3.声
ミンネはビクッと身体をすくませた。
(なんだ、今のは)
ダーナムも、ミンネを見上げて気味の悪いものを見たような顔をする。
今の声は、たしかにミンネの口から出た言葉だった。
だが――ミンネの声ではない。
男の声だった。
それも、少年の声ではない。大人の男の声である。
『オオカミの息子。よくも我が前に姿を現せたものだな』
また、その声はミンネの口から出ている。
しかし、ミンネ自身は口を動かしていない。
意志とは無関係に出てきている。
わずかにミンネが身体を引いたすきをついて、ダーナムは縄で縛られたまま後ずさる。
「バケモノめ……!」
ダーナムの顔に、はじめて恐れが見える。
「あなたなのか、火竜よ……!」
火口に向かって、ミンネは問うた。
ゴゴゴゴゴ……
地面が揺らぐ。
「なんだ?」
南の山が震えている。
どぉっと音がして、火柱が――いや、炎竜が空に向かって飛び立った。
麓から、遠く悲鳴が聞こえる。その声の大きさと数に、ドラド兵が多く麓に迫っていることがわかる。
ごぉ、ごぉ、と雷のように空が鳴る。
赤黒い腹がうねり、空でぐるりと身体を八の字に動かしたあと、顔が祭壇の方を向いた。
虹色の瞳が、ミンネの紺碧の瞳を見つめる。
「火竜よ! 怒れる――いや、嘆きに沈む炎竜よ! 女神イシュテムの娘が、ここにきた!あなたの声を聞かせてくれ!」
もう、ミンネは竜の心を読み誤ることはなかった。
深い嘆きが、竜の心を苦しめている。
『下がっていろ。イシュテムの娘。お前の手は、血で染まるべきではない』
ミンネの口から、また言葉がこぼれた。
火竜と言葉を交わすということが、まさか、蒼き血を持つ者の身体から発する言葉であったとは。
「逃げろ! 火竜。ドラドの兵が迫っている!」
『我が鱗は鋼をも弾く! 人の子などになにができるか!』
ダーナムも、近くにいるパチュイも、長たちも。唖然としてミンネの身体から発せられる二種類の声と会話に、驚いている。
モラーテの巫女たちはその場にひれ伏し、南部の長たちも、膝を折っていた。
ごぉ、と炎竜が火を吐く。
ミンネたちとトトリ兵のいる一帯が、炎の壁に囲まれた。壁は正しい円を描いている。
『逃げるのは、そなただ。イシュテムの娘』
突然――空をおおうほど迫っていた炎竜の姿が、ふっと消えた。
「あ」
代わりにいたのは、一人の青年である。
炎の円の端に立っている。燃えるような赤い髪と碧の瞳。白い着物。臼山で会ったあの青年だ。
『赤い炎は、天にのぼる炎だ。イシュテムの息子エンジュは、勇者であった。それゆえ、私が弔った』
青年の言葉もまた、ミンネの口から発せられている。
「やはり、そうだったのか。あぁ……今ならばわかる。あなたの心が、伝わってくる」
胸が苦しい。
炎竜は悲しんでいる。
長く見守ってきた人の子が、己に弓を引いたことを嘆いている。
ミンネの心に、さざ波のように悲しみが伝わってきた。
そうして、同時に激しい憎悪も。
『赤き炎で焼かれた者の魂は天へ上り、青き炎で焼かれた者の魂は――永遠の血の底でさまようであろう。――礼を言うぞ、イシュテムの娘。そなたのおかげで、私に弓引くもののみを、過たず焼き払うことができる』
青年の手が、スッと動いた。
ダーナムをいましめていた縄が、ボッと音を立てて焼き切れる。
とたんに、ダーナムは駆け出した。
炎の壁は一瞬ゆるみ、彼の逃走を助けた。
「矢を放て! 皆殺しだ! この場より上にあるものは、すべて殺せ!」
ダーナムの叫ぶ声が聞こえる。炎の壁は、また厚いものに変わった。
飛んできた矢は、炎の壁にはばまれ、一瞬で燃え尽きた。
『逃げろ。土竜が送る』
ミンネの口から、また青年の声が聞こえた。
「土竜?」
『そなたらが、私の子と呼ぶ者たちだ』
突然、地がもこもことわくように盛り上がり、クマ三頭分の大きさの火竜の子――いや、土竜が群れをなして現れた。
『乗るがいい。そなたたちを安全な場所まで運ぶだろう』
我先に、と北部の長たちが土竜の背にしがみつく。
たてがみをつかめば、馬のように乗ることができるようだ。次々と南部の長たちも、モラーテの巫女たちも手近な土竜の背に乗っていく。
「あなたはどうするのだ?」
『行け。振り向かず、走り抜け。我が滅するは、神に弓引くもののみだ』
ヒュッと音がして、カッと岩が音を立てる。ドラド兵の矢だ。
『行け!』
ミンネは迷った。
このまま竜を置いていっていいのだろうか、と。
目と目が、ひたりとあう。
虹色の瞳は静かで、まるで湖面のようだった。
うん、とミンネはうなずくと、くるりと身体の向きを変えた。
「ミンネ! 来い!」
パチュイが腕で、ミンネの身体を引き上げる。ミンネはパチュイの胴にしがみつく。ぐわっと土竜の身体が動きだす。
炎の壁が一瞬ゆるみ、途端に矢が次々とふってくる。
間一髪、駆け出した土竜は矢の雨を避けることができた。
ごぉっと激しい音がして、あたりが明るくなる。きっと、炎竜がもとの姿に戻ったのだ。
そうして、視界は青くそまった。
(花火のようだ)
ミンネは、祭壇のほうを振り向こうとした。その時パチュイが、
「振り向くな!!」
と叫んだ。
いや、パチュイではなく、自分の喉から出た火竜の声だったかもしれない。
見るな。
振り向くな。
走りぬけ。
もう、人の子が関わる段階ではない。7
ミンネは目をぎゅっとつぶった。
青い炎は、まだまぶたの裏に焼きついていた。




