最後にひとつだけ残されたもの
……ああ、そっか。
血で染まった自分の手を見ても、不思議と恐怖はなかった。
切られたんだから血が出るに決まっている。
そんな当たり前の事実として、自分でも意外なほど冷静に受け入れられた。
温厚なアルフォードさんが珍しく怒鳴っているのが見えたけど、その声は上手く聞き取れなかった。
目の前のライムに手を伸ばそうとして、このままじゃ汚れてしまうなと思い直してさわるのはやめておくことにした。
「ライム、よかった……ケガはないんだね」
「な……」
ライムが絶句した。
「なにをいってるんですか! いいことなんてなにもないです! カインさん、カインさんが……!!」
ライムが切られた僕の胸を必死に押さえていた。
僕には見えないけど、体の中からなにかが溢れ出しているのを感じる。
意識もどんどん薄れてきた。
……ああ、うん。
自分でもわかる。
これはもうダメだ。
なら、僕は僕にできる最後のことをしよう。
「ライム、聞いてほしいことがあるんだ……」
「は、はい! なんですか!」
「肉ばっかりじゃなくて、ちゃんと野菜も食べるんだよ……」
「なんで……そんなことを今……」
「好き嫌いしないでちゃんとバランスよく食べるのが大事だからね。ライムは苦い野菜が嫌いかもしれないけど、慣れればきっと美味しいから。
家の掃除の仕方は一緒にやったからわかるよね。料理も、まだ難しいかもしれないけど、ライムなら大丈夫。きっとできるようになるから」
「カインさん……?」
「薬草の取り方とかは、僕が自分でまとめたメモがあるから、それを参考にするといいよ。クエストについてわからないことがあったらセーラに聞いてね。きっと親切に教えてくれると思う。お風呂の入り方は練習が必要だけど……。まあ、町の人も良くしてくれると思うから心配はいらないかな。あとは、えっと……」
「い、イヤです!」
ライムが激しく首を振った。
「どうしてそんなこと言うんですか!! わたしはカインさんとずっと一緒にいるんです! カインさんもずっとわたしと一緒にいるんです! そう約束したじゃないですか!」
うん、そうだね。
それについては本当にごめんとしかいえない。
「カインさんが作ったもの以外なにも食べません! カインさんのいうこと以外なにも聞きません! わたしはカインさんがいないと生きられないんです! だから、だから、これからもわたしのことを助けてくれないとイヤです……!!」
僕だってそうしたかった。
でも……。
「そんな、困ったこと、言わないでよ……」
「だって……! こんな、こんなのって、あんまりです……!」
大粒の涙がぼろぼろと流れ落ち、僕の頬を何度も叩いた。
「わたしの命はカインさんに助けられたから、今度はわたしがカインさんをお守りしなきゃいけないのに……。それなのに、わたしなんかをかばったせいで……わたしの、せいで……」
うなだれるライムの手を僕は強く握った。
実際にはほとんど力は入らなかったけど、それでも今の僕にできる精一杯の力でその手を握りしめた。
「ライムのせいじゃないよ……。僕が勝手にやったことだから……。だから、気にしないで……」
「どうして……こんな時まで、そんなに優しいんですか……」
あふれる涙がさらに大きくなる。
これからライムがどう成長していくのか。
それを見れないのだけが残念だけど……、でもこればっかりはしょうがない。
だから、せめて伝えるべきことを1つでも多く伝えるのが僕の最後の役目だ。
ご飯のこと。料理のこと。家のこと。クエストのこと。町のこと。人間のこと。モンスターのこと。
たくさんのことをライムに伝えた。
まあライムは全然聞いてくれなかったけど。
でも、きっと大丈夫。
僕なんかがいなくても立派に生きていけるはずだ。
その言葉も、もう口にできなかったけど。
「どうしよう、血が、血が止まらないです……! どうして……こんなに押さえてるのにどうして止まってくれないの!? イヤです、死なないでください……わたしを置いていかないでください……っ!!」
ライムの顔が涙でグシャグシャになっていたけど、もう腕が動かなかった。
涙を拭いてあげたかったけどできないみたいだ。ごめんね。
それにしても不思議だね。
血がこんなにあふれているのに、全然痛くないなんて。
体の冷たさもいつの間にか消えていた。
それどころかあたたかくて、気持ちいいくらいだ。
全身が天使の羽で包まれてるみたいに軽くなっていく。
そっか。
死ぬ時って痛くないんだね。
安心したら急に眠くなってきた。
「カインさん……? カインさん!?
ダメです、目を開けてください……。お願いします……お願いしますから、目を開けてください……。
どうして……どうして、こんな……ううっ……」
ライムがなにかいってるけど、もう聞き取れない。
どうやら時間みたいだ。
あとは、きっとみんなが、助けてくれるはず。
だから心配はいらないよね。
すべてを終えて眠りにつこうとしたとき。
伝えるべきことをすべて伝えて、もうなにも思い残すことはないと安心した瞬間。
最後の最後にひとつだけ、自分の言葉が残されていることを思い出した。
ああ、そうだった。
これだけはどうしても伝えないと。
もう何も見えないし、指先ひとつ動かなかったけど、それでも残された力を振り絞った。
これで命が尽きてもかまわない。
だから。
最後の一言を伝える時間を、僕にください。
ライム、今までありがとう。
「僕もずっとライムが好きだったよ──────」




