序章後半
長い冬が終わり暖かくなり始めた南半球。早朝の天空樹でも多くの生物が姿を見せ、九月中旬の晴れ渡った空が連日続いている。
エグザムの朝は早い。日の出直後に目を覚まし身支度を整え椅子に座ると、机の上の魔導通信器が朝鳥の鳴き声を発するのを待つ。
「今日は街に来て何日目だっけ。まあいいか。」
白い毛に赤い鶏冠が特徴的な鳥の声を待っているエグザム。欠伸を噛み殺し、近づいた定刻まで頭の中で秒読みを始める。
「そろそろ時間だ。今日一日が恵まれた日でありますように。」
エグザムは慣習化した朝の願掛けを済ませる。元凶は商魂による善意だった。
長期宿泊してくれる客に気分を良くした宿の主人が、わざわざ通信回線を二階個室まで拡張してくれていた。無論、通信料を宿泊費に上乗せして。
(さぁかかって来い、マイ・フリール!)
心で叫んだエグザムは本体同様黒い塗装の受話器へ手を翳す。間違って触れてタイミングを逃したりはもうしない。
ちなみに魔導通信機は十進数の文字が与えられた水晶体を順番に押して、相手の通信番号を入力する仕組みに成っている。
エグザムは十個の水晶体が十色に輝いた瞬間、素早く受話器を取り耳に当てる。けたたましい鳴き声の阻止に成功したのだ。
「こちらエグザム。ああ、おはよう。うんうん南東の残骸都市だな、了解。大丈夫だ、問題無い。夕方までに納品するよ。」
いつもの依頼主は受話器を置いたエグザムに、魔物系素材の収集と希少品の採取を命じたようだ。
(あそこは幻想湖の一部が地形を侵蝕している。マイめ、また難易度を上げやがった。)
などと考えつつ、悪い気はしないとほくそ笑むエグザム。ここ数日の激務をこなした結果、心技体共に成長した自分を実感したからだ。
エグザムは相棒のユイヅキを背負って個室の扉を開け、木製の階段を軋ませロビーへ降りる。
「今日も探索か。しっかり稼いで来いよ。」
朝早い主人の顔と朝日を反射させた頭を拝んで、今日の自分に活を入れたエグザム。店を出て石畳で造成された大樹の根を歩き出した。
(今の俺はユイヅキやマイに助けられている。これが便利道具なのか呪いの品なのか、だんだん解らなくなってきた。)
それでもエグザムは止まらずに目的地へ歩き続けた。なにせ今日も痛んだ赤い魔法鞄にカードを入れる仕事が待っているのだから。
迷宮も虚構世界も広い。人の足で制覇しようものなら時間と労力の消費は避けれない。当然この問題を解決する為に、技工士や錬金術士達が色々な移動手段を生み出した。
エグザムは宿場通りから同じ島西側の行政区を歩いて、目的の「転移門」が有る迷宮管理局の入り口をくぐった。
「おおっ。今日は空いてるな。」
ずんぐりとした灯台の様な建物内で、地下へ続く階段の入り口に探索者の行列が出来ている。普段は屋外まで列が続いていたが、今日の管理局は行政庁舎として機能している様子だ。
服飾や自衛具、魔法装備に統一感がある赤い集団の最後尾に並んだエグザム。金属製の柱や壁枠が多い庁舎内で、地下入り口だけ石垣の階段を少しづつ降りて行く。
(とりあえず東の廃墟街に出てから南へ外周を進もう。しかしマイも事業主なんだから転送料ぐらい出して欲しいな。)
前と後ろを探索団員に挟まれ、螺旋階段を少しずつ降りながら待遇にケチ吐けたエグザム。探索団だと一律五百G、個人だと百Gもする転送料は無視できない出費なのだ。
「東の廃墟街。」
行き先を指定したエグザムは、係員に硬貨を一枚渡し何度も目にした黒い鏡へ体を通す。直後に緩い浮遊感を感じた後、別の黒い鏡から弾き出された。
【状態:良好。現在位置:東廃墟街。】
一度瞬いただけで視界に啓示が現れ、相対していた鏡から背後へ振り返るエグザム。金属の骨組みだけ残し崩れた町並みが、瓦礫と共に広がっている。
建物の室内は何れももぬけの殻。家具どころか生活の痕跡すら見えず、巨大植物の根が張り巡らされている。ただ、珍しく魔物の姿がちらほら見え安全圏の鏡近くまで多くの魔物が湧いていた。
「これが霧が出る前の湧き時か。探索者が少ないのも頷ける。」
霧が出ると虚構世界は一変するが全て前触れ無く変わる訳ではない。精度自体不確かであるものの、幾つかの予兆が存在している。
その一つが魔物と採取箇所の増加、及び増殖速度の上昇と収集品それぞれの取得割合の増加。そして新たな鏡出現数の減少が同時多発的に発生するのだ。
エグザムはユイヅキを左手に装備すると、有用そうな残骸の一つに近付いた。
(敵を討つ矢。)
導力車の車体と似た構造の錆びた残骸へ手をかざし、一節だけ強く念じたエグザム。ユイヅキから溢れる意思の力を受け止める。
【軽量合金の矢を生成中。】
光の粒子が輪郭を変え魔法鞄目掛け凝縮し始め、次々と物化けされたカードが赤い鞄を重くする。
【軽量合金の矢を二百五十本入手。】
変態化した粒子が消えた直後、瞬間的に書き換わった啓示。滞りなく物化けした矢種の札束がエグザムの重心に干渉する。
エグザムは鞄から複数の鉛色の矢が描かれたカードを一枚取り出し、すぐさま具象化した。
「素晴らしい特殊魔法だ。呪いの類だとは到底思えない。」
買って日が浅い矢筒に具象化した全ての矢を入れ、一本だけ抜き取ると、習慣化した魔法矢の試射を始める。
【属性付与:変態化】
射手に光に成れと念じられたユイヅキは固有魔法を発動させ、放たれた閃光が廃墟の壁に当ると、一部だけ光の粒子に変わって消えてしまう。
経験により探索者は成長する。何から何に何が影響したのか解らないが、数日の探索でエグザムは固有魔法を習得したのだ。
(縁のものが何たらで、胸を反らして敵を討つだったかな。あの時もっと詳しく聞いておくべきだった。今回の仕事を早めに終わらせて、商工区のハルゼイにユイヅキの話を聞きに行こう。)
全ての準備を終わらせたエグザムは、軽快に道を走りながら瓦礫の間を通り抜ける。目指すべき残骸都市では、小規模な探索団が一日に処理する仕事と同じ作業量が彼を待ち構えているのだ。
魔導通信器。特殊金属を編んだ導力線同士で有線接続された通信回線の端末器。世界樹と生体接続した導力炉の導力で稼動する魔導製品の一種でもある。
特定の波長を発生させる水晶体を特定方式に則って選定配置すると、端末の固有番号が決まる。
地盤沈下で倒壊した建物が、幻想湖の領域と化した窪地で乱立している。底がよく見える程透き通った湖には、在るべき液体が存在していない。
「あれが対象か。沢山湧いてる。」
本物の湖と違い、幻想湖は特殊な空気の塊が水の代わりに溜まっている。呼吸ができて若干の抵抗があるものの、水草らしき植物の林を探索する事が可能なのだ。
エグザムは崖から窪地を見渡し何処から侵入しようか悩んでいると、頭上から魔物の羽音が聞こえる。
【対象:鬼トンボ。】
獲物を捕食する為に展開する顎を伸ばして、五階建ての廃墟の屋上から三対の魔物が急降下して来た。
(また奴等か。)
エグザムは番えておいた矢を放ち一匹を素早く処理すると、右手にナイフを握り滑空して来た獲物へ肉薄する。
【鬼トンボを駆除。】
エグザムは墜落した魔物が光の粒子に変わるのを尻目に、自身を顎で捕まえようとした魔物をすれ違い様二度切りつけた。
羽根の片方を失い、草が生えた石畳に激突する二体の鬼トンボ。六つの足で立ち上がるとエグザムへ頭を向けようとする。
(面倒だ、二体とも貫く。)
エグザムは魔物が体勢を立て直す前に片方へ肉薄し、黒い複眼を蹴り飛ばす。
蹴られた鬼トンボは身をくねらせもう一体の上に覆い被さり、二体分の自重に負けひれ伏した一匹目掛け、エグザムは上から矢を放った。
【鬼トンボを駆逐。】
エグザムは勝利の啓示を確認しただけで、振り返らずその場から走り去る。下位の魔物の戦利品に用は無かった。
密の花を据えた塔が在る島。その圧倒的な大きさは、大河と変わらぬ幻想湖ですら小さく映ってしまう。島に住む魔物すら、そよ風にたなびく道端の雑草と変わりない。
「それにしても大層な数の雑魚だ。採取中に矢を補給する必要が有るな。」
基礎ごと沈下し傾いたビルの屋上から、湖底の下界を見下ろしているエグザム。暫らく微動だにせず、オブジェの一つに擬態していた。
(トンボ共は向こうに行った様だ。対象の群れが誘われて移動する前に仕事を始めるか。)
遺構や廃墟の壁を埋め尽くした水草達。魔物の巣に成り易い「魔樹」と呼ばれる植物系の迷宮物からは、時折貴重な収集品を採取出来る。希少な物ほど湧き難く、入手が難しいだけで高値で取引されている。
エグザムは薄っすらと光を反射している湖面を観察し、本日の適性深度を推測する。
(初見の俺では水位の増減が解らない。とりあえず蛙トカゲが居る辺りまで降りてみよう。)
今回の依頼品は二つ。幻想湖上層に居る蛙トカゲの肉と、同じく上層で採れる苦い茸。マイ曰く下剤ど便秘薬の調合に不可欠だそうだ。
エグザムは準備運動を始めて体に気合を注入する。刻一刻と迫る「咲き時」を意識しつつ、湧き時が活発に成る光景を目に焼き付けた。
(今日出会った探索者は五人組の探索団と個人の二人だけ。下層でもこの辺りは人気が有る筈なのに、今は下町と島周辺の探索が優先されてるようだ。)
【残存数:三十二本。】
軽量合金の矢はそれなりの自信作だった。これから仕事に取り掛かるエグザムにして見れば、到底不安になる数字と言えよう。
(この際、あれで十分だろう。)
エグザムは同じ屋上に在る金属製の給水タンクに跳び移り、例の如くユイヅキに対し特殊魔法を発動させようとした。
「備蓄は全て放棄。鞄の許容量まで新たな矢を生成。」
己に対し暗示を掛ける様に呟き、今だ拙い魔法操作へ補助を掛けた。
すると給水タンクがたちまち粒子に変換され、共に落下中の赤い鞄へ吸い込まれる。エグザムは着地してから暫らく、鞄周辺を巡る粒子の対流が収まるのを待った。
「今度は只の鉄の矢か。数も前より少ないな。」
エグザムは矢筒に残った合金の矢束を足元に置き、鞄から新たなカードを取り出して矢筒の中で具象化した。
「十八、十九。残りはこれだけか。仕方が無い、標的以外は鉄の矢でしとめよう。」
合金の矢を四本だけ矢筒に残し、残りは全てカード化して鞄に仕舞うエグザム。途切れた手摺の間から、境界層下の廃墟通りへ飛び降りた。
咲き時。密の花が枯れて蕾だけとなると霧が現れ、次の花が咲くまで霧が晴れる事は無い。蜜の花の変容による霧出現期間を、探索者達は咲き時と呼称した。
水槽や観照用の置物と似た様な物が多い迷宮物の林。幻想湖と廃墟街の景色で違うのは、着色された空気と僅かに匂う潮の香りだけ。そんな中、獲物を追う探索者は何時もどおり廃墟の道を走っていた。
【属性付与:戦利品化】
エグザムは七色に輝く矢の射線を逃げ去る鱗蛙の背中へ合わし、矢を握る指先を離した。
【命中】
黒と青緑色の鱗の間で粒子の光が一瞬煌き、瞬く間に中型魔物を露散させる。
エグザムは瓦礫の隙間や廃墟の屋内へ逃げ去った魔物達を無視し、強制変態化され戦利品と化した元魔物へ近付いた。
【黒真珠卵と蛙肉を入手、物化けしました。】
装飾品モドキと鳥の胸肉に似た何かをカード化し、鞄の中の束に差し込む。今のエグザムが必要としている物は、散らばった複数の戦利品のうち二つだけだったのだ。
エグザムはユイヅキを持つ左手の小指に次の矢を挟んで固定すると、次の獲物を探し始めた。
(湧き時でも狩る方が俺だけなら的を絞るのが楽だ。次はオスを狙うか。)
蛙トカゲは性別で形状が違いそれぞれ別の名がある。
まず雌の方は、先程仕留めた鱗蛙と呼ばれる中型の魔物だ。中型と言ってもエグザムより大きく、体高は成人男性と変わらない。硬い鱗と長い舌で獲物を追い詰めて、口から酸を吐いて確実に仕留める。近接攻撃を仕掛けるには危険な魔物と言えるだろう。
雌と違い雄は小型の魔物に分類されていて、形状は殆んどワニと同じだ。此方の体表は白や黄色の斑模様で、全身硬い外皮に覆われている。名は水トカゲ、雌の鱗蛙より数が多く野生のワニより遥かに足が速い。
ユイヅキを下に向けながら瓦礫の影に身を潜めたエグザム。時折感じる風の様な空気の対流に五感を研ぎ澄ませ、瓦礫の道を通る標的を待っている。
(此処では幻想湖特有の匂いがしない。隠れるのに最適な場所だ。暫らく此処で狩をしよう。)
藻なのか苔なのか判らない植物が人工石材の瓦礫を覆っている。この虚構世界でしか見る事が出来ない固有種は、幻想湖を形成するのに欠かせない存在だ。
エグザムは赤い魔法鞄からカードの束を取り出すと、獲物を待ちつつ枚数を数え始めた。
「肉はもう少し、苦い方はまだ五枚だけ。」
ユイヅキの固有魔法を活用して探索をしていたエグザム。もし自分が古い時代を生きていれば英雄の仲間入りを果たせたのに、と妄想しだして時間を息抜きに使う。
ユイヅキの属性矢は探索を進める上で不可欠な魔法だ。何より形状と合わさり元狩人にとって最適な武器と言える。
ユイヅキのように使用者の経験を底上げし合理的な成長を約束する武器は、ここ百年程度で急速に普及した魔法具の一つに挙げられている。なので何等かの呪いが施されたユイヅキは、魔法道具として珍しい存在とは言えない。
(問題は呪いが何なのか解らない事だ。今のところ害は無いが、何時俺に牙を剥いてもおかしくない。)
そうこうしいていると、泥を巻き上げ路面を水トカゲが走って来る。一匹だけだが二回り以上大きな個体だ。
【対象:水トカゲ亜種】
エグザムは肉集めに終止符を打てそうな獲物の来訪に歓喜し、自ら魔物の眼前に姿を曝け出した。
「丁度良く亜種と出会えたな。」
エグザムが喋ると口から白い吐息が出た。幻想湖の大気は上より異質でほんの少しだけ粘り気を肌に感じる。そう、幻想の名は偽りではないのだ。
目の前に現れた獲物に対し大きな顎を開けて突進する水トカゲ亜種。見ようによってはワニと変わらない動き出しだった。
エグザムは久々に獣と出会えた気分を噛み締めつつ、体を翻して汚泥の舞いを踊る。
突進を避けられたと理解した水トカゲは、左前足を軸に巨体を持ち上げて方向転換。再度口を開け地面を蹴った。
(良し。こいつでなら経験の足しに成るぞ。)
自らをひき潰そうと迫って来た顎。左右に振り回しエグザムの頭程度開かれた口には、刺さったら抜けそうに無いかえし付きの刃が並んでいる。
「噛まれたら挽肉確定だ。」
エグザムは魔物の突進を正面から受け止めた。ワニと同じ長い下顎の先端を掴み、地面に擦り付ける。
少年より大きな体が、そよ風に吹かれた木の葉の様に何度も浮き上がる。顎を固定され手足が届かない状態では、魔物にとって手の出しようが無かったのだ。
エグザムは上顎にナイフを突き立てると、押し込みながら巨体を反転させようとした。
主導権を握るエグザムからしても、迂闊に魔物の側面へ回り込めば噛まれてしまう。何とかして急所を自らに近づける必要があったのだ。
尻尾を振り少年の腕から逃れようと必死な水トカゲ。魚の様に体を激しくくねらせて抵抗したが、結局自らの頭部を相手の頭上で晒してしまう。
(上手くいった。これでトドメ!)
自らへ落下中の魔物に対して、エグザムはナイフを両手で握り突き刺す。経験で強化された髄力が、巨体重量と脳髄を貫通するナイフを支えた。
黒真珠卵。黒真珠と瓜二つな無精卵。真珠と違い柔らかく、外側は葡萄の果実の様な膜で覆われている。
湖と言えば水質は当然淡水、なのだが幻想湖ではそうとも限らない。
【竜宮柱を入手。】
上層では、湧き時でも数が少ない二枚貝をこじ開けたエグザム。変態化した中身から貴重な収集品を入手した。
右手で握る赤い杖に似た棒。木とは違い小さな穴が無数に開いていて、貝殻と同じ硬さだった。
「中身は宝の具だったか。アトリエに向かう前に寄り道がまた一つ増えたな。」
素早く物化けさせたカードを、鞄ではなく懐に仕舞ったエグザム。物が物だけに周りを気にし始める。
虚構世界において収集品は三つの場所から入手できる。一つは二枚貝や魔樹の様な迷宮物から。二つ目は探索者の亡骸や放置された戦利品を指す「迷宮遺物」から。三つ目は虚構世界で自生か生息している動植物からだ。
(今日は巡り合せが良い日らしい。こんな所で赤い砂金を手に出来るとは。)
エグザムが懐に忍ばせたカードは、最高級の画材に必要な材料として有名だ。緑系や黄色系の絵の具が多いセフィロトでは赤く輝く塗料は大変珍しい。化粧品や硝子塗料にも使用される今日、削った粉末は砂金以上の価値で取引されている。
(一つだけでも商工組合で取引出来る品だ。幾らに化けるのだろうな。)
ほくそ笑みながら見上げると、建物の壁に小さな黒い植物が無数に並んでいる。三階の手摺の壁に自生しているのは、マイが必要としている苦い茸で間違い無い。
エグザムはその廃墟の入り口を探しに周囲を探索した。
(この穴からなら中へ入れるだろう。)
何かがぶつかったのか、金属の骨組みを露出させた石の壁に丸い穴が開いている。外側に散乱する瓦礫は少なく、内側の闇から無数の瓦礫が石肌で光を反射させている。
エグザムは躊躇わず中に入ると、上へ登れる道を探す。建物内は広い空間が反対側まで繋がっていて、一階は吹き抜けの構造だ。
外からの光が床や壁の石材を照らしていて、外から見たより内部は明るい。建物としては非常に広い空間にエグザムは見覚えが有った。
「あの勾配状の坂を前にも見た。此処は廃墟街で何度か見かけた集積所の一種だろう。」
エグザムが以前見かけた立体駐車場は、今居る場所と同じくもぬけの殻だった。コンクリートと鉄骨がむき出しの建築物はどれも時が止まっているかの様に見えたのだ。
勾配の道を駆け上がり目的地に到着したエグザム。手摺に見せかけた石材の壁に立ち、外を見回す。
(予想以上の高さだ。小柄な俺だとこうして手摺に立たないと下が見えない。)
湖の世界は水中世界を再現していて、遠くの廃墟が青い闇に閉ざされている。流石に魚や水中生物は泳いでないものの、少年にとって見たことない海を彷彿させた。
(生物が腐った臭いはこんなさっぱりした匂いじゃない。水槽に入れられた気分だ。)
エグザムは物思いに耽るのを止め、手摺外側に密集する植物の採取を始める。
【対象:苦い茸の群】
(色は違うが、春に採れるひれ茸とよく似てるな。孤児院もそろそろ集団採取を始める頃だろう。)
右腕を手摺に掛け体を外壁に曝け出している少年は、銭を稼ぐ為に狩人を始めたばかりの頃を思い出す。
(昔は孤児院の運営だとか言われて散々な目に遭った。地道に狩の成果をちょろまかして正解だったな。)
エグザムが幼少を過ごした孤児院では、経営の為に子供を獣の世界へ何度も派遣している。食い扶持は自分で稼ぐのがその世界での流儀だった。
【苦い茸を物化けしました。】
野生の狩とは違い無理に神経を尖らせなくても、培った経験と啓示が気配察知を代行してくれる。言い換えれば虚構世界は現実より不確かさが少ない機械的な世界なのだ。
迷宮遺物。虚構世界の生物は死亡すると特定の存在を残して消滅する。魔物が死ねば戦利品、探索者が死ねば装備を残す。
合成組合や錬金組合が在る商工区は年中騒がしい。天空樹の根を改造し区画の造成工事を施したり、工房が出す作業音が鳴り止む日は存在しない。
物を手に入れたエグザムは、長い根のトンネルを通り主根と隣接する大きな給水塔へ足を運んだ。
施錠された工房の扉は隣の物置の扉より小さく、木造一階建ての工房は煙突から白い煙を吐き出している。
「ハルゼイ。エグザムだ、開けてくれ。」
ハルゼイが何等かの作業をしていたのだろうが、エグザムは遠慮無くドアを叩いた。
木製の扉を何度か叩くと、内側から物音がして返事が返ってくる。エグザムはユイヅキを背中から下ろすと、扉の格子戸からハルゼイが顔を覗かせるのを待った。
「何の用件だ。」
以前より煤で汚れた顔は目元以外黒ずんでいて、額に押し上げたゴーグルが油で光を反射している。
「ユイヅキの事で二三訊ねに来た。もう一度呪いの詳細を教えてくれ。」
作業を邪魔されて不機嫌そうなハルゼイに対し、エグザムは簡潔に用件を述べた。傍から見れば配達屋の少年と会話する青年男性に見えなくも無かった。
「用が終わったら直ぐ帰る。俺にもまだ用事が有るんだ。」
ハルゼイは工具や汚れた布が散乱する工房にエグザムを招き入れた。
熱石が空気中に含まれる埃を焦がす臭いが充満していて、足の踏み場が無いほど籠や何等かの容器が積み重なっている。エグザムが知る鍛冶職人もここまで作業場を汚しはしない。
(刃物や調理具が無い。ハルゼイは何か別の物を製作しているようだ。)
エグザムは川砂が敷き詰められた炉周りに在る骨董品に着目する。
「古い金床だな。ハルゼイ、魔導器具は何処に在るんだ?」
其れを聞きに来た訳じゃないだろ、と話をはぐらかしたハルゼイ。エグザムは職人の機嫌を窺いつつ、大人しく用件を話しだした。
「ユイヅキのおかげで探索や経験稼ぎが楽になった。ここ数日色々な戦術を試したが、ハルゼイが言った呪いの事が気に成って仕方ない。正直言えばユイヅキが只の魔法武器とは思えないんだ。」
砂場より高い床に座るハルゼイは、大きな羽が回り続ける炉を見ながら言う。
「私が君に伝えたあの話は全てユイヅキの宣伝文句だったらしい。製作者か、買い取った商人のどちらかがあの謳い文句を考えたのだろう。残念ながら私も詳細は知らない、在庫整理の時に容器と説明文を消却してしまったんだ。すまないが力になれそうにないよ。」
当てが外れたエグザム。時間を割いたハルゼイに対し感謝と謝罪を述べ、足早に工房から退出した。
(この先どう経験を生かすか、全て俺の出方次第で決まる。多くの英雄達も経験には手を焼いたんだ。同じ道を歩めるだけマシかもしれない。)
エグザムは枯れた根のトンネルへ向かいつつ、歩きながら次の目的地への道を思い出す。迷えば確実に依頼主を怒らせる未来が予想できて、一旦ユイヅキの謎を保留する事にした。
商工区には迷宮七不思議にまで上り詰めた噂話が存在する。それは湖面へ降りられる幻の階段の話だ。
人が住み着きどれ程の年月が経ったのだろうか?本来なら根元から真っ直ぐ湖底へ伸びている筈の根や主根が、商工区内だけでは折れ曲がり湾曲して伸びている。そう迷路の様に。
樹齢不明の大樹は迷宮だけあって成長が早い。主根から枝分かれした若い枝がある程度成長すると、伐採するか新たな基礎に活用される。これは老いたり枯れた根に対しても同様で、平地の都市より頻繁に地図を書き換える必要が有る事を意味している。
実際のところ、湖面へ降りれる通路や根の道は存在している。街の外周に点在する公園などの広場から、階段状の桟橋が設置して在るのだ。
幻の階段と噂される理由は複数あり、例えば枝の切り忘れや撤去し忘れ重なった枯れ枝の道。基礎の下に張り巡らした抜け道や秘密の部屋と繋がった隠し通路等、想像するだけなら数え切れないほど存在する。
「赤の看板だ。このまま進めば円環へ出れる。そろそろ日が傾きだす時間だな。」
エグザムはようやく街の主要通りへの道を見つけ、時間に間に合いそうだと安堵した。地下通路を歩かず、日の位置を確認しながら表通りを通って時間を食ったからだ。
エグザムが目指す次の場所は、西側を半分占めた行政区に在る商工組合。多くの商談が纏まり、時に組合の代表が集う家は階段状の通りに面した大きな屋敷の一つだ。
緑の垂れ幕が通りの反対側、つまり高台の照明灯に固定されていて、大通りや表通りを示す石畳の道沿いで連なる混成物件が視界に入る。
「中段の円環沿いに在るのか。何れ頻繁に来る事に成るだろうから、この辺りの地形は覚えておこう。」
エグザムは天幕の日陰で涼しい歩道を歩きながら、周囲の人々を観察する。虚構世界と迷宮を歩き回った結果、体が熱くなり服が汗ばんでいた。
(自由商人だろうか。豪商の使いではなさそうだ。)
エグザムの様に汗臭くない人々は、何れも労働階級に所属していない。多くは商工組員である赤い羽織や帽子を被り、高台のあちらこちらで商人に対し街の案内に励んでいる。
(探索者が少ないな。駆け出しが来るような場所じゃないらしい。)
エグザムは常時解放された正面玄関を跨ぎ、場違いな空気を存分に楽しむ。守衛を置かず対応しに来た組合員の目線は、懐からそれを出すまで険しかった。
円環。天空樹を中心に同心円状に敷かれた吊橋や架橋の道。上層から下層まで独立した三つの道は、馬車や荷車が行き交う物流の大動脈。
「此方がエグザム様の口座控えになりますので、確認してください。」
商業銀行の通商窓口の一つで鍵とカードを受け取ったエグザムは、仮想筆で契約書類に己の名を刻んだ。
「おめでとう御座います。以後エグザム様の資産は当方で厳格に運用・管理しますので、是非これからもご贔屓下さい。」
中年の黒服男性は貴族の召使と同じ口調で、退出するエグザムを見送る。仕事相手なら子供であろうと完璧な角度で頭を下げていた。
エグザムは緑の垂れ幕が続く通りに出ると商業区へ歩き出し、余韻に浸りながら歪な表情で笑いを堪える。
(これで俺も駆け出し卒業か。街に来て一ヶ月も経ってないが、また随分無茶をしたものだ。)
商工組合で竜宮柱を四万Gで売却したエグザム。隣の商業銀行でその小切手を商業手形に変え、平行して作ったばかりの口座に預けた。此れからの探索と街での生活を向上させる為には、商業手形が必要に成る日が必ず来ると理解していたからだ。
(これで万単位の買い物の為に財布を太らせる必要が無くなった。此れからは鍵とカードさえ有れば資産管理が楽に成る。)
この街にも銀行が二つ在る、労働銀行と商業銀行だ。どちらも支払いを円滑にする為カードを導入しているが、一度に決済できる金額が決まっていて、一万Gを境に探索街で取引出来る代物が決まっていた。
意気揚々と中層円環の歩道をアトリエ目指して歩くエグザム。緑のカードをポケットの中で触り、肌触りを楽しんだ。
エグザムはこれから桁が増えるだろう売買金額を見越し、偶然手に入れた高級品を売り払って金回りが良い探索者や商人が資産運用に使う銀行に口座を作った。
(此れで下町でも買い物が出来る。手形さえ作っておけば商取引で税金が発生しないとは。考えた奴は天才だな。)
カードの記録素子で高額な金銭の遣り取りが可能な街は、探索街含め国内でも五箇所だけである。更に虚構世界で扱う仮想通貨に対応している銀行カードは、探索街の商業銀行だけだ。
こうして迷宮カードを手に入れた少年。これからの探索人生を共に歩むだろうそれは、世間一般で大人に成った証でもあった。
労働と商業銀行。五大迷宮が人類に齎したものの一つに仮想取引なる概念が挙げられる。謎の技術「魔法」が生み出したそれらは、国家間の通貨と貿易制度を統一させた。
銀行では労働者は金貨の代わりを銀行に預け、商人が金貨の代替物を取引に使っている。
アトリエの煉瓦造りの煙突から噴き出る黒煙は、夕焼けの光と合わさり不穏な気配を漂わせていた。
「採って来たぞマイフリール。扉を開けておくから、先にこの煙を何とかしろ。」
エグザムは扉を開けたまま入り口で立ち止り、依頼主の醜態を少しだけ観察する事にした。
「えへへ、合成に失敗しちゃった。」
部屋中に漂う黒い霧が釜周辺をぼやかしていて、釜が焦げた臭いがしない煙を吐き出している。全身煤の様な汚れを纏った錬金術士は、慌てふためいて釜をかき混ぜている。
(しばらく時間が掛かりそうだな。仕方ないが俺も手伝おう。)
エグザムは煙を排出する為に全ての窓を開ける。留め具を解放し工房から煙を追い出そうとした。
「ありがとぅエグザム君。もう少しで煙が治まるから先に報酬を受け取って。」
エグザムは作業台に置かれた蒼と紅色の飴玉をポケットに仕舞い、同じ場所の上で魔法鞄をひっくり返す。
「依頼どおり蛙トカゲの肉と苦い茸のカードだ。流石に百枚も集めるのは大変だったぞ。」
さり気無く難易度を上げた依頼主へ、これまたさり気無く愚痴を零したエグザム。黒煙を今だ吐き出す釜と格闘中の少女に対し、ざまぁ見ろと同情した。
「それと今回の探索で金目の物を手に入れたから、売却して商業銀行に口座を作った。これから数日中は装備を整える為の金集めに忙しくなる。まぁ、下町へ入れるから時間が無駄に成る様な事は無いだろうな。」
椅子に座り足を組み、威勢良くそう主張した少年。彼の頭の中には、手駒が独立して困惑するマイが居た。
「ほうほぅ、と言う事は駆け出し卒業ですか。それなら明日から壁役を任せれますね。いやぁあ、此れで後れを取り戻せるよ、まったく・・・」
依頼の期日やお得意先がどうのこうのと話を捲くし立てるマイ。後姿でエグザムに対し感謝と愚痴を同時に吐き出し始めた。
(不味いな。此処は一旦宿に帰って仕切り直そう。明日にもう一度魔法の相談をすればいぃのか?)
薄くなった煙に紛れエグザムが忍び足で退散しようとした時、マイは芝居がかった仕草で指を鳴らした。
物音たてながら連続させ自動的に閉まる扉と窓。施錠と留め具が閉まる音が同時に聞こえ、最後まで行き届いた演出で包囲を完成させた。
「えっ。」
エグザムは口を開け呆け面で硬直し、説明を求めて錬金術士へ視線を移す。止まらない汗と警鐘を鳴らす頭は走馬灯を再生し始め、少女が何かを企んでいる事を告げていた。
「残念でしたぁ。ここは私の領域なので逃げれないよ。大人しく椅子に座ってましょう。」
エグザムは出会いの時に体験したパイ子事案を思い出し、厄介な相手に目を付けられたと心の中で苦虫を噛む。
狩人の感性が思考を自動的に切り替えさせ、エグザムは言われたとおり大人しく椅子に座った。
「ああ丁度良かった。俺もマイに話が有るんだ。手が放せないようだし、俺から先に話すぞ。」
エグザムはユイヅキの呪いについて思う節を正直に話した。時として死中に活を見い出す狩人の戦術眼は、確かに光明を捉えていたのだ。
「確かに年代物の魔法具は鑑定士でも手こずる品と言えるでしょう。なのでエグザム君が疑問を感じるのは当然ですね。」
マイは瓶を傾け紫色の液体を釜に注ぐと、上半身を動かし何時もより速くかき混ぜる。するとあれ程釜から出ていた煙が消え去り、何時もの七色に輝く謎の釜に戻った。
「明日から私の迷宮探索に同行してください。それなら後ろからしっかり見守れるので、壁役ついでにユイヅキを調べてみます。」
手を止めず後姿で対話してくるマイに、足手纏いに成る不安と怖い物見たさを感じてしまったエグザム。顧客に対する少女の愚痴を聞きながら、虚構世界での新たな可能性を模索し始めた。
(元狩人の俺が盾の代わりに成るのか?強化された身体がどれだけ耐えれるか試す機会に成るな。正直危ない橋を渡りたくないが、今後の連携技や演舞考えるには丁度良い機会になるのかもしれない。)
能力と体は装備によって方向性が定まるとは言え、探索者同士が繰り出す魔法の技に限りは存在しない。そう教えられたエグザムにとって、初めての共同作業の相手が見た目同年代の錬金術士に成るとは思わなかった。
「ユイヅキの事は頼むとして、マイは虚構世界でどんな魔法を使うんだ?」
エグザムは釜を攪拌し続けるマイに対し核心を突く質問をした。仕事相手を知らなければ探索も何も始まらない。そう、当たり前の事だった。
「え!?言ってなかったっけ、釜魔法の使い手は道具魔法で身を守る事しか出来ないんだよ。頑丈さが取り得の私は正統な魔法遣いじゃないんだ。」
マイの告白を聞いたエグザムは思考を放り出して心の中で愕然と叫ぶ。
(遣えねえええ!)
道具魔法。具象化した危険物を用いた破壊工作行為と一部の輩が呼んでいる。
エグザムの朝は早い。日の出直後に目を覚まし身支度を整え椅子に座ると、机の上の魔導通信器が朝鳥の鳴き声を発するのを待つ?
「あ、今日は昼まで時間が有ったんだ。」
そう、今日の依頼はマイの同伴で下町周辺の探索と、可及的速やかに調合材料を集める事。覚醒段階の頭はそう思い出した。
(たまには二度寝も悪くないか。)
それまでの空き時間は睡眠に充てようと毛布を被った矢先、準備を済ませる必要が有った事を思い出した。
「何時もと違うと調子が狂うな。」
慣習に支配されつつあるエグザム。少し伸びた髪の寝癖を気にしつつ、通信器の回線接続を切ると身支度に取り掛かった。
(転移門が在る行政塔前で集合だったな。あの辺りの下層には幾つか道具屋が在ったはず、そこで買い物を済ませてしまおう。)
毛が細く柔らかい歯ブラシで歯を磨いているエグザムは、約束の時間まで何をして時間を潰すか考えた。
転移門。見た目は只の入り口だが、転送要員の技工士が指定した入り口へ送ってくれる。
場所は下町入り口前。二人は簡単な鉄柵で仕切られた壁の外側に、鏡から転送されて現れた。
「探索者が多い、湧き時の魔物みたいだ。何処で始めればいい?」
天空樹なら探索街とを繋ぐ石橋の陸地側に該当する場所には、見慣れぬ橋から放射状に伸びた街並みが並んでいる。
「そうだね、下町から少し離れようか。」
廃墟街を改装し、布や木材で補修した建物に人々が生活している。探索街より小さく人口も少ないが、住んでいる者は熟練の探索者が多い。
同じく廃墟街を外側へ歩き出した二人。何時もと大して変わらない服装と装備で、散歩感覚で廃墟を出歩く探索者達から遠のいた。
「あの瓦礫の山の向こうは残骸都市です。魔物が出る前に私の準備を済ませてしまいましょう。」
俊敏さと怪力が持ち味のエグザムと愚鈍で頑丈なだけの少女は、長い協議の末に単純かつ大胆な探索方法を立案した。
「それっ。」
マイは具象化した爆発物を廃墟の一階屋内へ放り込み、耳を塞いでその場にしゃがんだ。
(え、いきなり始めるなよ。)
地面にエグザムが倒れると同時に、三階建て廃墟の一階から衝撃波と粉塵が飛び散った。
「どうですか私特性の発破技は、凄いでしょ。」
石礫と化した破片が落ちて来て、後頭部を庇う腕に痛みが走る。エグザムは風通しが更に良くなった一階部分を見て、今更ながら釜魔法が生み出した業を目の当たりにした。
「ああ凄いよ。魔物と遭遇する前に体勢を整えてしまおう、マイ。」
立ち上がったエグザムは錬金術士に近付くと、主導権を握る為に有無を言わせず杖を奪い取った。あまりの威力に声が震えたのを隠した訳ではない。
「強引だね。ちゃんと優しく扱ってね!」
少女は膨れっ面で文句を言いつつ、少年が握る五芒星根元の十字部分に片足を乗せる。自らの肩提げ鞄を少年の肩にも回して、細い両腕と合わせて体を密着させた。
(町の骨董屋に飾ってあった古い盾を思い出すな。あの時は子供だったから重かったが、今なら持てるかもしれない。)
エグザムは右腕にしがみ付くマイの代わりに、左手で肩と杖を拘束具で繋ぐ。そうしなければ何時までも密着したままで、利き腕が空かないのだ。
「杖から手を放すぞ。」
そう言うや否や腰からユイヅキを取り外し、近付いて来る魔物へ向けるエグザム。いきなり雑に扱われたマイの抗議は、思考を切り替え矢を生成中のエグザムに無視された。
【対象:鎧蟻。】
エグザムは左足を前に右肩を後ろへ反らし、弦を引きながら黒い矢を生成する。
(ユイヅキ。単発必中の最高強度を頼む。)
「ちょちょっと、早く仕留めてぇっ。」
狩人は煩わしい右盾を瞬間的に揺らして黙らせると、何時もより強い波長を発する相棒から矢を放った。
ユイヅキが最大威力を発揮する間合いで、啓示に表示される命中の文字と矢が着弾し割れる頭部が重なる。それはマイの瞳にも同じように映った。
【鎧蟻を撃破。】
慣性の法則に従い砕け散った肉片が足元まで転がって来ても、直ぐ光の粒子に変換されて消えてしまう。跡に残った戦利品は三つの黒い結晶だった。
「直接変態化しなかったのは経験稼ぎを優先したから?エグザム君、私が居る事忘れてない?」
エグザムは語尾と眉間を吊り上げた少女を宥めつつ、体を左に傾け戦利品を回収する。
【黒粘土を三つ入手しました。】
「文句が有るんなら、俺を選んだ自分を呪え。」
エグザムはそう締めくくり、マイに対し狩りの始まりを告げる。何時の間にか己の首に両腕をまわした少女と一緒に、この体勢を選んだ理由を思い出す。
(魔物の群に対処するには魔法乱舞が必須。こんな魔法の遣い方は初めてだ。)
そう考えた両者は互いの顔を確認する為に前から横へ顔を回す。自然と見詰め合う茶色と灰色の瞳が、それぞれの顔に浮かんだ決意を捉えた。
(少しは反省してん?ユイヅキが反応してるな、魔物が近いのか?)
エグザムは腕を後ろへ伸ばし体を曲げると、解き放たれたバネの様に高く跳躍する。
先程悲鳴を上げたマイが、風穴を開けても不動の廃墟屋上から周りを見渡すエグザム。魔物を見つけても自らの啓示は反応を示さないので、隣の錬金術士を頼る事にした。
「マイ、俺の探知範囲は狭いようだ。代わりに周囲の状況を教えてくれ。」
己より高い視線を左右に振りながらマイは残骸都市の方向を何度も睨む。右肩の錬金術士が熟練探索者の威厳を見せる時が来たのだ。
「残骸都市の方に複数居るようだけど。ちょっとだけ待ってね、アレを貸してあげる。」
そう言うとマイはエグザムと共有している手提げ鞄から只のゴーグルを取り出し、装着までを片手でこなした。
啓示とは違う魔法が己の網膜に赤い光点を写し出す。視線をずらしても一定の場所から僅かしか動かないそれらは、エグザムが予想した以上の数だった。
「迷宮街から近場なのに大した数だ。物と心の準備は終わったか、マイ・フリール。」
己より歳も経験も上な少女にそう問いかけた少年。恐怖や興奮で高鳴る心臓の音を感じ取られるのが嫌だった。
獣が跋扈する森が廃墟に置き換わった光景に怖気づいたのだろう。そう考えたマイはエグザムの耳元で呟く。
「始まる前から力み過ぎだよ。若しかして緊張してる?そんなんじゃ爆発に巻き込まれてお陀仏だよ、エグザム君。」
遠回しの脅しが効いたのか、エグザムは杖を握りマイを固定すると、瓦礫の壁を廃墟の屋上伝いに突破する。
「ははっ、速い速い。もっと加速するのだぁ。」
エグザムは言われたとおり瓦礫の道を獣顔負けの速度で疾走する。様々な破片や石を蹴飛ばし踏み潰し、最寄の魔物の群へ突入した。
【対象:鎧蟻。鎧蟻。鎧蟻。・・・】
基礎や一階部分が潰れて傾いた廃墟が並んだ大通り。舗装された地面から木の根の様な枝が無数に生えていて、通りで待機していた無数の黒い魔物を見下ろせる足場と成った。
「上を跳ぶから発破で蹴散らして広場を作れ!」
マイは三つの筒を一つに束ねたそれを鞄から次々取り出しては、紐を抜き次第投げ捨てた。
「在庫一掃、在庫で一掃だぁ!」
同じような台詞を繰り返すマイと枝伝いに廃墟の通りを跳び回るエグザム。衝撃と爆炎を以て鎧蟻達を一掃し続ける。
(これだけ派手にやれば雑魚は逃げだすだろう。後は連中が来るまで周囲を掃討するか。)
鎧蟻だった物が次々光の粒子に変わる光景は、燃盛る木々と廃墟と合わさって過激さを増している。そんな只中に降り立った二人は、逃げ遅れたり逃げ場を失った鎧蟻を蹴散らし始めた。
「変態。」
エグザムはそう告げ光る矢を生成しだしたユイヅキを引き絞る。
「マイ、これが俺の魔法だ。」
わざわざ間をおいて打ち出した白い矢は、周囲から材料を集めて合成された矢ではない。エグザム自身の気力を消費して生成された固有魔法の一つだ。
白い軌跡は、向かって来た三体の鎧蟻を貫き消滅する。矢が風を切る音や魔物の外皮を砕いた音すら発てず、僅かな熱量さえも感じなかった。
「エグザム君が考えたとおり、扱い方に注意しないと身を滅ぼす技だね。私の釜魔法と同じで。」
黒い路面と同じ色の戦利品が、瓦礫の如くそこら中に散乱している。拾うだけ疲労しそうな光景はまだまだ終わりそうにない。
「最初、俺はこの魔法の力に喜んだ。探索者として恵まれた力に喜ぶのは当然だったが、ハルゼイの言ったとおりユイヅキは使用者の経験を成長させる。そのうち扱う俺自身が弦を引くだけの魔導機械に成るんじゃないかと考えるようになった。」
エグザムは喋りながら、炎に照らされ蠢く影へ黒い矢を放ち続ける。厚底の革靴越しに感じるザラザラとした路面が、歩くたびに変態化されていた。
「俺はもっと力が欲しいし、欲を掻けばもっと選り好みしたい。長らく独りで戦っていたから連帯技に特化した道は無理だろう。なら、何れ出会う仲間の事を考えて狂戦士の様な立ち位置も悪くない。」
【鎧蟻を撃破】
最後の魔物が光の粒子に変わり、辺りで動く物は炎を除いて無くなる。そしてエグザムの独白も終わった。
「うん、若いっていいね!帰ったら若返りの魔法薬でも調合しようかな。」
己の魔法に対する感想を期待していたエグザム。冗談には聞こえない返事に、内心溜息を吐きながら険しい表情をする。
「目標が来るようだ。マイ、例の物を。」
エグザムは錬金術士が道具魔法に用いる魔法道具を危険な存在として認識している。当然、その発言はマイの反感を買ってしまう。
「エグザム君、ぶつじゃ判らないよぶつじゃ。せっかく名前を決めたんだからぁ。少年よ、いざ真の名を告げよ。」
そう言いつつ錬金術士は、延焼が広がる通りに現れる魔物へ一枚のカードを掲げる。一心同体で戦う羽目に成った彼女は、己が盾役をしている現実を認めたくなかったのだ。
【対象:赤眼陸群】
魔導機械を彷彿とさせる肉体に、同じく蟻と良く似た生態の魔物が瓦礫を押し退け通りに群がった。炎に囲まれ紅さを際立たせる単眼の瞳が二人の探索者を捉えて放さそうとしない。
「氷炎の女王へ、僕の彫像を捧げよう。」
マイの手中で待機していた一枚のカード。透き通った蒼い生地に描かれた氷の女性像が具象化する。
(口答召喚なんて演出は今時流行らないと思うが。そもそも俺が唱える必要が有るのか?)
頭でぶつぶつ考えたエグザムは啓示に反応しないそれが吐き出した息吹を見て、身も心も凍りつく感覚に陥った。
(俺が唱えた筈なのに啓示が反応しないのは何故だ。それにこの威力、発破などとは比べ物に成らないぞ。)
総数がゆうに百を超える魔物の群れが長い息吹に包まれただけで、炎と一緒に氷の彫刻と化してしまった。
(これが魔法演舞の極み、化け物か。もし巻き込まれたりしたら、いや巻き込まれた方が悪いか。)
エグザムは氷に閉ざされ時間停止した通りを瞬きせずに見ていると、肩を揺さ振られマイが居た事を思い出す。
「速く部位回収を済ませないと魔法効果が消えるまで残り時間が少ないんだから。」
マイは手提げ鞄の口を限界まで開き、暗黒の中へ入れる品の回収を急がせた。依頼達成に必要な品がまだまだ沢山残っているのだから。
エグザムは俊足と怪力を発揮し、次々と氷の彫像から霜で覆われたピンク色の眼球を抜き取る。
「世界ごと氷漬けに成ってる。一体どんな奇跡を使ったんだマイフリール?」
少年の問いに対し、無い胸を反らし頭一つ高い位置で威張る少女。態度とは裏腹に魔法の正体を明かさなかった。
化け物。召喚士や魔物と道具遣いにとって、個人が出せる最大最強の三大魔法の一つだ。
上には上が有るように、魔法にも存在定義による格差が存在する。そう、格の違いだ。
柵で仕切られた天空樹の迷宮街は、静かだが不穏そうな街並みと言える。
筋骨隆々な上半身を曝け出す男達や、傷や痣を隠そうともしない銃士。あからさまに奇抜な化粧を施した黒尽くめの魔法遣い達が、ゴミが散乱する通りを楽しそうに笑いながら歩いていたのだ。
「マイ。此処の住人は見慣れない衣服を着ているが、あれも魔法の品なのか?」
エグザムは空き地に建つ一軒の掘っ立て小屋に入った錬金術士を追う。質問してばかりのエグザムに対するマイの返事は、何時もより言葉数が少なかった。
「お久しぶりです、イエスマン。約束の物を持って来ました。」
大きな垂れ幕をくぐった先では、錬金術士から渡された何かの結晶を、鼻が長い黄色眼鏡の老人が鑑定していた。
「今度の連れは随分若いな。十字架を背負わせるには早過ぎではないか、フリール君。」
瓦礫で組まれた掘っ立て小屋の内装は、驚くべき事に白を基調とした高級宿の内装と遜色ない。置かれている物は時計と通信器らしき何かの端末、そして壁と一体化した引き出し達だけだ。
「はいはい、どうせ私は罪な女の子ですよー。彼は私より二つ年下の元狩人、駆け出しを卒業したばかりのエグザム君です。」
錬金術士を手玉に取る白髪の老人にたじろいだエグザム。後退した髪の毛が相当な年季を物語っている老人へ挨拶を済ませた。
「おや、君は魔法弓を遣っているのか。若いのに今時珍しいな。」
わざとらしそうに目を細め自らの背中へ視線を送ってくる老人に対し、エグザムはユイヅキの紹介を最低限に留めて話す。
「古い魔法武器だが変態化の魔法が使える俺の相棒だ。魔導銃ほどの利便性は無いけど使い勝手は良いぞ。」
エグザムの話しに興味を失ったのか、イエスマンとマイは取引の話を始める。
「これだけ高純度なら五万で手を打とう。GかMのどちらで換金する?」
血より鮮やかで透き通った真紅の結晶。イエスマンが白い手袋越しに親指と中指で挟んだそれに啓示は反応せず、謎の物質と言えた。
「MとGの半分ずつでお願いします。」
マイの承諾を得たイエスマンは、台の上に置かれた通信器を弄くり一枚のカードを取り出した。
【対象:硬質紙】
エグザムは唐突に反応した啓示に驚いて声を出すところだった。表示された意味よりも、謎の魔導具から飛び出したのが只の厚紙である事に疑問を浮かべる。
(銀行の魔導機械か印刷機器の類だろう。此処では金銭の交換はしないようだな。)
初めて下町に来たエグザムにとって、目に映る全ての出来事が真新しく映る。まだ若い身である事も興味を掻き立てる材料に成ったのだ。
エグザムは謎の店が周りから何と呼ばれているか疑問に思い、イエスマンに何屋だと問うた。
「此処はね、只の合成屋だよ。」
紙に文字を書き込む老人から、怪しく間を置いて話された事実を知り、エグザムは居心地の悪い思いをする。後からマイに詳しく聞こうと独り反省した。
「ところでイエスマン。次の依頼の話は有りますか?」
マイの問いに対し眼鏡を触り表情を変えた老人。瞬間的にエグザムへ視線を送り、沈黙を以て応じた。
「構いません。彼も関係者です。」
イエスマンは執筆作業を中断させ、白いパイプ椅子から立ち上がると後ろの引き出しへ振り返る。
「古いのが一つと新しいのが一つ。君達なら両方処理出来るだろう。」
引き出しの一つを開け、中から二枚の写真を取り出したイエスマン。カウンター越しで解らなかったが、立ち姿は足が長く背が高い。
エグザムは己が与り知らぬ会話を進める二人に戸惑い、老人と少女を交互に観察し始める。
「最近多いね、やっぱり霧と関係してるのかな。今回も情報は少ないのイエスマン?」
少女の問いに対し、全身青黒い長袖長ズボンを着用した老人は首を縦に振る。
「左様。調べに行った者が数人戻らなかっただけだよ。こうもたて続けに人手が減っては私の商売もあがったりだ。」
マイはイエスマンから受け取った二枚の写真を交互に見比べている。エグザムは初めからこの為に連れて来られたのだろうと理解し、少女の右肩から写真を覗き込んだ。
(二つとも魔物の写真か。両方ともこの目で見た事は無いな。)
天然色で刷られた写真には、緑色の煙を纏った虫型の魔物と青白い光を放つ謎の発光物体が写っている。双方とも背景が暗く、屋内で撮影されたのか瓦礫が額縁の様に暗く写っているのが印象的だ。
「前よりも写りがしっかりしてる。この分なら手分けして討伐出来るかな。」
マイは二つの魔物を推定上位存在と断定し、まだ詳細を知らないエグザムに分担作業を提案した。
「討伐と言う事は相手は上位魔物なのか。流石に情報が無い相手と戦うのは無理だぞ。」
エグザムの返答に対し、この話の類は一度聞くと断れない事を教えたマイ・フリール。君なら多分出来るよと言い、エグザムの手を取り虫の写真を握らせた。
「少年よ、今から情報を伝える。元狩人なら己の力と可能性を信じたらどうかね。」
納得いかない表情で手元の写真を見つめるエグザム。その黒い魔物より、マイが取った行動の真意を知りたかった。
「その魔物は女王個体の亜種。表向きは南の残骸都市中心部で勢力を拡大させた大型の魔物で、鎧蟻の親玉とも噂されているな。場所が場所だけに金銭的な旨みが少なく探索団にとっても面倒事らしい。表の組合では対処しづらい案件は、優先的に下町の我々に回されている。」
要するに押し付けられた雑務の一つだ、と締め括ったイエスマン。眼鏡を指で押し上げ黄色いレンズで光を反射させた。
少ない情報だったが、話を聞いたエグザムには魔物の心当たりがあった。
「この依頼、探索組合が関与してないのなら何処で発注しているんだ?」
エグザムの疑問に対し、イエスマンではなくマイが答える。
「こういった話は何処かの組織からの依頼じゃないんだ。天空樹だと下町の住人や個人同士で仕事を遣り繰りするのに組合が関わる事が少なくて、他の迷宮より管理が行き届いてないんだよ。」
天空樹の各組合は利益を優先する経営で成り立っている。この事実は産業の発展に制限を掛けた政策と、小さい政府を維持し続ける態勢によるものだ。
(天空樹と言っても、所詮セフィロトの迷宮だな。しばらく豊かな生活を送っていたから、周囲に目を向けるのを忘れていた。)
「左様、対象の討伐が君に課せられた裏稼業なのだよ。詳しく説明しなくとも察している筈だろうが、標的はとある探索団の占有領域内で放置されている。私の信用を損なわないよう、速やかに処理してくれたまえ。」
少しズリ下がった眼鏡を押し上げ決め台詞を吐いたイエスマン。エグザムに対し例の結晶をチラつかせる。
「亜種の多くはこの結晶と同じ物を体内に保有している。何れも純粋な魔力の塊で、外に流通する前に金銭と交換されるほどの価値が有る。亜種を討伐した者のみが手に出来る特権の一つと言えるだろう。」
エグザムはイエスマンの話を聞きながら、白い手袋の上で転がされる宝を凝視していた。己が求める力に帰結するかも知れない戦利品に、胸が高鳴って仕方がない様子だった。
合成屋。収集品や戦利品の加工から魔法道具製作まで手がける迷宮の職人。
第四話「死神のけもの」
廃墟街を南東方向へ蛇行しながら流れる川。上流が幻想湖と繋がっているのに何故か本物の水が流れている。造成された土手の斜面に咲く花々は色とりどりの匂いを出し、これまた何故か魔物を寄せ付けていない。
(下流と違って瓦礫と土砂が少ないな。この辺りは崩壊の影響が少ないらしい。)
マイと別れたエグザムは上位の魔物を討伐しに、残骸都市を南北に別つ場所まで踏み込んだ。そう、魔物の棲家の只中に居たのだ。
舗装された硬い道を歩きだしてから数刻。エグザムはユイヅキを肩に担ぎ来ない魔物を警戒していた。
(川幅がまた少し狭く成ったな、何処かで水道と分岐したのだろう。巣が在るとすればやはり下に降りるべきか。)
土手の反対側は高い建物が並んでいて、どれも壁と骨組みだけの廃墟の壁が在った。時折建物の闇から魔物が顔を覗かせ、その都度襲来に備えなければならなかった。
エグザムは見飽きた廃墟の壁から視線を移し、水深が深くなる川の先を眺める。
「あの階段の下に横道が在るかもしれない、また調べに行くか。」
土手の草むらを踏み絞め斜面を下りるエグザムは、今回の探索目的とその問題点を思い出す。
(あの緑の霧は惑わしの香りと考えて間違い無い。装備が充足している筈の探索団を手こずらせた原因は、地理的な要因だろうな。)
エグザムは斜面を下り川沿いの狭い道を歩きながら、もう一つの案件の対処に向かったマイに愚痴る。
「ユイヅキが閉所で使えるか怪しいのにわざわざ別行動する必要が有るのか?若しかしたらマイは虫が苦手だったりしてな。」
そんなまさかなと自問自答したエグザム。道から飛び出した構造物を見下ろし、手摺や金属の階段自体を調べ通れる事を確認した。
エグザムは錆や腐食が少ない階段を下りる。特有の金属音が板を踏み締めるだけ響き、水が流れる音より心を逆撫でた。
(よし、この道で正解だろう。)
階段を降り、暗い大口を開けた下水道に立ったエグザム。足元で僅かに流れる水より大きな音が聞こえ、咄嗟にユイヅキを構えた。
【身体:正常】
癖で発動させた特殊魔法からは探索の障害となる魔法を検出できず、エグザムは錬金術士より渡された飴玉を一つ口に入れる。
(にがっ。何がお菓子感覚の探索道具だ、帰ったら本物の飴玉を買おう。)
例の手提げ鞄に入っていたマイ特製の万能飴。解毒抗毒特製が有る緑色の消耗品に毒づいたエグザム。手持ちの飴玉の中で惑わしの香りに効果が有る物が無かったのだ。
其処は以前通った下水道と大差無い造りの道。照明具の反応液が黄色い光を放ち白い壁を照らしては、水に浸食され滑り易くなった足元で光を反射している。
頭上に残骸都市が在る事を想起させる物が一切無い単調な道を歩くエグザム。しばらく歩いた後、人の通行を想定した地下道と繋がる丁字路に辿り着いた。
「何か臭うな。」
エグザムは地面に這い蹲り淀んだ空気を吸う。何かの粘土が乾いた様な独特な土の臭いがしたからだ。
幸いな事に苦い飴は殆んど溶けておらず、何時の間にか当たり前に持たされるようになった赤い魔法鞄にも予備が有る。依頼の報酬の飴も使う機会が少なく、何時の間にか備蓄と言えるだけの数になっていた。
(只の廃墟の道だな。こんな場所の地図なんて誰も作らないだろう。)
エグザムは瞬間的に地図を目に浮かべ、写真が撮影された中心部方向の右の道を選んだ。
(地下道は相当遠くまで続いているかもしれない。あの時俺は何を体験したのだろう。)
下水道と違い地下道には導力線と似たケーブルが壁の隅を通っている。照明具と思しき割れた硝子の中心で巻かれた鋼線が、何かしらの文明跡を物語っていた。
「上の廃墟より痛みが少ないな。古代の生活は今とどれくらい違ったんだろう。」
エグザムは苦いだけの飴玉を咥内で転がし、口から取り入れた空気を鼻から出す。鼻腔を薬品漬けにされる気分を味わいながら人工石材の地下道を進んだ。
残骸都市。天空樹の虚構世界に在る高層建築物が集中している地域を指す俗称。該当する地域は複数存在し、表面積だけはどの廃墟街よりも大きい。
エグザムは灰色の壁を擦ると、付着する茶色い汚れと共に人工石材の表層が削れた。皮手袋に付着した茶色と白の粉末を弾くと、空間へ溶け込むように漂う。
(此処の壁や床は他より材質が違う。造られた年代が違うのか、それとも区画ごと違う造りに成っているのだろうか。)
地下の探索を始めてから頻繁に地図を確認していたエグザム。大部分が黒いままの立体図は、地下も同様に暗黒の海に飲まれたままだった。
(残骸都市は何処もこんな場所らしい。確かに出入り口が有るかも怪しい迷路へ入ろうとする輩が居ないのも頷ける。)
黒や赤青の塗装で壁に書かれた古代文字。時折落書きと見られる人為的な痕跡以外は、整然と描かれた複雑な文字列が並んでいる。
エグザムは崩落で通れない道を迂回する為、横の階段を下り始めた。
(またこの絵文字か。こんな階段だらけの場所を走って行き来すれば、直ぐに疲れて転んでしまうだろうな。)
手摺の真横に描かれた赤い絵文字。丸い輪の中で階段を走り下りる人間が、輪を斜めに分割した線に抱えられていた。
滑稽な絵文字を鼻で笑いながら下の階に到着したエグザム。限定魔法の気配察知や身体検査で異常の有無を調べる。
(此処も只の廃墟か。随分奥まで来たが惑わしの香りの兆候すらない。もしかしたら魔物が活動出来ない場所では魔法の影響も無いのかもしれない。)
その階層の道は崩落しておらず、エグザムは中心部へ歩みを再開した。
地下街とも表現できる迷宮を、依然として中心部へ歩き続けるエグザム。謎の機械装置や配管、無人の室内を見つけても無視し、臭いと啓示を頼りに標的を探し続けた。
「隣も建物の地下か。まあ問題無いな。」
数刻の間歩き続け虱潰しに探索したエグザムは、柱が等間隔で並び人が通れる道を支えている場所で休む事にした。
箱型照明具を腰帯から外し地面に置くと、自らも腰を落ち着かせる。殆んど解けた飴玉を噛み潰して魔法効果を強制終了させた。
(芯は苦くないな。舌が慣れたかもしれない。)
エグザムは次の飴玉を具象化して口に放り込むと、再度咥内を支配する苦味を確認。味覚に異常が無い事にに安堵した。
「面倒な魔法さえ無ければ地底探検を楽しめただろうに。あー面倒だぁ。」
黄色に照らされた天井は今までの地下道と違い、床や柱と一緒に赤色の塗装が施されている。
塗料が剥げた場所は見当たらず、重い扉を開けるまで区画には土より鉱物質な薬品の匂いが充満していたのだ。
(まるで物語の冒険者の気分だ。)
反応液の光で赤みを増した景色を見つめ続けるエグザム。体を動かし続けた血が今度は脳の思考を加速させたのだろう、急に冒険とは何かを考え始めた。
少年が孤児院で読み書きを習得して間もない頃、何度も読み返してまで熱中した本があった。題名は「死神の狩人」。少年自身が真面目に狩や見習い仕事に励む契機と成った作品は、作者と執筆年代が共に不明であった。
「そう言えば魔物から採れる血色体は全部で何種類有るんだ?イエスマンに聞くのを忘れていたな。」
錬金術士から老人に手渡された赤い結晶は只の戦利品ではなかった。
「マイめ。経験を底上げ出来る品が有るのなら、前もって教えてくれてもいいのに。」
赤い結晶は特定の魔物、合成屋の主人が言った亜種等から入手できる。合成屋から出るまで明かされなかった結晶の秘密を思い出し、エグザムは現実を思い返す。
(そろそろ出発しよう。上の依頼主やマイを待たせる訳にはいかないな。)
エグザムは赤い空間を照明具片手に歩き出す。ぼんやりと輪郭だけ見える次の扉をこじ開けた先に何があるのか、その時はまだ知る由もなかった。
重い取っ手を回し扉を動かすと、隙間から眩い光が一直線に伸びる。少年は地下で見かける筈の無い光に驚きつつ、隙間から向こうを覗く。
地上と変わりない光に目が眩み、エグザムは目を細める。青い照明具の光だと錯覚した光景は、紛れも無く青空が広がる空の世界。
(おかしい、俺は下へ潜っている筈だが。)
金属製の冷たい取っ手を回し終わり横の壁に収納された扉が通った跡を見る。少年は境界と化しているその場所を跨ぐと、草で覆われた崖の上に立った。
呆然と立ちすくむエグザムはふと上を見上げる。天井が有るべき場所には晴れた日に見かける太陽と青空が広がっていて、暖かい風が皮装備を包み少年はまだ早い夏を告げるそよ風を感じたのだ。
「天空樹の虚構世界にも季節があったんだ。知らなかったな。」
冗談を言いつつエグザムは崖沿いに立ち下界を見渡す。今までに体験した事が無い高さと広さを兼ねた空間が底に広がっている。
(こんな場所が在るなんて聞いてないぞ。まさか未探索空間、いや在りえない。俺が生まれる前のとっくの昔に探索し尽くされてる迷宮に、そんな場所が有るはずない。)
エグザムは惑わしの香りや幻覚を見せる魔法を思い出し、目を閉じ苦い飴を味わいながら限定魔法を発動させる。
【身体:正常】
(正常だと!そんな馬鹿な、おまけに地図も反応していない。迷宮の限定魔法に干渉出来る魔法など有るはず無いのに。)
魔法の中心は何時誰の世でも迷宮に在る。多くの魔導具を世界中に供給している迷宮自体が最大最上の魔法だと、この時まで少年はそう信じていた。
エグザムは脱力したかの様に膝を折り、崖っぷちに手を突いて高みから森を見下ろした。
「そうか、此れが迷宮なんだ。此れが虚構世界なんだ。」
圧倒的な高さや絶景など、今のエグザムにとって些細な出来事でしかない。己が立つ場所が純粋な魔法で出来ていると確信し、歓喜のあまり理解が追い着いてなかった。
現実でも滅多に見られないほど低空を流れる雲の筋。地底には幾つかの丸い構造物が特定の配列で並んでいて、それら古代文明の面影を消すように森や湖が点在している。
眼下の光景は例の本に登場した秘境の一つと似ていて、少年は空想が現実化された光景に再度息を呑んだ。
(ここが本物の迷宮なら何処かに底へ下りれる道が在る筈だ。魔法の真髄が何なのかこの目で確かめてやる。)
エグザムは見た事無い低木が犇く一画に隠れた階段を発見する。地図が頼りに成らないと解り、狩人の勘を働かせたのだ。
「道が天然洞穴で無くて良かった。今回の探索はこれまで以上に長い道のりになりそうだな。」
エグザムは背が高い雑草を掻き分け、蔓草で覆われた階段を下りて行く。自身が去った崖に開いた通路の入り口が、自動的に消える事など知る由も無かった。
死神の狩人。迷宮の探索業から着想を得たと目されている全四部作の秘境叙事詩。
主役による回顧録視点に、主人公の生き様を織り交ぜた作風が人気の秘訣。
不親切なのか心を折る為なのか解らないが、単調な昇降階段の道が途中で途切れていた。
エグザムは不自然に入れ替わった洞穴の縦穴を、先が無い階段の踊り場から見下ろしている。
「人為的に造られた場所じゃない。何等かの魔法が働いている。」
底へ黄色い光を注ぐように手に持つ照明具を傾けたエグザム。光が屈折しているのか途中で効果が掻き消されているのか判らないが、簡単には下りれそうにない事なら理解できた。
(崖登り用の装備は買っておいたが、必要無いと思って持って来てない。所々出っ張った足場を頼りにするしかないな。)
そう考え一歩踏み出した瞬間、脳裏に別のエグザムのやり方を思い出した少年。物は試しと、途中で途切れた金属の手摺に手を翳す。
(ユイヅキ、硬く頑丈で太い矢を。)
エグザムが想像したのは、時に銃弾すら弾く鎧を砕いたアレ。殆んど変態化させた手すりが一気に縮み、手中に黒い棒状の物体が現れる。
【生成完了】
「何故だろう。初めてなのに良く馴染む。」
そう自然と零れた感想を装い決め台詞を吐いたエグザム。誰も見聞きしてないので、穴の底を見つめる。
エグザムは階段から跳躍し反対側の壁に右手の杭モドキを突き刺すと、すかさず左手で土壁に対し変態化の固有魔法を掛ける。
【魔法矢を生成、完了しました。】
そうして拳が収まるだけ穴を作りながら壁を下りて行くエグザム。予想どおり修復される壁との競争が始まった。
土壁に沿うよう瞬間的に体を落下させ、むき出しの岩や硬い地層に杭を突き立て体を固定。落下エネルギーでしなる体を利用し斜め下方向へ再度降下する。
(固有魔法が干渉されてる。此処では迷宮の虚構世界より強い魔法が作用しているのか。)
杭を突き立てながら、落下方向を調節する為に壁に変態化の魔法を掛けるエグザム。生成した矢を握らず捨て、代わりに欠けた穴に手を掛けた。
(迷宮内に固有世界を生み出すと莫大な魔力を消費するらしい。あの広さが張りぼてや偽装の類で無いなら、地表部に大穴が開いてる筈。探索団がこの事を隠し徹せる筈ない。)
頭上に掘った穴の一つが、凹みを直すように底から押し上げられ消える。強度が足りない矢をまた捨てると、エグザムは露出した岩に着地した。
「固有世界や魔法結界、いや謎の魔法部屋とでも呼ぶか。」
謎の巨大穴を考えながら下を見つめるエグザム。不均一に曲がりくねった縦穴の先は以前闇に包まれている。
(恐らく秘密の魔法部屋の類ではない。探索団がどうやって標的を撮影したか知らないけど、女王の亜種と何等かの関係性が有る筈だ。もしかしたらマイが言っていた原因なのかもしれない。)
エグザムは反対側の壁に突き出た足場を目指し跳躍。杭を刺して勢いを減速させ少ない地面に足を着けた。
(ただ、俺の固有魔法が使える限りは迷宮の理から外れていないようだ。今はこの杭に賭けよう。)
エグザムは三角跳びで岩を蹴ると壁伝いを再度降下し始める。その様は階段を転がる球の如く、何度も壁を跳ね黄色い光が底へ落ちて行った。
固有世界。虚構世界で行使可能な魔法の中には、周囲を作り変えて術者の支配領域に取り込む魔法が存在する。当然迷宮の魔法と干渉するので一時的にしか発動できないが、莫大な魔力消費を誤魔化す抜け穴も存在している。
苔むした木々の葉が洞窟から飛び出す土煙で汚れる。虚構世界でも精巧に再現されている環境に、エグザムは土煙の中から現れた。
「あぁ眩しい。体が浄化されてしまう。」
地の底に在る筈なのに殆んど地表と変わらない森の中。聞こえて来るのは木々が揺れ葉がざわめく音や、狩で聞いた獣の鳴き声だった。
(動物、いや魔物だろう。此処では独自の固有種が湧くようだな。)
エグザムはユイヅキを構えつつ苔むした倒木へ近付く。手持ちの鋼の矢だけでは心許なくも、見知らぬ世界に好奇心が湧いたのだ。
「紡がれる系統を示せ。」
大きな針葉樹の倒木が半分消えて、変態化した矢種のカード達が足元へ舞い降りる。
(此処の魔法は毛色が違うようだ。変態化しただけで付与効果付きの矢が生成出来た。)
左手で散乱したカードを集めながら右手に握ったカードを確めたエグザム。青い鏃から黒い棒と羽根を生やしたそれ等を赤い魔法鞄のカードの束に加える。
【具象化:青い毒】
啓示によって説明された矢の束を一本だけ残して矢筒に差し込むエグザム。鋼の矢と違い軽く柔らかい矢は折れ易く、狩人は扱い方に困った。
(軽くて硬い魔物には刺さらないだろう。青黒い鏃が重さの大半を占めてるから、投擲武器に使えるかもしれない。)
エグザムは獣の様な魔物の気配を漂わせる森の中を軽快に走りながらも警戒を怠らない。上の雲が地上と近いように、辺りは湿度が高く風が吹けば霧が頻繁に発生する環境と診た。
【対象:??】
前触れも無く上から飛び掛って来た魔物の顎を回避したエグザム。距離をあけて相対している中型の魔物を観察する。
(知らない甲殻種だ。上から来られるのは厄介だな。)
大きな顎と見えたのは間違いで、牙が並ぶ上顎から前方へ飛び出した二本の牙。平たく大きな頭に浮き出た黒い模様が蠢いている。赤い胴体から生えた二組の足と四組の腕は先端が鉤爪状で、どう見ても虫の脚にしか見えない。
エグザムは毒矢の代わりに鋼の矢をユイヅキに番えると、素早い動作で引き絞り放った。
だが赤い魔物はエグザムの挙動に反応し、背中の羽根を瞬く間に広げて前進。地面を蹴り体を飛翔させ、羽根と赤い残像を残して鋼の矢を頭で弾く。
エグザムは巨体が出せるとは思えない速さの突進を、心で愚痴りながら横に倒れて回避する。耳を劈く音に集中力が削がれ、矢筒から間違えて毒の矢を取り出してしまった。
(ちっ、変態化付与。)
体を地面と垂直に倒し急旋回した芸達者な魔物は、再度エグザムへ地面すれすれから肉薄する。どう見ても獲物の挙動を学習していたのだ。
【青の毒へ変態化付与】
覚悟を決めたエグザムは手が届きそうな距離まで魔物が接近するのを待ってから、最も短時間で放てる特殊魔法を放った。
一瞬だけ魔法付与された鏃と魔物の前頭部が火花を散らす。エグザムは己へ肉薄する二本の歯を握る最中、魔法同士が干渉する決定的な瞬間を捉えた。
【紅黒を撃破】
魔物が変態化され光に分解される光景を見ながらも、弾き飛ばされ尻が地面を擦って出来た跡を見つめたエグザム。付着した苔と腐葉土を掃い立ち上がると、大地の傷跡を踏み締め戦利品を回収しに行く。
「紅黒なんて名前聞いた事無いし、魔法同士が干渉した所為で危うく串刺しになるところだった。」
エグザムは矢を放った場所へ立ち、その時の足跡を踏んで射撃姿勢を再現した。
(俺の怪力なら牙を掴んで受け止めれると思ったが、此処の魔物は迷宮の魔物とは違うと考えたほうがいいな。)
エグザムは足元に転がる丸い宝玉に焦点を移した。
【対象:下僕の証】
啓示に表示された名はどう見ても魔物の素材とは無関係な名だった。エグザムはしばらく黒い宝玉を観察した後、カード化させ赤い鞄の空いた場所に差し込んだ。
(迷宮での名は体を表す。下僕の主とやらに会えれば真実を手に出来るだろう。)
そう考え再び駆け出した少年。下僕の兵隊や尖兵を辿れば本星に会えるとこの時確信した。
謎の大地に蔓延る謎の下僕達は、二本角が特徴の紅黒含め全部で四種類居た。何れも二本足で立ち四本の腕を有していて、それぞれ容姿と色が違う甲殻種の魔物達だ。
【魔物が複数接近、要注意量。】
一度に対処出来る量を超えてエグザムへ群がる虫型の魔物達。赤が空から紫の個体が地中から、黄色と緑色の個体が木々の間から湧いて来る。
(遺跡へ近付いた分また増えたな。何とか閉所に逃げ込まなければ危ういぞ。)
エグザムはユイヅキ主体で魔法を連発しながら、虫達と互角以上の俊敏さで森を駆け回っている。
(天空樹でここまで多くの魔物が湧くのは中央の島だけだ。地図は機能してない以上、自力で解決するしか方法がない。)
【黄岩、風緑を撃破】
エグザムは又少し減った気力を感じつつ、粒子分解した魔物が居た跡に転がる黒い宝玉を無視して走り続ける。
森の木々に偽装して進路上に待機している緑の中型魔物達。前足の鋭い鎌と大きな爪でエグザムを捉えようと前方から群れて走って来たが、攻撃手段が腕のみのである事から攻撃時は立ち止まる必要があった。
(何者かが指示を出しているのだろう。おかげで状況が少し解ったぞ。)
エグザムは高く跳躍したり木々の枝を伝って緑の壁を突破する。格闘戦ではエグザムを上回る速度の攻撃も、懐にさえ入らなければ脅威にならない。
(俺なら広い場所に誘い込むか空から物を落として消耗させる。向こうの親玉は個人相手の戦いには慣れてないようだ。)
一際背が高く大型の黄色い魔物が、エグザムの進路上の低木を押し倒し壁を成している。エグザムは侵入者を迎撃する方法が変わった事を目の当たりにした。
「数が減ったと思えば待ち伏せていたのか。迂回する余裕は無い。」
関節が黒く甲殻が砂砂漠と同じ色の壁役が相互に中腕を組んで木々を倒しながら迫って来る。
その背後に見える紫色の影と、自身の背後からも迫る羽と脚関節の音が狭まる包囲網を物語っていて、立ち止まるエグザムは決断を迫られた。
(緑と黄色は遅いから何とかなる。問題は赤と紫、あの範囲攻撃さえ対処出来れば網から抜けれるはず。)
エグザムは空を見上げ風向きを確認する。頭上でとぐろを巻く雨降らしは雨を降らさず外周を周っているままだ。
「せめてユイヅキを通さず変態化の固有魔法が使えたらな。」
実現すれば定説を覆すだろう叶わぬ理想を呟いたエグザム。獣が猟師達から逃げる為に執る方法を試す事にした。
元狩人の少年は矢筒に毒矢の束を差し込むと、手持ちの鋼の矢を数本持ち出し残りを捨ててしまう。「青の毒」の威力は既に実証済みで、壁を崩す最適解に相応しかった。
(もう少しで輪が完成する。先に飛び出すのは追跡組の紅黒だろうな。)
エグザムの読みどおり黄岩の長い壁が袋小路から輪に変化し包囲網が狭まり始める。輪を狭める為に一体ずつ黄岩が離れるたびに、隙間から風緑の集団が流れ込んで来た。
観念する振りを見せていたエグザムは、先鋒の紅黒達が頭上に到達した瞬間に駆け出す。目指すべき血路はただ一点、進路上を塞ぐ一体の黄岩だった。
(魔力を調整して関節皮膜を剥がせれば青の毒が効く。身体が硬直しては歩けず倒されてしまう筈だ。)
エグザムはユイヅキに対し鋼鉄の矢の最小変態化を命じる。走りながら一転を狙うのは造作も無いが、魔力集中だけは今だ感覚がつかめていない。
「ユイヅキ、魔法発動の遅延を追加。」
頼んだぞと心で叫んだエグザムの思いが通じ、ユイヅキが固有魔法を発動させ鋼の鏃に瞬間的な変態化魔法を張る。
【対象:黄岩】
表示された啓示が的と重なったが熟練の射手にとっては些細な要因としか言えず、エグザムは引き絞っていた指を離した。
なお走りながら二の矢を引き絞るエグザムから見ると、的に選んだ関節へ矢が吸い込まれ一瞬光った後、丸い跡に赤い薄皮が露出している。
(やはり外皮には神経が通って無いようだ。)
エグザムは後方から迫り来る足音に構わず的を視認すると、再び弦から指を離した。
青の毒と名付けられた毒の矢は標的の体内で鏃が溶ける仕組みに成っている。既に紫色の下僕「糸紫」に対して実証された効果と同じ現象が、脚を止め同属に引き摺られる黄岩にも表れ始めた。
エグザムはユイヅキ背中に掛け、代わりに青の毒を両手に具象化させる。ドミノと似たような原理で次々倒れる黄岩の壁の一部から脱出を図ろうとした。
(巻き込んだのは六体までか。もう少し猶予が有れば神経毒を他の壁に注入出来るのに。)
エグザムは脚を縮め震えながら硬直している一体の黄岩に飛び乗り、手足をとられ倒れた別の黄岩達の隙間から跳び出して来る糸紫の迎撃を始める。
「遅い。」
下僕四種の中で唯一毛に覆われた外皮を有し、同じく蜘蛛と同じ複数の目を有す魔物。口から吐き出した糸が散乱する場所を避け、エグザムは毒が効いて次々横転する魔物達の間を駆け抜けた。
(やはり紫は柔らかいな。硬いのは黄色と赤だけか。)
エグザムの考察どおり毒の矢は投擲武器として使えた。球を投げる様に回転運動を与えるのではなく、投げ槍と同じ動作でばら撒いたのだ。
(間接的な方法だがこれで俺の力の使い方がはっきりした。投擲芸は本当に便利な技だ。)
倒されたばかりの倒木の上を走り、地上の追っ手から距離を稼ぐエグザム。地面と接触して折れた枝や太い幹が、黄岩や風緑の行く手を阻む障害物と成っていた。
下僕の証。四種の虫型甲殻種から獲れる共通の戦利品。黒い宝玉は永遠の忠誠を表している。
木々の間から望む円形の構造物は、近付くにつれ大きさを増し、ようやく森を抜けたエグザムの前に立ちはだかった。
魔物の姿は無く閑散とした廃墟の壁を前に、どこぞの都市に在ると聞く円形闘技場を思い出したエグザム。
複雑に組まれた柱は途中で折れたり断絶していて、遠くから見ると在るべき天蓋が見当たらなかった。
(崖から見下ろした時は小さい遺跡に見えたが、残骸都市の建物よりも遥かに大きいぞ。)
周囲は森で囲まれていても遺跡とその外周には木々が生えておらず、廃墟街の惨状より保存状態が良い。少年は入り口を探しつつ何度もその大きさに驚いた。
「一周するだけで相当時間が掛かる。抜け道は何処だろう。」
エグザムは同一の人工石材で構築された壁を登ろうとする。すると途端に体が重くなり、不可思議な感覚に苛まれた。
「体が思うように動かない。何かの魔法が俺を妨害してる。」
エグザムは登るのを止め、素直に入り口を探す事にして歩き出す。
見るからに遠い道のりでも探索街よりはマシだと考えたが、魔法の影響で力が出しにくく走ると息が上がる。結局エグザムは円形の遺跡反対側で階段を見つけるまで歩かされた。
何処から見ても壁を保護する柱の足場が組まれた遺跡。白い石を削った階段が基礎の高台へと通じていて、階段を登ると天空樹の階段を上がる感覚がした。
(俺の身体強化が薄れ始めた。おそらく魔法結界の類だろう、魔物が近付かない訳だ。)
長い階段を登り壁に通された通路の先を窺うと、何か柱の様な物が現れては通り過ぎる。
「魔物ではない。まさか遺跡が機能しているのか?」
エグザムは梁がむき出しに成った通路を走り、分厚い壁を意識しつつ遺跡の内側に足を踏み入れる。
静止した湖面が日光で輝き、写し鏡の様に青い空を映している。顔を上げなくても流れる雲を観察できて、時折目の前を通過して行く透明の柱が湖の外周を回っていたのだ。
エグザムは数本だけ存在する柱を睨みつけたが啓示の反応は無く、何かの魔法現象と思われる湖面の緑光を呆然と眺める。
(天空樹の守り子のような植物ではないな。此処からでは湖の底が見えない。)
透明の柱が通過する外周部は、幅が有り底が見えないほど深い隙間が開いていた。今の少年の目線では空を写し出す湖面しか捉えることができない。
エグザムは遺跡の壁を内側から眺める。構造や概観は外と変わらず、天蓋が無くなった円形の壁としか解らない。魔法結界を発生させていそうな物は、高速で外周を回り続ける透明な円柱体だけだ。
「ユイ。いや、魔法はやめておこう。」
明らかに質量を持った柱が目と鼻の先を通過しても風一つ感じなかった。そう、どう考えても力場が働いているらしく、エグザムは見えない壁に手を触れた。
雷に打たれ様な感覚や、生身で導力車に弾き飛ばされた衝撃は無い。一瞬だけ薄い膜を押し退ける様な抵抗を掌に感じた後、永遠に回り続けるだろうと思われた円柱が停止する。
(何かの仕掛けか、それとも壊れ)
嫌な予感がして退こうとした矢先、虚構世界に入った直後と同じ様に体が宙に浮く。そして物凄い速さで湖面の中心へ引き寄せられた。
エグザムは手足や胴を掴まれた感覚に驚くも、湖を内包した遺跡が何の為に存在するのか考える。答えに繋がるだろう水面の輝きは、自身を運ぶ経路と目的地を示していた。
「此処が?魔法、結界の中心!?」
エグザムは相当な水量を溜め込んだ湖と判断していたが、中心から周囲を見渡すと水の膜が張られた巨大な発光装置だと理解する。
(光が具象化してる!何が始まるんだ。)
己の足元で様々な色と大きさの波紋を映していた何かが、水の膜を押し退け周囲を視界ごと変態化させる。それはあまりにも眩しい光だったので、エグザムは咄嗟に両目を閉じた。
【指定座標を確認中・・・照合一件。自動転送を開始します。】
この時のエグザムは己の啓示に表示された文字を理解できた事に安堵し、己が変態化される快感をまた味わってしまった。
エグザムは光の粒子に変換された自分が何か門の様な場所を潜った事を自覚し、体験している感覚が初めてでない事に気付く。
前にも遭ったと意識した瞬間、封印を開ける扉に吸い込まれた。
闇が支配する部屋で倒れたエグザム。体の隅々まで行き渡った力の余韻がとても気持ち良く、敏感な壷を機械で強制的に弄ばれる感覚に襲われ声に成らない悲鳴を上げる。
(声が出ない。体も動かない。)
傍から見れば事切れた死体が床をのたうち回り、派手に痙攣しながら踊っているように見えた。白目を剥いて涎を撒き散らし赤面した表情は笑顔そのものだった。
エグザムはしばらく悶絶していたが何かの奔流が嘘のように治まって安堵し、汗をかいている訳でも無いのに喉が渇いて水筒のカードを取り出した。
【水筒を具象化】
啓示が反応したのを確認し、水分を補給しながら視界に地図を投影させる。
(此処は以前通った場所だな。あれ、何時通ったんだ。)
エグザムは地図の範囲を縮小させると、何故か南残骸都市の地下に居る事実を知った。
(広い地下空間に送られたのか。あの魔導機械、絶対壊れてやがる。)
身に覚えの無いものの、地図は確かに正確に描かれている。通った事を意味する道は地上より深い場所に表示してあった。
エグザムは立ち上がり暗い闇を伺う。光源の反応液は洞穴降下が終わった直後に消してしまったので、急いで制御棒同士を接触させた。
やや弱い光に照らされた室内は、自らが出したものを除いて何も無い。型だけと成った窓枠と露出した人工石材の壁が黄色い光に照らされている。
(不味い、此処は虚構世界の迷宮だった。魔物が居て当然だ。)
エグザムは照明の光を最小限に弱め、錬金術士に返すのを忘れた魔物察知ゴーグルを着用した。
地図情報では大きな空洞に並んだ多数の区画が存在しているが、赤い光点が次々現れる魔物の巣窟と化していたのだ。
「気付かれて当然か。」
エグザムは迫って来る光点を迎撃する為に射線が通る二階通路に出ると、手摺から上半身を仰け反らせ背中のユイヅキへ手を伸ばす。
(多い。二十は居るだろっ)
ユイヅキの金属板に手が触れた瞬間、突然背中の重みが消失してしまう。手摺から前傾姿勢で下の道から近付く光点の動きを予測していただけに、エグザムは態勢を崩して膝を躊躇い無く手摺にぶつけてしまった。
エグザムは曲がった手摺の欄干を見下ろしつつ、痛みと膝あての状態を確認しながら消えたユイヅキを探し始める。
「何処行ったんだ。この状況で武器が無いなんて勘弁してくれ。」
ユイヅキを失った少年は咄嗟に下の階を照明で照らして探すが、相棒の姿は何処にも見当たらない。そして、蟻特有の足音を響かせ通路の柱を登ってくる音が右手から複数響き始めた。
(来る。奴等が来る。固有魔法を使えない今、あいつら相手に短刀での持久戦は危険だ。)
頭はそう考えていても、生き続けようとする体は自然と腰の短刀を求める。そして右手が短刀を掴んだ瞬間、感触と共に今度は万能ナイフが消えてしまう。
(なにぃ!)
エグザムは行き止まりが近い二階通路へ咄嗟に振り返ったものの、短刀やユイヅキを盗んだ存在の姿が見えない。代わりに黄色い光を反射させ赤みが増した単眼が二階通路上に浮かび上がる。
【対象:赤目蟻】
痕跡や影すら無く武器だけが消えてしまい、行き止まりへ後退した少年は泣きたい気持ちに成った。泣いて許しを乞えるような知能が高い魔物は御伽噺だけの存在だった。
「くっ。こんな所で殺されて堪るか。」
エグザムは瞬間的に地図を投影させ逃げ道を確認すると、反対側の二階通路へ跳んで渡ろうとした。
手摺を曲げ自らを砲弾と化して打ち出したエグザム。経験で強化された脚力なら十分に可能な筈なのに、天井に接触する前に失速して一階の通りへ着地してしまう。
(おかしい。此処にも魔法結界が敷かれているのか?)
だが身体検査や啓示に引っ掛かる魔法力は皆無で、惑わしの香りを感じさせる気配も無かった。
獲物の挙動に反応して動きを加速した赤目達が覆い被さろうと、無防備な胴を晒して次々落下して来る。その光景は不自然に緩慢で非日常的と言えた。
(また体が重い。これが俺の走馬灯らしい。)
それでもエグザムは魔物の落下速度よりは速く走れている現実に気付き、異常を実感しつつ逃走本能の赴くまま全力で粘土の地面を蹴り続ける。
(経験が一定水準に到達すると能力昇華されると聞いたが、こんな事も出来るなんて知らなかった。あ、もしかすると武器が消えたのもそれが理由か。)
エグザムは反対側の階段を踏み壊しながら二階の渡し通路に上がると、障害物が無い直線上の先へ更に加速させる。少しづつ体が軽くなり異変が終わりを向かえるのかと考えたエグザムは、頭だけ横に傾け背後の魔物の波を観測した。
(まだ終わってない、俺が加速しているんだ。これなら隣の区画へ避難できる。)
本来なら全力で走っても倍以上時間が掛かる筈の距離を、同じく息を上げずに走り終えたエグザム。革靴なのに金属製の足場で火花を散らせていたので、思い切って勢いを殺さず扉を蹴破ることにした。
【発動:破壊行使権】
更に加速した後、謎の魔法を発動させ鉄の扉を蹴破るエグザム。蝶番が砕け枠の一部を破壊され大きく凹んだ扉が、派手に手摺と衝突して只の粗大ゴミに変わってしまう。
エグザムは金属を変形させたにも関わらず雑草が生える地面を蹴ったような感触に驚く。
(凄い力だ。本当に肉弾戦で魔物を打倒する力が手に入るとは。)
動き易く成った体と獲得した力で気合が入り、広い空間の二階通路を走り抜けようとした矢先にそれは起きた。
「うぐっぅ。か、かぁらだがぁ。」
前触れも無く全身が石に成ったかの様に殆んど動かせなくなり、当然エグザムは格子状の足場で盛大に転んでしまう。
【状態:筋組織損耗(大)、擬似的活動限界。】
うつ伏せ状態のエグザムは死地から脱する為とは言え、過ちを犯してしまったのだ。
(拙い、このままでは魔物に殺られる。)
感覚が薄れ殆んど動かない右腕を動かし、エグザムは目の前に転がっている鞄から回復道具を取り出そうとする。既に自らに死をもたらす光点が高い天井の何処かから沸き始めていて、時間の猶予が少ない。
エグザムは右腕だけに力を入れ固定された覆いの隙間へ強引に手を捻じ込むと、手探りで幾つかのカードの束を掴み引き抜いた。
(身体疲労と損傷用の回復品は。くそっ、暗くて判らない。)
目の前の足場で散らばるカードの束を凝視して、それらしき輪郭が描かれたカードを一度に具象化させたエグザム。青以外の飴玉と一緒に消耗品を次々噛み砕いて飲み込んだ。
(こんな事すれば後遺症が残るかもしれない。マイの警告を無駄にしてしまったよ、ユイヅキ。)
回復魔法の乱用により体が熱くなる最中、エグザムは己の相棒の名を心で唱えた。震える体に感覚どころか意識さえ薄れ始めた矢先の事だった。
力なく壁と足場の隙間から垂れ下がる左手に心強い重みを感じ、変態化時の発光現象と共に体中が息を吹き返す。
【ユイヅキによる魔法効果:調律が発動。状態:正常】
エグザムは啓示を確認するより先に右手で体を押し上げ、華麗に後方回転した後ユイヅキの固有魔法を唱える。
「極光!変態化。」
弦を引きながら生成される何かから光が溢れ出し、瞬く間に射手の視界を覆う。右手が皮手袋ごしに太い棒を握っている事は理解できたものの、エグザムは目前の光点達の掃討を優先した。
(ユイヅキ、魔物を一掃しろ。)
ゴーグルが光点で埋め尽くされる直前に光の奔流が治まり、エグザムは白く照らされた赤目達へ向け右手を開く。想像とは違い光の矢は魔物へ飛ばず、弦に引き裂かれて光る無数の粒子を飛び散らせた。
ユイヅキは主に群がろうとした魔物達を、拡散する粒子と同じように次々変態化してしまう。弓の常識を疑う光景に対しエグザムは相棒の真の力を悟った。
「使用者と共に成長する武器。いや、まるで可能性の塊だな。」
進化とは可能性の取捨選択。不要な物を捨て未来を掴もうとする生物の根源的欲求で、本来魔導具に備わっている機能ではない。そう魔法品のみに可能な奇跡を起こす力と言える。
(確かに使い方次第で呪いの品にも成るだろう。だが、決して失敗作等と呼べる代物ではない。)
広い地下街の端から端まで光の泡を行き渡らせ、壁や天井を漂白する様な勢いで魔物を殲滅したユイヅキ。今度は変態化した粒子の残滓を吸い込み始める。
「成る程。艶消しの塗料だと思ったが、正体を隠すための偽装だったのか。」
黒い塗装が消え去り灰色に近い白色の複合弓に様変わりした相棒。相変わらず一枚の板バネが僅かに湾曲しているだけで、弦と共に紫の滑車が力強い意思の力を発している。
多くの文字で錯綜する啓示よりも、エグザムは光が治まった後に洗われた様な相棒へ賛辞を送った。
魔法品。超一級の魔導具を指す造語。解明されていない魔導具を示す業界用語。
交換したばかりの反応液が強い光を発し、一部で光を反射している湾曲した天井を照らし出す。
閉所や複数の壁が有る場所では魔物察知ゴーグルが機能しないので、エグザムは汗ばんだ額から魔導具を解除した。
来る途上、ユイヅキの魔法と身体加速を併用して魔物の駆除に専念していたエグザム。何処とも繋がらず一部だけ探索できた理由を究明しようと、半月状のトンネルを北西へ歩いている最中だ。
(地図ではもう直ぐ途切れる。そろそろ充填が終わる頃だな。)
【装備:ユイヅキ】
エグザムは魔法鞄に触れず、中から相棒を具象化して左手に装備した。
転送されるまでは、魔法操作は得意なのに魔力操作が苦手だったエグザム。結果的に魔法遣いとして基礎的な水準に達したのだ。
(これからは短刀を飛び道具として使い捨てにするだろう。魔力操作がもっと向上すれば、矢の様に自力で生成できるように成るはず。)
人には得て不得手が有る。どうしようにもないこの理念は、虚構世界でより顕著に表れるのだ。
エグザムは闇の向こうへ歩きながら、謎の迷宮で入手した戦利品や収集品が全て魔法鞄から消えた事を思い出す。
(てっきり特殊なカードに成っているだろうと思ったが、あの苦労はなんだったのだろう。)
ばら撒いてしまったカードを拾う時に何故かカード化していた万能ナイフを見つけ喜んだが、結局いくら探しても謎の迷宮で入手したカードは何処にも見当たらなかった。
「幻の類にしては体験した感覚が鮮明すぎる。まるで秘密の虚構世界だな。」
エグザムは地図が途切れる場所が目と鼻の先に迫ったので、照明具を腰帯に装着して少しずつ闇を削って行く。
淡い黄色が濃い灰色の壁を照らし出し、完全に行き止まりである事をエグザムに知らせた。
(行き止まりだ。殆んど一本道を通って来たのに、あの時の俺は確かにこの道を通った筈だ。)
アーチ状の天井と同じ人工石材の壁。扉や古代文字は無く地面や天井との境界に不自然な箇所も無い。
エグザムは滑らかな灰色の壁を触りつつ、端から端まで隠し通路や扉が無いか調べてみる。
(この辺りが変動する話は聞かない。此処は島から遠い場所だ。)
虚構世界の地形は不定期に変わることがあり、天空樹だと塔が在る島でよく目にする光景だ。この現象は固有名詞で呼ばれたりせず、ただ「変動」と呼ばれている。
結局どれ程調べても只の壁だった。周囲と同じ外壁の類に見え、大抵の者は建設途中の道と判断するだろう。
エグザムは再び道の中央に戻ると、両手を壁に当て魔法を唱える。
「【座標表示。転送開始】」
本人すら明確な原理と原因を知らず、啓示に直接入力した命令が曖昧な記憶を鮮明さへと近づける。壁自体が変態化していると錯覚する程の眩い光の中、エグザムは一つだけ確かな事を考えた。
(ここで転移されたのか。これで三度目の転送だな。)
瞼を閉じても眩しさは衰えず、身体が粒子に変わる感覚が前回と違うことに気付いたエグザム。虚無に感覚ごと吸い込まれる最中、期待していた快感を味わえなくて落胆する。
【転送完了。警告:惑わしの香りが侵食中】
眩い光が治まると同時に自身が固い地面に立っている事に安堵した矢先、身体検査が事態の深刻さを警告してくる。
【万能飴を具象化。魔物察知ゴーグルを装備】
エグザムは再び後悔をせずに済むよう、素早い動作で万能飴を口に含んだ。
(此処も探索済み。あの時俺の記憶が消えたのは、此処に転送されたのが原因だろうな。)
それでも直前の記憶が完全に消失しなかったのは何故だろう。そう考えつつエグザムは、巨大な縦穴に巡らされた坑道の採掘通路から魔物を駆逐する方法を考える。
(巣の中だな。後ろが壁で助かった。)
闇に蠢くもの達を少し曇ったゴーグルが捉えると、瞬く間に赤い光点がエグザムの視界を埋め尽くした。
魔物が掘った坑道は起伏が激しく洞窟と言い直しても差し支えない程狭い。そんな場所に大量の鎧蟻が群がれば、壁が削れ時機に天井も崩落するだろう。
「散らばれユイヅキ。」
エグザムが放った光の矢は術者の命令どおり途中で放射線状に分散する。一つ一つは小さな棒状の魔法だが、どれもエグザムの気力を消費しユイヅキが固有魔法で生成した飛散体なのだ。
硬い甲殻を貫通し蜂の巣状に穿たれた鎧蟻達で坑道が一瞬埋め尽くされるが、エグザムが穴から出る妨げとならず次々光に変わった。
エグザムは高威力の魔導銃と同様に、魔法を撃ち続け魔物の塊を蹴散らし続ける。啓示に表示される撃破の対象は、既に個体から群に変わっていた。
【鋼の矢を具象化。装填完了】
エグザムは気力の消費を抑える為に、魔法鞄に仕舞っていたカードの束を少し減らし、一本の光る矢として纏めて放った。
ユイヅキ固有の飛散魔法と似た様に、実体化した鋼の矢が螺旋状の下り道から登って来た魔物達を砕きながら纏めて吹き飛ばした。
【群を撃破:黒蜘蛛。鎧蟻達。赤目蟻】
(討伐用に大量に持って来て正解だった。次の探索からまた素材探し決定だ。)
苦い飴を舐めながら魔物へ魔法の雨を降らせる少年。時に近付いた蟻を穴の底へ蹴飛ばし、鎧蟻の足場を走り抜ける。無双状態を維持しながら未探索部分の穴の底へ辿り着いた。
「はぁ。凄い数だったが、雑魚ばかりでつまらん。」
状態異常では無く純粋に興奮気味のエグザム。転送して来る前に通ったトンネルより丸く大きな通路の輪郭を見渡し、獲物を探しながら走りだした。
(魔物と言っても所詮蟻。壁に貼り付くのが上手いな。)
黄色い光を殆んど反射しない土の壁から、貼り付いた鎧蟻が疎らに酸を飛ばしてくる。単体からなら回避し易い曖昧な狙いも数が揃えば厄介で、避けきれないと判断したエグザムはユイヅキを頼る。
【結界発動:鉄壁の意思】
エグザムは二つも有る事を知ったばかりの防御魔法を発動させ、強酸性雨で溶け始めた巨大通路の出口付近の岩場を飛び越える。
赤目蟻や黒蜘蛛の成体だった物が泡を吹き出しながら溶けてゆく。戦利品すら残さず酸の海に沈んだそれらを見て、エグザムは四色の下僕の方がマシだったと痛感した。
「気力の消費が激しい。味方や巣まで溶かしてでも侵入を止めたいらしい。」
走るエグザムを卵状の薄い紫色の光が包んでいて、足元含め上から降って来る触れたら危険な液体を無効化している。気力の消費が激しい理由はその性質が特殊なのが原因なのだ。
坂を登り終え上を見上げたエグザムは、黄色い光が何も照らさない虚空の天井に驚く。
「まるでドでかい暗黒の鏡だな。」
どこぞの国の巨大墳墓を彷彿とさせる小山の頂上で、僅かに見える白い腹を羽毛のように着飾った巨大蟻が鎮座している。更に従えた様々な配下をケーキの具の様に配置した布陣は、緑の霧と殺意で満たされていたのだ。
【対象:城塞女王(亜種)】
その魔物は魔物を生み出す製造機としての価値しかない。己は戦わず配下にあれこれ指図して、常に守りを固めて敵を排除してきた。
その生き様を物語る様々な配下がエグザムへ迫って来る。下っ端達とは違い戦う為に生み出された魔物と言える。
【対象判定不能】
赤黒い胴に口から二本の角を生やした四足歩行の大型種が迫って来て、全身が黄ばんだ装甲に覆われた四つ腕の巨人が砂山を下り始めた。
細い胴体と腕が闇の中で僅かに光を反射させている大型の何かと、砂山の斜面から黒い目だけ出す魔物達が此方を観察している。
エグザムは巨大化した紅黒らしき魔物の集団に舌打ちし、迫り来る巨体の集団へユイヅキを向けた。
(あの模様と似てる。あの世界はこいつ等の託児所だったのか?)
【発動準備完了:導力螺旋】
ユイヅキの射線上に顕現した魔法球に光の矢が貫通し、ユイヅキの固有魔法が螺旋の形をしたエグザムの固有魔法へ昇華する。
甲殻を中身ごと消滅させ、巨大な切削機械の様な魔法で次々粉砕される配下達。スクラップの断末魔は砂場を削りつつ肥大化する魔法の渦に掻き消され、屍も空間を照らし出す眩い光の渦に消えてしまう。
【群を討伐:赤染め。鎌太刀。砂埴輪。土蜘蛛。】
エグザムは腰の飴袋から赤い飴を二つ取り出し、苦い緑の飴を吐き出してから口に入れた。
(威力は十分。連中が畳み掛けてくる前に、隙を突いて頭を潰してやる。)
噛み砕いて胃に落ちた飴玉がエグザムの気力を内側から溢れさせる。
一度に大量に摂取すると魔力が暴走してしまう危険な飴玉。使用者の体内で消化され始めると、内包する莫大な魔力を気力へ変換補充してくれる旨みの塊。
気力の心配をする必要がなくなったエグザムは、再び闇に包まれた巨大な砂場を走り出す。目当ての玉座まで道のりは険しい。
「次は直接導く。」
再び導力螺旋を放とうと気力をユイヅキに送るエグザム。派手に穿ち崩れた切削痕の足場は耕したばかりの畑の様に柔らかく、射程に標的を納めるまであと少しだった。
黄色く照らされた有視界内に巨大化した風緑の様な魔物が現れ、ユイヅキの射線を塞ぐように壁を成す。
(あいつ等も上位種だろう。纏めてこ)
そう考えた矢先。足元の砂場が崩れ始めエグザムは咄嗟に後方へ跳び上がった。
「まだ残っていたのか。砂の中は察知出来ないようだ。」
己がいた場所を光の矢と似た何かが通り過ぎる。黄色い光を反射させた飛翔体は細長い何かだった。
【発動:限界加速】
エグザムは砂場を全力で駆け降りる。蟻地獄ならぬ蜘蛛地獄に巻き込まれては助からないと踏んだのだ。
(あの女王から蟻以外の魔物が生まれるのだろうか。いや、惑わしの香りで支配しているのだろう。)
エグザムは新しい万能飴を口に入れ、再び漂い始めた緑の霧の先を警戒する。
(最初より霧が濃い。俺を危険と認識して救援を呼んでいるだろう。早く仕留めねば。)
気力の充填を済ませもう一度霧を払おうと、エグザムは闇の先へユイヅキを向ける。
砂山の斜面は既に穴だらけで、何等かの暗器を隠し持つ土蜘蛛と生き残った配下達が油断無くエグザムを見定めていた。
(確かに此方の射程では的まで届かない。持久戦は向こうが有利、ならあの力を解放するしかないな。)
エグザムは動悸が早くなるのを実感しつつユイヅキを下ろす。
【装備解除:ユイヅキ。解除制限:動体演算。】
不自然なほど高まる動機と汗ばむ額。エグザムは回復の飴玉をまた二つ左手に納めると、走り出し砂を撒き散らせた。
(限界まで三十秒程度。それまでに蹴りをいれてやる!)
エグザムは照明具を右手に掲げ、前方の進路上へ光線を集中させる。すると、前方のみ少しだけ改善した視界内に、照明の光で目を眩ませている魔物達が照らしだされた。
土蜘蛛達が築いた潜伏用塹壕を飛び越え。変わらず足が遅い鎌太刀同士の隙間へ飛び込み。完全に虫の骨格から逸脱した手から飛んで来る砂を被りつつ、傍観している赤染め達とすれ違って頂上へ跳躍する。
エグザムは落下軌道上で慌てる的を見た。自然に口角が吊り上がり、伸ばした右足に力が入る。
【発動:破壊行使権】
女王は何等かの魔法を行使しようと体全体を発光させるが、時既に遅くエグザムの飛び蹴りで鎧蟻と同じ胸に風穴を開けてしまう。
【城塞女王を討伐。鎧蟻群団を殲滅しました】
魔物の群団を駆逐するのに簡単な方法は一つだけで、群を統率する魔物を狩れば良い。支配個体が消えれば、生み出された魔物達や魔法も光に成って消失する。
砂を巻き上げ埋没したエグザムは、もがきながら顔だけ出して闇の世界を窺う。ゴーグルに越しに幾つかの光点が見えて、何かしらの魔物が自身へ迫っていたのだ。
(やはり別の種なのか。あの迷宮まで惑わしの香りが届いていたんだろう。)
などと考えつつ、あわてて体を動かして砂縛から脱け出そうとする少年。少年からは闇で見えなくても、魔物達は獲物がそこに居る事を理解している。
(砂がどんどん硬くなってる。このままじゃ脱け出せなくなるぞ。)
光点が明滅し間近まで迫っている事を告げている。左足に力を入れ踏ん張りながら右足を引き抜いたエグザム。ようやく砂縛から脱出したその時、左手の違和感から自らの力が低下している事を思い出した。
「落ち着け。」
己に暗示を掛けたエグザムは、砂が付着した左手を口に掲げ万能飴ごと青い飴を噛み砕く。興奮と疲労で薄れる脱力状態から己を取り戻そうとした。
【対象:赤染め】
エグザムは力無く横に倒れ、振り下ろされた巨大な爪が砂を撒き散らす光景に度肝を抜かれた。
(飴の効果が薄くなってやがる。二度も使うんじゃなかった。)
体の消耗が回復し始め、鈍い痺れと痛みに堪えながら爪の薙ぎ払いを回避するエグザム。巣が崩壊するかどうか判る瀬戸際なのに、と悪態を吐いた。
その時それは現れた。それまで照明具の光が周囲を照らしていただけなのに、白く淡い輝きがエグザムの心に希望を灯す。
【対象:扉】
エグザムは震える膝を無視し白い鏡へ跳躍すると、巨大な爪が背後から鋭い棘を皮鎧に突き立てた。
「あぁっ。」
脚の先端ではなかったのが幸いし、押し込まれる形で鏡へ肉薄するエグザム。背中に突き刺さった棘がちくちく痛みを発している事より、目前に迫った鏡に既視感がしてならなかった。
群団。群を形成する魔物集団の中で、生まれながらに階級格付けされている魔物を指す用語。統率個体が生まれた時からか、群を形成した時から呼び始めるのか定かではない。
「ようこそ新たな死神の子よ。」
うつ伏せに倒れたエグザムは背中から痛みが消えた事より、目の前に居る女性らしき何かを警戒する。
柱が無い天井と床が遠くまで広がっていてそれぞれ謎の図形が描かれてある。エグザムは自身以外で唯一の生命体に所在地を訊ねようと口を動かす。
「此処は我が固有世界の一部で十一の座の一つ。お前達探索者からして見れば、言わばアトリエだ。」
若干赤みのある長髪を背後で束ね、虫の皮の様な黒い装束を纏い首と首元を露出した女。頬と目元に丸い斑点の様な刺青が有り、セフィロトでは珍しい褐色の肌を強調させている。
(固有世界。俺は危ないところを魔術師か魔導師に救われたのか。)
エグザムは正常に戻った体を確認しながら立ち上がり、己の名を告げ感謝の言葉を送った。
「お前を救ったのは私ではない。迷宮の意思がお前を領域の主である我が懐へ運んだのだ。驚いたか?」
【対象:認識外】
啓示が頼りに成らず地図も反応しない薄暗い世界。部屋の窓と思われる場所から指す赤い光が、不思議な事に部屋から赤い色を失わせていた。
エグザムは警告と警戒を含んだ口調で問う。
「人間じゃないな何者だ。」
一歩下がりユイヅキを装備しようとするが、魔法が全く反応しない事態に困惑するエグザム。己の醜態を面白そうに鼻で笑っている領域の主を睨んだ。
「わかりやすく言えばそうだな。我は十一柱の管理体の一つ、そして残骸都市地下の領主。元魔物の魔法使いが妥当なところだろ。」
自らを元魔物と主張した黒衣の魔法使い。エグザムに対し、一方的な口調で一つの真実を話した。