第三話 想像したものを創造して他人に見ていただく快感
まだ続きます…。
一番最初にそれを感じたのは一体いつのころでしょうか。小学校の美術の時間で皆の前で写生に行った時の絵を担任に褒められました。校庭のすみにあったブランコの後ろの木で、その周囲を低い石垣で囲まれていまして、石の色を一個ずつ変えて書いたものです。私はその時の晴れがましい感覚を覚えています。
「この中では一番良い絵だよ」 と担任がいうと拍手をしてくれた子もいました。同時にいじめっ子たちがぱっと振り返ってすごい目でにらんだことも。先生はそういう状態に気づいていなくて能天気に皆の絵を順番に批評し続けたことも。後日かべに貼られた例の絵の下の部分が破れていたことも。全部覚えています。
読書感想文が校内のガリ版刷りに掲載されたりもしました。大人が読んで上手ねぇと喜ぶ文章を知らずして書いていたと思います。心が籠ってないので何をかいたが覚えていません。一見おとなしいのに中身は生意気な子供でした。私が通学していた小学校は公立で同和教育に熱心な学校でした。同和出身故に強盗強姦殺人事件の犯人とされた話を元にした感想文がその手の新聞に載ったことがあります。いつも私の文をほめてくれていた担任が無言だったこと、母親が私の文面を読んでとても困った顔をしていたことを覚えています。これも捨てられたので残っていません。
でもこの時に己の造った絵や文章を己以外の他人が時間を割いて読んでくれるという晴れがましさを感じました。同時にどうせ私は何をやってもダメな人間という自己否定も常に心の根底にあり、文章を書くこと自体も親は嫌がりますので、人前では話もせず創作もせず、おとなしく読書をして過ごす子供時代でした。
カラが破れたのは第一話にも書きましたが一人暮らしを始めてからです。三十五年ローンを組みましたので食事をはじめ生活全般を切り詰めていました。当時はまだあったワープロも私には高価すぎて手が出ず、紙の原稿用紙のマス目を一文字ずつ、埋めていきました。公募ガイドなどの雑誌も存在せず私は無知でした。勤務先にあった新聞記事の懸賞応募をみて投書したりはしました。でも全部落選です。やっぱりダメかと特に落ち込まずに仕事に邁進しました。勤務先がわりと著名な機関ということもあり、そのネームバリューから何か話を書いてくれと頼まれることはありました。身分はヒラですが、勤務先でも文章を書くとなると、とたんに本来の仕事よりも張り切るので院内ニュース関係は私の仕事になりました。
作家活動に縁はなくても、それなりに書くことに充実していました。ある時私がうっかり母に対して本当は作家になりたいというと鼻先で嗤われました。仮に凄い才能があってプロになれても最後は自殺というパターンが多いからやめなさいと諭されました。母は本気で言っていましたのでそれ以降母の前では創作の話は一切しないようになりました。
そうそう……とりとめなく書いていくうちにいろいろなことを思い出します……忘れもしません。再度時代は遡りますが、高校の時に同じ年で芥川賞をとった少女がいます。母は「あんたと同じ年でもう作家として稼げる子がいる。その親御さんがうらやましいわ」 とその子の著書を買ってくれました。私には創作の趣味をバカにし止めるようにいうのに芥川賞を取った子を褒める……テレビの記者会見でその子が映っているのをわざわざ呼び立てて「見なさい」 という。私はすごく悲しくて母にばれないようにその本を読まずに捨てたことを覚えています。
私は母のいいなりの良い子でした。今でも母は私のことを良い子だといいます。私は黙って聞き流すだけです。このサイトで文章を大量に垂れ流していると夢にも思っていません。これが母のいう良い子のなれの果てです。
世間の誰もが私が文章を書いていることを知りません。でも小説やSNSサイトが存続する限り、私の文面は残ります。私が死んでもなお残ります……その思いで今日もどこぞでUPしつづけます。
私が黙って創作をしてそれを公開すると、この世にいる誰かが黙って私の文を読んでくれる。それでいい。お金になればうれしいが、ならなくても創作したい……それだけ。誰がなんといおうか創作はする。それだけ。
私の承認欲求は小説家になろうというこのサイトでは数字で何人閲覧してくれるかで満たされる。一人以上いればよしとしている。そりゃ数多いほどいいかもしれぬけど、量産はできないものだしそれでよい。商業出版はそりゃ夢も見ます。私だって人間だから。お金があればバレエに関するあれこれの仕事ができますしね。
出版に関しては初版だけで終わりましたが一応商業も経験していますのでまた稿を改めて書いてみます。