5.ママ
しかし、ミンネが「リノ」と声をかけるより先に、リノは言った。
「私ね、お医者さんになりたいんだ」
その時のリノは、とても大切な宝物をそっと見せてくれるような表情をしていた。
だから、言葉をさえぎるようなことはしなかった。
一緒にいたのはわずかな時間だが、ミンネはこの努力家の賢い少女のことが好きになっていたからだ。
「病気をなおす、お医者さん。わかる?」
呪薬師のようなものだろう、と理解して「おおよそ理解できる」と答えた。
「その医者になるのは、難しいのか?」
「すごく難しいよ。でも、私、がんを治す方法を見つけたいの。おじいちゃんも、おばあちゃんも、おじさんも、おばさんもがんになってる。だからママとパパががんになる前に、なんとかしたいんだ」
「高度なまじないを学ぶのだな」
「そ。うんと高度だから、いっぱい勉強してるの」
笑顔でリノは言った。
ミンネはオラーテが倒れた時、父の名に恥じない生き方をしたい、と願った。
気高く、たくましく。
リノは両親が病に倒れる前に助けたい、と願ったのだろう。
優しい少女だ。リノはきっとよい魔女となる、とミンネは思った。
拳を顔の前に置き、目を閉じる。
そして、拳をゆっくりと開きながら、光の玉にフッと息を吹きかける。
玉はいくつもの粒となり、花火のように広がった。
「わ……!」
「リノの願いは、リノの努力によって、きっと叶えられるだろう。蒼き血の女神、イシュテムのご加護を」
「きれい……! なに、今の。おまじない?」
「言祝ぎだ。かつて青き血のイシュテムは、言祝ぐことで蒼の国に平和をもたらしたという。もう私にその力は残っていないが、多少、気持ちは上向く」
「……ありがと。めっちゃ効きそう。ミンネもがんばって。悪いヤツをやっつけるの」
ミンネは笑って「任せておけ」と胸を叩いた。
「じゃ、帰ろう。浴衣も着替えないと」
リノは右に向かって歩き出す。
その腕を、ミンネはつかんで止めた。今度は力をいれず、ごく優しく。
「……どうしたの?」
「リノの家に、案内してくれ」
「え……? あ、うん。でも、明日でもいいって言ってたよね?」
間近で、リノの黒い瞳が泳ぐ。
「どうしても、必要なことだ。急ぐ」
「……明日なら、たぶん大丈夫。今日、ママ寝ないと思うから、静かにって言っても限界あると思うし」
リノは、家にミンネがいることを嫌う。
とりわけ、ミンネとママが会うことを避けようとしている。
「なぜだ?」
「なぜって……」
「なぜ、ママ殿と私を会わせることを恐れる? オダサンには、簡単に偽りの情報を与えたというのに」
「それは、だって――」
ミンネは、リノの浴衣を指さした。
「その柄は、トーブテではない」
花火の柄の浴衣。
ミンネはこの浴衣を見たとき、なんの模様なのかわからなかった。
だが、花火を見てからは、これが花火の柄だとわかる。
他の柄はたいてい花だった。
オガサワラキモノテンで見た浴衣のどれにも、トーブテの紋章はなかった。
ここは魔女の街だというのに。
ミンネは、この魔女の国にきてから大量のトーブテの紋章をことが、一度しかない。
「ハートのことだよね。まぁ、そんなに、浴衣の柄だと見ないかも」
「トトリ村の女は、みながササの花の刺繍を好む。刺繍を見れば、トトリの女だとわかるほどだ。だから私は、魔女とはみなトーブテを好むものだと思いこんでいた。だが、違う。私はトーブテの葉の紋章を、リノが身につけるものと、リノの家でしか見ていない。つまり、トーブテは、あなた個人の紋章である可能性がある、ということだ」
リノはきょとんとした顔をした。
「どういう意味?」
「木を探すならば、森に行くべきだ。トーブテを探すならば、トーブテのある場所を探さねば」
「……それ、私の部屋のこと、言ってる?」
ミンネは、こくりとうなずいた。リノの表情には戸惑いが見える。
「私に、蒼の国を救わせてくれ」
ミンネは紺碧の瞳で、リノの真っ黒な瞳を見た。
ぎゅっとリノの眉が寄る。
リノの目には迷いがある。きっと理由があるのだろう。
だが、ここでミンネは退くわけにはいかないのだ。
「……わかった。でも、ママには会わせられない。静かに家の周りと家の中を探すなら、いいよ」
やっと得られた承諾に、ミンネは「ありがとう」と伝えた。
「迷惑はかけない。嘘もつかなくていい。リノだけが家に入り、部屋の窓を開けてくれ」
リノはまだ迷うそぶりを見せたが、すぐに「わかった」と答えた。
ピンポーン
呼び鈴が鳴り、中から扉が開けられた。
ミンネは納屋に隠れ、音だけで様子をうかがっている。
「ただいまー」
「おかえり。今日もパパのとこ泊まるかと思ってた。あら、かわいいじゃない、その浴衣。サナエさんのとこ、行けたんだ」
「うん。ビラ配り頼まれて、手伝ってた。ハヤトくんがパパの店、手伝ってくれたから、交換条件」
「へぇ。ファミレスでバイトしてたんだっけ。……あっと、ごめん。ちょっと今、作業が大詰めなんだよね。浴衣、ひとりで脱げる? 返すの明日でいいんだっけ?」
「うん。大丈夫って言ってた」
「じゃ、明日ね。ママも仕事、明日の夜までには終わるから。ちょっと遅くなるかもしれないけど、ご飯、外に食べにいこう」
今日は窓が開いているので、リノの母親とリノの会話は外までよく聞こえる。
しばらくして「ミンネ」と囁くような声とともに二階の窓が開いた。
庭の作物を踏まないよう、助走をつけて壁まで走る。
トン、と思いきり土を蹴り、壁を蹴り、伸びあがって、柵をつかんだ。
反動をつけて、身体をグッと持ち上げる。
ひょい、と柵を超えれば、すぐそこにリノがいた。今回はあきれ顔をしていない。
「サルなのか? と言わないのだな」
「だいぶ慣れた」
肩をすくめて言うリノに、そうか、と小さく笑って言いながら、サンダルを脱いで部屋に入る。
床に、寝台に、壁に。
トーブテが満ちた空間だ。
ここに、自分の進むべき道がある。
ミンネはそう信じていた。
「うーん……扉なんて、どこにもないと思うけど……」
リノはあたりを探し始めた。
壁の収納も開き、ミンネは中を調べる。
ついた途端に没収された、服も弓矢も置いてあった。
蒼の国にいたミンネにとっては日常であったはずなのに、不思議と遠いものに思えてくる。
「あった?」
「いや、まだだ」
「クローゼットの中のもの、一回出そう。この部屋に住んでる私が気づかない扉なんだから、どこかに隠れてるはずだよ」
てきぱきとリノは、収納の中のものを動かし始めた。
その間、ミンネは寝台の下や、机のあたりを探していた。
必ずある。
絶対に。
そう信じて。
「あ……」
気の抜けた声が聞こえて、ミンネは振り返った。
「どうした?」
「あった」
ミンネは収納の前に駆け寄る。
――あった。
収納の奥に、あの扉がある。
間違いない。
扉には、たしかにトーブテの紋章も刻まれていた。
「これだ。これだ、リノ!」
「うそ! こんなの、今までなかったよ!」
この扉を開けば、蒼の国に帰ることができる。
ミンネは胸の前でこぶしを握りしめたまま、体をかがめた。
よかった。よかった。
父と母に、天に、竜に。
そして兄に。
ミンネは感謝の言葉を胸に繰り返す。
そうして、半日かけて探し続けた扉が、こうもあっさりと見つかったことで、ミンネは自分の勘に自信を持った。
この家には、すべてがある。
ミンネが必要とする、なにもかもが。
リノは涙ぐんで、ミンネの身体をぎゅっと抱きしめた。
「よかった! よかった、ミンネ! これで帰れるね!」
「あぁ。ありがとう、リノ。あなたのおかげだ」
「着替えないと。弓も、矢も。なにか向こうに持ってく? なにが必要? お腹すいてない? 喉かわいてない?」
「ありがとう。冷たい茶を、最後に飲みたい。向こうはひどく暑いからな」
「わかった!」
リノは部屋を出ていった。
ミンネは、急いで着替えを済ませると、扉からそっと身体をすべらせた。
廊下の奥にあるのがママの部屋だ。
かすかに、音楽が聞こえてくる。
あそこにいるのが、リノよりも強い力を持つ、魔女、ママ。
(リノにはわからなくとも、ママ殿ならば、宝玉の在り処がわかるかもしれない)
帰りたい。
だが、手ぶらで帰りたくはなかった。
ミンネは、蒼の国を救いたいのだ。
どうあっても宝玉を手に入れたい。
トン トン
しかし、少し遅かった。
リノが階段を上がってくる。
ミンネはいったんあきらめ、部屋に戻った。
戻ってきたリノは麦茶の入った杯を、ミンネに手渡した。
冷たい。火照った身体に麦茶の冷たさが心地いい。
「おいしい。生き返るようだ」
「弓矢が運べるんだから、ものも運べるよね。あるもの詰めておいたから」
「ありがとう」
リノは、四角い紙の袋を、ミンネに手渡した。
「他はなにかある?」
「……いや、なにも望まない。ただ、ひとつ、最後に頼みがある」
「なに?」
「ママ殿に会わせてくれ」
リノの表情がこわ張る。
そして即座に、
「無理」
と答えた。
「私には、魔女の力が必要なのだ」
立ち上がり、部屋の扉に向かう。
「ダメ。待って、ミンネ」
扉の前に、リノは立ちふさがった。
「宝玉が要る。このままでは帰れない」
ミンネは必死だ。
多くの人の命がかかっている。
ミンネを信じて待つ者のために、宝玉を持ち帰りたい。
もう自分が勇者と呼ばれようと呼ばれまいと、どうでもいい。
ただ、蒼の国を救いたい一心だ
しかし、リノも必死だった。
「お願い。このまま帰って」
「なぜだ? せめて理由を教えてくれ。リノはなにを隠している?」
「なにも隠してない!」
ミンネには、なぜリノがこれほど必死になるのかがわからない。
母親と父親のケンカに、気を使っているのは知っている。母親の仕事の邪魔をしないよう、気を配っていることも。
しかし、リノは蒼の国の窮状を知っている。
それなのに、ママと会わせることもできないとは。あまりに薄情だ。
「では、教えてくれ。なぜリノは私を見て『ミンネ』と呼んだ? トトリ村のことをなぜ知っている? この国の人は私を見て、みな蒼の国ではない、どこかの国の出身だと理解した。その国は、魔女の言葉を話さないはずだ。彼らは私に『日本語うまいね』と言っていたからな。それに、リノはなぜ私の年齢を知っている? 我らは、滅多に生年は明かさないものだ。なぜオダサンに私のいる期限を伝えた? 明日の夜が期限のはずだ、とどうして見当をつけることができたのだ? あなたはなにを知っている? 教えてくれ、リノ」




