4.臼山へ
一行は、南の山を目指して商道を南下していく。
先頭を進むのはダーナムだ。
今ドラド兵は、関所の封鎖に、トトリの包囲を同時にこなしている。余裕はないはずだ。
それをわざわざミンネの儀式のためについてくるのだから、よほど事を重く見ているようである。
(それにしても、面の皮の厚い男だ)
ミンネは心から呆れている。火竜の子を殺したのは、このヘビのような目をした男だ。わざわざ炎竜のいる南の山へのこのこ出向くとは、よほど自分の策に自信があるからなのか。理解しがたい。
暑いな、と幌の向こうで兵の声がした。
まったく、その通りだ。
山を一つ越えるごとに、気温が上がっている。
トトリのある北部は、炎竜の怒りから一夜明けただけで肌寒さを感じさせたというのに。南の山へ近づくにつれ、座っているだけでも汗ばむほどになってきた。
火竜が巡ることを止めた途端、これほど急激に変化が表れるようとは、誰が想像していただろう。
幌の小窓を開け、ミンネが遠い南の山を見ていると、ダーナムが「窓を開けるな」ととがった声を出した。
「南の山は、火竜の住まいです。どうか祈らせてください」
「なにが竜だ。たかがトカゲのバケモノではないか」
チッとダーナムは舌打ちする。
もとをたどれば、北部に住む人たちは、神話の時代にこの島に渡ってきたといわれている。
長い時間をかけて蒼の国に根をはってきた人々と、百年前に渡ってきたドラドとでは、竜を敬う程度が違う。
彼らが祀る神はオオカミであって竜ではない。
彼に竜を敬う心など微塵もないのだろう。
だから、罪なき子を殺しておきながら、その親の住まう土地にも恐れることなく足を踏み入れることができるのだ。
現にこの男は、エンジュを殺しながら、オラーテの前に堂々と立っている。
(今に見ていろ)
目の前で、窓の布がバサリと下ろされた。
強い怒りが、ミンネを支えている。
四日目の昼、ついに一行は臼山に至った。
名の通り、山は臼のような形をしている。南の山の半分ほどの高さで、南の山と麓を接しているため、南部では娘山、と呼ばれているそうだ。
山のほとんどは緑で覆われている。
麓の外門を越え、さらに内門をくぐれば、神域である。
輿は内門に近づこうとしていた。
門、といっても木造の小さなものだ。塀も簡単な石を積み重ねたものでしかない。
一行は内門の前で止まり、ミンネも輿から下りた。
ダーナムとノープの長が、なにやら言い争っている。
「ここは、伝統に従いましょう」「いや、やはり監視は要る」と繰り返していた。ノープ村は、千年の昔からある村だ。さすがに大陸から来たダーナムほど、信仰をないがしろにするつもりはないらしい。
兵のひとりが「長、上から人が」と報告にきた。
一行は、パッと門の向こうに目をやった。
森の中から、人が下りてくる。
鮮やかな萌黄の色の布をかぶった、モラーテの巫女だ。
ひとりの姿が見えたあと、馬二頭分ほどの間を空けて、もうひとりが。
同じ間隔をあけて、またひとりが。巫女たちは連なって山を下りてくる。
背格好も似通った、そろいの装束を頭から被った巫女たちは、神秘的な空気を漂わせていた。
「なんだ、あの連中は。……気味が悪いな」
ダーナムは、眉間に深いしわを寄せて、不快感を露わにする。
「臼山で火竜に仕えるモラーテの巫女です。山の祭壇に日に二度赴き、祈りを捧げています。恐らく、朝の祈りを終えて戻ってきたのでしょう」
ミンネはダーナムに説明をし、巫女たちに向かって手を合わせた。
「なるほど。あやつらの手引きで逃げる気だったわけだな」
せせら笑うダーナムに、ミンネは「逃げはしません」と短く答える。
先頭の巫女が門をくぐり、足を止めると、続く巫女たちは訓練された兵士のように整列した。
「なに用でございましょうか?」
先頭のひとりが言うと、後ろから「なに用でございましょうか?」と揃って巫女たちが言った。
モラーテの巫女たちは、南部の村の、背が高く細身の少女の中から選ばれる。
背格好の似た彼女たちが、同じ服を着、同じように喋るのだ。慣れぬ者の目には、人ならざる者のように見えることだろう。
「追い出せ。三日の間、山に近づけるな」
ドラド兵が、槍を構えて巫女たちに近づく。
ミンネは「おやめください」と兵と巫女の間に入った。
「今、このような時こそ、竜への祈りは保たれるべきです」
「小ずるいトトリの小娘など信用できるか」
ダーナムは「追い出せ」と繰り返した。
炎竜の怒りをとくことは、今、蒼の国にいる者すべての人の望みだ。
なぜ、このヘビのような目をした男は、邪魔をするのか。
ドラドが、楠の森をひとつ手に入れたところで、炎竜が巡らぬ限りいずれ枯れるだけだ。
今、人はなにをすべきか。
答えはひとつしかないというのに。
ミンネは、荷を侍女に運ばせた。
らちがあかない。ひとりで山に入るつもりである。
ドラド兵がついてこようとしたが、ミンネは門の前で振り返ると「戻ってください」と頼んだ。
「このままでは蒼の国から人が絶え、誰もが飢えて死にましょう。我らは今、炎竜の怒りをとくために、ここに来たのではありませんか? 兵を山に入れるならば、炎竜の怒りをあおった責任を、ドラドにとっていただく他なくなります。トトリの者にすべての罪をなすりつけたいのであれば、ここで退いていただきたい」
荷を背負い、ミンネは山の中へと足を踏み入れた。
ドラド兵はついてこなかった。
「待つのは三夜だ! 四日目の昼までに戻らねば、あの小生意気な女を生贄に捧げ、楠の森ももらうぞ!」
ダーナムの声があたりに響く。ミンネは振り向かず、山道を上がっていった。
――暑い。
南の山の岩肌の隆起が、目で見えるほどの距離である。
横になっても汗がでるほどの暑さの中、山道をのぼるのだ。
涼しい北部で生まれ育ったミンネには、厳しい。
(三日もさまよえば、魔女に会うより先に倒れるな)
まず水場を探さなければ。
昼を過ぎた頃には、竹筒の水は尽きかけていた。
ミンネには、楽観があった。
魔女の居場所も、水場も、モラータの巫女たちに尋ねるつもりでいたのだ。
しかし、巫女たちは、山から追い出されてしまった。
夕まで待とうと会える見込みはない。
魔女も水も、自力で探す他なくなってしまった。
幸いなことに、モラータの巫女たちが踏み固めてきた道がある。
三日月湖が彼女たちの水場であるならば、たどっていけばいずれ着くだろう。
しかし、暑い。
途中、足を止めてミンネは息を吐いた。
足腰の強さには自信があったが、この暑さが体力をじわじわとそいでしまう。
気温は高いままだが、日はもう傾きはじめていた。
そろそろ、野営する場所も決めておきたいところだ。
考えているうちに、やっと道がふたつに分かれた。
間もなくだ、と思えば足も軽くなる。
ゆるやかな坂を下りるうち、サッと視界が広がった。
湖だ。
眼下に見えた光景に、ミンネは「三日月……」と声に出していた。
見事なまでに、美しく三日月の形をした湖だった。
淵は翡翠の色で、深い場所は藍色をしている。他の名などつけようがない。
ここが巫女たちの水場だろう。
坂を下り近づけば、その水は素晴らしく澄んでいた。
赤い魚の長いしっぽがひらりと見える。
手で水をすくう。予想を裏切って水はひんやりと冷たかった。
嬉しさに、知らず笑みが浮く。
竹筒に水を入れ、喉を鳴らしていっきに飲んだ。
喉を通る水が、心地よく身体を冷やす。
(ここを拠点にしよう)
暗くなる前に、寝床の支度をしようと思っていたが、目の前の冷たい水の誘惑には勝てない。
まずは湖に入り、汗を流す。
遠くで、カラスが鳴いている。雲におおわれてはいるが、西の空はぼんやりと赤く染まりつつあった。
汗を流したあとは、鍋で湯を沸かす。そこに乾燥させた米飯を入れてふやかせば、粥のできあがりだ。
食事を終えた頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
(静かだな)
湖の上には広く空が広がっている。
晴れていれば、さぞ美しい空が見えたことだろう。
だが、今は雲におおわれ、星ひとつ見えない。
遠く、フクロウの声と、獣の鳴き声が聞こえる。
たき火に枝を放りながら、ミンネは静寂のなかに時折響く音を聞いていた。
一人で夜を過ごすのは初めてだ。
館には常に兵がいる。見張りもいれば、夜遅くまで大人たちの声が聞こえていた。
男子であれば、十二歳になると一晩を森で過ごす。
戦士として狩りに加わるために必要な儀式だ。
よき理解者であったエンジュでも、さすがにミンネがこの儀式を行うことを許しはしなかった。
同い年の男子相手に、弓でも馬でも負けたことはなかったというのに。「女は戦士になれない」とエンジュは言った。
それから「女の勇者など存在しない」とも。オラーテも同じことを言っていた。
多くの戦士たちの中で、最も勇気ある者が勇者と呼ばれる。
神に愛され、守られた者。かつてはオラーテが勇者であり、エンジュは最も若い勇者だった。
勇者。
それこそが、トトリに生きるすべての戦士が目指す高みだ。
森で過ごす夜が、一番恐ろしいのは夕焼けの頃だ、と聞いたことがある。
力が強くとも、知恵があっても、この夕焼けの魔物にはかなわない。
カラスの声を聞きながら、日が沈み、夜がくる。そんな時は、誰しもの心が弱くなるという。
ところがどうだ。
今、ミンネは恐れることなく、ひとりで夜空を見上げている。
その上、蒼の国を救うという使命まで帯びているのだ。女だろうとなんだろうと、自分が勇者でなくてなんであろうか、とミンネは思った。
自分は勇者だ。
誰に認められなくとも、そう信じている。
信じることで勇気がわいてきた。
きっと魔女にも会える。宝玉を授かることもできるだろう。それから、きっとパチュイも無事に役目を果たす。南部の村々をまわり、長たちを臼山に集めてくれるだろう。
どうか無事でいて。ミンネは空に向かって祈った。
――その時だ。
まるでミンネの祈りに応えるように、視界の端でなにかがぞろりと動いた。
(なんだ……?)
南の山の中腹だ。
竜は火口に住むという。炎竜だろうか。
目が吸い寄せられる。
今度は赤黒い尾のようなものが、ゆったりと動く。
不思議なもので、こうしていると、この世界に竜と自分の他は存在しないような気になってくる。
ミンネは、火口に向かって「今ならば、あなたの声も聞こえるような気がする」と眠る赤子の横で喋るように、声を落として話しかけた。
「こういう夜に人は、酒を飲み、楽を奏でて死者を悼む。私もそうしたいところだが、あいにくと酒を飲むにも早い。せめて笛でも学んでおけばよかった、と思うが……残念だ。兄は、笛がうまかったが、私はからきしだ」
吹けない笛の代わりに、ミンネは鼻歌を歌った。
幼い頃、母が歌ってくれた子守歌だ。
星のない空に、音は消えていく。
自分の歌声が、静寂を鮮やかに浮き立たせる。
歌い終え、ミンネは座っていた大きな石の上に横になった。
身体がひどく疲れている。
火が消えぬよう、枝を足さねば。
自分の歌う子守歌に眠りを誘われるというのもおかしな話だ、と思っているうちに、眠気の波にのまれていた。




