蝶よ花よと育てられ、やがては星となる令嬢
どんな箱入り娘と言ったって、やがては箱の外に出されることになるのです。
それが貴族の娘であると言うのなら、なおさら。
リーア=ミランジュ嬢にとっては、それはつい先日の出来事でした。
ミランジュ伯爵家は由緒正しい宮廷貴族の家系で、その子どもたちは男子が二人に女子が三人。
リーアはその末っ子。年の離れた兄姉たちが早々に結婚するなり役職に就くなりした中で、父にも母にも「もう最後の子はのんびり育てていいだろう」という余裕の下、のびのびと育てられました。
これにはそれぞれ二人の兄と姉も同意しました。自分たちはあんなに厳しく育てられたのに……という不満はもちろんあったでしょうが、全員が全員ともそろそろ自分の子どものことを考える年にも差し掛かっていたので、放任して育てた子どもがどうなるのか、ちょっと興味があったのです。
彼らは代わる代わる、彼女に物を与えました。物を買う時間はあれど、使う時間はない。そんな悲しい貴族生活を送っていたからです。
彼らは代わる代わる、彼女を甘やかしました。自分だって甘やかされたいのに誰も優しくしてくれない……。そんな悲しい不満を、反対に自分が誰かを甘やかすことで満たしたかったからです。
彼らは代わる代わる、彼女を別荘地に連れ出しました。それにかこつけて、自分だってたまには仕事のことを忘れられる場所へ逃げ出したかったからです。
そんなこんなで月日は流れ、社交成年――これは、正式に社交界に出してもまあ大丈夫だろうという十六歳を指しますが――に差し掛かったリーアを見て、彼らはたちまち驚いて腰を抜かす羽目になりました。
彼女は、信じられないほど美しく育ったのです。
春の川のような女の子でした。
手足はずっと遠くの島に住む猫のようにほっそりとしなやかで、瞳は陽の光を浴びれば花びらのようにきらきらと輝きます。
ミルク色の肌も合わさればほとんど妖精のようにも映り、ただ唯一、ミランジュ伯爵家の子どもたち全員に共通する黒色の髪だけが、彼女をこの世の人間らしく留めていました。
その姿を見て、彼女の一番上の姉が、こんな言葉を溢したほどです。
「へえ……。人間って、こんな感じになるんだ……」
もちろん、リーア本人の前で言ったりはしませんでしたけど。
他の家族も同様でした。いやあこんなことがあるんだなあ、なんて感心顔です。なんだか縁起が良いからこのまま家の守り神にでもなってもらおうか、なんて調子です。宮廷貴族なんてどろどろしたお仕事と生き方をしている彼彼女たちは、そういうものとはすっかり切り離されたように見える彼女のことが、大好きだったのです。
ということで、リーア=ミランジュ嬢は優しい家族に囲まれて、一生幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
……と、ここで終わるなら、大して物語るところもないお話です。
それでもこうして語り始めたのは、残念ながら、悲しいことに、この可憐なお嬢様に、ちょっとした問題が起こってしまったからなのです。
それがどんな問題なのかといえば……ああ、ちょうどいい場面がありますから、そこからお話を始めましょう。
そのリーア=ミランジュ嬢が、森の近くに住む、変わり者の貴族――偉大な魔法使いのまあまあ優秀な弟子である、ニルス=セッテルルンド侯爵を訪ね、相談しているところからです。
゜+.――゜+.――゜+.――
「社交パーティでぶっ倒れたのか」
そりゃ災難だったな、と。
大して同情もしていないような口調で、ニルス=セッテルルンド侯爵は言いました。あんまりにも気配りを欠いた言い方は、それこそ社交パーティでそんな口の利き方をしようものなら、即退場ものです。だからこの若い男はこんな辺鄙なところに住んでいるのだということを、まずはご理解していただく必要があるかもしれませんね。
「は、はい。そうなんです」
ほら、可哀想に。リーアも伏し目がちに、ちょっと怯えて応えています。小さな拳を膝の上で握ってみたりなんかしちゃって。
当たり前と言えば当たり前のことです。だって、リーアがこれまで接してきたのは、宮廷にいるお行儀のよろしい人たちばかりだからです。こんな口の利き方をされたら、それこそ森で大きな猿と出くわしたようなものなんですから。
おっと。一応、ひょっとすると誤解される方もいるかもしれませんから付け加えておきますが、ニルスの容姿自体は、森の猿とは程遠いものです。
少し青がかった銀色の髪に、すらりと高い背、深い洞窟の奥で光を放つ水晶のように澄んだ目鼻立ちですから、美青年と呼んだってそれほど詐欺ではないはずです。
もっとも、彼のその、一体どこで買い付けてきたのかと訊きたくなるような粗末な服を見れば、肝心のファッションセンスがどの程度のものなのか、推して知るべしというものですが……。
「ふうん。……俺のところに来たっていうことは、単なる気絶じゃないんだな?」
「ええと、たぶん。はい」
「コルセットがきつかったとかではなく?」
「それはないと思います。姉様たちが、随分ゆるくつけてくれたので……」
「そうした方がいい。昔出席したパーティに、それであばらの骨を折ったやつがいて大変だった」
「えっ!」
ニルスの言葉に、リーアが驚きました。
どうしてこの男は初対面の相手にいきなり骨が折れるだのなんだの言い出すのでしょう。びっくりさせるでしょうに。まったくの謎です。
「ど、どうなったんですか。その方……」
「その頃には俺ももう多少魔法が使えるようになってたからな。引っ張り出されて治療だよ」
「そうなんですね! よかったあ……」
ほっ、とリーアは胸を撫で下ろしました。彼女は、小説を読んでいて主人公がピンチに陥れば、一緒になって心臓をばくばくさせてしまうような女の子なのです。
「その。それで、どうなんでしょう。私、やっぱり何かの呪いにかけられてしまったんでしょうか。パーティの場で皆さんに紹介された途端、突然胸がきゅうっと苦しくなってしまって……」
「ん」
リーアの丁寧な物訊きに、しかしニルスは非常にそっけなく答えます。
ん、なんて言って、カップに入ったお茶を差し出すだけです。なんなんでしょう。失礼な。それでかっこいいつもりなんでしょうか。
「あの、これは?」
カップをその手で受け取りながら、リーアが訊ねました。
「……まあ、平たく言うと、魔法の茶だ。もしも呪いがかかってるなら、それでわかる。軽いやつならそれだけで消えることもある」
へええ、とリーアはカップになみなみと注がれた、底まで透き通る薄色のお茶を、瞳を輝かして見つめました。彼女は、好奇心旺盛な女の子でもあるのです。
物おじせず、「いただきます」と頭を下げて、彼女はカップに口をつけ。
「ゔ」
ちょっと、可憐な容姿に似合わない、濁った声を出してしまいました。
「悪いが、ものすごく苦い。我慢してくれ」
言うのが遅いのです、この男。
しかしリーアは文句の一つも言わずに頷くと、それをほとんど一息に、ごくごくと飲み干しました。その豪快っぷりと言ったら、ニルスすら珍しく目を丸くするほどです。
一見華奢でか弱い彼女ですが、何しろ家族に辺境の地を連れ回されたこともあって、案外味覚はたくましいのです。ドクダミの葉っぱを直接齧って泣いたあの日に比べればこのくらい……そんな、歴戦の舌の持ち主なのです。
「飲み、ました」
カップを置いて、彼女が言いました。そうしたらニルスの出番です。彼は立ち上がると――ああ、そういえば、いま二人がいる場所がどんなところか説明していませんでしたね。
二人がいるのは、森の近くの小さな館。その応接室です。ニルスはそこに住んでいて、特に奥の方はいかにも魔法使いの住む場所……と言わずにはいられないくらい、怪しい石やら本やら実験器具でごちゃごちゃになっているのですが、この部屋だけは、とりあえずのところ清潔です。
彼の偉大な師匠である魔法使いが遺した部屋ですから、とっても素敵な部屋ですよ。窓は大きく、照明も温かです。白色と薄茶色を基調にした部屋の中は、控えめながら楽園のように穏やかですし、実を言うとインテリアだって、買おうとしたらちょっとやそっとじゃ手が届かないようなお値段なんです。それにそれに、あの暖炉の上に掲げてある絵は三百年前のあの大画家が「売れなかった僕を支えてくれた君へ」なんて言って描いてくれた、複製すら存在しない一点物で――
「……ああ、なるほど。確かに呪われてるな」
おっと失礼。
せっかちなニルスがさっさと話を進めてしまいました。
彼は立ち上がって歩き、椅子に座ったままの彼女の前に屈みこむと、その瞳を見てきっぱりと断言しました。
「目の中に模様が浮かんでる。……これで、一体どういう呪いをかけられたのかわかるんだ」
ごくり、とリーアは息を呑みました。
「どんな、呪いなんですか」
「『美しすぎる呪い』だ」
リーアは、てっきり自分が空耳をしたのかと思いました。
何か、別の言葉と聞き間違えたに違いない。そうじゃなかったら、いくらなんでも。
そして何度も何度も記憶の中の声を再生して――最終的に、こう言いました。
「はい?」
そして、ニルスはこう答えました。
「『美しすぎる呪い』って言ったんだよ」
゜+.――゜+.――゜+.――
さて、それではこの『美しすぎる呪い』というのが一体何なのか、さらりと説明してしまいましょう。
これは言ってみれば、『美しさの短所』とでも言うべきものです。美しすぎることによって呪われている、ということなのですね。
それじゃあこれが具体的にどういうことなのかと言うと。
皆さんも、美しい人の一人や二人くらいは見たことがあるんじゃないでしょうか。そして、そのとききっと、こう思ったはずです。
「綺麗だなあ」とか、
「羨ましいなあ」とか、
「妬ましいなあ」とか、
「仲良くなりたいなあ」とか、
「奪いたいなあ」とか、
まあ、そういうことを。
そしてこのたった五つの並びだけでわかるように、美しいとは誰からも、心優しく歓迎されるものではないのです。
花と見ればそれを踏みにじり、蝶と見ればその羽を毟る。そんな人たちだって、この世には大勢いるわけですから。
美しさとは、一つの財産です。
ゆえにそれは、ときに人によって奪われたり、壊されたりする。そんな脅威に晒されるものでもあるわけです。
リーア=ミランジュ嬢は社交界で、初めて多くの人々の前に姿を見せました。
そこで一斉に、ある種の攻撃を受けたわけです。
彼女を好ましく思う人間からは、「この少女を奪いたい」と。
彼女を疎ましく思う人間からは、「この少女を壊したい」と。
そうした思いが、呪いという形を取って彼女の胸を締め付け、そして気を失わせたのでした。
誰だって、こんな世界にいる限りは、それなりに悪意を向けられて生きていくしかない、ということなのですね。
悲しいことですけど。
゜+.――゜+.――゜+.――
「いま、君にある選択肢は三つだ」
「はい」
ニルスの言葉に、リーアは真剣に頷きました。
「一つは、そもそもが社交界に出て行かないこと。わかりやすい話だが、できそうか?」
「…………流石に、ちょっと」
リーアは、期待に添えなくて申し訳ない、という顔で言いました。
「家系が家系ですから、この年齢になって引きこもるのは難しいです。多少なり、人前には出ないと」
だろうな、とニルスは頷きました。
最初から無理だとわかっていても、本人に確認しないうちから、魔法使いが選択肢を取り上げてはいけません。そのあたりのことが、しっかり身についているんですね。
「それじゃあ、二つ目。俺の魔法で、君の姿を醜く変える」
「え――――」
「そんなに怯えなくていい。まるっきり取り返しがつかなくなるってわけじゃない。たとえば、昼の間だけとか……。そういう風に、時間を決めて変身の魔法をかけることができる」
ニルスは、立ち上がり、自分の席へと戻りました。
背もたれに身体を預けて、足を組みながら言います。
「美しすぎることが問題なら、それを多少緩和してやればいい。別に、他人からそう見えるってだけだ。君自身は、何も変わらない。これならどうだ?」
「……少し、相談してきてもいいですか?」
控えめに、リーアはそう訊きました。
ああ、とニルスがそれを快諾すれば、彼女は立ち上がって、小さく礼をして、部屋から出ていきます。
それほど時間もかからず、彼女は帰ってきました。
何しろ実は今日、ミランジュ伯爵と伯爵夫人の二人ともがここまでやってきているのです。
一応ニルスだって、その治める領地はこの近くの魔法の森だけというささやかなものながら、侯爵であるわけですから。伯爵たちも、娘一人を行かせるよりも、と同伴してきたわけです。
そして戻ってきたリーアは、申し訳なさそうにこう言いました。
「それも、できれば……」
ニルスはそれに、とうとう眉を顰めました。
腰を浮かせて、リーアにこう言います。
「説得なら、俺が手伝ってもいい」
それは、リーアが自らの美しさに、大して頓着しそうにないと思っていたがための台詞でした。
これはよくあることですが――――生まれつき何かを持っている人というのは、それほどその持ち物に執着しないものです。欲しくて手に入れたものではないわけですから。愛着こそあれ、それを努力して手に入れた人ほどの執着というのは、大抵、あまりないわけです。
しかしリーアがそれにも首を横に振るものですから、ニルスはてっきり思ったのでしょう。ミランジュ伯爵家が彼女に及ぶ危害を無視して、その美しさを政治のために利用しようとしているのではないか……。
もちろん、こんな考え、大減点です。
魔法使いとは、人の善なる心を信じてこそなのですから。
幸い、誰からお説教されることもなく、ニルスはそれを思い出すことができました。どうしてかと言えば、リーアがそのことを、懇切丁寧に説明してくれたからです。
「ごめんなさい。でも、父様も母様も、何も意地悪で言っているわけではないんです。ただ、他の人たちからの……その、悪意、に晒されて、私が我慢することになるのが、どうしても許せないみたいで」
ぐ、とニルスは怯みました。
言うことすべてごもっとも、と認めてしまったのです。
もちろん、リーアにかける魔法は、リーアその人の価値を本質的に損なうものではありません。だって、本当のリーアは美しいままなのですから。
でも、その魔法の効果とともに人前に出るとき……彼女は少なからず、我慢を強いられているのです。自らを低く見せることで、攻撃を避けようとする……彼女自身はそうは感じずとも、それを屈辱と感じる人は多くいることでしょう。愛情を注いできた家族がそんな目に遭うと聞いたら、許せないことだってもっともです。
「……すまない。無神経だった」
「あ、そんな! こちらこそすみません。頼りに来ておいて、あれもいやだ、これもいやだと……」
ニルスは頭を深々と下げました。それに負けじとリーアも深々と頭を下げました。もうおでこが膝にくっつきそうです。これって、礼儀としてはかえってどうなんでしょう。最近の礼儀作法には、こんな新しい型が生まれてきたんでしょうか?
「となると、」
とニルスは言いました。
一番目の案、二番目の案、どちらもダメだから……。
「三つ目、ということになるわけだが」
「はい」
どんなことがあっても覚悟はしています、という顔でリーアは頷きました。そしてそれを見て、ニルスは微妙な表情になります。
だって、わかっていたのですから。
一つ目は、伯爵家令嬢としての責務があるせい。二つ目は、家族に気遣ったせい。そんな風に、これまでの断りの理由が自分自身の気持ちに関わるものではなかった以上……この三つ目。
「君、俺と一緒に住め」
「はい! …………はい?」
自分の気持ち一つで何とかなることなら、目の前のお嬢様は引き受けてしまうと、わかっていたのですから。
゜+.――゜+.――゜+.――
さて、ニルスがどうして急に、年頃の女性に向かってこんなことを言い出したのかといえばなんですが。
最後に残った方法というのが、「自分の力で呪いに打ち勝てるようになる」――そのたった一つだったからです。
呪いに打ち勝つのは、難しく、同時にそこそこ簡単です。
ありとあらゆる呪いに打ち勝つには、魔法使いの力が必要になります。つまり、自分でそれをしようと思ったら、魔法使いになるための厳しい――ときに厳しくなかったり、信じられないほど楽しかったりする――修行を積まなければならないわけです。
一方で、たった一つ特定の呪い――たとえば、『美しすぎる呪い』だとか――に打ち勝つだけであれば、一月二月も修行を積めば、それで達成できてしまうのです。
優れた料理人になるのは難しいけれど、優れたレシピの通りにたった一つの料理を作るだけであれば、努力次第でできなくもない。まあ、そういうことなわけです。
ということで、ニルスは言いました。
君、俺と一緒に住んで、ここでその呪いに打ち勝つ修行をしなさい、と。なんだか言葉が足らな過ぎて唐突なプロポーズみたいになっていましたが、一応、彼の中ではそういう意味で言っていました。
そして当然、リーアは頷きました。
一緒に来ていた両親に「私、ここで暮らします」と爆弾発言をして大混乱を引き起こして……なんやかんやあって誤解は解けて、涙ながらにしばしの別れを告げました。
さあ、よかったよかった。
ニルスはそれなりに優秀な魔法使いです。偉大な師匠には遠く及ばずとも、地上に残された人間の魔法使いの中では、一番二番と言ってもいいでしょう。
リーアは優秀な生徒です。素敵な家族に囲まれてたくさんのものを与えられて育った子ですから、素直で聞き分けがよく、そして生来持ち前の根気のようなものもありました。
優秀な教師と生徒が合わされば、導き出される結果はたった一つ……。
そう、大成功。
めでたし、めでたし。
とは限らないのが、世の中の不思議なところです。
゜+.――゜+.――゜+.――
「……おかしいな」
「すみません……」
「いや、謝ることはない」
それはちょうど、三か月後のことでした。
リーアがニルスの下でちょっとした魔法の修行――まあ大体、一つの呪いに打ち勝つためのものなんてただの精神修養みたいなものですけど――を二か月みっちり積んで、「先生、ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」「うむ、達者でな」なんて涙ながらにハンカチをふりふり別れて、それから一か月後ということです。
リーアは、再び社交パーティで倒れてしまって、大慌てでニルスのところに戻ってきたわけなのでした。
「四回目のパーティなんだな? それまではどうだった」
「実は……ちょっと、胸が苦しいような気は、一回目からしていました」
頭痛を堪えるような顔で、ニルスは眉間に指を当てました。こらこら。そんないかにもな動作をするくらいなら、ちゃんと言葉にしてあげなさい。
「ごめんなさい。一回目ですぐに言いに来ればよかったんですが……」
「……まあ、確かにその通りだ。ここでの修行のときも何度も言ったが、君は我慢しすぎるきらいがあるな。少しでも怪しいと思ったなら、すぐに周りの人間に相談した方がいい。自分で加減を覚えるまでは」
「はい……」
「あ、いや、」
しょんぼりと俯いたリーアを見て、ようやくニルスは、自分がどれだけ不機嫌そうな顔をしているのかに気付きました。あわてて、こんな風に弁解します。
「怒ってるわけじゃない。ただ、心配してるだけだ」
「え……」
「それに、君が呪いを弾き切れなかった……弾き切れないことを見抜けなかったのは、俺の落ち度でもある。その点は謝罪する。すまなかった」
「そんな!」
いやいや私が、いやいや俺が。
そんな風に、また遠慮と責任の引っ張り合戦が始まりました。平和なものです。この二人、結構似た者同士なのかもしれませんね。
さて、まあそんなぐんにゃりした触れ合いもそこそこに終わって、ニルスは本題に入りました。
「だが……それにしても不思議だ。少し確認してみてもいいか?」
「はい」
リーアが迷いなく頷いたので、ニルスは遠慮なく指をパチンと鳴らしました。
すると、がちゃりとドアが開いて、大きな熊――の、ぬいぐるみ――が部屋の中に入ってきます。
この熊のぬいぐるみの愛らしいことと言ったら!
もちろんこれだって、偉大な魔法使いの家にあるに相応しい、偉大なぬいぐるみの一つなのです。というのもこれは以前、ニルスの師匠である魔法使いが北部にある小さな村で起こった奇妙な事件を解決した際に、そのお礼にと言ってその村にいた小さな愛らしい女の子が自分のお気に入りのぬいぐるみとお揃いにして編んでくれた心のこもった一品で――、
「……ううん。別に、プレッシャーを感じてないわけじゃないよな?」
「はい。感じてます。プレッシャー」
「でも、耐えられないほどじゃない?」
「はい。特には。社交パーティみたいに苦しくなることもありません」
「うーん……。わからんな」
おっと。
またせっかちなニルスが、話を進めてしまいました。
この熊のぬいぐるみは、リーアがここにいた二か月間、彼女の修行のお供として使われていたものでした。なにせ、ニルスだって自分の魔法の研究がありますから、色んな人が頼ってくるたびにずっと付きっ切り、というのはちょっと難しいのです。
そんなとき、こうした人形があればとても便利です。彼女にちょっとした魔法をかけてあげれば、ちょちょいのちょい。あっという間に――今回の場合で言えば――美しさに対する悪意を発射する極悪装置に早変わりです。ほら、今だって、もふもふの口でハンカチを噛んだり、バラを咥えてみたり、やりたい放題です。
「出力はかなり強めにつけてるんだ。これに耐えられて、普通の社交パーティに耐えられない理由はないはずなんだが……」
うんうん唸りながら、ニルスは考え込んでいます。
当然、『理由がない』なんてことはないのです。目の前のことを素直に受け取れば、『自分が気付けていない理由があるのだ』と簡単にわかるわけですから。このあたりの言い方一つで、ちょっとした彼のプライドみたいなものが見え隠れしちゃっているわけなんですが、できれば見ないふりをしてあげてください。彼だって本当は、そういうところを直していきたいなと思ってるんです。たぶん。
結局、うんうん唸りながら、ニルスはそれこそ熊のように部屋の四辺をぐるぐる十五周も回りました。
そしてあまりの回りっぷりにくらっ、ときたところを、リーアにはしっ、と支えられて、そこでようやく、溜息交じりに己の未熟を認めることになったのです。
「すまないが、君の出席する次のパーティ、俺も同行していいだろうか」
゜+.――゜+.――゜+.――
Seeing is believing.
見ることは、信じること。
これは、結構な数の魔法使いが、一度は口にしたことのある格言です。
あれこれ考えを巡らせて行き詰るくらいなら、実際見ちゃいなよ、ってな感じの言葉です。
でも、実を言うと他にも意味はあるのです。目に見えるものしか信じられないとか、魔法使いは一目見てすべてを理解しなければなりませんよ、とか。
ついでに言うなら、この変形もたくさんあります。聴くことは信じること、とか。見えないことこそ信じるべきこと、とか。信じることがなければ何も見えない、とか。魔法使いって結構いい加減なので、みんなその場その場でそれっぽいことを言って、格言らしいことを後世に遺していくのが大好きなんですね。
今回の彼の行動は、きっとまさに、偉大な師匠の遺した言葉を思い出してのことだったのでしょう。見事なものです。一日に三百を超える格言を聞かされて育ちながら、それでいて状況にぴったり合ったそれを引き出すことができるなんて……。
え?
別に格言とか関係なく、ただ自分でそうするのがいいと思っただけなんじゃないかって?
うーん。
まあ、憶測の仕方は人それぞれですね。
゜+.――゜+.――゜+.――
じろじろ、というより、ぎろぎろ、という目でニルスはリーアのことを見つめていました。
パーティの最中、壁に背中をつけて寄りかかって。
態度最悪です。
何人か彼に話しかけてくる人たちもいました。何せあの偉大な魔法使いの弟子ですし、それに、本人だってもういっぱしの魔法使いですから。森の中から珍しい鳥が姿を現した……そんな感じでみんな、好奇心に駆られて声をかけずにはいられなかったのです。
そして、その全てにニルスは、こう答えました。
「すまないが、今、少し忙しいんだ」
態度最悪です。
笑うことは信じられること――そんな格言もどこに置いてきてしまったのか、終始不愛想な顔で、壁の花というか、壁の向こうの鍾乳洞のずっとずっと奥に聳え立つ氷柱みたいな調子で、彼は立っていました。
そしてじっと――リーアを見つめていたのです。
大したものでした。ニルスみたいな男がずっと傍についているのに、それでもなお、リーアはその美しさから視線を集めるのです。
一見、彼女の振る舞いには、何の問題もないように見えました。
背筋はきちっと伸びて、視線をものともしません。それでいて話しかけてきた相手には、親身になってお喋りをします。箱入りとはいえ、さすがは由緒正しい宮廷貴族の子です。もちろん彼女の状況は何も変わっていませんから、こうしている間にも胸に苦しさを覚えているはずなのですが……それをおくびにも出さずに、きっぱりと彼女は、社交という役目を果たしていました。
だから、その帰りの馬車――ミランジュ伯爵家の私邸へと行く馬車の中で、ニルスはとうとう、言うことができたのです。
「君が、呪いに冒される原因がわかった。――今度こそ、はっきりと」
゜+.――゜+.――゜+.――
夜の野に、二人は迷い出るようにして歩いていました。
もちろん、本当に迷っていたわけではありません。「少し、彼女と話したいことがある」「ひょっとすると、家族にも聞かれたくない話かもしれないから」とニルスが説明をして、あの過保護なミランジュ伯爵家の皆さんに許可を取って、人気のないところまで出てきたのです。
夜は、真っ暗でした。
地上は特に。野原の草々の背は腰ほども高く、ところどころに咲き誇る白く小さな花ばかりが、ぼうっと浮かび上がっています。お互いの顔すらも薄らぼんやりとしか見えないような、宵の深み……だからニルスは、かえって遠慮することなく、正直なことを言えました。
「君の気持ちは、よくわかる」
「え――?」
「与えたいんだろう?」
ハッとしたように、リーアはその顔を上げました。
胸の前で両の手をぎゅっと握って、そしてとうとう、彼女も彼女自身、自分の心を認めないわけにはいかなくなりました。
見られることは、信じられること。
確かにそこにあると見抜かれてしまえば、もう、ないもののふりはできなかったのです。
「私は……与えられるだけの人に、なりたくなかったんだと思います」
彼女の告白に、優しくニルスは、頷きました。
「単純な話だった。君は、呪いを跳ねのけるだけの強い心を身につけたはずだった。それなのにいまだにそれに苦しめられていたのは、たった一つが原因――
君自身が、それに苦しめられることを望んでいたんだな」
はい、と小さな声で、リーアは応えました。
もっとも、彼女の名誉のために付け加えておくと、何もただ、周りの人を困らせるために知らないふりを続けてきたわけではありません。彼女自身、言われて初めて、そのことに気付いたのです。
だって、鏡がなければ、自分を見つめることなんて、誰にもできないことですからね。
「……ずるいじゃ、ないですか」
泣きそうな声で、彼女は語り始めました。
「家族の皆が苦労してるのに、私だけがずっと、こんな風に優しくされて……。ちょっとくらい嫌な目に遭わないと、帳尻が、合わないじゃないですか」
ニルスは、パーティを見て、ちゃんと気付いていました。
彼女に対して最も好色な目を向けているのが、国の第二王子であること。それを妬んでいるのが、ミランジュ伯爵家と鎬を削っていた、別の貴族家の娘であること。
それだけではありませんでした。
もしもニルスが、人の悪意を糸のように映す瞳を持っていたら、きっと見えたことでしょう。
蜘蛛の巣に磔られた蝶のように、手足の全てを雁字搦めに縛られた、リーアの姿が。
彼女はその呪いの糸を、跳ねのけようとすれば、できたはずでした。
でも、そうしなかったのは、彼女自身が望んでいたからです。
家族と同じように、自分も苦しむことを。
家族が自分に、苦しみの果ての愛を与えてくれたように――自分も、それを与えてあげたいと、そう思っていたことを。
彼女は、愛想をふりまきました。
より、自分を良く思わせるために。この美しさを奪いたいと、あるいは貶めたいと、強く思わせるために。そうすることで、鮮やかに見せつけることで、ミランジュ伯爵家が、家族が、いかに大きな財産を持っているかを披露することができるのですから。
家族に、少しでも、貰ったものを返すことができるのですから。
だから彼女は――――美しい容姿に向けられる呪いを全て、跳ねのけることなく、受け入れてしまっていたのです。
傷つくことを、厭いもしないから。普通よりも、ずっと……ずっと、強く。
「……ご迷惑を、おかけしました」
深く、リーアは頭を下げました。
「私自身が、呪われる原因を作っていたんですね。ニルスさんには、こんなことでお手を煩わせてしまって――」
「まだ、話は終わっていない」
それをニルスは、押し留めました。
不躾にも彼女の肩を掴んで、ぐい、と押し上げたのです。真っ直ぐに――空へと向かうように真っ直ぐに、彼女を立たせました。
そして、瞳に涙を浮かべながら驚く彼女に、こう言ったのです。
「魔法使いのいる物語は、必ず『めでたしめでたし』で終わるんだ」
そうして、彼は彼女に、問いかけました。
君がたとえ呪いの原因が自分だと受け入れたところで――それで、一体何が変わったというのだろう、と。
君はこの先も、家族に愛を返すために苦しみ続けるつもりなのか。
それとも、その苦しみが家族を心配させることに気が付いて、愛を返すことを諦めるつもりなのか。
彼は、語りかけました。
どちらだって、大した変わりはないはずだ。
そのどちらを選んでも、ただ君は、最初にいた場所と大して変わらない――少し別の不幸に、乗り換えを果たしただけだ。
でも、魔法使いのいる物語は、そうではないのだ、と。
「魔法とは、『世界をより良く変えよう』という試みだ。
俺には君を、幸せにする用意がある」
そう言って、彼は手を差し伸べました。
リーアは、迷いました。
これ以上、自分が何かを受け取ってもいいものか――何もかも与えられて、満たされて、それなのにまだ、誰かに頼ったりしてもいいものか。そんなことを、考えて。
だから、ニルスは、ずっと待っていました。
いつまでだって、きっと待つつもりだったのです。彼女が、人から何かを受け取る準備ができるまで……たとえ星が流れて、月が欠けて、季節が過ぎていっても、ずっと。待つつもりだったのです。
待つことは、信じること。
魔法使いは、人は誰だって幸せになりたいはずだと信じるところから、一歩目を踏み出すのですから。
リーアの指先が、彼の手に触れて。
そこで初めて、ニルスは彼女に、笑顔を見せました。
「わ――――」
リーアの身体が、宙へと浮かび上がりました。
ふわり、と。どこにも頼るべき場所がなくなってあわあわと手足を振れば、それをするりとニルスが横抱きにして支えます。
さあ行こう、と彼は言って。
ずっと遠くの星空へ、彼女を導いていきました。
「俺の師匠は、」
風の中で、そんなことを彼は、囁きます。
「俺が一人前になると同時に、星に変わった」
「え――?」
「ずっと遠い昔から、魔法使いはそうしてきたんだ」
彼がしたのは、古い古い、もうすっかり、魔法使い以外は忘れ去ってしまったようなお話でした。
夜がずっと暗かったころ――。誰もが怯えて暮らさずにはいられなかったころ。一番最初の魔法使いは、彼らに光を与えたいと、そう思いました。
「夜の中でも、光り輝く導きを――。最初の魔法使いは、そうして星に変わった」
「それじゃあ……」
「ああ。俺の、師匠もだ」
二人はどんどんと高くの空へ登っていきました。
途中、リーアが微かに肌を震わせれば、ニルスは自分の外套を被せてやりました。
そして、もう、手を伸ばせば星を掴めそうな場所にまで至って――彼女に、こう言うのです。
「同じ場所に立とうとすることばかりが、愛ではない」
リーアは、ニルスに抱えられたまま、夜の空を見つめていました。
右も左も、上も――あるいは、下でさえ。
どこを見ても星の光がきらきらと輝く、空の海の中に、二人は佇んでいたのです。
「苦しみばかりが努力ではないし、痛みばかりが証でもない。……君の気持ちが、俺にはよくわかる。師匠に引き取られて、ここで魔法使いの修行を始めたとき、俺も君と、同じようなことを考えていた」
「ニルスさんも、ですか?」
ああ、とニルスは頷きました。
「俺はずっと長いこと、あの森の迷い子だった。泥にまみれて、獣に怯えて、明日も知れずに生きていた。……それを、師匠が拾って、育ててくれた。幸福だったよ。食べ物のことも、寝床のことも心配しなくていい。困ったときには助けてくれる誰かがいる。……それがときどき、不安でたまらなくなった。俺以外の人間は、どこかでもっと、苦しんでいるはずなのに――」
ぎゅっ、とリーアはニルスの服の袖を掴みました。
同じなんかじゃない、と彼女は思ってしまったのです。
自分なんか、こんな風に甘やかされて、誰かに頼って、あなたみたいに苦しい思いをしてきていない。同じ気持ちだなんて、そんな風に思い上がることはできない……。そんな風に、彼女は思ってしまったのです。
でもね。
「『恵まれていることを恥じるな』と、俺の師匠は言ったんだ」
ニルスは、慰めのための嘘なんかではなくて、本当に、心の底から、彼女と自分は似ていると思っていたのですよ。
「『受け取れるものを全て受け取ってから、歩き始めなさい』――師匠は、そんな風に言った。
誰もが森の中で迷っていたら、きっとどこにも辿り着けない。夜空の星が全て地上に降りてきて輝きをなくせば、今よりもずっと、暗い世界になってしまう。……俺はな、」
ニルスは、リーアの顔を覗きこんで、言いました。
「人を、幸せにしたい。世界に、もっと良い方向に変わっていってほしい。――そのために、今、自分に魔法の力があることが、誇らしいんだ」
それはとっても、優しい微笑みでした。
「君の美しさも、そんな風には思えないか。
負い目だとか、自分を傷付けるための道具だとか、そういうものじゃなくて――誰かを幸せにするためのものとして」
彼女は、すでにそのやり方を、知っていました。
二か月、不愛想な顔をした魔法使いの下で、修行を積んできたのですから。
自分に向けられる悪意を跳ねのけるやり方――自分でそうしようと決めさえすれば、家族と一緒に傷つこうとすることを辞めさえすれば、あのくらいの呪いなんて、もう本当は、彼女にはなんてことはないのです。
心の在り方を変えることを、ほんの少し自分に許すだけで――自分はもっと、違う生き方ができる。
自分を抑えるでも、傷つけるでもない生き方を、もう選ぶことができる。
そして彼女は、それを自分に許していいということも、知っていたはずなのです。
だって、家族の誰だって初めから、彼女のことを許しているのですから。
「私――私、は、」
リーアはたどたどしい言葉で、そう、喋り始めました。
誰だって、自分の心の深いところから言葉を引き出そうとするのには、すごく大きな力を使わなければならないのです。
だから精一杯、彼女は心を込めて、言葉を紡ぎ始めました。
「母様にも、父様にも……姉様兄様にも……みんなに、幸せになって、ほしいんです」
「うん」
「私がいて、よかったって……みんなに、そう、思ってほしい。与えた愛の、見返りを、私から受け取ってほしい……」
「……うん」
本当は、彼女は。
ずっと寂しい女の子だったのです。
みんなが忙しくて、自分とは関係のないところで一生懸命で。
自分に構ってくれるのだって、ほんの息抜きでしかないと思っていて。
自分だけが、遠ざけられているようで。
それが勘違いだと、わかっていても。
気持ちをちゃんと動かすことは、どんな人間にだって出来はしない、とても難しいことですから。
愛されながら……箱の中の孤独を、彼女は感じていて。
だから、箱の外に出たら、大喜びで、家族とお揃いになるように、その翅をボロボロに傷つけたいと、そう思ってしまったのです。
「繋がって、いたかったんです。苦しめば、それが絆のような、気がして……」
「……それも、間違いなく絆の一つだ」
ニルスは、彼女の行動を、それでも肯定しました。
だって、人が人を思う気持ちに、間違いなんてないのですから。
「でも――もし君が、自分自身を傷付けないような形でそれを成せるなら、その方が……」
少しだけ、ニルスは口ごもりました。
理由はもちろん、リーアと同じ。
自分の、本当の心を言葉にするのは、少しだけ大変だったからです。
「その方が、俺は、うれしい」
たぶん、君の家族も。
そんな風に、彼は付け加えました。
星明かりの瞬く、素敵な夜。
彼を見上げる彼女の黒い瞳には、それこそもう一つの夜空のように、無数のきらめきが散らされていました。
それから彼女は、もっと素敵な女の子になったそうです。
誰をも惹きつけ、喜ばせ――それでいて、誰からも奪いたいとも貶めたいとも思われない、そんな素敵な女の子。
なぜ、と訊いたら、きっとそのパーティに居合わせた全員が、こんな風に答えてくれることでしょう。
――――だって、夜空のあの美しい星に向けてそんな気持ち、とてもとても!
゜+.――゜+.――゜+.――
……あれ?
ようやく「めでたし、めでたし」で終わるはずが……。
うーん。まだちょっとだけ、続きがあるみたいですね。
蛇足のような気がしなくもないですが……。
でも、まあ。折角だから、ちょっとだけね。
゜+.――゜+.――゜+.――
「お世話になりました」
「いや、こちらこそ」
森の小さな館でのことです。
あれから三か月が経ちました。そしてとうとうリーアは……そして過保護なミランジュ伯爵家は、確信したのです。
もう、大丈夫。
呪いなんか、関係なくなった、と。
深々と、リーアとニルスは頭を下げ合いました。
リーアはもちろん、自分の呪いを解いてくれた魔法使いのため。
そしてニルスは、『時に魔法使いは、魔法に頼ることなく、人の心に寄り添わなければならない』ということを教えてくれた、偉大な女の子のために。
お互いに、感謝を伝えるために。
深々と、おでこを膝にぶつけるほどに、頭を下げたのです。
「いたっ」
「いっ、」
あれ、本当にぶつけちゃった。
二人とも、おでこを押さえて起き上がりました。
そしてどうやら、まぬけなことをしたのが自分だけじゃないらしいとわかって、お互いにお互いの目を見つめて、ふ、とはにかみます。
「寂しくなるな」
そう、ニルスは言いました。
なにせ、なんだかんだ言ったって、半年近くも顔を合わせてきた相手ですから。
それに向こうは、二か月の修行をしているときなんか、床の上に寝こけている魔法使いを見るたびに、親切にも毛布をかけてくれたりした、大恩人なのですから。
いつもはサクサク人の悩みを解決してきたニルスですから、ひょっとすると偉大なお師匠様を除けば、目の前の彼女こそ、一番長く時間を共にしてきた相手なのかもしれませんね。彼、まだ二十歳にもならないくらいだと思いますし。
「はい。私も、寂しいです」
そう、リーアは応えました。
なにせ、彼女だって箱入りですからね。きっと今、目の前の彼が家族以外で一番……。
二人は、素直な気持ちを伝えあいました。
そしてじっと、見つめ合いました。
「…………」
「…………」
「…………あ、そうか。ええと、迎えは、」
「あ、えと。大丈夫です。来てます。来てますから」
でも残念ながら、それ以上のことはわからなかったみたい。
お互い顔に朱を差しながら、ばたばた慌てて立ち上がりました。
「ええと、じゃあ、元気で。また何かあったら、いつでも」
「はい。あの、また何かあったら、いつでも来ます」
それでは、と言って、リーアは部屋から去っていきました。
あーあ。
そしてそれから一分後、椅子に座り直して、やたらにそわそわしていたニルスは、思い出したように立ち上がりました。
「み、見送りに行かないのは失礼か……!」
そこじゃないでしょうに。
ニルスは慌てて部屋を出ようとしました。
けれど、すぐに気が付きました。自分の今の恰好は、随分と気が抜けているぞ、と。今更なのか、と思わずにはいられませんが、しかし気付いてしまったものは仕方がありません。
これが彼女と会う最後になるかもしれないのですから。
できれば、まともな恰好を最後に見せたいと思い始めたりなんかしたら、もう止められないのです。
ニルスは扉のノブまで握っていたのに、けれど慌てて部屋の中に引き返しました。その途中で机に足をぶつけて悶絶したりしながら……以前に彼を頼ってきた都の仕立て屋さんが「魔法使いさんへのお礼に」と贈ってくれた一張羅に袖を通しました。式典のときに使うばかりで、リーアと一緒に社交パーティに行ったときですら着なかったそれを、です。
鏡の前に立つのなんて、一体何年振りでしょう。
変なところはないよな、なんて確かめようとして、そこからさらに、ハッと彼は気付きました。
ぐずぐずしているとリーアが帰っていっちゃうぞ、ということに。
もうこんな風にぐだぐだしている場合じゃありません。
行くしかないのです。彼は最後に一度だけ自分の全身を鏡に映すと、「よし」と気合を入れて、今度こそ扉に向かっていきました。
ノブを、握って。
引いて。
「わ、」
「え」
その部屋の前に、リーアが立っているのを見つけました。
「え、あ、」
混乱しながら、ニルスはかろうじて、こう訊くことができました。
「なんで……」
「あ、えっと……」
それに、リーアは答えにくそうにして、瞳を伏せました。
両手を組んで、ちょうど胸の前のあたりに置いて、それから、控えめに、申し訳なさそうに、「実は……」なんて言って、語り始めるのです。
それは、こんな言葉でした。
「呪い、治ったと、思ったんですが」
「ああ。その、はずだが」
「あの、その。なんだか、ええっと……」
察してあげればいいのに。
リーアは、ほとんど泣きだしそうなくらいに、白い肌を赤く染めて、必死になって言うのです。
「この家を出たときから、また胸が苦しくなって……! これって、呪いなんでしょうか!」
きっぱりと、最後には顔を上げて、目を見て。
リーアはそう、訊ねました。
呪いか、そうじゃないか――。
傍目に見ていたら、もちろんそんなの決まってるでしょう、と呆れかえってしまうような質問ですが、でも、本人はいたって真剣なのです。何せ彼女、もしもそうじゃなかったら、なんて想像だけで、こんな風に真っ赤になってしまうような女の子なんですから。
だから、それに答えてあげられるのは、今この場では、たった一人。
目の前にいる、呪いに詳しい魔法使いさん、ただ一人なんですけど。
「あ、ええと、どうだろう」
残念ながら、負けず劣らず、こっちも真っ赤になってしまっておりまして。
「じゃあ、そう、そうだな」
「は、はい」
「その……もう少し、ここにいて、様子を見るというのは、どうだろう」
「い、いいんですか」
「いい……というか、」
でもまあ、流石は魔法使い。
最後の最後で、ちょっとだけ勇気を出して、こう、付け加えました。
「そっちの方が、俺は、うれしい」
ということで。
蛇足付きの物語も、ここでおしまい。
二人はそうして、一生幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
(了)