4.惨劇の跡
ミンネは「パチュイ」と名を呼んだ。
「すまない」
耐え切れなかったものか、パチュイはミンネに謝った。
「……どういうことだ?」
「俺たちは、嘘をついた。俺もザリも、義兄上が火竜の子を襲ったとは信じられなかった。義兄上が子供を助けるために死んだ、というのは、嘘だ。火竜の子が子供を襲ったというのも、ザリと示し合わせて作った話だった。……俺たちは、オラーテ様のことも、姉上のことも、そなたのことも……トトリ村の皆のこともあざむいた」
悲痛な表情で、パチュイは「許せ」と言った。
優しい嘘だ。
エンジュが英雄でなくなることを、きっと恐れたのだろう。
「続きを聞かせてくれ。そなたも黙ってあちらの言い分を聞いていたわけではないだろう?」
「あぁ。納得できなかった。蒼き血を引く男が、理由もなく火竜の子を殺すはずがない。ザリがまず、ドラドの男たちにつめ寄った。しかし、ドラドの男たちは、『この目で見た。エンジュはたしかに、竜の子を射た後、その首をかき切った。なぜそんなことをしたかは知らない。暑さで頭がやられたのだろう』と答えた」
カッと頭に血が上る。
そんなはずがあるか、と怒鳴りちらしたい。
だが、こらえた。ここで叫んだところで、無意味なことだ。
「兄上が聞いたという、子供の泣き声の話はしたのか?」
「あぁ、俺がした。『エンジュは、ドラドの子を助けようとしたのだ』と。だが、連中は『知らぬ』とだけ。あたりに子供の姿も見当たらなかった」
片膝をついたまま、草の上をなでる。
どうしても、納得がいかない。
ドラドの男の口から語られる兄の姿は、ミンネの知る兄とは、まったく別の人間のようだ。
いくら考えても、その姿は頭で像を結ばない。
「兄上が……蒼き血を引く者が、火竜の子を殺すはずがない」
「その通りだ。ミンネ。俺もそう思った。だから、俺は村に戻って言ったのだ。『ドラドの子を助けるために、やむを得ず義兄上は火竜の子を射た』と。すまない。義兄上が正気を失ったというドラドの言葉を、そのまま伝えることができなかった」
「謝らないでくれ。その嘘がなければ、父上の心臓はもう止まっていたかもしれない。そなたの優しさで、救われた者もいる」
ミンネは再び草に触れ、観察を続ける。
大きな目でにらみつけるように辺りを見回しながら、今日トトリ村を出てからの道を、頭の中に描いていた。
楠の森。
一頭目のシカ。
沢。
二頭目のシカ。
草原。
焼けあと。
順に脳裏に浮かぶ映像のひとつが、ミンネになにかを訴えている。
おかしい。
なにかが、おかしい。
ミンネは「あ」と声を上げ、自分の考えをたしかめるために、火竜の子が伏していたという場所をたんねんに手で探った。
「血のあとがない」
そうミンネは言って、スッと立ち上がった。
森ではシカの血が残っていたのに、この場所にはわずかの血もない。
「……たしかに、ないな」
「シカ一頭でさえ、首を切れば血のあとが残る。ましてクマ三頭分の火竜の子だぞ? ドラドの男たちは、兄上が火竜の子を射たあと、首をかき切ったと言っていたというのに。もしここではない場所で行われたことならば、どこぞからここまで運んでくる必要がある。あの重い火竜の子をだ。兄上が子供を探し始めてから、そなたが死んだ兄上を見つけるまでの時間はどの程度だった?」
「シカをくくって、湯をわかし、茶を飲む程度の時間だ。そう長くはない」
「不可能だ。兄上ひとりでやり遂げられることではない。ドラドは嘘をついている」
ミンネは一度、ひらりと馬に乗った。
あたりをぐるりと走らせ、高い場所から現場を見る。
円を少しずつ大きくしながら、さらにぐるぐると回った。
「ミンネ。昨年、南部を旅した時のことを覚えているか?」
突然、パチュイに尋ねられ、ミンネは回りながら「忘れるものか」と答えた。
エンジュは十三歳の頃から、毎年春になると蒼の国の南半分を回っていた。
北部と南部では文化が大きく違い、住む人の肌の色も違っている。交流も乏しいため、地続きだという感覚は薄い。
その南部一帯をエンジュは旅し、見聞を広め、さまざまな村と縁を深めていたのだ。
パチュイもミンネも、昨年は同行した。
見るものすべてが新鮮な驚きに満ちていて、生涯忘れまい、と思ったものだ。
「クジラを見ただろう?」
「あぁ。よく覚えている」
南西の漁村で見た、クジラ猟の様子は目に焼きついている。忘れようにも忘れられない光景だった。
敷いた丸太の上に、巨大なクジラをのせて縄で引く。
丸太が回転して、クジラの身体は運ばれていくのだ。
ミンネは回るのをやめ、ある一点を見て動かなくなったパチュイの横に並んだ。
「見ろ。ミンネ。似ていると思わないか? 砂浜についた、クジラを運んだあとに」
パチュイのスミレ色の瞳の向こうには、草が倒れたあとがある。
ほぼまっすぐに、同じ幅で。
「あぁ……ほんとうだ。似ている」
草の倒れたあとは、火竜の子が伏していた場所から続いていた。
その向こうにあるのは、ドラドとの境の川だ。
ミンネは急いで馬を川まで走らせた。
草原は川の向こうのドラド村の領地まで続いているが、そこには特徴のある草の倒れた部分も見当たらない。
「なるほど。……この川で、火竜の子は殺されたのかもしれないな。血が抜けるまでここに置かれ、それから、運ばれた。そう考えれば、血のあとがなかったことも説明がつく」
ミンネとパチュイは、一度馬を下り、馬に水を飲ませた。
さらさらと流れる川の音だけが聞こえる中、二人は少しの間黙っていた。
「ドラドの言葉は、すべて嘘か」
ぽつりとパチュイがこぼした。
ミンネはパチュイの顔を見なかったが、表情は想像できた。深く傷つき、強く憤っているはずだ。
「おかしなことは、まだある。聞いてくれるか? パチュイ」
パチュイは「聞こう」と言ってから、突然川に顔をつっこんで、顔を洗いだした。
頭に上った血を、鎮めたかったのかもしれない。
「怒りを示した火竜の息を浴びて、背のやけど程度で済むわけがない。あの白い骨を壺に入れた我らが、一番よく知っている。わざわざ弱い火をもって殺し、殺したあと葬儀に襲いにくるなど、二度手間が過ぎるだろう。怒れる神のやることとも思えない」
顔からポタポタと水をしたたらせたまま、パチュイは「はっきり言ってくれ。ミンネ。俺の想像が、間違っていると思いたい」と言った。
口にするのもおぞましい。
恐ろしいことだ。
ミンネは一度目を閉じて、呼吸を整えたあとで、自分の想像を口にした。
「ドラドの男たちは、兄上を背から射殺した。矢は抜かずに折ったはずだ。火竜の怒りに見せかけるためには、傷から血が流れているのはまずい。それから、死んだ兄上をうつ伏せに寝かせて、火で背を焼いた。……それが、兄上の棺から矢じりが見つかった理由だ」
くそ! とパチュイは叫び、手に取った石をドラド領に向かって投げつけた。
「あのような嘘をよくも! 許せん! ドラドのオオカミどもに、義兄上は殺された!」
エンジュに、一体どんな罪があったというのだろう。
悲しい、と思ったが、涙は出なかった。
オラーテの息子。フィユの夫。ミンネの兄。パチュイの親友。
多くの人に愛された青年は、無惨にもドラドの殺人者たちの手にかかったのだ。
だが、この時、悲しみよりも大きくミンネの心を占めていたのは、憎悪である。
ミンネは、ドラドの長を知っている。
名はダーナム。
数年前に、自身の兄を殺して長の座についた男だ。
まだ年は若く、黄金色の髪と、碧色のヘビのような目の男だ。
――あの男が、兄を殺した。
「おのれ、オオカミめ!」
ドラド村の方向を、ミンネはにらみつけた。
燃えるような憎しみが、炎竜のまとう炎のように湧いてくる。
ミンネは馬に駆けより、ひらりとまたがった。
――喉笛にかみついてでも殺してやる。
怒りに、ミンネは我を失っていた。