメリカ製だった。
しかし、今回渡された物にはちゃんとした安全装置は見られず、代わりとしてパイナップルの上部に付いている棒にV字型のピンが挿しこまれており、そのピンには白い麻紐が括りつけられていた。
おそらく、これを抜いてから投げこむのだろうが、少々単純すぎやしないか。
安全装置なのだから、もう少しちゃんとした物を使うべきではないのか。
そんな疑問を飲み込んで、坂田から受け取った手榴弾を投げやすいように握りなおした。
「みんな、手榴弾は持ったね? では、あいつがこちらへ襲いかかってくる前に戦車まで逃げよう」
「「「了解」」」
藤原の指示で、一行は壁伝いに洞窟の出口を目指す。
もちろん、ムカデはまだ諦めてはいない。
早くはないが、怪我人がいる状況では逃げ切るのは不可能だ。
ならば、戦車で倒してしまおうという計画なのだが、果たしてそんなにうまくいくだろうか。
杉野は薄々気づいていた。
今、自分達を追いかけている怪物がそこらへんにいる古生物などとは似ても似つかぬ存在であることを。
ライフルで撃ってもビクともしないどころか、弾丸を跳ね返してしまうような者を普通の生物と一緒にするなど愚行といえる。
生物どころか、何かしらの兵器の可能性だってある。
もしかしたら、一昨日の夜に神谷が言っていたUFOは本当にいるのかもしれない。
杉野は背中に感じる感触と溜まりに溜まった疲労の影響により、少々妄想が捗っていた。
藤原の作戦では、手榴弾を投げてから一斉に戦車の方へ逃げる手筈になっている。
手榴弾で倒せるなら苦労はしないが、チープな見た目からして威力は弱そうだ。
あまり期待しない方がいいだろう。
目くらましくらいにでもなれば上々、あくまで足止めのために投げるのだ。
「いいかい、まずは紐を引っ張って安全ピンを抜く。そしたら、そこらへんの岩にこの信管を叩きつけてから投げるんだ」
信管というのは、パイナップルの上に付いている鉄の棒のことだろう。
少し、というかかなりチープな作りの手榴弾にしては、割とめんどくさい使い方なのだなと、杉野は心の中で辛口の評価をしていた。
簡単に説明した後は、藤原が実演してみせた。
わっかになっている麻紐を引き、安全ピンを抜くと、手近な岩に信管を叩きつける。
そして、信管を握った藤原が敵であるムカデに向かって、砲丸投げのように手榴弾を投げつけた。
アメリカ製の手榴弾と違って、棒状の信管を持って投げることができるので、より投げやすそうだ。
杉野が呑気に考えていると、藤原が早く自分達も投げるように急かしてきた。
「僕が投げたのが起爆する前に、君らも早く投げてくれ!」
そう言われた杉野達が、先程の藤原がやっていたことを急いで済ませると、ぽいっとムカデに当たるように投げつけた。
杉野達が投げた手榴弾が地面に落ちるのと、先に藤原が投げた手榴弾が爆発したのは、ほぼ同時だった。
アメリカ製よりかは幾分か小さい爆炎がムカデを包み、金属片と一緒にムカデの黒焦げになった足が何本か飛び散っていく。
「よし、今のうちに逃げるぞ!」
藤原の合図で、一行はその場から一目散に逃げ出した。
洞窟の出口が見えてきて、その場にいたほとんどの人間は安慮した。
しかし、杉野だけは嫌な予感がしてしょうがなかった。
後ろを振り返っても、あのムカデの姿は見えない。
ならば、さっきから聞こえてくるカタカタという音はなんなのであろうか。
音を気にしていた杉野だけが他よりも少し遅れているので、チラチラと坂田が不安そうに見ている。
合流した時に、八坂の足にテーピングを施したので、今の杉野は何も背負っていない。
それなのに、怪我をしている八坂よりも遅いとなると、心配するのは当たり前だろう。
これ以上、心配をかけたくなかった杉野が先を進む坂田達に追いつこうとスピードを上げようとすると、足が宙に浮いたような気がした。
いや、気のせいではない。
何者かが杉野を持ち上げたのだ。
「ななななな、なんだぁ!」
軽くパニックになった杉野が叫ぶと、先行していた坂田がこちらに振り向いた。
こちらを見た坂田は目を見開き、酷く驚いた顔をしていた。
それを見て、更なる恐怖が襲ってきた杉野が恐る恐る後ろを振り返ってみると、思った通りムカデの真っ赤な頭が手の届くほどの距離にあった。
どうやら、ムカデの牙が杉野の服に引っかかったようで、ムカデが頭を上下させる度に杉野も同じように振り回される。
ちなみにこの牙は、正確には牙ではなく顎肢という捕食用の脚らしい。
どっちにしろ、噛まれたらひとたまりもないだろうが。
坂田が何やら叫んでいるが、こうなってしまったらもうどうしようもないだろう。
杉野が諦めかけていると、いつの間にかムカデの動きが止まっていた。
ついに食べられてしまうのかと一瞬思ったが、どうにも違うらしい。
何が起こったのかと、杉野があちこち見回してみると、今朝は見かけなかったヒベルスがムカデの足を噛んで引っ張っていた。
まるで、そいつは食べるなと言っているようにも見え、杉野はちょっとうるっときてしまった。
「ヒベルスが止めてる間に早く逃げろー!」
坂田の呼びかけで我に返った杉野が、顎肢に引っかかった服をナイフで切り、地面へ着地した。
そのまま、後ろを振り返らずに坂田達の下へ走る。
ヒベルスへの感謝と申し訳ないという気持ちで心の中をぐちゃぐちゃにしながら、杉野はがむしゃらに走り続けた。




