あいことば
大切な人にはちゃんと想いを伝えるべきだろう。
伝えたい気持ちは、伝えたい人に、伝えたいときに。
部屋にはまだ君がいた跡が残っている。
少ししわが入ったシーツ、ドアを開けるとふわりと鼻をくすぐる匂い、くしゃくしゃに丸めたティッシュ、氷が溶けてぬるくなった水。
退廃的な日々を過ごす今のわたしにとって、もしかするとこの部屋に君がいる時間こそが、わたしの人生と呼べるものなんじゃないか、とか思ってしまう。君が隣にいる時間だけは、わたしがわたしでいられる。
そう思っているからこそ、君がいた跡だけが残っているこの部屋はあまりにも寂しい場所だ。わたし一人で過ごすには広い。一軒家の二階の一室、この部屋にいる時間など限られている。その時間の中に、空間の中に、君が入り込んできている。たとえ家族でも自分の部屋には入ってきてほしくないと思うわたしが、自分から君のことを受け入れたのだ。革命が起きた、と言っても過言ではないと思う。しかしその革命のおかげで、今この瞬間も寂しさを感じているわたしがいるのだが。
ベッドに視線を向ければ、寝転んで見つめ合っている二人がいる気がした。扇風機の前には、涼んでいる君がいた。もう一度ベッドに視線を戻したら、今度は一人で寝転んでわたしを見つめる君がまだそこにいる。見送ったのは今から三時間くらい前だというのに、わたしの部屋にはまだ君がいるのだ。
寂しい気持ちは消えてくれない。
そもそも、わたしのような人と彼のような人間が一緒にいられる理由がわたしにはあまりピンと来ていない。
俗に言うハイスペック、というやつを擬人化したらこの人になるんだろうな、というのが彼だ。この県で一番偏差値が高い大学に通っていて、中高は運動部だったらしい。今は軽音サークルでギターを弾いていたり、キーボードを弾いていたり、ボーカルをやっていたり。イラストも上手い。芸術にも長けている。ときどき、インスタグラムに料理をしたという投稿をしている。一度彼が作ったお菓子をもらったが、それはそれは美味しかった……と言いたいところだが、あいにくわたしは甘いものが苦手だ。まあ、それを抜きにして考えると、美味しかった。将来についてもきちんと考えていて、大学卒業後のビジョンもはっきりとしている。そしてよく口が立つ。それでいて優しくて、気遣いができる。あと、顔がいい。
それに対してわたしはどうだろうか。通っている大学こそ同じだが、彼のような人であれる自信など微塵もない。いつも自分のことばかりで余裕なんてものはない。
彼のことを心から尊敬している。だからこそ、彼がわたしを選んでくれた、という実感が付き合い始めて半年近く経った今でもぼんやりとしている時がある。
だっていかにもモテそうなやつじゃん。わたしよりかわいい子も、性格がいい子も、きっとこの世界には余るほどいる。どうしてわたしなんだろうか。
その疑問を何度か彼にぶつけたことがあるが、決まって彼はこう言うのだ。
「最初は声に惹かれた。そこからどんどん好きになっていった」
彼は行動で、言葉で、たくさんの愛を伝えてくれる。「好きという言葉を安いものにしたくないから、あまり言わないと思う」と付き合い始めたときに言っていたが、今ではことあるごとに「好き!」「大好きだよ!」と伝えてくれる。その言葉一つ一つの価値が軽くなったとか安くなったとか思ったことは一度もない。それくらい、それぞれの言葉にきちんと心がこもっていると感じる。
行動で示してくれるということについてもそうだ。彼にとってはわたしが初めてできた恋人らしく、何をするにも不安だった、と話してくれたことがあった。初デートで映画を見に行った時も、映画までの待ち時間にウインドウショッピングをしていた。きちんと告白を受けて返事をしたのは通話越しで、その日は付き合い始めてから初めて顔を合わせた日だった。手繋いでくれないかな、少しは恋人らしくなれないかな、と思っていたわたしの期待を見事に裏切り(というと少し悪い気もするのだが)、指一本触れてこなかった。後から話を聞くと、「自分が触れることで不快な思いをさせたくなかった」らしい。
まあ、触れられて不快な思いをする恋人はきっと別れるべきだと思うんだけど。
何にせよ、その言葉を聞いて、嬉しくなった自分がいた。ああ、わたしは大事にしてもらえているんだ、と。
彼は「会いたい」という言葉を願望で終わらせない。授業、バイト、サークル、それ以外の活動でも忙しい時間の合間を縫って、会いに来てくれる。茹だるような暑さの日でも「行く」と言い出したら彼のことはたぶん誰にも止められない。
『玄関前、着いたよ』
そんな簡単なメッセージを見てわたしが家のドアを開けると、息を切らして、汗を拭う彼が立っている。そんな彼のことを見越して自室にエアコンをつけるようにしたが、まだ効いていないときだと、部屋に入っても涼しいと感じない。そんなときは、扇風機の首を固定して風を彼に当て続ける。体冷えすぎるんじゃないかな、と思うくらい。
ありがとね、涼しい、と笑ってくれる彼は、毎回、わたしに会うためだけに橋を渡って川を越え、どこまで走っても景色が変わらないような一本道を走り抜け、上り坂を通って、わたしの家まで来てくれるのだ。好きじゃない相手のために、そんなことはできないよな、といつも彼がわたしのことを想ってくれているということを実感して嬉しくなっている。
そんな彼に、どれほどの気持ちを伝えられているだろうか。
自分の想いを口にするのが苦手なわたしだから、好きだと言ってもどうも単調に聞こえてしまうと自分で思っている。
物書きをやっているくせして、自分の気持ちを話すのは苦手なのだ。なんだか恥ずかしくなってしまう。
ならば、口にするのではなく、こうして文章にすればきちんと自分の想いを伝えられるんじゃないだろうか。本当は手紙を書こうと思っていた。でも一発書きは難しくて、一度書きたいことを可視化したくて、自分が思っていることを見えるようにしたくて、まずは手紙ではない形で文字にすることにした。
同じ対面講義をとっていて、講義室まで一緒に行く人を探していた君にSNSでわたしが声をかけたことが、会うきっかけだった。初めて会ったときにはまさか付き合うなんて思ってもいなかった。
君はわたしの声に惹かれたと言ってくれるが、わたしだって最初に惹かれたのは君の声だった。声がコンプレックスだという、君の声がどうしようもなく好きだと思った。
初めて遊びに行ったのはカラオケだった。どうしても君の歌声が聞きたかったから、誘った。少しハスキーでまっすぐ刺さってくる君の声が好きだ、とあのとき改めて思った。
その少し後に君からご飯に誘われたとき、夢なんじゃないかと思った。また遊びに行こうね、なんて言葉は万人のために用意された相手の気を悪くせずにその日を終わらせるための言葉だと思っていた。次が本当にあるなんて思っていなかった。だから嬉しかった。「また遊びに行こうね」が準備された言葉なんかじゃなかったんだ、本当に次があったんだ、と。
二度目はご飯。車で隣の市まで向かう道中、予想外の渋滞に巻き込まれて焦ってメッセージを入れたのが懐かしい。遅れるなんてありえない……と思っていた。それでも君は優しかった。ゆっくり来てね、という一言に救われた。集合場所に指定されていた場所に到着したはいいが、どこにいるのかわからなくなって電話をかけた。君は、「俺がそっちまで行くから待ってて」と言ってくれた。遅れていたのもあって余計にそわそわしていたわたしの目に君が映った瞬間の安心感と形容しがたい感情を、わたしはたぶん一生忘れない。
いつもはあまりしないメイクを頑張って、うまく引けた、と思っていたアイラインはご飯を食べた後に二人で見た映画でぼろぼろ泣いてしまって崩れた。お互い無言で夜ご飯を食べて、家の方向が同じだし、一日一緒にいてもらったし、と車で送り届けたけど、実際には一緒にいたいだけだった。
一時間くらい乗っていた車の中は、君が指定した駅にたどり着くまでにどんどん静かになっていった。何か言いたそうな君が車から降りる頃には、ああわたしこの人のこと好きなんだ、とちゃんと気づいていた。気づかないふりはもうできなかった。
家に帰って送ったお礼のメッセージに返ってきたのは告白だった。
半年近く前のことなのに鮮明に覚えている。
今のわたしにとって、君は、
なくてはならない存在で、
心から尊敬できる人で、
心の底から大好きだと思える、
この人のためなら苦しい思いをしてもいいと思える、
何をしてでも失いたくない、
誰のところにも行ってほしくない、
――恋人以上家族未満の存在なのだ。
君のような恋人は初めてだ。
今までの恋人に自分から好きだと伝えることなどなかったわたしが、初めて、自分から好きだと言いたくなるような存在だ。
わたしは君のことを愛している、と、伝えたくなるのだ。
愛してる、という言葉を使いたくなかった。
だって愛が何かわからなかったから。
今も、愛というものが何か、はっきりとわかったわけではない。
でも、君を見つめているとき、君に触れたとき、君が「好きだよ」と言ってくれるとき、君が泣いているときでさえも愛おしいと思う、これが愛なんじゃないだろうか?
おはようとおやすみを言い合いたい、この関係が愛なんじゃないだろうか?
君が、楽しいときを共有してくれるだけじゃなく、辛いときも支えてくれるように、わたしも君の支えになりたいと思う、この気持ちは愛なんじゃないだろうか?
わたしはそう思う。
いつもありがとう。
君のことが好きで好きで仕方ない。
君のことが大好きだ。
わたしは君を愛している。
この部屋から、君がいた跡はまだ消えていない。
だが、それでいい。
シーツに入ったしわは、わたしが一人で寝るときに上書きしておく。君の残り香は時間とともにゆっくり薄れていく。明日の朝にはきっとほとんどなくなってしまってる。くしゃくしゃに丸めたティッシュだってここに二人がいた証。ぬるくなった水はさっき飲み干しておいた。
きっと君はまたここに来る。
そのときには、今よりもちゃんと伝えられるようにするから。
これからも一緒にいてほしい、と。