四章後半
【かつて我々は死都ソウセージを管理していた有翼人から根の管理を任されていた。巨大な天空樹を支える根は周囲から汚染物質を集めるだけでなく、本体の成長に欠かせない栄養分を供給する役割も兼ねている。我々は大樹の血に溶け込み内側から根の生育管理を担う事で汚染された大地から都市に移住する権利を保障されていた。】
天空樹の根は枯れると軟らかい内部組織が腐り硬い外殻だけが残される。大半は成長途中の根や天空樹の重圧で押し潰され埋もれてしまうが、肥大して成長した根の中には潰れずに化石化して残っている物も在る。【時代が移り変わり天空樹も変わった。死都が崩壊し天空樹の樹液から飛行液を精製する技術も失われた。我々がこの地と地上を繋げていた昔の抜け穴はもう無いだろう。】
水晶体から送られてくる映像情報には黒土色の壁を遮るように流れている気流の層が視える。エグザムはそのまま霧が川の様に流れる場所へと突入した。
【堪えろエグザム。この程度の気温差で集中が途切れるなら、どのみち神の実へは辿り着けんぞ。】
エグザムは体を左右から揺さ振られながら気流の層を飛び続ける。水晶体の表面に氷の様な霧を形成している濃縮粒子が付着し、通常より多い魔素の消費を強いらる。
【大丈夫だ。この程度なら増水した川の方が危険だ。】
問題は急激に白く霞み続けている水晶体をどうするか。エグザムは少し迷ったが額に当てていたゴーグルを使うことにした。
天空樹の側壁は二種類の構造で成り立っている。一つは基礎と成る白い土台で、エグザムが墜ちている最中に見た白い壁だ。この壁の上に柱を縦と横方向に何重にもくみ上げた骨格群が構築されていて、事実上その柱の枠組みが天井と地面を支えているらしい。
エグザムはゴーグル越しに目視で前方の様子を確認すると、上部構造物の骨格群を埋め尽くそうと生えた大小様々な形の根が見えた。
【エグザム。あれは天空樹の毛細根だ。本来なら新しい根を外殻から方々へ伸ばす始発点なんだが、長らく放置された結果空洞内まで伸び、挙句の果てに栄養を吸えずに枯れてしまっている。天空樹の成長を阻害しているのは探索者達だけではないと言う事だ。】
エグザムは骨組みだけが露出した上部構造から垂直に根を伸ばしたまま枯れた小さな根を目視で確認する。既に気流の層の中間点を越えたので壁側から流れて来る熱風を直に感じれる。
【とんでもない大きさの産毛だな。それにどうやら側根まで生えているようだが。】
下を眺めると枯れ落ちた根の残骸が基礎の白い構造体上で積み重なっていた。壁を覆う蔓草の類とは違い壁から垂直に真横へ伸びている根に近付きながら、そろそろ抜け穴を探す為の準備に取り掛かる。
【水晶体の集積回路を探査状態で稼動させるから、俺の代わりに情報処理を担当してくれ。】
エグザムはゴーグルと水晶体表面に付着した氷の膜を取り除く。空気の流れは干した洗濯物が大きくなびく程度の風だが、変温層の境目なので寒波の様な寒さが体温を奪っていく。
【注意しろエグザム。上層の気流は氷点下を下回っている。この地底世界は汚染物質により循環している圧力容器だと忘れるなよ。】
体を真横から揺らしていた風が無くなった途端、再び気温が上昇し始めた。まるで暖房器具に近付き内部の炎を直視している様な感覚で、エグザムは再び瞼を閉じて理力の維持に集中する。
エグザムは蟲の王から翼の制御を戻し噴射口の角度を調整して体を右に傾けた。すぐさま飛行進路が右へ変わり、水晶体から知覚できる映像の半分が自分の赤い髪で塞がってしまった。
水晶体の魔導回路越しに視界が悪いと文句を伝えたエグザムに対し、蟲の王は回答の代わりに解析情報を図面化してエグザムとの共有回路に送る。
【確かにこれを全部調べるには時間と魔素が足らないな。そういえば蟲の王よ、直接天空樹の体内に侵入する事は可能か?】
脳内に投影された映像には、光学情報では捉えきれない柱や根の裏側までが図式化され映し出されている。エグザムはその情報から根に開いた空洞や構造体内側に在る穴を探す。
【残念だが侵入出来ても体が耐えられない。長時間天空樹の樹液に生物が触れると体組織の分子が劣化していく。例え理力で溶液を排除する事は出来ても、魔導分解素に魔素を吸収されてしまう。逆に大量の魔素だけを取り込もうとしても、異物が多過ぎて吸収効率が悪いから吸い負ける。結局は体細胞が魔導因子ごと汚染されて死ぬ方が早い。】
太い四角柱の柱を上下左右と前後の六方向に連結させ構築された上部構造体。元から単純な構造体ゆえ毛細根の侵入を阻むことが出来ず、今は真横へ伸びる根の隙間から漏れる水蒸気さしき噴流の垂れ流しを許している状態だ。
【迂闊に近付くと焼けどするどころか変温層まで押し流されそうだ。】
エグザムは魔導回路の演算機能を調整し知覚情報を大きく絞った。
すると映像化された情報が一気に減り、理力により浮かび上がった枠組み型の積層筐体に数本の線が表れる。それら複数の線のうち長い物の場所のみ確認し、一つずつ慎重に接近して理力で調査解析を行う。
【しかしこれほど根で覆われていようとは。我々が壊れた死都をか血の園へ逃れてから数千年。天空樹はまだ成長途上の只中にいるようだ。】
そうこうしているうちにエグザムは上部支柱群に建設された謎の埠頭らしき建築群に大きな穴を発見した。その穴は幅百メートル以上の四角い排水路の様な場所で、内部から枯れて赤色化した大きな側根が垂れ下がっている。
エグザムはその内部に空洞の存在を確認した。そのまま排水路内部に飛び込み、その空洞の先が多積層構造物の外まで繋がっているかどうか確認する。
【此処は例の居住区へ繋がる空間軌道跡なのか? 散々上を歩き回ってきたが、この地下遺跡自体が星海で造られた巨大建造物だとは到底思えん。】
エグザムは光が届かない横穴深部の根に降り立ち、理力で物質を振動させながら微細振動で分子結合を断ち切り穴を開けた。
そのまま内部に入り真っ暗な空洞内で飛行を再開する。内部は幅が三十メートルと広い。今まで分厚い外殻の層で密閉されていたのか、入ってきた穴から大量の空気が穴の奥へと吸い込まれている。
エグザムが数分間飛び続けていると空洞が上に傾斜し始めた。傾斜角はどんどん急勾配に変わっていき、やがて頂点を超えやや反り返った蛇行軌道に変わった。
【どうやらお前の悪運の強さを認めなければならんようだ。まさかこうも簡単に抜け穴候補を見つけるとはな。】
蟲の王が情報信号を発して語りかけている間にも、エグザムは進路上で重なる別の空洞との合流地点を通過した。
しかしエグザムには明らかに広くなった空洞を観察するだけの余裕が無い。魔素の備蓄量や魔導因子の活性率はまだまだ高水準を維持している。それでもこの道の先が本当に地上と繋がっているのかどうか、答え合わせは直接目で確かめる方法しかない。
【翼の制御を換わろう。この追い風なら有翼人が編み出した加速方が使えるかもしれん。それと出口は湖底に在る可能性も在る。水に入る覚悟と準備を済ませておけよ。】
エグザムが水晶体を介し肯定の信号を送ったと同時に、背後から流れていた空気が途絶えた。途絶えた直後に翼を固定している背中と肩に強い負荷が掛かり、加速度的に上昇速度が増していく。
エグザムは体に掛かった負荷から身を守ろうとはせず負担を減らす努力もしない。何故なら集合意識体と同化し人の形をした魔導生物に生まれ変わった体には、人間以上に頑丈さと魔物に匹敵する生命力が備わっているからだ。
【この状況で運に身を任すか元人間。何処かに不安や恐怖を落として来たらしいな。勘違いするなエグザム。伝えるのを忘れていたから良い事をお前に教えてやる。だから試しに体内の魔導路に意識を集中させてみろ。血中内の魔導因子を制御して効率的な魔素の生成を器に覚えさせるのだ。】
エグザムは飛行動作を全て蟲の王に任せ、指示どうり血管が在った場所に巡らされた生体回路の魔導路を調整する。蟲の王が言うとうり調整手段は簡単だ。筋神経を介し心臓を圧迫させ、擬似的に負荷状況を作り出し心臓体の鼓動数を操作すればいい。
体から溢れ出る魔素に思わず笑みを零すエグザム。体から衣服の分子を素通りし背中の原初の翼に送られる魔素の量を意識する。
【あたかも背中から本物の翼が生えているような感覚だ。体が原初の翼を受け入れようとしているらしい。】
やがて暗く演算情報越しにしか知覚できなかった縦穴空洞が緩やかに傾斜し始めた。方角的に茎の直下に在る側根が集積した主根へとやや蛇行しながら道が延びているので、エグザムは蟲の王に出現場所の想定位置を確認させた。
【誤差が大きい。探索街直下ふくめ湖内の全域の何処かに出るだろう。答えに満足か?】
エグザムは脳内に投影された歪な構造図を解析し、空洞の前方が確かに主根らしき構造体と繋がっているのを確認した。
蟲の王曰く、枝分れしたこの根が地下の汚染源に触れたせいで主根側が意図的に根の活動を堰き止めたようだ。さらに蟲の王はエグザムに主根近辺の構造が複雑すぎて解析が追いつかないと愚痴を零す。
【俺も解析を手伝うから翼の制御を頼む。これだけ広い道だ。壁に接触しなければ多少不安定な飛び方でも問題無い。】
エグザムは解析した情報の整理に集中しする為、ユイヅキを肩から引き抜き両手で握った。さらに体中の生体痕に埋め込まれた生体回路に魔素を食わせ、一気に処理密度を底上げさせる。
すぐに水晶体の魔導回路が演算限界を越え、俗に言う電子機器の発熱化と同じ意味合いの発光現象が発生した。紫色の水晶体を構築している多用途結晶結合から魔素が漏れ、空気に触れた魔素が活発に分解し始めたからだ。
【しかし現代の魔導技術は優秀だな。私が知る限り星海から放射された魔素を内包し伝達する物質は失われた星間戦略資源だけだった筈。地上を再誕させ再び星海に手が届くだろうに。】
蟲の王が不要な思考を呟いていると、特定の鉱物系魔導物質と濃縮魔素により構成された紫水晶が迷路のような多階層型構造の図形を読み上げた。
【この先に区画造成の際に選定された枝らしき場所が在る。多分この枝の上に地上へ出られる道が在る筈だ。】
エグザムは空洞内の天井すれすれまで近付き、闇の中に浮かぶ予想地点の開いた穴へ鼻先を上げる。ほぼ同時に塞がれた穴の天井を理力で砕くと、勢いを殺さず抜け穴を突破した。
エグザムは飛行状態を維持したまま滞空する。依然として周囲は真っ暗だが、解析図によると空洞内は側根内とは違う別の空間らしい。
漂う空気が冷たくエグザムは周囲を調べようと僅かな出力の干渉波を送り、空気を伝わる分子振動が壁の内部構造や大まかな材質を検知する。
【探索街特有の地下構造と似ている。どうやら無事に地底から脱出できたらしい。】
その場所は天空樹の枝を利用した古い水道網と湖の水を浄水施設に送る古い金属配管が通された地下空間だった。周囲に散らばる木材の破片や古い石垣の残骸から放たれる腐敗臭。森の匂いとは異質で、塗料か防腐剤の様な何かが揮発した臭いもする。
エグザムは枝を根元から貫いた穴のそばに降下し瓦礫の上に降り立った。
周囲に散らばる瓦礫から昔この場所が人や物資の通り道として活用されていた場所だと判断でき、水晶体を通常発光させ紫色の光で空洞内を照らす。
【確かに私が見知った光景とは違う。この辺りの根はまだ生きとるから崩れる事もないだろう。では若き死神よ、後は任せたぞ。】
エグザムは上に傾斜する天空樹の根を這い上がる。傾斜は階段状に続いていて、新しい体の身体機能を確めるには最適な場所だ。
【この茎に今も吸収された探索者の残滓が漂っているのか。虚構式探索、いや虚構式生体管理が正しい。天空樹で探索業を存続させる為に行われた天空樹の迷宮化が、結果的に天空樹による再生計画を破綻させてしまった。もし今日までに迷宮以外で汚染物質を浄化する技術が確立されてなかったら、未来は文明どころか地上生物の大半を殺す面倒な作業に俺の未来を費やす事になっていた。】
何度目かの段差を跳び越えた時、若い天空樹の幹と根が交差する場所に淡い光を見つける。光は石垣の壁に吊るされた古い型式のガス灯で、さらに鉄格子の向こう側に見える石垣の真ん中に石階段が在った。
エグザムは鉄格子の扉越しに久しぶりに見た探索街の趣に、僅かな安心感と懐かしさを感じた。
しかし直にその思いを根底から覆し、無意味な考えだと心の中で断罪する。そして鉄格子の前に辿り着くとその鉄格子を握り、理力による透過波長で周囲の魔素濃度から構造を把握しようとする。
【止めろエグザム。忘れたのか、地上付近は他の管理存在の領域付近でもある。迂闊に力を使うと魔素の固有波形から探索組織に存在を探知されるぞ。】
蟲の王の忠告に我を忘れていたエグザムは平静を取り戻す。そして直前まで活性化した魔導因子により体内を駆け巡る魔素の逃げ場を探しながら周囲を見回し、両開き式の鉄格子を固定している鎖錠を発見した。
エグザムは古い鍵の表面を覆う錆を急速に拡大させてやる。理力で鉄分子の分子結合を破綻させ、周囲に漂う酸素と強制的に結合させたのだ。
鎖と一体化した錠前は脆くなり鎖部分の一部が破断した。そのままエウザムは鉄格子の扉を開き石階段に片足を架けると、ユイヅキを定位置に戻し、髪の毛や肌の色を含め容姿を別人に変える。
「人間だった頃に戻すのは流石に拙い 背も少し縮めて幼さを演出しよう」
僅かに発光する体組織が形状を変え、一番目立つだろう素肌に刻まれ翠色に怪しく輝く生体痕すら消してしまった。そう今使われなくなった階段を登っているのは、大き目の複合弓と背中に謎の背嚢を背負う薄汚れた身なりの少年だ。
その少年は縮んだ体に合わせ腰帯を調節した後、最後まで首に掛けていた探索識別標を外し背後へ放り投げる。銅色の小さな金属板が石階に接触した瞬間、虚構世界で個を特定する存在が砕け散ってしまった。
魔導(回路)路。一般的に魔物や鉱物生命体等の魔導細胞を多く有する生物から、導力機関を制御する各種装置端末に実装されている制御回路等に用いられている俗称。
エグザムの場合、細胞内の魔導因子が異常発達し魔物に近い高活性率の魔導細胞に変異した独自の生体魔導回路をそう自称している。
天井が合成石材で覆われている点を除けば、三階建ての石垣倉庫として今も使えそうな竪穴だ。エグザムはそう考えながら石垣の壁に築かれた石階段を登っている。そしてこの石階段は石垣が支えている天井へと伸びていて、四角い空洞内の急勾配を三周して昇り降りする唯一の道だ。
石垣内には堅牢な鉄扉が四つ在る。どれも同じ形状の両開き扉だが、枠や扉同士が溶接されていて封印されている。その扉の中で最上段に在る鉄扉の前を通過したエグザム。扉の脇に設置されたガス灯が青い光を発しているので、この地下は定期的に整備清掃が為された行政府管轄の管理区域だと推測していた。
「商工区か行政区の地下は立入り禁止の場所が多い ここは其処の地下放棄区域の筈 下請けの清掃業者くらいしか来ない場所だ」
エグザムはそのまま階段を進み、真上に天井を支えている梁らしき構造体が在る出口の前に辿り着いた。
目の前の出口も両開きの扉で大きさは下の物より一回り小さい。更に定期的に人の出入りがあるらしく、内側から見る限り溶接箇所は見当たらない。
「古い扉だが頑丈に施錠されている 面倒だな」
軽めに押したが全く微動だにしない鉄扉。古い扉の特徴とも言える蝶番の錆も少ない。エグザムは極力怪しまれず痕跡を残さないよう脱出する為、仕方なく理力で固定部の大きな蝶番だけを劣化させることにした。
エグザムは右手から皮の籠手を外し、素手で接続部材同士を繋ぐ打ち金の表面をなぞる。直接内部に魔素を送り分子結合を破壊させ、表面同様急激に酸化させていく。
「これだけ錆びさせれば十分 すこしずらして向こうの様子を見ないとな」
そういった直後にエグザムは大きな扉を上に持ち上げようと腕に力を込める。扉と壁の接合部を固定していた金属棒だけに負荷が掛かり、数秒と掛からず劣化した金属棒が折れ片側の扉が外れた。
エグザムは反対側取っ手同士を繋ぎとめる大きな錠前を隙間から確認し、その取っ手同士が離れないよう鉄扉をずらして通れる隙間を作る。
作業の途中で隙間から扉の向こう側が見えた。どうやらこの扉は長い通路の突き当たりに位置しているらしく、通路内の装飾品からどこぞの屋敷内だと推測出来た。
石造りの枠と鉄扉の隙間から抜け出たエグザム。周囲を観察する前に人気が無い事を確認し、再び重い扉を動かし元の位置に填めこんだ。
「よりにもよって朝に出てきてしまった これだと人目を避けて行動するのは難しい」
数十メートル先の壁に位置する木製扉まで敷かれた赤い絨毯。右手の壁に掛けられているのは名も知らない肖像画達。それ等の大小様々な絵画はどれも高そうな額縁に囲まれていて、ご丁寧にその場所を照らすだけの照明装置が何本も天井から吊るされている。
エグザムは通路の左手に在る硝子張りの壁に近付き、顔だけ出し朝日の角度と外の様子を調べた。
【ここは島内とは違う場所だ。おそらく湖西側の湖畔の近くだろう。まさかこんな場所に出るとはな。】
日の高さからまだ朝日が昇って間もない時間に、エグザムはもう一度通路全体を見回す。すると通路右側の壁に飾ってある大きな額縁付きの人物像の一つに見覚えがあった。
「そういえば元召喚師の私営博物館もこんな内装だった ここがあの屋敷内なら位置的にも違和感が無くなる」
エグザムがまだ探索者に登録して間もない駆け出しの頃。暇つぶしに立ち寄った古い館を改装した私営博物館で多くの展示物を見せられた。名が思い出せない老人が経営していたその屋敷は、確か橋を渡った岸辺の湖畔に位置していた。
警戒のために活性化させていた魔導因子を沈静化させたエグザム。何時までも土足で赤い絨毯を踏み締めていると跡が残るだろうと考え、ガラス張りの壁に設置された扉に近付き、引き上げ式の鍵を解除する。そのまま扉を静かにくぐり今度は理力を使い磁気誘導で金属の取っ手を引き上げ、本来なら内側からしか固定できない接合部を元の位置に填め戻す。
室内から見えた庭先の芝生に出たエグザム。頻繁に手入れされているのか、庭先の樹や街路樹から落ちてきた落ち葉は見当たらない事に警戒心を引き上げた。
(建物の裏はこんな大きな庭園だったのか。あの老人はかなりの金と余生を持て余しているようだ。)
エグザムはまず最初に姿を隠せる場所を探そし庭園を観察する。庭園内は数本の背が高い広葉樹や敷地内を囲っている蔓草に覆われた鉄柵以外に背が高い物は無い。観葉植物を栽培している温室と小鳥達が水遊びをしている噴水、そして大人の背丈よりやや低い低木の壁に遮られた小屋らしき木製屋根が見える。
どの道を通ろうとも、街に向かう前に必ず装着した原初の翼を隠さなければならない。手ごろな羽織物か背嚢の類がそうそう落ちている訳ないので、上半身を前屈みに倒し庭園内を走りだした。
エグザムは庭園に在る背が高い植物が花を咲せた花壇脇を通り、離れの小屋の傍まで鉄柵の傍を走る。そのまま足を止める事無く小屋の入り口に辿り着き、周囲を見回しながら木の扉を引いて室内に隠れる。
(ただの資材置き場か。間違いなく長時間居たら匂いが移るだろうな。)
小屋の中には庭師が使う選定道具や土を掘る為のスコップが大量に保管されていて、足元や袋詰めにされた土から肥料の匂いが鼻を埋めようとする。
エグザムは小道具類を覆っていた工業包装紙を外して物色し、傍の道具箱や収納用の木箱も調べた。さらに棚の引き出しもあらかた調べ備品の類を確認したが、肝心の衣類が見当たらない。
「こうなったら最終手段だ」
そこでエグザムは道具を覆っている麻袋や工業包装紙に包まれた堆肥袋に着目しそれらに手を伸ばした。同時に原初の翼を鎧に見立て背中から体正面の胸に装着し直し、堆肥を入れた麻布を背負いユイヅキを肩に担ぐ。
(探索街や周囲の宿場に、狩りや掃除人で金を稼ぐ少年なんて住んでないだろう。化けるとしたら農家の子供や親の手伝いで荷を運んでる奴だな。)
エグザムは床の隅に溜まっている少量の煤と黒土を衣服に付着させ、ついでにスコップと作業用帽子を拝借して小屋から出た。
「理力とは不思議な力だな 仕掛けが解らない機械装置より多くの事に使える」
今度は忍び歩きで蔦に覆われた鉄柵の傍まで歩いて行き、鉄柵に蔓延る蔓草をすこしどけて外を調べる。
湖に面した目の前の鉄柵の反対側に在る遊歩道と砂浜には人影が無い。この辺りの湖畔沿いは昔から住居区画として整備された場所だ。探索街の名ばかり居住区より多くの人々が住んでいるが、探索者とその関係者は基本的に近寄らない。
今の時間は起きたばかりの人々が仕事の準備を始める時間帯で、道幅が狭い遊歩道は物資や人が行き交うには不適切なのだろう。エグザムはその遊歩道に人影が無い事を確認し、そのまま跳躍して柵を飛び越えた。
「この道を選んで正解だったな」
農作業に勤しむ子供が独り、遊歩道を走って探索街と陸を繋ぐ唯一の橋へ向かっている。少年は走りながら左手沿いの湖畔を眺め、東の山から昇った太陽が半分天空樹と重なる眩しい場面に遭遇する。
短い黒髪の少年は眩しいと嬉しそうな表情で愚痴を吐いた後、遊歩道の先に見える橋の袂を行き交う群衆や荷車の集団を眺める。
「探索者を養う為に働く者達 中には元探索者や役人だった者も居るはずだ」
短い黒髪の少年は走りながら手にしていた帽子を被り、そのまま遊歩道から雑路を抜けて石畳の歩道に出た。
歩道を歩く者達は成人した男が多い。農作業に向かう者や旅人が橋を渡って次々とエグザムの後ろの街並みへ入って行く。
道路を行き交う導力車の進行を邪魔する大きな積荷を載せた荷車が横切れば渋滞が発生しするので、その滞りを嫌って街から徒歩で探索街に向かう者達の多い。直接探索者と関係ない商社や営業組織の従業員達は皆支給された衣服を着用している。
勿論各組合に属する組員の姿も見られ、砂埃で薄汚れた帽子を被っている少年に近付こうとする者は居ない。
そのまま直進し長い橋の歩道を歩き続けた少年。十分以上の時間を掛けて探索街の入口が在る大門を通過する。
俺が街に来た時より混雑している。そう少年は考えながら埋立地の象徴とされている石造りの大きな城塞門をから道を左に曲がり、下層円環通りを少し進んだ先に在る遊歩道へと入った。
少年の目的地は行政区が一望できる外縁公園の一箇所。すなわち街路樹と同じ種類の潅木が植えられた公園内の林だ。
「何とか此処まで来れた しかし体が少し縮んだだけで重く感じるのは何とかしないと」
探索街は十月を向かえ他所から着た旅行客や労働者で溢れていた。エグザムは数日前から大規模な発掘労働者の受け入れが始まった事をまだ知らず、当然探索街で数百年ぶりに試掘用の旧坑道が解放された事実を知らない。
一先ず体を休めながら考えを整理しようと考えたエグザム。久しぶりに来た外縁公園に設置された長椅子に座り、隣に置いた肥料入りの麻袋に頭を乗せユイヅキの水晶体で街の様子を観察する。
「そう言えば今日は何日だ 確か一週間あの底ですごしたから」
今日は最後の探索から九日後の十月七日だ。私が乗っていた大陸鉄道列車が天空樹駅へ向かう過程で最後の中継駅を発ってから日の出を迎えたので、あの騒動に遭遇した記念すべき日でもある。
エグザムは長椅子に寝そべる真似をしながら、これから会う人物に対し話す内容を整理している。しかしいざ当人と関わるようになってから一変した探索者生活を思い出すと、頭が自然と天空樹の虚構式探索について考えを巡らせてしまった。
(結局、人は汚染物質から抽出された天空樹の養分を吸い取る寄生虫でしかない。人や家畜から出た排泄物や生ゴミを微生物に食わし養分を循環させていても、持続的に天空樹を育てるだけの養分が賄えていない。人から見たら膨大な量に見える資源も、何百年何千年と使い続ければ何時か無くなる。)
目を瞑っていても水晶を介し知覚できる天空樹と探索街はエグザムの手が届く場所に在る。迷い易い地形を考慮して施設や住居の屋根は色分けされている。区画を表すそれらの色が各組合の象徴でもあり、行政府庁舎が入る中央棟の紫屋根が日陰に隠れて黒く見えた。
「よし纏まった これでアイツの化けの皮を剥がせる」
巷では天空樹を見続けると距離感が狂うと言われている。私も直接目にする前は噂話の類だと思っていたが、五大迷宮の中で最も高い迷宮の名前は真実だった。
立ち上がり麻袋を持ったまま長椅子から遠ざかるエグザム。植樹された潅木が並ぶ林に踏み入り、草むらに麻袋の中身を捨てる。黒土とよく似た小さな粒が足元にまで零れたが、そのまま肥料の小山にスコップを突き刺した。
傍から見れば樹木が並ぶ大きな花壇に肥料をやっている少年。彼の脱出劇はまだ終わっていない。
大門。高さ五十二メートル、幅四十五メートルの大きな石の門。国中の採掘場から切り出された岩を門の形に積み上げただけの石造建築物だが、防壁としての大扉は無くアーチ天井に向き出しの岩肌が残されている。
錬金術師の工房である栄光のガス灯。今日も最上階層の煙突群に混じり、煉瓦造りの小さな煙突から白い煙を吐き出しいる。そして久しぶりに上がった階段から顔だけ覗かせているエグザムは、工房脇に新しく設置された花壇を発見した。
「観賞用の花に見えるな まぁ危ない薬品の調合用だろう」
エグザムは工房の玄関に入る前に、その花壇に咲いている様々な種類の花を見比べる。見た事もない品種から外来種と予想できるが、根の張り具合から此処に移した形跡は無い。
まだ真新しさが残る木造階段を登りきったエグザム。微妙に色が違う赤色系煉瓦で形作られた花壇の前で立ち止まり、改めて色とりどりの花を咲かせている植物を観察する。
「おぉ 貰い物にしては良く土に馴染んでいる 流石は錬金術師 見た目以上に侮れない奴だ」
色も種類も違う花々が一つの大きな花壇に同居している。エグザムは本来なら根が混雑して避けられがちな密集栽培の秘密を探ろうと、花ではなくその下に敷かれた緑色の怪しい土へ手を伸ばそうとした。
「興味を惹かれるのは解るけど まず溜まった仕事を全部片付けてからにしようね エグザム君」
エグザムはその馴れ馴れしい言葉遣いを聞き、最後に分かれる前に交わしていた普段どうりの相槌を送ってしまった。
「そうか なら俺のこの手を見ろ」
人間だった頃の容姿や声も違うのに自身をエグザムだと見抜いた少女に右手をかざす。そして同じく容姿を偽装している相手の魔素をかき乱そうと、手加減せず理力を送り化けの皮を引っ張る。
「凄い力だね 強引に体へ介入しようとして魔素が震えてるよ でも」
マイは右手指を打ち鳴らしただけで、エグザムから放たれた魔導妨害作用のある波長を掻き消してしまった。それは目の前の少女が自身と同じ存在である事実を示していて、エグザムは変えた声を維持したまま何者かと問う。
「マイ・フリール この名は本当にお前の名前なのか 会ったばかりの俺に報酬を条件で虚構世界に送った真の理由を話せ 先に言っておく俺に嘘は通じないし次も無い 工房どころかこの区画ごとお前を消す」
エグザムから体を覆う蜃気楼が発生し、傍の花壇に植えられた植物が風で揺れる。エグザムに右腕を下ろす気は微塵もないようで、マイは立ち止まったまま腕を組んで言葉を選び始めた。
「私が迷宮管理機構から派遣されたのは 知恵の葉から探索街を通し天空樹の再生を打診されたから 機構は秘密主義の塊だからどの繋がりで私を選んだのかは知らない ただ私は釜魔法を極めた異端児で魔導結合と素粒子学に精通してるから その繋がりで天空樹調査員としてこの街に来たの そしたら来てすぐに天空樹の再生とは無関係な覚醒者の選定を押し付けられちゃって このとうり面倒な場所に押し込まれたんだ」
エグザムは聞いた事も本で読んだ事も無い「覚醒者」と言う単語について詳細を話すよう命じた。
「君と私の様な存在の事だよ だから始めに言うべきだったけど改めて おめでとうエグザム 君は魔素と言われる机上の存在を幻視できる能力を獲得したんだ 覚醒者とは虚構世界や魔物の血などで体内の魔導因子が変質した存在 ここで重要なのは必ずしも魔導細胞が変化した生物だけに当てはまる言葉じゃない事 解り易く言えば迷宮管理機構の指定秘密に含まれる対象で 基本的に発見次第組織に報告し専門家を呼ぶよう定められた存在だね」
更にマイは覚醒者について語り、常識や現在の魔導学でも曖昧な存在である魔素を機械要素を用いず操る存在だと述べた。それらは古い時代の英雄や怪物が誕生した時代から歴史の闇で蠢く者でもあるらしい。
そして錬金術師マイ・フリールは組織の命により秘密裏に天空樹の生体認識に介入し、ある計画の為にカスパーに接触できる候補を探していた。組合も古くから天空樹の制御中枢に接触する方法を模索していたが、どれも介入する前に必ず計画が頓挫してしまい、迷宮管理機構に泣き付いた訳だ。
「計画名は天空樹の再生を目的とした天空樹保管再生計画 三日前に鉱業の復活が公表されたのも その計画を進めるためらしい。ただ私にはそちらの詳細は知らされてないから聞いても無駄だよ」
そう言いながら微笑んだマイに対し、エグザムは口調を変えず訊ねる。
「お前は少数の探索者達を贄に成ったと偽り 天空樹内に送って核に接触できるかどうか試すだけに殺すやり口を知っていたのか」
エグザムは探索者達を意図的に贄にする行為を黙認していたのかと訊ね、マイ・フリールは言葉を濁さず肯定した。さらにマイはエグザムが天空樹の秘密を知り得た事実を根拠に、エグザムがカスパーに接触する為の道具にされると警告する。
「探索組合の地下に在る動力炉はね 実はあちら側の島の蜜の花が在る栓等地下だけでなく 天空樹の竪穴内の遺跡とも繋がっているんだ だから私には君をそこまで連れて行く義務が有る 例え機構が危険視するほどの存在でも組織の命令を無視して保身に走るのは許されていないから」
エグザムはその警告に対し天空樹崩壊宣言を以て返した。そして最後の質問は今だ何者からも聞いてないエグザムの本音だ。
「どうして俺が選ばれたのか 俺はこの答を知ろうとして何度も質問したのに どいつも満足な答を教えてくれる親切な奴ではなかった 俺は選ばれた理由をしりたい その為なら何を犠牲にしてもいいと考えている それにユイヅキの水晶体を新品と摩り替えたのもお前なのか」
マイはエグザムの問いに対する明確な答を知らないと説明し、自身の経験則から予測可能な範囲で推論を述べる。
「そうだね 実は組合によって製作された遺伝子操作人間だった もしくは両親が探索者の血族で 天空樹で贄にされた者の中に含まれていた まさかの今時珍しくもない死神をもじった名に原因が有るのかも そもそも虚構世界が構築される以前から迷宮は入る者を選ぶと言われていてね 私がそうだったように昔は特異な存在を生み出す神聖な場所だったんだ」
マイは水晶体の件に関して笑いながら黙秘を貫いた。目と鼻の先で鎌を向けている死神の目が怪しい光を発していても、マイフリールはその場から一歩も動かない。
そんなマイを観察しているエグザムは全ての質問を終え落胆気味に右手を下ろした。当人が嘘を吐いている証拠となりそうな兆候。常に生体情報を監視してる情報集積体が嘘と見られる項目を検出しなかったからだ。
世話になったとだけ言葉を残し去ろうとしたエグザムへマイが何処へ行くのか訊ねた。エグザムは麻布を破ってしつらえた雑な羽織を棄て、背中に隠していた原初の翼を起動させる。
「お前が言ったように天空樹と繋がっている動力炉を停止させる だから街が炎か湖に沈む前に離れろ もし人ごみで橋が塞がる前に逃げれたのなら その専門家の件でも決着をつけてやってもいいぞ」
理力を使い一瞬にして体が浮き上がった際、理力を用いた高度な変装が解けてしまう。それでもエグザムは構わず翼を展化し上昇を続け、肩まで届く赤い髪をたなびかせながら高台から飛び去って行った。
「あ~あもったいない あんな若々しい顔なら命がけで止めるのに」
集合意識体と同化したエグザムの姿が好みの人物像と似ていたのだろう。その姿を青紫色の瞳でしっかりと確認したマイはその場にへたり込んでしまう。
「まぁようやくこの変な街から逃げれるなら問題無いか 最後の務めを終わらせて引越しの準備をしないと」
マイ・フリールは高く上がって見えなくなったエグザムを見送りながら、何も入ってなさそうなスカートのポケットから禁制品として持込みが禁止されている小型の携帯式魔導通信器を取り出した。
通話先の番号を入力し呼び出しを待つと、天空樹探索街特有の電波混線による影響が無く直に電話が繋がる。
「仕事中だけど例の存在が見つかったよ うん君の予想どうりだった これから探索組合の導力炉を壊しに行くって 勿論約束どうり君にしか話してないよ」
携帯式魔導通信器(通信端末)。魔素と言われる存在が実証されてからおよそ七百年。人々の生活は魔導理論から導き出された導力機関によって生活基盤を支えられている。その基盤を更に発展させる道具として電磁干渉技術を使い発展させた究極の形がこの小型通信器。
巷では電話と呼ばれている魔導通信装置と違い、中継局と端末を結ぶ専用網が不要な点と利便性が優秀だ。およそ三百年前に隣国のゼノンで開発されてから爆発的に世界中へ普及した経緯がよく知られている。
セフィロトでは中継局が未整備な地域が多く普及してないが、他国の文明圏なら殆どの地域で何時でも通話が可能。
エグザムが探索街に舞い戻ったのはマイから事情を聞く為だけではなかった。天空樹を自らの手で止める以上、発生するだろう様々な不確定要素から知り合いだけでも逃そうと考えていたからだ。
幸いな事に懸案だった天空樹内へ帰還する方法を知り得た今、エグザムは次に会うべき人物が住む緑色の傘屋根に降り立つ。
大きな吸水施設施設が目印の技師工房は人通りが少ない裏通りに面していて、やはり汲み上げ機の耳障りな音が隣の吸水塔から聞こえている。その給水施設に隣接している天空樹と同じ緑系の傘屋根に降り立ったエグザムは開いている天窓から内部に侵入した。
三階建て工房の最上階は一人用の寝具と本が溢れた三つの本棚が置かれている。一目で寝室兼書斎だと理解でき、引き出しが無い小さな机の上に日記らしき手記と古そうな万年筆が有った。
エグザムは部屋内を見回し、吸水塔時代の設備を撤去しきれず残された金属板の床に在る手摺と梯子を発見する。
「布団が少しかび臭いな ここ数日干してないのか」
どうやって寝台を運んだのだろう。そう考えながら金属製の寝台の横を通り、エグザムは昇降用の手摺を伝い下へ降りた。
二階は製作された鋳物や魔導具と図面を記した大量の設計図が保管されている。エグザムにとってこの場所に来るのは二度目だが、以前ユイヅキを引っ張り出した大きな木箱が見当たらない。それにこの元吸水塔は隣の物より古いので建物自体が大きい。たったの三階だけだが、上の階に上がるにつれて部屋が狭く成っている。
エグザムは梯子から道具をどかして作られた狭い通路を通り、部屋の反対側に在る螺旋階段の前で立ち止まった。
(よかった、ハルゼイは下に居る。鋳物を叩く音が聞こえなかったから朝早くから出かけていたのだと思った。)
靴音が響かないようにゆっくりとした足取りで螺旋階段を下りるエグザム。金属板を支柱に溶接しただけの簡素な造りなのに乳白色の防腐剤が剥がれ落ちた形跡が無い。相変わらず工房の主人は建物の維持には拘っているようで、エグザムは広い室内を占拠している様々な備品や鍛冶設備を見回し工房の主を探した。
自身の名を工房名に付けたその若い主人は、螺旋階段から離れ入り口と正反対の位置に在る反射炉らしき装置で何かの作業に没頭している。階段から降りたエグザムはまだ声をかけず周囲を見回し、一先ずハルゼイへ辿り着く為の道順を確認する。
(棚置き場を通って中央のガラクタ置き場を迂回しよう。姿は、このままで変える必要はないな。)
足音を出さずに歩いている途中で、エグザムは近くの作業机に捨て置かれていた包装用輪ゴムを一つ取り、長い長髪を後頭部で結わえた。更にマイから与えられた革鞄をその作業机の下に置き、同じく机下に置かれている本と同様に布を被せる。
(こいつには世話になったな。当人に返せなくてごめんな。)
エグザムはそのまま物置を通過して衣類や本を収納する収納具が並んだ部屋の隅を左に曲がる。収納具には相変わらず様々な工具や魔導素材関連の備品が入っていて、足物に並べられた道具箱が狭い通路を塞ごうとしていた。
作業に集中している主人の姿が只の鉱石を収納した棚の隙間から見えた。その時エグザムは煤と区別がつかない匂いに鼻が痒くなり、鼻奥が刺激されてくしゃみが出そうに成るのを堪えるので精一杯だった。
エグザムは隙間を縫うように移動し、音も立てず反射炉の隣に立ち耐熱硝子越しに内部を観察しているハルゼイの真横に立つ。
「お前がハルゼイか 作業中だが邪魔するぞ」
若い青年の声に驚き顔で此方を見つめてくる技巧師。着用している灰色の作業服は付着した煤や油膜で汚れていて、目の下には薄っすらと隈が出来ている。しかし反射路を操作する端末から手だけは放しておらず、装置から絶えず発せられる電子音を聞いてすぐに顔を耐熱ガラスに向けた。
「今は依頼の受けつけはしてないんだ 修理依頼なら明後日にしてくれ」
複射熱を操作しある部位に含まれる金属分子のみを溶融させたり熱変化させる反射炉。扱うには精密な操作と長い拘束時間が要求される汎用加工装置で、その事をある程度知っていたエグザムは疑われないようさっさと用件だけ話す。
「俺は虚構世界の下町で魔導具を専門に扱ってる修理屋だ ある探索者からこの魔導弓の調査を依頼されたんだが どうもこの魔導具は既製品と違うようで情報が少ない だから直接製作者を訪ねに来た訳だ 俺はこの紫水晶の製造経緯を知りたい」
反射炉の丸い外殻に複数差し込まれた筒状の発振体。内部の雷極から電磁誘導を伴う高圧電流が発生している用で、耐熱硝子で青紫と赤紫の光が明滅している。ハルゼイはその光とエグザムの手に在るユイヅキを交互に見ながら、ゆっくりとした口調で語りだした。
「その水晶体は私が作った物ではない 二代前の祖父が作業を短縮する為に作った試作品の一つだ 残念だが同種の水晶体は初めから無いよ 同じ頃に作られた試作魔導結晶も全部処分した それにそれは元から出来損ないの失敗作だから技工士が扱える物じゃない」
魔導結晶とは魔石や魔核と言った高濃度魔素により変質した金属や無機物等を構成する分子構造を分解し、特定の目的の為に設計構築された複合型分子構造体。融合炉と分解炉を経て解けた材料を合成炉にて結晶化させた魔導物質の塊。一般的な魔導制御装置に使われている多目的結晶等が代表的。
「確か父は合成炉で結晶化させる時間を短縮する為に魔物の魔核を使っていたとか言っていた 結果的に時間の短縮には成功したけど結晶密度が基準より高くなって精密加工が出来なかったらしい 砕いて再粉させようにも魔導回路が癒着していて砕けず 結局売り物にも成らなかったらしい 何年か前にたまたま倉庫整理をしていら仕様書付きで出てきたから 何かの依頼で報酬のおまけとしてもらった複合弓と合わせたんだよ 仮にも水晶体だから現実で役に立たなくても虚構世界なら役立つだろ それで知り合いに紹介された新人にあげたんだ」
現実世界に居る本物の魔物から採取した魔核を魔導結晶に用いる手法は珍しくない。魔石や鉱石に詳しい私の経験や知識を踏まえても古くから存在する手法と言える。そしてハルゼイの祖父が時間短縮に魔物の魔核を用いたのは、おそらく私が生まれる数年前に発生した魔導資源減少問題に端を発していると思われる。
エグザムはハルゼイの言葉に、そうかとだけ返事を送った。これでもうユイヅキに関し疑問に思う事も無いだろう。そう考えれば後は彼をこの街から遠ざけるだけだ。
「ありがとな おかげで作業に戻れるよ」
エグザムはハルゼイの左肩に素手を伸ばし理力で人体に含まれている微量な魔導細胞に働きかける。
「今行っている作業工程が終わったら 体を休めに探索街を離れろ 最近急に街が慌ただしくなっただろ この際山を越えた街に財産を幾ばかりか持って旅したらどうだ」
魔導細胞は生物のあらゆる器官に独自の伝達網を構築している。おそらくエグザムは細胞核の情報伝達機能に干渉したか己のものと同調させ、一時的にハルゼイの精神を構築する関連機能を制御化に置いたと思われる。
「そうだな 確かに昨日から 国の調査団が街に来てから慌ただしくなった いっそ面倒事が増える前に逃げてしまうのも良いな」
ハルゼイはそのまま作業を終わらせる為に耐熱硝子から目を離さなくなった。エグザムが玄関から出るぞと言っても曖昧で短い相槌しか送らず、不法侵入者が来た事も時期に忘れてしまうだろう。
裏通りは根や高い建築物の日陰になっていて暗い。坂道の向こう側に天空樹の根をくり貫いた地下道入り口が見える。
エグザムは更に人気が少ないだろうその入り口に入る為、石畳に舗装された坂を無言で登る。
(次は福音の翼の面子だな。悠長に時間を掛けていると探索組合の警備が厳重になって、下の管理中枢を操る導力炉に辿り着くのが面倒になる。何処かに火でも着けて警戒の目を逸らすべきか。)
エグザムが物騒な事を考えながら坂道を上がっていると、両手に大きな旅行鞄を持ったハルゼイが工房から荷物を背負って出てきた。先ほどまで煙突からでていた灰色の煙も無くなっているので、これから探索街の外へ向かうようだ。
そうとは知らずエグザムは坂道を登り終え、今度は地下街へ降りれる階段を下り始める。地下街を通って目的地へ向かう事もできるが、決して最短経路を進んでいる訳ではない。
(確かこの辺りは雑貨や生活用品を売ってる商店街だ。変装に使えそうな物を買って姿を晦まさないと、この髪は少し目立つからな。)
エグザムは階段を降りた真向かいに在る服屋へそのまま入り、近くの衣服を物色しながら周囲を窺う。流石に商店街はまだ通行人が居て、変装に適した場所とは言えなかった。
魔導結晶。水晶体と結晶体の材料になる魔導物質の塊。形状は様々で、使用した原料により顆粒状から結石の類と形状が変わりやすい。基本的に結合が不安定な物が多く、迷宮で産出する物は専用の容器に保管されている。
エグザムは両手に商店街を練り歩いて買った物を入れた紙袋を持ちながら、その地下商店街とは別の上層円環通り地下に在る地下街を歩いている。この場所は普段から人通りが少なく、酔った探索者や失職中の労働者がうろついていて治安が悪い。
エグザムの目的は地下に在る公衆トイレで変装を済ませ、居住区に在るアーシアの豪邸に向かう事だ。勿論その為に必用な小道具は一式揃えてある。先に言っておくが、エグザムが服屋で貴重な金を使い贈り物だと店員を騙し買った着慣れない衣服は、全て探索街を欺く為の陽導に使う変装道具だ。
目当ての公衆トイレは、特に入り口の壁に書かれた落書きや古い求人募集の張り紙で汚れている。殆ど使われないため清掃頻度が少なく、観光客も用が無い上層区特有の事情が反映されている。
エグザムはトイレの前で立ち止まり、袋の中身を確認しながら左右方向に見える通路奥を確認した。
「この時間に此処を通る奴なんて居ないか」
そう小声で言うとエグザムは迷わず女トイレの方へ入る。公衆トイレは地上に在るものと違い汚れと落書きが目立つだけでなく、よく詰りや水漏れが修理されず放置されるので人が近寄らない場所なのだ。
エグザムは素早い足取りで出入り口に近い個室に入り、便器に座らず衣服を脱ぐ。勿論と靴と下着は脱がずに買ったばかりの薄い半袖半ズボンを着用、そのまま理力で姿と声を変える。
「なんだか気持ちわる」
背を物理的に伸ばし体系を胸以外女性型に変える。髪の長さを少し伸ばして背中に適度掛かるよう調整しながら、色を赤から淡い褐色系の褪せた大麦色に変える。
「そう言えば妹の髪は少し赤みがかっていたわね」
そう言いながら髪の色を調整しながら丈が長いスカートを腰の定位置で固定する。後は髪型の癖と顔の仕草を鏡の前で確認すれば変装が完了するだろうから。エグザムは個室を出る前に脱いだ装備や衣服を全て灰に変え水洗トイレに流した。
【お主。もしかして女装趣味が有ったのか?それとも】
エグザムは脳内に直接語りかけて来る蟲の王に対し、それ以上言うなと黙らせる。そして好きでやっている訳ではないと言い訳を吐いた。
個室トイレの水をもう一度流し、灰と煙が視界から去ったのを確認したエグザム。扉を開けて個室を出て、丁度目の前のお手洗いに有る鏡を使い髪の毛を整える。
「そう言えばアーシアは西大陸出身なのに髪の毛が赤毛なのね あの地域は薄い樹木系の髪質だったはず」
白い半袖の襟に店員から勧められた赤い結び帯を蝶の形に結わえ、左手首に小さな他の店で買った腕時計を装着する。後は探索者向けに売られていた小道具用装飾品の髪留めで後ろ髪を左右に結び、余った髪を縮めた。
エグザムはサイズが大きい半袖とスカートに汚れがないか確認する為その場で回る。すると鏡に映る青い瞳が怪しく煌いて見え、エグザムは一旦瞼を閉じて色覚探査を弱めた。
【拘るなお主。狩人の経験が完璧な女装を要求しているのか?それともやはり】
それ以上言うと理力の大剣でぶった斬るわよと忠告したエグザム。今度は口を動かさず蟲の王に水晶体の色を偽装するよう命令した。
【こちらの準備は万全だ何時でも始めれるぞ。】
エグザムは流し台に立て掛けたユイヅキを持ち上げ両手で水晶体を挟む。後は水晶体の魔導結合を理力で少し組み替えてやれば、瞬きをする間も無く紫色の水晶体が深緑色の高級品へと変貌した。
【性能は元の水晶体とは比べ物にならないほど高い。これからもこの色で徹せばどうだエグザム。怪しまれずに済むぞ。】
その案にすぐ了承できないエグザム。この時の彼は元の体への回帰願望が有ったからだ。その願いを達成出来るかもしれない情報が暗号として水晶体に保存されていて、保存したメルキオルの分身と統合されたオデッサの正統な主でなければ解読できないからだ。
「それは駄目だ 今回は一時的に色を変えただけだ」
エグザムは最後に肌の日焼け具合を再現する為、理力で魔導細胞に干渉し白い肌を少し暗く染めた。そして鏡に笑みを投げかけ顔を少し傾ける。獣や野生の魔物の捜索で養った観察力を以てすれば、勝気な貴族の娘を演じるくらい造作もないらしい。
アーシアに姿を似せたエグザムは、自称アーシアの姉を気取りトイレから出て地下通りを戻る。次の目的地は道を戻る途中に有る出口の階段を抜けた先の上層円環道に在る高台だ。
【人間の女なら化粧を施す筈だ。肌の色素を部分的に変えただけだと対象より幼く見えてしまうぞ。】
蟲の王の忠告に対しエグザムは無言のまま次のように返す。
【アーシアは軍属経験が有るらしくて化粧をしない。もし何か有れば姉の設定で押し通す。なにせあれの顔は美形だからな、例え血を分けた肉親が居なくても姉が幼顔なのに誰も違和感を感じないよ。】
格子で閉鎖された旧地下道の入り口やシャッターが下りた貸し出し区画。話に聞く地方の寂れ具合を演出した様な場所を歩きながら、エグザムは一番大事な事を忘れていたのに気付く。
【あ。俺としたことが名前を考えるのを忘れていた。奴の苗字がクレムリンだから、ヒリュウの次になんて何するか?】
蟲の王へ暗に案を求めたエグザムだったが、どれだけ待っても水晶体から返事が来ない。エグザムはだんまりを決め込んだ相棒の同居者を見限り、記憶を頼りに案を絞り続けた。
【詰めが甘いぞエグザム。西大陸出身の有名人から名を取ろうとしても無駄だ。なにせあの地域は昔から肉親どうしで関連する名をつける風習がある。そしてヒリュウは所謂二つ名だ。お前が特定の武術流派の名を名乗る必要は無い。】
地下道の出口が見え始めた頃になってようやく語りかけてきた蟲の王。エグザムは何故自身も知らない詳細を地底生命体が知っているのか訳を聞いた。
【思い出せエグザム。われ等は天空樹に長らく縛られてきた存在の一種。溶けた探索者の記憶を集め多くの情報を集積した存在でもあるのだぞ。お主の浅はかな知識では答えが出せんだろうから、私が変わりに便利な名を与えてやろう。今からお前はイクサユメ・クレムリンだ、名を隠し生活する逃亡者の女男ぉハハハハ】
イクサユメとはかの災厄で地上を破壊した魔導生物を討ち滅ぼす神の槍を設計した人物とされている英雄の名だ。しかしその英雄が何者だったのかを知る手掛かりは今の所発見されてない。性別や種族と出身地、そして神の槍の開発に携わった経緯が仮説の数だけ有り、地域によって名称が違うことで有名だ。一部では星海を渡ってきた本物の神だと主張する者も居る。
【イクサユメか、悪くない。確かに西大陸ではそう呼ばれているらしいな。確かに女性名詞だと聞いた事がある。この国だとイサリィだったりイクサムだから名前もゼントランに合わせるべきだな。】
それからエグザムは頭に響く不可解な笑い声を無視しながら階段を上がり、人力車や軌道車が走る円環通りの歩道を歩く。
まだ日差しが高くなく、朝日を反射した湖の水面が輝いて見える。十月に入り上がった気温と下がった湿度のおかげで上空に雲は無い。エグザムは帽子でも買っておけばと後悔してしまい、それが可笑しく思えたのか更なる蟲の王の笑いを誘ってしまった。
「もう 少し歩いただけでこんなに疲れたのは初めて」
エグザムは手摺に左手を掛けながら高台の階段を登る。たった十段未満の階段なので直に頭が高台の地面より高くなり、吹いた風にまた少し体温が奪われた。
それでも手摺沿いに歩いて高台の縁に立てば、三つの階層に分かれた居住区が緑の湖を背景に一望できる。
(何も知らずに眺めるだけなら最高の場所だろう。セフィロト三大風景に数えられるだけの場所だが。)
エグザムが少ない時間を費やし救出対象に選んだのは、福音の翼に所属する男子二名と女子一名。しかしその三名がウラヌス達と同様裏稼業に従事している可能性も有る。それをはっきりさせる為、これから探索部の拠点として使われているクレムリン邸に突撃する予定だ。
(あの三人が無関係ならあの屋敷に居る筈だ。本人達がそう言っていたのだから今から確めに行けば裏稼業組みの動向も探れるだろう。)
エグザムは紙袋から買ったばかりの双眼鏡を取り出し離れた場所に位置するクレムリン邸を観察する。勿論この双眼鏡は安物の玩具の類で、見た目だけ似せた模造品だ。
【門は閉まっているが幾つかの窓に照明の明かりが見える。この位置からだと温室は屋敷が邪魔で見えないな。最悪あの執事に会ってアーシアの身の危険を餌に一騒動起すのも悪くない。】
エグザムは鳥の様に視野を拡大させて、双眼鏡を覗く振りをしながら屋敷を隅々まで調べる。三階建てで庭と執事が付いた温室完備の邸宅は古い木造住宅を再利用した賃貸物件だ。外装は乾燥と火に強い高級木材の黒曜樹が使われていて、やはり高級家具も同様に黒かった。
【形有る物いつかは崩れる。それは死と同じだ。われ等はそれを嫌い無機質な電子情報に姿を補完させた。お主も覚悟を決め成す事を為せばいい。】
蟲の王の意思に自然と同調するエグザム。少し肌寒い風が吹く高台から降り、下の階層へ歩いて行った。
セフィロト三台風景。内外の観光機関紙に大きく紹介されている定番の風景名所。一つは聖都オデッサの紺碧海岸。一つは天空樹から見渡せる湖。一つは古都ベルス近郊に在る数千年前の遺跡群。
年季が入った屋敷も近くから見ると文化財物件に見える。特に花壇を基礎に敷地を囲っている柵に絡まる蔓科の植物が花を咲かせていて、白地に青と赤い花弁が緑の壁を彩っているようだ。
イクサユメはたった一週間と数日見ない間に変わった雰囲気に少しとまどって、クレムリン邸の場所を場所を間違えたかと勘違いしてしまった。
表札は同じね。全くこれだから貴族は、そうぼやきながらイクサユメは呼び出しのスイッチを押す。
「失礼します イクサユメと言います アーシア・クレムリンはご在宅ですか」
外観は赤煉瓦を積み上げ人工石材で固めただけの門。その柱に埋め込まれた呼び出しスイッチをもう一度押し、まったく同じ言葉を言おうとした。
「申し訳ない 屋敷の物から部外者に動向を教えるなと命じられております 当人等の紹介無しではお伝えできません」
外部音響装置から返って来たのは流暢な拒否の文言と老人とは思えない声色。その声は何度か聞いただけで直に記憶に残りそうな声で、エグザムはアーシアの世話役兼執事のフクシと名乗った人物を思い出した。
「そうですか では探索部として登録されてる福音の翼の本拠は此処で間違いないですよね 実は来る途中でエグザムと名乗る少年から伝言と渡し物を願いされまして 探索部の仲間に届けて欲しいのですが」
イクサユメは早い内に切り札をきった。初めから探りを入れても門前払いされると目に見えていたので、自らの真の名を材料に反応を伺った。
その結果、イクサユメは音響装置から門を開けるので敷地内へ入って玄関の前で待つよう命じられた。直後に自動的に正門の鉄格子が開き、目の前を横へ移動中の柵が通過してから敷地内に入る。
「良い場所に住んでいるじゃない 羨ましいわ」
隙間無く敷き詰められた石畳と大理石の原石を歩き、大きな黒曜樹の扉の前で立ち止まった。イクサユメは十数センチの段差をあえて上がらず、玄関の扉から少し離れて開門を待つ。
時間にして十数秒程度だろう。一般的な片開き扉より鍵穴が多い黒曜樹の扉が開き、中から執事服を着た長身の老人が姿を現した。
「私はフクシと申します 用件と荷物はこの場で私が引き取ります」
イクサユメは軽い挨拶がてら、探索部の皆さんは外出しているので、とを述べた。しかし答えられないと言ったフクシに話をかわされてしまった。
「彼はこのチケットを渡すので ぜひこの場所に来て欲しいと言っていました 私はこの街に来て日が浅いので道に迷っていたところをエグザムさんに助けてもらったので そのお礼にと渡されました あぁ それとアーシアにエグザムさんから借りた手拭を持っていたら返すようにと伝えてください それでは」
イクサユメが紙袋から取り出しフクシに渡したのは、地下商店街で買った七枚の駅前演劇券だ。十月に入ってから七日が経ち、探索街の湖畔から離れた郊外に在る交易街の駅前広場で連日催し物が開かれている。
イクサユメは紙袋を持ち直し玄関に背を向けようとした、。その時まだ用が有るのかフクシがイクサユメを呼び止めた。
「君の肩に有るその弓 それはこのチケットを渡すよう命じたエグザム君の持ち物ではないのかね」
やっぱり水晶体の色を変えただけでは気付かれるか。イクサユメは内心そう考えながら振り返る。
「はい これは用件を伝えるのに彼が支払った報酬です と言っても殆ど押し付けられた物ですが 当人はもう必要ないと言っていましたね」
イクサユメの言葉にフクシは深く追及せず、軽い別れの挨拶を送って来客を送り出した。
門の境界を越えると再び柵が閉じ始め、イクサユメは屋敷に目もくれず来た道とは反対側へ歩いて行く。
(流石はあのお転婆娘に仕えている人物。無暗に他人に介入しようとはしないか。)
イクサユメはフクシがエグザムの動向を聞く事を期待していた。フクシがアーシアの裏稼業を知っていると睨んでいたが、想像以上に警戒が厳しいのか対応に付け入る隙が無かった。
【こんな方法でお前の思惑どうり組織を引きずり出せるか?お主ならあの老人を襲って情報を聞きだす事も容易いだろうに。】
なにせ主人と容姿が瓜二つの人物が表向き行方不明の探索者の名前を口にしたのだ。当然裏で繋がっている関連組織に情報が送られるだろう。これはエグザムが得意とする獲物を誘い出す手口そのものだ。
【そうだよ。だから今さっき宣戦布告を叩きつけてやったのさ。既にマイから情報が組合に送られているだろうし、奴が言った適格者の捜索が始まってる。たとえ実行部隊が福音の翼以外だとしても、とりあえず探索街から注意を引き離せるだろう。】
情報を攪乱し混乱させて心理的優位な状況を作る。狩りの常套手段としてエグザムが身に付けた基本中の基本だ。
イクサユメは中層の屋敷街から中層円環通りに出て、そのまま大通りを時計回りに歩き続ける。目的地は居住区から商工区を挟んで反対側の行政区。最も警備が厳しく治安が良い場所を経由し、大きく遠回りして探索組合がある商業区最上層に向かう。
十月に入り世界各地から探索街を訪れた訪問者で大通りの歩道は混雑している。もし裏道や地下道を行こうものなら、道に迷った観光客達に道を聞かれて先に進めないだろう。
「うわー こんなに騒がしくなるんだ 私が来た時とは大違いね」
なのでイクサユメも観光客や旅行者を装い大通りを練り歩く。世界中で最も観光向けに解放されている探索街の名は想像以上で、紙袋と外国風の長髪を揺らめかせながら歩く女装男子を誰も気に留めなかった。
有名な工房や古い文化財と化した四階建ての賃貸住居。中には探索街とは別の街の商工組合や情報通信社が入った雑居施設も在り、錬金術師の雑用で何度も見た建物を題材にしている絵師の姿も見える。
そんな商工区を通り過ぎ行政区内の聖堂階段を昇ったイクサユメ。石造りの聖堂に在る国教の魔導聖典を紹介した聖堂屋内には入らず、その広間を左に曲がり上層円環通りに戻った。
【この辺りは獣人が多いな。我等と同時期にこの星に来た種族も居るぞ。たしかあの羊頭は銀河帝国領内の星出身だったはずだ。】
イクサユメは聖堂入り口前の階段を登る一団を観察する。その一団には人間が一人も居らず、頭髪が二本角に固まった獣人連合の一種族が先頭に立ち集団を先導している。
【流石生き字引。経験者は語りますね。この中に伝説の月の民の子孫が混じっていても驚かないぞ。】
セフィロトの国教である魔導聖典を広める為、およそ千七百年前に立て替えられた大聖堂。蟲の王にとっては二千年ほど前まで魔導正典と呼ばれていた歴史と迷宮文化の象徴とも言える先人の教えを守る聖堂へ入る一団は、何れも国外の住人ばかりが目立っている。
イクサユメは蟲の王がやかましく喋りださないうちに広場から遠のき始める。蟲の王に昔話を一度でも語らせれば、そのまま数時間ちかく頭の中で座学が始まってしまう。これから行う面倒事の前に神経を余分にすり減らしたく無かった。
【月の民だと? もしやお前達は人口生命体の事まで忘れてしまったのか? 遺伝子操作で生まれた知性体の変異種のことだ。各惑星種族が衛星に遺伝子保存用の管理施設を建造するよう規定されてから、月面都市の地下深くに人間も含めた大半の生物遺伝子情報を記録した試料を保管していた。そしてその管理者は国から派遣された統治存在か地上種の変種なのだ。極端に肌や髪の色素が薄く目や血液の色が違う人間がまわりに居ないか? もしいたらその者は正真正銘、お前が言う月の民の子孫だよ。】
雑多な通行人を避けながら大通りを歩き続けるイクサユメ。ついつい聞いてしまった新情報に心当たりが有り、蟲の王に深緑族の存在を教え月の民関連の更なる情報を要求した。
【北の樹林に住む森の民出身の姉弟か。確かに我等一族の記憶に有る衛星管理者と似ている。確かお前が言っていた鳥の翼で宙を舞う機動兵なる物の搭乗者だったな。本来、管理者の多くは星に外来種族の病原菌や寄生虫を入れない為の遺伝子改造を施された知性体が就く。故に宙域辺境に在った名も無きこの中継星の管理者もそうだった筈だ。全ての記憶を継承できず星の名前すら忘れてしまったのは、なんとも悔しい事だ。】
イクサユメは蟲の王の相手をしながら大通りを進み、そのまま探索組合が在る商業区へ入った。
商業区は商社や運輸業者の事務所が軒を連ねていて、地方から来た新しい従業員らしき集団が敷地内を出入りする光景が見れた。さすがに観光や旅行客の姿は少なく、普段から用が無い大半の探索者も出歩かない場所だ。
(商業銀行に預けた小切手を回収して金に換えたいが、流石にこの状況じゃ店に入れない。財布の痛みも激しいから、この街から簡単に出れるくらいの混乱を起さないと。)
イクサユメは顔を上げ、軒先の屋根向こうに見える探索組合の白い屋根から垂れた緑の垂れ幕を見る。この街の事実上の本丸として建てられた四階建ての施設は鉄筋人工石材製の多目的営利施設で、駆け出しからベテランまで大多数の探索者が利用する複合施設でもある。
【誘いに乗って来た奴は居るか?居ないのなら応答しなくていいぞ。】
数秒待ってもエグザムの問いに水晶体は反応を示さない。イクサユメは道を右折して探索者の出入りが激しい地下街へ続く階段を下る。その場所は地下鉄駅構内再現した場所で、かつては本物の軌道列車が通っていた構内に探索組合地下施設の入り口が在る場所で知られている。
イクサユメは機嫌良さそうにホモリスが謳っていた鼻歌を歌いながらタイルの地下道を進む。周囲には探索団の出張所が在り、各団の展示物を見物する観光客や構成員と会話する新人探索者の姿も見られる。
探索組合の地下施設へ入る入り口には扉や柵の類の代わりに、探索者達が改札口と呼んでいる守衛所で仕切られている。其処を通るには身分証を示した組合員と許可書を提示できる限られた探索者のみ。当然部外者のイクサユメは通れない。
そこで慌てず構内に在る休憩所に入ったイクサユメ。喫煙者や飲酒者から漂う臭いを気にして離れた場所の長椅子に座る。
【俺の記憶だとこの場所が探索組合地下に一番近い場所だ。なにか感じるか?】
エグザムの問いに蟲の王は、微弱な魔導固有波形と熱反応が隣の柱から出ていると応えた。イクサユメも右手で滑らかな石材の感触がする区画隅の柱を触り、触れている右手のひらから僅かな理力を発生させる。
【例の動力炉はこの下か。湖畔の旧坑道で昔の試掘トンネルを掘っているらしいが、おそらく大量の掘削機材をこの下に運ぶ為の演出だろうな。】
イクサユメは右手を柱から新聞に戻し、探索街とは無関係なよその地方の汚職記事が在る場所に小指で小さな穴を開けた。
【せっかくアーシアの顔に変えたんだ、あの女の権威とやらを確めるぞ。いざと言うときは解ってるよな。】
任せろ、派手に演じて魅せよう。と返ってきた合図を確認し、イクサユメは折り畳んだ新聞を手に持ち、新聞に開けた穴から様子を伺っていた改札口へ向かう。
改札口は地下の検問所で、受付係常時三人と他の組員が最低四人以上居る。表向きは組合関係者用の裏口と言われているが、探索組合が行っている天空樹管理に必要な物資を運ぶ為、稀に改札口が撤去され物資の搬入口として使われている噂が有る。
いつも決まって深夜時間帯に物資の搬入が行われるので、その光景を目撃しようとする物好きも居るらしい。しかしその時は必ずこの地下道が封鎖され、地上出入り口や地下道の一部が立入り禁止にしていされている。
イクサユメは顔パス専門と思われる出入りが少ない右端の改札口の前まで来ると、一旦立ち止まり紙袋の内部を調べる。勿論これは許可書を探す仕草で、口で戸惑う仕草を演出するのも忘れない。
「ああもう面倒 せっかく髪を変えたのに ウラヌスに持って来させないと」
そういいあたかも当然の様に改札の口に進み守衛の横を通過する。そのままもう一度紙袋の中を漁る仕草を繰り返しながら右に曲がり、通路の右側に在る導力炉と書かれた看板が吊るされた階段を下りて行く。
【まるで奇跡だな。それとも罠へ誘われたか。どちらにしろ後戻りは出来ん。何時でも障害を排除できるよう警戒を怠るな。】
狩人時代の経験に従いまず鼻で臭いを調べるイクサユメ。空気の流れから近場の動力室を探し、本体の導力炉へ至る経路を見つけなければならない。
「相変わらず無機質な場所」
故郷の森とは違う人工石材で覆われた地下道と蛍光灯の光が、消毒され浄化された空気を強調させている。しかし繁華街にも病院にも無い僅かな刺激臭が何処かの空調設備から流れていて、イクサユメは階段を降り左右の通路を見比べた。
【警戒中にしては警備が雑すぎる。もしかしたら天空樹を管理している者達と舞台裏で暗躍している輩に直接の繋がりは無いかもしれない。とは思わないか蟲の王。】
今度は道を左に曲がり、地下倉庫らしき金網で遮られた扉の前まで来たイクサユメ。蟲の王から返信が無い変わりに水晶体を介し視覚情報に補正が入る。
視野に映し出された複数の人影は金網とは違う奥の壁から姿を出そうとしている。イクサユメは素早く金属枠に金網が張られただけの扉を開け、大量の木箱や硬紙箱が保管された最も近い棚の影に隠れた。
「なぁ それより夕飯は何処で済まそうか あまり時間を空けると部長が怒るぞ」
作業服と鉄兜の様な専用の安全具の下に帽子を被った一団が、今しがた通ったばかりの金網扉を抜けて通路を歩いていった。身なりは機械油等で汚れていて下級労働者に近いが、頭部の鉄兜らしき装置付きの作業用具に見覚えは無い。
(話に聞く導力技師と言われている奴等か?相当な高給取りとは思えない恰好だった。)
イクサユメは倉庫内を見回し動く人型の熱源が無い事を確認。そのまま先ほどの集団が通った道を辿り倉庫内左側の壁に在る細い通路に入った。
細い通路は奥行き二十メートル弱で行き止まりになっていて、イクサユメは昇降装置と思われる扉の前で立ち止まる。
「専用の読取り機 成る程 この先一般人は立ち入れないわ」
全部で十個の数字と決定キーが並べられた読み取り機。端末を使用する際はカードが必須だが、生憎手元には硬貨の類しか無かった。
イクサユメはその端末から天井へ伸びている配線を目で追い、真横に在った緊急時用の昇降操作盤らしき金属箱を強引にこじ開けた。
内部には出力回路を調整する為の基盤や配線が雑多に配置されていて、蓋の内側に貼られている回路図だけでは何も解らない状態だった。そこでイクサユメは蟲の王に体の主導権を渡し、とりあえず昇降装置を使える状態にしてくれと頼んだ。
「何度も修理や改造を繰り返したようだ 私と入れ換わって正解だったなエグザムよ」
顔見知りの少女を模した細い腕が配電盤に伸びていき、あろう事か基盤と端子を繋ぐ多くの配線を雑草の如く引き抜いてしまう。当然目の前で火花が散って配電盤から焦げ臭い臭いと煙が発生した。
【おい何をやってるんだ王さま!破壊工作でも始める気か?】
エグザムの心の声を無視するイクサユメ。今度は読み取り機に手を翳し、魔導因子を急激に活性化させて発生させた電流を流し込む。
「心配ない この端末を維持するための配電盤だ ここの連中は元の操作端末を外して昇降装置を自動で動かしている 認証装置は初めから特定の電気信号を送る機械に過ぎん」
少女の言葉が終わると同時に目の前の扉が開く。イクサユメは配電盤の蓋を押し込んで枠を歪めてから、そのまま昇降装置に入り内部の端末を操作する。
「せっかくだ 私が炉の場所まで導いてやろう その方がお前にとっても手っ取り早い筈 今の内に駆けつけて来るだろう邪魔者を始末する方法でも考えておけ」
今度は言葉が終わる前に扉が閉まり下降が始まった。すぐさま三半規管が影響を受け体に浮遊感を感じる。エグザムは勝手に動く体と視界に文句が言えなくなり、開き直って関係者との遭遇時に適切な対処法を考える事にした。
魔導聖典。セフィロト建国史を後世に伝える為生まれ変わった正典組織。厳密に言えば宗教組織の類ではなく、古くから独立している政府機関と説明するのが正しい。
星暦七千年初頭に前身となる学術組織から始まった魔導正典を源流と見なしており、各地の聖堂には三千年分の地方史を記した資料が保管されている。
元々探索組合は天空樹の生態と周辺の発掘調査を担う部門を統合させて運営が始まった営利組織だ。世間一般では探索従事者だけでなく天空樹の管理を任された組織と認識されている。特に天空樹に生体接続された導力炉を一括管理しており、保安上の観点からその詳細は長らく機密扱いだった。
イクサユメはその謎多き施設内部に潜入し、現在は導力炉が入っている地下の格納容器前まで来ている。周囲は照明の光が消えて暗く、周囲には今しがた排除した警備兵の半液状化した肉片が散らばっている。
「閉所じゃなかったら危なかった」
天井から落ちた照明装置や電気ケーブル。その他にも警備兵が所持していた魔導銃の残骸が散らばっている。イクサユメは靴底が肉片を踏み潰したり砕けた硝子を容赦無く踏み砕いて前へ進む。
【流石に対人戦闘の専門家でも本物の魔導戦士には分が悪い。随分一方的な作業だったな。】
大きな格納容器へ通じる唯一の横穴の周囲には、先ほどまで棚や道具箱等で築かれたバリケードが在った。今は構造ごと全て砕かれ内部の道具や機械部品が飛び散っていて、作業従事者とは異なる装備を着た警備兵の肉片より多い。
【安心しろエグザム。内部に居る奴は非戦闘員だ。手荒に扱わない限り大人しくしているだろう。】
格納容器自体は湖の水位と同じ位置在ったが、ここへ辿り着くには深く地下へ降りる必要があった。イクサユメは格納容器の出入り口が壁と共に露出している隔壁の前に立ち、一度下りた壁を下から持ち上げ隔壁を開く。
傷一つ無い女物の服には返り血や黒い染みが付着していて、導力路が躍動し地肌の表面に緑色の生体痕が現れると同時に衣服がはためく。
重い隔壁扉を片手で持ち上げている侵入者の少女めがけ、侵入者迎撃用に配置された固定機塊が一斉に火を噴いた。ほぼ同時にばら撒かれた銃弾が少女の数センチ前で停止し、何も無い筈の空間にしばし固定される。
「邪魔だ 消え失せろ」
格納容器内に在る配管や各種計測機器の壁に大量の散弾が跳弾し、内部に退避していた研究者らしき人間達が次々倒れて行く。イクサユメは直前まで垂らしていた右手の指先を迎撃用の機塊に向け、強力な指向性魔導波を打ち込んだ。
四つの機関銃架の中心に在った制御装置がはじけ跳び沈黙する迎撃装置。所詮魔導物質で構築された物は武器でも生物であろうとも、魔導物質のみに急激な分裂反応を引き起こす魔導干渉波からは逃れられない。
イクサユメは歩みを再開させ容器内を見回す。そして隔壁扉から手を放すと、固定装置が壊れた隔壁が自動的に閉まった。
【台座の奥に倒れている奴がまだ生きているぞ。そいつに制御装置の場所を聞いたらどうだ。】
蟲の王が台座と伝えたのは容器内の監視端末だ。その影に頭を抱えながらうずくまり肩を震わしている白衣の研究者が居た。
「導力炉の制御装置の場所を知っているか」
地下に入ってから道や特定の場所を聞くのは何度目だろう。イクサユメはそう考えながら眼鏡を掛けた細身の男の懇願を聞かず、整髪剤で別けられた髪に手を置き頭を掴んだ。
「こ この奥に本体が在る せ 制御装置もそこだ 助けてくれ私にぃ」
最後の生き残りの頭部が爆発し飛び散った脳髄や血液が一瞬にして蒸発する。イクサユメは地下施設に目撃者はもう居ないと断定し、竪穴中心の高台へ上がる階段へと足を進める。
【そう言えばさっき魔導戦士と言っていたな。それは昔の探索業界に有った職種だよな。】
階段を上がるイクサユメに蟲の王は魔導戦士と言われる概念を教える。それは千年以上前、まだ世界中の迷宮で古い探索が主流だった頃に活躍した英雄達の話。現代でも再現がほぼ不可能な驚異的な能力を誇ったとされる特殊な魔導細胞を操る戦士達の総称だ。
【ああ。確か俺が拾った福音戦士の核の一部を肉体改造に使った時も似た様な事を言っていたな。あの時は色んな初体験が重なって混乱していた。】
階段を上がり見えたのは市中の井戸の倍以上在る縦穴と、その金属板で補強された掘削穴から伸びている太いケーブル。そして鎖で吊り下げられたケーブルの最上部に有る制御端末が集まった集積回路だ。
イクサユメは体の主導権を蟲の王に譲り、邪魔な装置を集積回路が入った四角い筐体から剥がす。ここから導力炉の真上に在る探索街上層の建築区画を吹き飛ばせば、瞬く間に連鎖崩壊が始まり探索街の大半が崩れ落ちるだろう。
「よし あいつ等と繋がった 次は炉を内側から破壊する」
蟲の王は天空樹地下の改装空間を伝う導力線を経て、地下宮に居るメルキオルとマギに解放命令を送った。
実はこの導力炉自体は地中の生体回廊に在るマギとメルキオルを操作する為の管理施設で、炉の本体は天空樹そのものだったのだ。
一方のエグザムは水晶体を通し格納容器内に魔法の輪を出現させる準備に集中している。当初マイの話を信じ導力炉の何処かに天空樹内へ通れる秘密通路が在ると確信していたのだが、直接関係者から聞いた話にそんな場所は存在していなかった。
【昔この縦穴深部に物質変換装置の類が在ったんだろう。周囲に断線した天空樹の生体回路が密集している。マイはこれを転移装置だと勘違いした可能性が有る。】
蟲の王が何処かの根から直接熱水を地下区画へ流し始めたらしい。足元から断続的に音と振動が繰り返し伝わって来る。エグザムも負けじと処理を加速させ、ついに天空樹の認証を水晶体に取り込むことに成功する。
【そちらも終わったようだな。此方もマギとメルキオルに計画を伝えたところだ。奴等はお前が失敗したと判断して天空樹の自爆処理を進めていたぞ。】
そうか、と体の主導権が戻ってからそう応えたエグザム。すぐさま理力で形成した不可視の大剣で鎖を全て断ち切り、縦穴内へ落下して行くケーブルの後を追って自らも穴に飛び込んだ。
飛び降りてすぐ、穴の上から汚染物質を含む高圧の水蒸気が噴出す音が聞こえた。少しでも飛び降りるのが遅かったら、一瞬にして蒸し焼きにされていただろう。イクサユメはそう考えつつユイヅキを左手に握って理力を流す。
【まさかその体のままで行くのか。下手するとアーシアの生体情報を誤植されてしまうぞ。】
既に複合弓には緑色生体痕が侵蝕していて、水晶体との接続も終わっている。蟲の王は忠告したぞ言うと回線を切り水晶体に閉じこもり、イクサユメも落下しながら体を丸めて転送に備える。
時が満ち緑色の水晶体が眩いほどの青い光がイクサユメを包んだ。少女の体があっという間に光に包まれ、青い閃光の矢と成って縦穴の下へ消えてしまった。
福音戦士。星暦九千六百年代初頭から世界中で巻き起こった「魔導創世記」を見直す風潮により、当時まで厄災の時代を沈めたとされていた神兵につけられた比較的新しい名前。勿論公式記録では神兵や光の槍の本物が発見された事実は無く、福音戦士の名の起源も定かではない。
イクサユメは虚構世界に転送された時に感じる独特な浮遊感と脱力感に瞼を開けた。
すると自身が逆さまの状態で広い空間を落下しているので、イクサユメは周囲を見回すより先に理力の翼を展開しようとする。
(聞こえるかエグザム。まず体の状態の確認しろ。特にお前の魔導細胞を天空樹が異物と判断すれば強制隔離されるから、必ずこの世界が崩壊する前に縦穴内へ脱出するのだ。)
背中から赤く時計の長針の様な十二枚の翼が展開され、現実世界の衣装のまま硬い平面に降り立ったイクサユメ。背中がやけに軽いので背後を確認すると背中に原初の翼が無い事に気付く。
(残念だが原初の翼はお前が獲得した飛行能力に上書きされたようだ。どの道原初の翼無しでも飛ぶ羽目になるだろう。今の内に慣れておけ。)
消えた翼の代わりに左右六つの羽根らしき十二枚の何かが背中から少し離れた位置で固定されている。直接腕を背中に回し感触を確かめると、白い衣服を素手で触る手応えしかなかった。
不可思議な事に慣れているイクサユメは赤熱色の新しい翼から目を離し、周囲の構造を把握しようと顔を正面に向ける。すると大半が闇に包まれた大空洞と思しき場所に唯一在る存在が目に映った。
「巨人 の裸体なのか 今度はやけに姿が違う」
柑橘系の果実酒の様な色の液面から突き出た巨大な十字架に架けられた巨人。液体から匂う血の匂いにもようやく気付き、少女は蟲の王へ説明を求める。
(既に教えたはずだぞ。虚構世界とは集積した生物の記憶や情報により構築されている補完されあう空間だ。実体は無く虚像同士が溶け合うことで生まれた幻影にすぎん。そしておそらくこれは最初に天空樹の養分に成った魔導生物達か、厄災時代の面影を知る者の記憶だろう。しかしここまで正確に残っているとは驚くべきに値する。)
エグザムだった頃に不浄の地を歩き回った際に見つけた福音戦士とよく似ている巨人。頭部や胸部の外装が外され巨大な魔核らしき赤い核が胸の下に見える。両手と両肩に杭を打たれ赤い十字架に貼り付けにされているが動く気配は無い。
(かつて魔導生物は本物の神と対峙して自らが出来損ないの存在を悟り自滅した。これはその存在への畏怖と恨みや妬みの残滓が形作った幻想だ。お前もその一端をマギから見ている。せいぜいこう成らぬよう気を引き締めろ。)
イクサユメは引き裂かれた外装の断面から目を逸らし、背後から来るものへと向き直った。
「その神と争った別の神 一体どちらが勝ったのかしら そもそも勝者が残るとは限らないのに さぁ出て来いユイヅキ」
瞬間、意識重ね展開した不可視の剣。僅かに振動だけが柄を握る左手から発生していて、イクサユメは広い床を歩いて来るものへと駆け出した。
僅かに赤い床が見える空間へ視覚補正を使い闇を除く。すると広い空間内に見える一つだけの入り口から多くの人影が空間内へ流れ込んでいる。イクサユメは探索者らしき影に映った自身とは違う生体痕らしき幾何学模様を注視した。
「一体につき数秒 落ち着く暇は無さそうね」
イクサユメは視界内に捉えた先頭の探索者らしき影へ左手を振るう。放たれた理力の刃は人型を斜めに裂き真っ二つにする。
それが開戦の合図となり、多くの探索者モドキはおのおのが持つ武器や魔導具で攻撃を開始した。勿論繰り出される集団攻撃は統率されたものでなく、規模だけなら連携技による魔法演舞の方が勝っている。
消えかかった電球の様に淡く輝く探索者モドキ達の生体痕がまた一つ消えた。イクサユメは人知を超えた目にも止まらぬ速さで左腕を振るい、出口へ走りながら進路上に居る敵を攻撃ごと切り刻んで行く。
(啓示機能が倒した敵の情報を受信しているが、以前の様に自動受信するよう切り替えた方が良いか?)
ユイヅキで打ち出す矢より早い不可視の刃がまた探索者らしき装備の人形をせん断した。イクサユメはその作業を繰り返しながら蟲の王に告げる。
「いらない そっちで適当に処理すればいい」
イクサユメは数十メートル離れた位置に居た女性型の鎧を纏う集団を切り倒す。どうやら淡く輝く生体痕を修復不可能な状態まですると、手に持っていた様々な形式の魔導具が破壊されない限りその場に残るようだ。
「邪魔だ 邪魔邪魔ぁぁぁ」
出口に近付くにつれて足元に落ちた魔道具や装備品を踏んでしまう。興味を惹かれないので素通りしようとした時、イクサユメは背後で発生した魔導波長に振り返る。
体を軸に腕を回し振り返り様に復活した敵に刃をぶつけた。今度は魔導銃型の魔導具も両断され、色を失う生体痕と同様分解され消えていった。
(敵の名前は第十一天使寄生型。脅威指定されていた霧の使徒だ。あいつ等の介入が始まって霧が出ているのだろう。時間が無い、こんな所さっさと突破してしまえ。)
聞いた事も見た事も無い相手を迷わず次々切り捨てるイクサユメ。自然と出た口調が誰かに似ているが、扉が無い出口を通って地下通路を走る。
地下通路は遺跡内の構造物を模した作りで、削った岩盤層が剥き出しの坑道を最低限整備して狭い足場が構築されている。イクサユメは人工石材と簡単な渡し橋を走り地下道の出口を目指し、崩壊層の坑道を走った。
やがて地下坑道の広い場所に出たイクサユメ。周囲を見回し発見した簡素な造りの昇降機械に飛び乗った。
「いちお機械は生きてるらしい 虚構世界の中心はまるで遺跡の様な場所だな」
イクサユメは昇降装置の端末に触れず、背中から翼をだして昇降軌道が在る縦穴を一気に上昇して行く。特に目まぐるしく変わる地層には幾つもの岩盤層が在り、相当深くまで掘られた場所だと一目瞭然だった。
昇降軌道は天井が人工石材で塞がれた露天掘り空間と繋がっており、イクサユメは一瞬地上に出たと勘違いした。すぐに気を取り直して周囲を調べると、特に強く明るい光を放つ照明具が照らす位置にトンネルらしき穴を発見する。
「ほんとに蜜の花に近付いてるのか判らない それと外の崩壊状況は確められる」
蟲の王はチグハグなイクサユメの言葉を無視し、イクサユメの視界内に大きな地図情報を提示した。
その地図は断面化された階層情報だけで現在位置は地下二層の最下部だった。イクサユメは飛行状態を維持しながらその穴の中に飛び込み、トンネルの内を飛行して移動する。
(やはり天空樹の基礎と成った衛星構造とは違うな。だいぶ様変わりしているから私の情報も頼りにならんだろ。ここから先はお前の探索者としての勘だけが頼りだ。)
地下壕の様なトンネルは大小の通路構造と融合して枝分れしている。まるで都市の配水管の内部を飛んでいるような感覚と同じで、狩人時代に養った方向感覚がいつ狂い始めてもおかしくない。
そこでイクサユメは探索者が持ちえない理力を使い血路を拓こうと決めた。翼を背中で折り畳むと十二枚の翼が小さく縮み背中の後ろへ隠れ、そのまま緩やかにトンネル地面に着地した。
蟲の王は虚構世界で大規模な理力の行使が危険だと言う。最悪仮初の肉体にも影響が出るとも言い、イクサユメに再考を促した。
「そうね 俺も体が戻らないと困る でも今はバルタザルの監視が緩くなってるはず 多分こんな事は今だけしか出来ない筈よ」
イクサユメは両手を頭上に翳し、直接虚構世界の構築情報に自身の啓示機能と経験を接続させた。
膨大な情報が頭を駆け巡り思考が何度も断絶する。自身の僅かな領域と繋げただけで掛かる負荷に圧倒される。しかしイクサユメと一心同体の蟲の王も処理に加わり、旧管理者時代に製作した隔離領域に余剰負荷を逃がす。
見上げている灰色の天井の一部が消失していき、丸い穴を形成すると其処からどんどん地上へ空間が広がって行く。掘削機を用いず縦穴が上へ真っ直ぐ伸び続け、そのまま第一階層の最下部の空洞内と繋がった。
(これでこの中心部の崩壊も早まったことだろう。もう無茶は出来んぞ。)
再び翼を広げ縦穴を急上昇した結果、第一階層に到達する事ができた。第一階層は地中とは違い建物内で、比較的広い空間が高所に見える天井まで続いている。建造物内に別の建築物が入っており、イクサユメは柱と化した大きな住居棟を間をそのまま上昇して行く。
(どうやらあの錬金術師が言っていた話はあながち間違いではないようだ。あの根は花の根と言うより座標固定用の基点に成っている。このまま花の下から縦穴内に転移できるかもしれん。)
蜜の花下部の茎から建造物内に根を張り巡らされていて、本来天井か上部区画が在るべき場所が崩れ去っていた。イクサユメは直上に見える根の天井の中心に開いた穴らしき場所へ一直線に飛んだ。
(今頃になって下町から退避指令が発せらたか。もう直この場所も閉じる、この私が扉を開けてやるからこのまま突っ込め。以上、通信終わり。)
原初の翼を吹かす要領で魔導因子を活性化すると、背中を基点に物凄い上昇力が体を圧迫する。流石に現実世界の様に理力による精密な制御は出来ないので、イクサユメはそのまま蜜の花の内部へ突っ込んだ。
再び視界が暗転し脱力感が肉体を包む。虚構世界から出る際に本来なら聞こえない悲鳴の様な金切り声が一瞬聞こえ、イクサユメは虚構世界の崩壊が始まったと理解する。
そのまま魔法の輪からはじき出され体が宙を舞う。瞬間的に生体痕が空気中に含まれた高濃度の汚染物質を感じ取り、イクサユメは素早く理力の浄化障壁を張ると同時に周囲へ理力干渉波を巡らせた。
【喜べエグザム。この場所は旧移民船の最上部だ。ここからなら上の死都まで数分で着くだろう。】
イクサユメは見覚えの在る緑の構造物と光に包まれた縦穴を見下ろし、落下を止める為背中の翼に理力を送る。たちまち原初の翼が青い火を噴き、そのまま磁場に干渉する虹色の羽に変わった。
「これが遺跡 少し形状が違う縦穴にしか見えない」
天空樹の血管と水管を分けた壁と螺旋階段。以前昇った際は壁から伸びた単純な螺旋構造だったが、今回は中央の縦穴にも内壁らしき構造物が見える。
【成長に従い下の本体から切り離された区画だ。おそらく探索組合はこの場所に刺客を転移させお前を探させたのだろう。また奴等が来る前にこの遺跡の何処かに在る基点を破壊しろ。そうすれば我々を追う事は出来なくなる。】
イクサユメは翼の推力を調整し通常の体勢で緩やかに落下して行く。昇降軌道を高速で下りているような光景を前にしても、背中と体内を巡る理力により三半規管は反応を示さない。
落下しながら足元へ視線を移したのと同時に、魔素を介し物体を透過する干渉波が下から上がってくる物体を感知した。数は全部で三つだが一つは人間の十倍近い大きさで、イクサユメはその形状に見覚えが有った。
【浄化天使。魔導物質を含む資源を有翼人が回収するために作り出した生物兵器。解っているなエグザム。あれが機能している理由を探る前に、今度こそあれを破壊しろ。】
体を水平に倒しユイヅキでふさがった左手の代わりに右手を目標へ向ける。狙いは鳥の翼を纏った姉弟の機動兵ではなく、その下を追随している巨大な魔導人形の胴体だ。
「今度は立ち位置が逆か ほんと奇妙だ」
イクサユメは右手から緑色の粒子線を放ち、丁度大きな胴体の中央に在る頭部から魔導砲を撃とうとしていた浄化天使を貫く。頭部に埋め込まれた目の代わりでもある魔導レンズが蒸発し、頭部ごと胴を穿たれ機能停止した巨体が落下し始める。
【組合側は秘密裏にあれを解析したかもしれぬ。手加減するなエグザム。もし残った人工天使の方が厄介なら私が換わってやる。】
イクサユメは下から音速を超え照射された赤い熱線を理力の盾で逸らす。鏡や凸レンズの要領で照射光を曲げただけなので、拡散した赤い光線が周囲の螺旋構造や側壁に幾重にも穴を開ける。
【回避に集中したい、守りと向こうの射線予測に徹してくれ。一度高度を稼いでから急降下する。おそらくあの槍ならこちらの守りを突破できるだろう、俺の体に刺さる前に向こうの強化外骨格を破壊する。】
蟲の王から視覚に送られてくる情報量が増し、赤い線の延長線が頭上の縦穴へと伸ばされる。イクサユメは線を頼りに飛んで来る熱線を回避しながら縦穴を急上昇し始めた。
様々な感覚から原初の翼が限界まで翼を展開しているのが解る。体にかかる負荷が生体痕や内側の導力路の流れを阻害し障壁の維持が困難になった。
イクサユメは数秒で下方から追いかけてくる知り合いから一キロ以上距離を離した。丁度魔導因子の活性化率が低下し始めたところで上昇をやめ、今度は推力方向を下に向ける。
落下速度が加速度的に速まり、見る間に過ぎて行く螺旋構造に落下している感覚が薄れて行く。狙いは槍を伸ばし魔導砲を収束させている機動兵の背中に有る正体不明の飛行装置。イクサユメはユイヅキの端に理力の後退翼を展開し、回転動作を以て落下速度を速めた。
【全ての制御能力を障壁に費やせ。落下制御は俺がやる。】
イクサユメは進路上から視界を埋め尽くし放たれた薄緑色の極光に飛び込んだ。当然、理力障壁が魔素を吸収して粒子を即座に無効化しながら磨り減り始め、落下速度も少しずつ低下する。しかしエグザムは螺旋構造同士を重ねた槍を素通りして光の渦から出た瞬間、ユイヅキの片側先端を近付け理力の刃で二体の機動兵を切断する。
青い閃光が視界を埋め尽くしイクサユメの目が一瞬眩んでしまった。直接触れなかったので手応えは無かったが理力制御に影響は残っていた。
イクサユメは落下軌道を変えて穴だらけの螺旋構造に体を滑り込ませ、そのまま壁の側面を旋回し遠心力で体を強引に上に向けた。すると丁度青い塗装と槍先の様な角が特徴の機動兵が落下してきて、その残骸と一緒に落下する一本に融合した槍も見える。
イクサユメは装着者を脱出させる為に自動解除された強化外骨格の頭部にホモリスの顔を確認した。両目を閉じ口を半開きにしていたが、死に顔は穏やかな部類に見えた。
【ほうほう。今のは間違いなく有翼人だ。翼を失った旧支配者の子孫、おそらくあの戦いで穏健派だった一派の生き残りだろう。なんとも懐かしいな。】
強化外骨格五と胴体を斜めに両断され落ちていったホモリス。汚染物質により一瞬にして細胞が死滅したのだろう。イクサユメは姉を庇って死んだ者に表情を歪める。
「ここでは身内も仲間も平等に死ぬ 次は貴方よユイ」
衝撃から体勢を整えてから降下して来る黄土色の機動外骨格。鳥の様な羽を羽ばたかせ右腕にナイフらしき幅広の長剣を握っているが、弟と主兵装を失った所為か挙動が早い。
「貴方誰 何故アーシアの姿をしているの」
ナイフで切りかかってくるかと思えば、ユイは頭部の単眼から魔導銃程度の微細振動を放ってきた。その攻撃は槍から放たれた熱線の数分の一程度で、はっきり言えば脅威でも何でもない。
「敗者は大人しく勝者に従いなさい ここで引き返して追って来ないのなら見逃してあげる もうすぐ大木の寿命も尽きるし下の街も沈むでしょうね 脱出するならこんなところで話ている余裕なんて無いわよ」
縦穴内を緩やかに上昇しながら互いに一定の距離を離し旋回している両者。そのまま見つめあいながら時間だけが過ぎようとした時、蟲の王がイクサユメに有益な情報を提供する。
【私の記憶情報が正しいのなら有翼人の心臓には飛行液を活性化させる為の生体器官が備わって居る筈だ。翼を捨てた一族の子孫でも退化していたのなら肌の色素が濃くなる筈。もしかしたら奴の心臓から飛行液用の魔導液を確保できるかもしれんぞ。】
イクサユメはその情報を全て聞く前に右腕を結いに向けた。人差し指でユイを指す動作をしながら理力を指先から放出し、強化外骨格をそのまま磁力干渉壁で覆った。
「諦めなさいユイ・ナギサ ここではウラヌスも助けには来れないから」
水蒸気の渦に身体を拘束されもがき苦しむユイ。イクサユメへの言動から自身を装備ごと拘束している存在の実在に驚いているようだ。
「や やめなさいこの変態 アーシアの真似をするのは構わないけど こんな所で私に乱暴する気ぃ 離せ変質者ぁ」
イクサユメは普段表に出さないユイの叫びを聞いて気分を良くする。そして少しだけホモリスが理解できた様な気がした。なのでそのまま手が触れる場所まで近づけてから装備を剥ぎ取ろう考えたが、突如下方から急速接近して来た物体に集中が途切れてしまった。
【新手だエグザム。別の機動兵が来たぞ。】
ユイの電磁拘束が解かれる際にユイを飛翔体の進路へ投げたイクサユメ。次から次に変わる状況と残りの飛行液を考慮し、翼を吹かせ縦穴内を急上昇し始めた。
【これ以上時間をかけるのは得策ではない。新手が追って来るか確めるついでに、このまま死都の魔宮まで一気に昇るぞ。】
視界内に表示された高度数値が五十キロ以上に達していて、少しずつ認識限界へ近付いている。もし天空樹が正常に生長していたのなら頂上は八十キロ地点を越えていたはず。たとえ成長が鈍っていても超巨大樹の先端は間違いなく中間圏の只中だ。
高度が上昇するにつれて気温が急激に下がり始めた。幾ら低音環境でも問題なく行動可能な体でも、表面の生体痕の活動は少しずつ低下していく。イクサユメは体を不必要に動かさず冷える体を気にせず飛行に集中する。
【そろそろ地上との認識領域が離れるぞ。バルタザルの結晶魔宮が都市の残骸を改造しているから到達以降の補助は出来ん。最悪自力でカスパーの核を探す事になるだろう。くれぐれも慎重に裏口を通ることだ。】
高度が六十を越えてから観測数値に変動が止まりだし、それからたった数キロ上昇しただけで地上から流れる魔素を一切感知出来なくなった。更に上昇を続けると縦穴の先に天井らしき行き止まりが見え、減速し始め地上の遺跡から切り離された最上構造部の基礎に到達する。
縦穴内の螺旋構造と壁を生み出す装置らしき掘削盤のような外蓋で天井の大部分が塞がれてる。唯一通れそうな場所は螺旋構造帯の末端の先で、其処だけ人が通れるだけの隙間が在った。
イクサユメは迷わずその隙間に進み足を着けず暗い空間に視覚を適応させる。すると空の巻貝を再現したような道が見え、螺旋構造らしき未成熟な枠の末端と繋がっているようだ。
【此処で間違いない。あの道を進めばすぐに中間空洞内へ出れる。後は内部の螺旋階段を昇って減圧室を出れば死都内部出れるはずだ。問題は何処まで元のままかだが。】
イクサユメは指示に従い超巨大な巻貝の殻の様な空洞を進み、上部に開いている穴から顔だけだし頭上に広がる暗闇を調べる。
【空気が暖かいし汚染物質も少ない。法都の管理中枢存在だった例のバルタザルが管理しているからか?】
熱量と魔素を介し視覚野に反映された情報から構造及び分子密度を整理する。すると暗闇の中に白い螺旋階段の影が浮かび、金属製と思しき軽量合金で造られた天井も見えた。
イクサユメは良く滑りそうな構造物に一切触れる事無く穴から飛び出て、そのまま縦穴中央を天井目掛け上昇した。天空樹体内の縦穴と違い遥かに低い天井には階段と繋がる出口が在り、イクサユメは螺旋階段の最上部辺りに着地し歩いて扉の前に向かう。
「熱はこの向こうからか 魔宮とやらは入ってすぐ火傷する様な場所じゃないよな」
イクサユメの独り言に蟲の王は問題無いと律儀に返し扉を開けるよう誘う。丁度目の前の扉には見た事がある開閉用の回し手が有り、やはり手で触れると暖かかった。
回し手を回し扉の拘束を解除したイクサユメ。そのまま扉を押すと隙間から白い光が差し込んできて、片手で目を覆いながら隔壁扉をくぐる。
内部の天井には光る宝石にしか見えない結晶が連なる様に垂れ下がっていて、錆びた青銅色の極めて平面的な床に光を反射させている。イクサユメは天井の光る結晶が鏡の如く映っている床を見下ろしながら室内に入った。
【まるで破砕層の真下に居るような気分だ。結晶が天井を貫いて根の様に伸びてやがる。】
理力を用いなくてもそれらの結晶が魔石を凌ぐ大量の魔素を内包している事が解る。特に結晶同士を繋ぐ血管の様な光の線にはとても見覚えが有り、イクサユメは生きた結晶体を見上げながら床を歩く。
【そうだ。これが結晶化した鉱物生命体だ。汚染物質を取り込み魔導物質に変える強力な浄化存在。いや穢れを喰らう者と言うべきか。】
イクサユメは擂り鉢状に傾斜した壁に在る階段を上がり、広い円形会場の様な場所から空間内外縁に辿り着いた。壁の内部に在る通路にも結晶体が侵蝕していて、殆どの道が塞がっていてとおれそうにもない。
【くれぐれも触れたり破壊せぬことだ。今のお前では触れただけで取り込まれるからな。】
外縁部の周回通路を歩き外へ通れそうな道を発見したイクサユメ。最後に舞台より派手な照明が七色の光を発する天井を見渡し、去り際に光景を水晶体に記憶させた。
死都はバルタザルではなく植物生命体であるカスパーに制御されていた。本来なら遠い東の地に在る鉱山都市付近の遺跡がバルタザルの居城なのだが、天空樹に最初に統合され人の手から離れてしまった存在だ。
通路の壁や天井から生えた結晶の塊を何とか避け、探索街で見かけた樹をくり貫いたような通路を進んだイクサユメ。不用意に理力を使うと結晶体の魔素を刺激してしまうので、探査が使えない代わりに自らの足で脳内に地図を書き込んでいる。
時間は数十分も経過してないが都市跡らしき場所に出れる気配が無い。そこでエグザムは何処に在るか判らないカスパーの捜索を中止し、一旦外へ出て態勢を立て直そうと決めたのだった。
【この先だ。おそらく外縁の下層街に通じているはず。】
黄色く色褪せた人工石材の通路を進んでいると、曲がり角奥の壁に日光が差し込む場所を発見した。イクサユメはその場所に駆け足で辿り着き、崩落箇所から通行不能となった元地下道の下を覗く。
「わぁ 区画ごと抜け落ちてる これだとこの先を歩くのは危険だな」
天空樹の上部を覆う雲に偽装された結界が足の下数百メートルの高さに在る。周囲には天空樹から伸びた若い枝と区画の残骸に蔓延っている蔓草が散らばっていて、吹き込む風が生暖かい。
【長い年月で基盤の一部が崩れてしまったようだ。本来なら天空樹の成長を管理する最重要区画として頑丈に設計された場所なのだが、やはり形ある物は管理していた者が居なくなると崩れていくものだな。】
蟲の王の悠久の年月を感じさせるお言葉に同意を示し、イクサユメは原初の翼を起動させた。ここから飛び出し外から死都の全貌を把握して、目的のカスパーの位置を時間内に探り当てなければ成らない。
翼の起動を待ってから空へと飛び下りたイクサユメ。重力に引かれ落下するが、翼の揚力はいとも容易くイクサユメを大地の縛りから解き放つ。
【今更だが伝えておこう。もし途中で飛行液が無くなって下の雲に落下したら、お前は気流の層に届く前にバルタザルの結界に焼かれて死ぬ。大地に死体が横たわる事は無い。】
イクサユメは蟲の王の忠告を無視し偽りの空中都市の残骸や廃墟を縫う様上昇していく。高度を上げても肌寒さや空気の薄さは無く、都市の空調は今も機能しているようだ。
下層部の埠頭らしき場所から更に上昇を続けていると、巨大な複合住居棟の様な積層建築物の上に大きな蕾らしき物が見えるようになった。その蕾の体色は空の色と同じ色なので距離が遠いとぼやけて見える。イクサユメは直感に従いその場所へ向かおうと進路をやや前方へ傾けた時、蟲の王が枝に破壊され崩れかけた外縁区画から上がってくる物体を発見した。
【縦穴に現れた新手と他三体が右下方から来ている。今解析しているところだが向こうの方が早い。何処か闘える場所を探せ!】
エグザムは上昇を中断して姿勢を変えると、滑空体勢のまま都市中心に聳える巨大な積層建築物に向かう。その間にも偽装雲を生み出す結界を背景に下方から四つの飛行体が接近し続けている。
【そんな馬鹿な。守護天使は龍戦士達の手で全て破壊されたはず。何故あれが動いているのだ!? もしや何者かが地下を掘っていたのはあれを掘り出す為だったのか? あの者達は一体何の為に闘ったのだ。これのままだとまた厄災が繰り返されるかもしれん。】
イクサユメも視界に入った三つの異形と一つの人型を視認し、水晶体内の仮想空間で活発に情報を廻らす蟲の王に解説しろと忠告する。特に蟲の王は三つの異形に対し怯えているような感じだ。イクサユメは守護天使とは何かと改めて問い正した。
【いとことで言えば、浄化天使の親玉だ。複数の種類が存在しその中の二種がお前が倒した怪物を直接生み落とす。あの三体は兵器生産型では無いが、飛行種である以上危険性は同じだ。】
異形は騎乗生物程度の大きさから、数階建ての建物に匹敵する大きさ含め形状も別々だ。最も大きい個体は粘菌生物が二枚一対の翼の様な形状をしている以外生物らしさが無いし、最も小さい個体は謎の幾何学模様を浮かべた空飛ぶ球体だ。白い人型の機動兵に心当たりがあるイクサユメは、最後に最も接近している生物の化石の様な守護天使を観察する。
【お前も気付いたか。あの背骨と羽根に魔導核を埋め込まれた骨頭が唯一不完全な状態だ。あれの完成形は元から急造品だったから数も少ないが、あの中で最も手強い存在に変わりない。何せ奴の魔導砲は龍戦士の装甲を削る威力がある。今のお前では掠っただけで体組織が壊れるだろう。機動兵の魔導砲と同じ様に全力で避けろ。】
イクサユメは滑空し蟲の王の説明を聞きながらも、最も離れた崩壊地区の上を飛んでいるウラヌスを見続け、白い甲冑の背に大気圏外用と思しき大きな推進装置を担いだ敵と視線を合わせ続ける。
(図鑑でしか見た事が無い装置を担ぎ出して来たのか。おそらく縦穴の壁に穴を開けて結界内に入って来たはず。最初は従えている魔物でこちらの動向を探る心算だろう。)
積層構造を成し外側へ張り出した足場に着地したイクサユメ。わざわざ空を飛びながら戦う必用は無いと判断した彼は、そのまま植物の楽園と化した旧住居街へと姿を隠す。
【死都は設計当初から崩壊前提で想定された新しい部類の都だった。特定の能力に長けた者だけを住人と定め、汚染世界と化した地上と浄化装置の監視役として原初の翼を与えられた者達によって築かれた偽りの楽園。およそ千年と二百年の永きにわたり地上を支配した者達は、天空樹の成長の為だけでなく地上から回収した魔導物質を生活環境の向上に役立たせた。この植物も元は観賞用として遺伝子配合された種らしいが、これらは狭い楽園で確固たる地位を気付こうとした有翼人達の努力の結晶でもある。】
肥大化した観葉植物達は、白い人工石材により構築された迷路の至る所で色とりどりの花を咲かせている。かつて住人が行き交っていた通路や橋等は必ず住居の一部を土台としていて、朽ちた扉を養分に花が咲いていた面影も残っている。しかしイクサユメは有翼人達の歴史に意識を向ける事は無く、唯一手中に有るユイヅキで守護天使とやらを迎撃する場所を探していた。
【守護天使は生物兵器なんだよな。もし操り方が有るのなら教えろ。場合によってはあの白い機動兵から先に仕留たい。】
自らを探しながら積層建造物の周囲を旋回している守護天使。イクサユメはそれ等の説明を聞きながら一つ階層を上がって、階段状に連なった建物の屋上付近を迎撃場所を選んだ。そっと手を伸ばし植物の蔦で覆われた石造りの手摺から空の下を窺う。
【生体同調式の結晶回路。今で言うなら対となった結晶体と合成魔核に魔導因子の活性波長を読み取らせ維指示を送っていた。もっとも現代なら別の方法でも操作可能だろうが、範囲が広いから妨害は難しいだろう。今は一撃で弱点を破壊する事だけ考えていればよい。手駒を失えば向こうも慌てるにちがいない。】
イクサユメは蟲の王の情報を信じ三体の守護天使の能力を鑑みて仕留める順番を決める。
(鳥型粘菌体は寄生爆弾。幾何学球体は魔導妨害。そしてあの骨型翼獣は空飛ぶ魔導砲台。この場所ならどんな攻撃だろうと耐えれるはず。まずはあの球体から破壊しよう。)
実は三体とも死都ではなく、当時浄化勢力に加担していた魔都カデッサで造られた生物兵器だ。蟲の王曰く、浄化戦役で地上勢力掃討用に造られた守護天使には必ず核となる部位が存在し、この部位を破壊すれば体組織や構造組成が自然崩壊すると教えていた。
イクサユメ他の二対が離れた隙を見計らい、テラスの様な場所から飛び降りて自由落下しながらユイヅキを斜め上方の球体に向ける。そして黒地に赤い光を発する幾何学模様の中心へ狙いを定め、崩壊した遺跡の瓦礫に衝突する前に理力の矢を放った。
水晶体と自身から抽出した魔素が空気中の水分や分子組成と干渉し発生した水蒸気の線が目標へ突き進む。イクサユメは命中軌道を確認すると直に翼を起動させる。
【見事な腕だ。思考演算の補助無しでど真ん中を貫くとはな。この調子で残りの制御核を射抜いてやれ!】
針葉樹の先端部に近い枝と同様、天空樹最上部の枝は短い。その短く細い枝が辛うじて死都の中心部を支えている訳だが、イクサユメは崩壊した外縁基礎の残骸かが死都の中心へ向かうよう飛び上がった。
【向こう連携しないよう隠れながら仕留めるから位置情報を追跡してくれると助かる。】
蟲の王の同意を取り付けたイクサユメ。そのまま最初に飛び下りた崩壊区画を素通りし、中央の多層建造物を外側と隔てる外壁基部にまで上がった。すると頭上に見える分厚い石材の壁に鳥型に近い輪郭を有す何かが映り、頭上の構造物が僅かに振動しているようだ。
【菌糸生物を模した分身を投下し始めたか。投下された個体には擬態能力と自爆機能が有る。このままだと逆に追い詰められてしまうぞ。】
イクサユメは並んだ柱に支えられた円環状の外側通路の内側に沿って飛び、遺跡へ爆撃続けている鳥型粘菌体の進路に先回りした。下から見上げると青黒い空に浮かぶ白地に赤系の紋様を浮かべた渡り鳥が見え、埠頭か桟橋らしき突出部が並んでいる中央建造物の外壁を昇っていく。
【注意しろ。たしかあれの制御核は体内を移動する分離型だ。本体ごと分裂される前に頭を落とせ。】
粘菌守護天使へ急上昇中のイクサユメを発見した鳥頭の化石翼獣。緩やかに旋回下降しながら魔導砲撃ち始める。浄化天使の連射型魔導砲を強化した青色光線が体の傍を掠め、壁を削り部材を粉塵に変えた。
横へ飛び回避中のイクサユメは蟲の王が警告した威力を目の当たりにし、直感的に背後を見せた瞬間射ぬかれると悟った。そこで植物の種の様な黒い大玉を体から分離させている粘菌体の進路を通り過ぎてから再度上昇を始める。
【何て小さな核だ。本当にあれで巨体を動かしているのか?】
イクサユメは大きな胴と翼に不釣合いな小さな頭部らしき突起を見上げ、その鼻先の中心へ向けたユイヅキから理力の矢を打ち出す。
比較的近距離から放たれた矢が制御核に命中し、粘菌体の体が急激に膨張してゆく。蟲の王は爆発圏内から急いで離れろと警告するが、イクサユメは理力の障壁に力の全てを集中させ巨大風船に突っ込んだ。
実が弾けたとでも言うべきか。それとも噴出した可燃性のガスが火に触れ誘爆したのか。やや歪んだ乳白色の大玉が爆発し熱と衝撃波が都市の残骸を襲う。
【翼の筐体に皹が入っただけで済んだか。しかし魔素の残りが危うい。この一撃を逃すなよ。】
爆発の衝撃波と熱膨張による大気噴流を理力障壁で強引に推力に変え、砲弾の如く高空に居る最後の守護天使へとんで行くイクサユメ。衣服の端が黒く焦げている以外体に傷は無い。
爆炎と水蒸気の煙を突き抜け迫ってくる敵に対し、翼と胴体下部に見える水晶レンズから青い光線が放たれる。完全な状態では無いにも関わらず精度は良好と言え、イクサユメは魔導因子を限界まで活性化させて生体痕から直接理力障壁を放出し獲物へ右手を伸ばした。
(自分の武器でその身を焦せ。)
青色光線は対象が展開した偏光レンズに命中して跳ね返り、乱反射した一部が左の翼を切断した。既に破壊された二体の中間に位置する大きな体が揚力を失い、首筋に張り付いたイクサユメを乗せて落下を始める。
「準備は出来てるな 吸い出すぞぉ」
イクサユメは背骨を形成しているむき出しの脊椎に腕を指し込み、守護天使の魔素を抜き取るついでに理力で頭を落としてやった。とうぜん重心が変わり体を制御する部位と切り離された翼獣はきりもみ状態で自由落下を始めた。
【損失分の三割弱が回復したが年代物の魔導液だから熟成を越して腐っていたぞ。不味いのではないか?】
イクサユメは体が熱くなり吐き気を伴う倦怠感に眉をひそめる。蟲の王は只の過度な防疫反応だと伝えたが、生身の体を担当しているエグザムには苦い経験となった。
「とりあえずウラヌスは遺跡に引き込んでから対処する 向こうも俺との決着を望んでいるようだしな」
イクサユメは原初の翼を吹かし大きな亡骸から離脱、そのまま落下軌道から水平状態へ移行した。次の狙いはカスパー本体の捜索か、それとも白い甲冑を纏う座長との決着を終わらせなければ成らない。
【おそらくあれは魔導液を用いない圧縮燃焼式の推進装置で飛んでる。随分高い所まで飛べるらしいが、複雑な構造で整備が難しいと図鑑に書いてあったな。】
守護天使との戦闘中は傍観を決め込み離れた枝の上部先端で観戦していたウラヌスだったが、都市側面と下層遺跡の一部を巻き込んだ爆発の影響で一度結界域近くまで吹き飛ばされてしまったらしい。今はイクサユメより先に都市内の積層建造物を目指し飛翔している。
【まさか原初の翼が劣っているとでも言いたいのかエグザム。お前の背に在るのは古代文明の技術集大成でもある翼だぞ。比べきは翼ではなくお前とあの機動兵の方だと思うが。】
ウラヌスが纏う白い装甲甲冑式の強化外骨格。本来は装着者の動作を補助し強化する為に造られたものだが、古い装いは完全に背が高い甲冑兵士だった。
イクサユメは二本の筒状の推進器を背中に装着した白甲冑が、都市の居住区である積層建造物の最上部に着地するのを見届ける。距離はまだ数百メートルも残っていて強化された視覚を拡大させねば姿を見失ってしまう。それでもイクサユメは白甲冑が高所広場らしき場所で背中から推進装置を切り離したのを目撃し、ウラヌスの目的を推測する。
【ウラヌスも神の実であるカスパーを狙っているらしい。それとも探索部を支援した裏の組織や知恵の葉が天空樹再生を諦めきれず賭けに出たか。まぁ俺の邪魔をするならホモリス同様すぐ殺そう。】
エグザムにとって福音の翼に入部したのは正解だったのか、本人は私と暮らしていた時もその答を見つけ出せずにいた。私は若者が人生を迷うのは特権だと考えているし、彼には成すべき事が有り未来を掴む意思も在ると知っている。本人は大人達の計画に興味が無い様で、終始私の事業に直接参加するとは言わなかった。
守護天使。第一次浄化戦争に浄化勢力が投入した都市防衛を兼ねる地上掃討用の生物兵器群。現在では各地資料館にて化石化した骨格や体組織の一部が保存されているだけで、外観を残した残骸等は残されてない。
口伝や資料媒体によれば、全部で十八種が製造され総数二千を超える数が戦場に投入されたらしい。一部の化石資料に製造所と番号を識別可能な文字記号が彫られていて、当時から大量生産施設が使われていた証拠されている。
現存する資料が少ないのは後年の探索行為により死骸が解体されたのが原因で、他国の資料館にも守護天使をの一部とされる化石が保存されている。
第十話「神暦への帰結」
天空樹頂上に在る大きな蕾。この蕾は遺跡の中心に聳える天空樹の先端でもあり、同時に結晶宮たるバルタザルの魔宮によって隔離された場所だった。
イクサユメはそうとは知らずウラヌスを追って遺跡内に入り、一時的に理力や魔導因子を封じた状態で積層構造の居住区を抜けた。遺跡の大部分は生体結晶に蝕まれていて、枯れる前の植物ごと内側の居住棟を覆う大結晶へ白甲冑の足跡が続いている。
【そうだとも。あの戦争は原因が当事者達の手の届かない場所に有った事で悲惨な結果に終わった。お前が言う深緑の森こそが花の都で間違いない。結果的に途中で天空樹を離れた者達が不可能な計画を完遂したのだ。都市から逃げのび各地に散った者も途中で加わったのだろうな】
死都の中心に在って全てを頂く王の座。その場所は結晶化した植物の階段を登らねば辿り着けぬ高所に在って、文字どうり天井の巨大な蕾から鎖の様な根で吊るされている。王の居城へも昇降用の階段は無かったが、遺跡内中心部から原初の翼を日常的に使用していた有翼人の風習を感じ取れる。
イクサユメは砕かれたそばから再生を始めている七色の結晶階段を登り、先に元制御塔を登った白甲冑を追っている。ウラヌスと思しき先導者はエグザムの視界に自身の姿が映るよう歩いていて、あからさまに着いて来るよう誘っていた。
(あの野郎。俺が罠を警戒すると解ってて遊んでやがる。敵にすると腹が立つやつだな。)
周囲で弱い七色の光を発している結晶に神経を尖らせた結果、若干機嫌が悪いイクサユメ。それでも声を張り上げたり居場所を感知される様な物音を発てないのは狩人の矜持が許さなかったからか。
間も無くしてイクサユメは魔宮と同化した王座へ登りつめた。玉座は元々天空樹樹の生体組成に手を加えた代物だったらしく、大きな白結晶に埋まっていてかつての面影は無い。
「その弓 やっぱり君だったんだねエグザム 大人しく着いて来てくれてありがとう」
拡声器越しとは思えない程ノイズが少ないウラヌスの声に耳を傾けるイクサユメ。まだ相槌はおろか返答も返さない。
「マイさんから聞いたよ 君が適格者として最適だとようやく判ったそうだ 君の魔導因子は天空樹と同化するのに最適らしい これでようやく僕の願いも叶う」
蟲の王曰く、厄災から生き残った種は基本的に体内に魔導細胞を宿しているそうだ。詳しい詳細は記憶情報の欠損で解らないとエグザムに伝えていたが、魔導細胞に宿る魔導因子について研究する事は基本的に禁止されている。
「今から僕の首に埋め込まれた人工魔水晶を君と融合させる 知恵の葉にこのカスパーの核を持ち帰るよう命令されたけど そんな事はどうでもいい」
イクサユメはまだ言葉を発しない。当然蟲の王と事態を傍観しているが、我慢できずユイヅキを結晶へと向けた。
「街に来る前に司令のフクシさんから聞いたんだ 僕の母は事故で魔水晶に閉じ込められてしまって その母を助ける為に父もその身を投じたと 前に教えたよね 育ち盛りの子供を置いて失踪した父の話 あの時少し嘘を混ぜたけど僕が旅をした本来の目的と過程は事実だよ」
白い塗装が周囲の結晶体から放たれた光を反射させていて、頭部の目を保護するバイザーの上に埋め込まれた青い水晶が自発的に煌いているのかどうか判らない。
「だから抵抗しても無駄だ このネクサスの魔導出力装置は君の覚醒者としての力を封じる機能が有る 有効な武装を持たない今の君はアーシアに似せた出来損ないの姿に頼るしかない」
当時身長が百五十三センチ程度だったエグザム。ある程度は身長を弄れるとは言え、数センチ伸ばした体で二メートルの白甲冑を相手にするには力が足りない。
【向こうが言っているのは事実だろうが、このまま此処で戦うのかエグザム?流石にこの場所で奴相手に無傷とはいかんぞ。】
それでもイクサユメはユイヅキの白い弦を引き。理力の矢を収束させ光の矢を実体化させる。狙いは原型を留めず結晶化した白い玉座に据わっている半透明な円盤だ。
「ホモリスとユイを退けたその力を使うならこれだけは忠告する 僕は手加減も妥協も嫌いだ」
イクサユメが弦から右手を離したのと同時に、人型強化外骨格のネクサスを操るウラヌスは両腕を前に翳し閃光を放った。すると分子結合を破壊する反電子消滅効果をもたらす光の矢が純粋な電子結合体を一気に分解させ、眩い分解光が更に空気中の魔素を介し周囲へと加速度的に拡散する。
これにより両者から放たれた眩い光が玉座の間を埋め尽くし、結晶に反射した光が天井下の壁に開いた丸い窓枠から外に漏れていく。
【細胞活性を停止させろ。勿論水晶体の魔導反応もだ。】
エグザムの意図を理化した蟲の王はそのまま沈黙を答えた。視界が光に埋め尽くされても素肌から衣服を通し輝いていた緑光が消え、ユイヅキの青い水晶体も只の紫先水晶に戻った。
イクサユメは瞼を閉じていても眩しかった光が収束したのを感じ取り、生体回路を復帰させゆっくりとした動作で瞼を開く。
「残念でした 私も茶番は嫌いなんだ」
周囲の生体結晶が先ほどの閃光に反応して爆発的に増殖した結果、強化外骨格の魔導機構から発せられる大量の魔素に群がった結晶体でネクサスの両手足が拘束されてしまったようだ。
両腕を前に伸ばした体勢のまま動かない機動兵など相手にならないと判断したイクサユメ。そのまま機動兵の前まで進み、胴体の脇にある解放機能を作動させる。
「そういえば出来損ないの本物は今何をしているのか聞いてなかったわね なんて無駄話をする気は初めから無いが」
胴体の拘束具が開閉し中から零れ落ちたウラヌスを抱きとめたイクサユメ。気絶している対象を抱き抱えながら体を入念に調べる。
【喉の傷裏に小さいが魔水晶が有る。おそらくそれを介し直接この人型を操っていたようだ。今なら暴れられずに抜き取れるぞ。】
イクサユメは小さな理力の刃を引っ掻き傷の様な傷跡に走らせ、開いた皮膚の裏に埋め込まれていた青い楕円状の石を摘出。石の解析を蟲の王に任せ開いた皮膚組織を魔導細胞を活性化させ癒着させる。
【死神の癖になかなか手馴れているな。街から出たら闇医者に転職したらどうだ。】
蟲の王は冗談交じりに謎の青い魔水晶の解析が終わった事を伝え、そのまま詳細を語り始める。
【これは人工物でも本物の魔水晶でもないぞ。この単一結合組成は玉座のバルタザル本体と少し似ているかもしれん。どちらかと言えばその者が言うように何かの情報が閉じ込められた水晶体に近い。】
気絶しているウラヌスの手に青い魔水晶モドキを握らせたイクサユメ。今度は両腕で抱き抱えながらバルタザル本体の前まで進み、蟲の王と共同でバルタザル中枢の結晶回路を守る結界に理力障壁を侵蝕させる。
【準備が整ったぞエグザム。長らく天空樹と同化したまま放置されて暴走しているが。今のお前なら鎌を振り下ろすより簡単な作業だ。】
分厚い円盤状の結晶構造は単一組成の素体内に複雑な魔導回路を張り巡らせていた。イクサユメは本体を理力障壁で圧迫すると共に結合を破綻させ、汚染物質同様の手法で分子ごと浄化し始める。
回路から放たれる光が瞬間的に途絶えるが、回路の一部が空気に晒された瞬間眩い光を放ち始めた。もう一度瞬く間に視界を埋める光は等間隔で七色の光を放ち、イクサユメが顔を逸らすまで輝き続けた。
「まぶしい 何の光」
腕の中で胸に腕を組ませ気絶していたウラヌスが目を覚ました。イクサユメは体を上手く動かせずにいる彼にこれから何を始めるのか説明する。
「これから本物のカスパーに会わせてあげるからじっとしてなさい あと右手の水晶体は返す 本当に親がその中に閉じ込められているか 自身の目で確かめればいい」
イクサユメは戸惑うウラヌスにそれ以上何も語らない。結局最後までアーシアの口調を真似、自身がエグザムだと名乗らなかった。
イクサユメの発言が終わると同時に結晶宮が崩壊する振動が二人を襲う。数秒も掛からず周囲の結晶までもが砕け始め、天井から根らし枝で吊るされた王座以外崩れ落ちる。
【始まったな。ようやく全てに終止符が打たれる。短い間だったが今まで足掻き戦い抜いたお前の気性に感謝しよう。】
イクサユメは原初の翼に残った少量の飛行液に魔素を送り、青い炎と共に七色の翼を発生させた。そして最上部ごと崩壊しようとしている遺跡から脱出する為、天井下の窓枠へは行かず蕾の真下へと上昇していく。
【この時を下で待ちわびている輩が少なくとも存在すしているのが幸いだったな。私は情報の受け渡し準備に入るから手助けは出来ない。おそらく撒かれる種ごと外に放出されるだろうが、急激な変態化によって肉体が崩壊する事は無いから安心して行け。】
結晶宮が遺跡全体に広がった結果、天空樹の蕾を支えていた柱はおろか栄養を送るための生体管すら脆くなっていた。勿論メルキオルの分身から事象予想として聞いていたので今更混乱する事はない。イクサユメは蕾の真下に有る穴から内部へと侵入し、そのまま理力で自身とウラヌスを覆いながら神の実の膜を破った。
其処は本来なら成長した天空樹が花を開かせるための養分を入れて置く袋だ。今は一度枯れかけた天空樹を甦らせる為に引っ越した制御中枢たるカスパーを守る蕾となっており、結晶生命体が改築した種を実らせる場所でも有る。
イクサユメはぬるま湯の様な暖かさを保つ薄緑色の液体内に浮かぶ緑色の細胞核の傍に寄り、そのまま理力障壁の範囲を縮小させる。
「え ちょちょっとまっ」
腕の先まで結界が縮小すると、当然ウラヌスが保存液内に締め出されてしまった。しかしイクサユメは苦しそうにもがくウラヌスの背を押し、自身の倍以上ある細胞核の集合体に左手を接触される。
(ようやく落ち始めたか。思ったより時間が掛かったな。)
イクサユメは細胞核の集まりに左手を入れつつ理力で背中を押して自身とウラヌスを内部に侵入させた。内部は植獣カスパーが溶けた溶液で満たされていて、先に入ったウラヌスは高濃度の魔素に充てられ再び気絶してしまう。
【ようこそ新しい死神。我が名はカスパー。創生を継ぐ新たな導き手を歓迎します。】
理力を介し語りかけてきた存在は目の前に浮かぶウラヌスノ体を泡で包み、そのまま青い水晶体ごと溶かしてしまった。イクサユメはその光景を見送りつつ、自らの内に秘めていた思いを告白する。
【ここへ来るまでにかなり苦労しから聞かせてもらうぞ。俺が天空樹の初期化に選ばれた理由をな。】
カスパーはエグザムに全てを打ち明けたらしい。しかしそれが何なのか私には教えてくれなかった。なんでもまだ秘密にしなければ成らない内容らしく、カスパーに対しエグザムが何等かの報酬を要求をしたのかもしれない。
魔水晶。迷宮でのみ産出する高純度な魔素を含む希少な魔導物質。これを人為的に製造したのが人工魔水晶で、今日の素材工学に欠かせない加工材料だ。
私ことジャッカスバロードはあの日あの時間、丁度天空樹駅構外の案内板を見つめていた。天空湖周辺で始まったばかりの掘削関連の仕事を募集する張り紙が複数枚有ったので、その中から適した募集案内を探していたのだ。
丁度その頃探索街では大規模な避難、と言うより脱出劇が繰り広げられていた。商工区と行政区の一部から燃え上がる炎が天空樹を黒く染め上げていたらしいが、生憎私は遠く離れた駅前物件の陰に居たので騒ぎに気付くが遅れてしまった。
恥ずかしい話をすると、あの張り紙の中には私の経験や知識を十全に生かせる仕事が無かった。私は仕方なく行政区が開いている講習人員募集の張り紙を見ていたのだが、突如始まった地震によって石畳に尻を打ち付けてしまった。
火山噴火や大洪水の経験は有っても地震は未経験だった私は、とりあえず地震が治まるのを纏うと案内板の柱にしがみ付いた。奇遇なことに同じ案内板を見つめていた労働者風の若い女性も同じ柱にしがみ付いてたので、私の薄い頭に彼女のスカートの裾があたって少しだけ目の前の現実から逃避することが出来た。
結論から言えば地響きは地殻活動によるものではなかった。何分経っても治まらない揺れにより、駅前広場に設営されていたテントや仮説会場の骨組みが倒壊し始める。更に揺れは続き私から見える範囲の建物にも無数の亀裂は入るようになった。
私は案内板の裏側に立つ女性より、背後の五階建てホテルが倒壊する可能性に気付く。すにその場から離れようとして重い旅行鞄に幾度も膝や足をぶつけてしまったが、あの時すぐにあの場所を離れていなかったら、倒壊した建物の生き埋めか燃える瓦礫の下で炭に成っていただろう。今でも崩壊し燃盛る街並みが夢に出てくる。
私は揺れる大通りから離れ近くの橋の袂まで避難した。考古学は性質上地質学にも精通してなければ成り立たない分野だ。私は石橋の袂が比較的硬い岩盤層だと知っていたので、数分後に発生する天空湖や周辺を巻き込んだ大崩壊から生還できた。
長時間続いた揺れの原因は天空樹の異変だった。私は所謂迷宮の専門家では無いのであの現象を明確に判断する基準を持ち得てないが、今でもあれは魔物が次の段階に進化する様な現象だと考えている。
空高く枝を生やした天空樹が欠陥住宅の如く大きく傾き、同時に折れ曲がった茎辺りから別の枝が生えていた。あれはまさに数百年分の時間を加速させている様な光景だった。地上から十五キロの複雑に絡まった幹から別の幹が生える光景は、植物の枝が分かれる枝分れ現象とは全く違う出来事に見えた。
天空樹の上半分が枯れて北側に倒れるまでの一二分半の間に、幹から生えた複数の枝が絡まるように方々へ伸びていった。不思議なことに発生位置から放物線を描いて成長する若い緑の蔓には無数の枝の先に葉らしき何かを実らせていて、後の調査で判明した新種の生物の苗床をつるす為の枝だった。
しかし当時の私はそんな出来事に目を向ける余裕など無く、完全に朽ち果て倒れる天空樹を見守りながら揺れが治まるのを待つ事しか出来なかった。
惨劇は不運が重なり発生するように、大地の揺れが治まると同時に天空樹を中心とした大地崩壊が始まった。まるでドミノが倒れ続ける様に天空樹の探索街が沈んだと同時に始まった沈下現象。湖を経て沈んでいく台地に巻き込まれ消える湖畔の美しい街に、私は目を背けて走った。正直あの光景はもう見たくない。
その不運に巻き込まれかけた私は地面ごと崩壊し沈下した建物から聞こえる叫び声を無視し、まだ出て間もない駅へと舞い戻った。駅構内には私同様逃れてきた避難者と右往左往する者達で溢れていて、私は二重被害を被ることを予想し止む終えず駅からも遠ざかった。
私が駅の西側に流れる川沿いの土手で休んでいると、大地崩壊をものともせず聳え立っている天空樹の残り部分に変化が生じる。
西大陸の何処かで咲いているらしい固有種に極陽花と言われている花が存在する、その花は受粉して実らせた種を方々に飛ばす為に蕾の段階から肥大させる。極端に膨らみ気温が上昇すると蕾が破裂してガスごと種が飛び散るらしいが、それと同じ光景が残った天空樹の最上部で始まった。
時間にして十数分ほど遠方から観察を続けていると、直径だけで数キロは有りそうな赤い蕾が破裂した。火山噴流の様な煙と空振現象を発生させながら大量の黒い粒が放射され、私は身の危険を感じるまで火山弾より速く遠くから飛ばされて来た種の一部を見上げていた。
地震に火災に大地沈下。そして最後は直径一メートルを越える砲丸の雨。これ等の局地的災害を体験し生き残った者は千人程度と少なく、後世に惨劇の詳細が詳しく語り継がれるかどうかは判らない。
しかし私はほんの数十秒の間続いた巨大砲丸の雨から生き延びた。道端に埋まり建物の地下まで貫いた砲丸を調べようとした矢先、潰れずに川の上流から流れて来るの綺麗な状態の一発を発見した。
驚くことに私とほぼ同じ大きさのそれは何とか転がせる重さで、見た目からは想像もできない程硬く軽かった。更にその玉には中心位置に接着したような溝が有り、私はどこぞの誰かが捨てた金属棒を拾ってその溝に差し込む。
木箱や鍵がかかった扉を開けるより作業に苦戦したが、私は大きな砲丸を綺麗に分離することに成功した。中身を確めようと白い繊維質な複数の膜を剥ぎ取り内部の殻を割ると、驚いたことに見た事もない長い銀髪の髪の少年が裸のまま体を丸めて眠っていた。私は少年を瞬きしながら見つめ、直に背中に箱らしき何かを背負っている事に気付く。
その時の私は背中の装置が数千年前に失われた原初の翼だとは解らなかった。知り合いの考古学者に古い飛行機械や導力装置を調べている物好きが居るが、おそらく彼女でも現物を見た事は無いだろう。
私はその少年と共に入っていた紫水晶体の付属品と思しき古い複合弓を見て、少年が探索者ではないかと判断し、とりあえず人目に触れぬよう保護する事にした。
後で知ったことだが、あの砲丸の中から少数だが他の探索者が見つかったらしい。後に調査書を読む機会があり、私はその者達が虚構世界に閉じ込められた探索者の一部だと知った。
今にしてみればその者達が何を基準に選ばれたのか容易に推測できる。エグザムも言っていたが天空樹の魔導因子と同調性が有る魔導細胞を有す幸運な連中なのだろう。あの騒動で虚構世界や探索街から生きて脱出できた者は、登録数の一割にも満たないと言われている。
あの騒動から二年経ち、今では世界中で天空樹事変と呼ばれている。明日に三度目の調査の為、この街からしばらく離れることになる。
エグザムを保護して間もない頃、私は彼の世話に手を焼いた。五十を越えて結婚願望も消え、研究への情熱だけで生きていた私にとって、彼と過ごした時間はとても有意義な時間だった。
眠りから覚めない彼を救護施設に置いていこうとも考えたが、南方行きの列車に空きが在ったので、私は背中の見慣れぬ装置を調べるついでにエグザムを古都ベルスに運んだ。
古都ベルスに着いてすぐ目覚めた彼だが、自らの名と記憶の全てを失った廃人同様の状態だった。特に背中の皮膚と癒着した装置を剥がそうとすると暴れるので、医者は彼の記憶の混濁が収まるまで病院の寝台に拘束させると事にした。
彼が自身の名を始めて口に出すまで一週間ほど掛かったが、担当医の話ではその間は片時も複合弓を離さなかったらしい。
私の記憶が正しいのなら彼の口から本物の名前と探索者としての身分や経験した出来事を一通り聞くまで一月。復活したユイヅキとの生体接続により背中から原初の翼を外したのがその三日後だ。
担当医には彼が古き亜人の血を引く一族の出身だと伝えておいた。何せ銀の髪に肌の生体痕は人目につき易い。もし私が生物学者だったら今頃保存液漬けにしていただろう。幸い探索者につき物の後遺症だといい含めれたので、以降彼がエグザムだと名乗らなければ誰も彼が騒動の元凶だと疑わないはずだ。
故にこの手記は彼との約束に従い封印する。再び開封されるのは遺品整理に来た業者か保全委員仲間の手で整理される時だ。もしかしたらセフィロトを離れ西へ旅立った彼のその後の話を誰かが私に聞かせるかもしれない。この手記を書いている途中でその様な話は聞かなかったので、もしかしたら天空樹跡地調査に忙しい日々を送る私には風の噂も聞こえないかもしれない。