五章後半
ラノイ台船の看板を掲げた大きな木造倉庫内には、潜水用潜水具だけでなく使い古した漁具や海中から引き上げたと思われる魚の骨や歯などの収集物が保管されている。接待用の長椅子の周りの棚にも魔獣類に分類されている海獣を模した模型やぬいぐるみが飾られていて、棚から溢れ出た置物が少ない足場を更に減らしている。
そんな倉庫と並んだ事務所内で行われている片付け作業が終るのを待ちながら、俺は一人考え事に耽っている。勿論怪しまれぬようユイヅキとの生体接続を切っていて、生体痕が表に浮き上がらないよう能力の多くを制限している。
俺が潜水用具を借りに来たのは、魔神伝説と魔導生物の手掛かりを探す為だけではない。天気予報では十九日頃まで天候が安定している。この四日間を目安に製作した三つの小型水晶体を埋め込む触媒の素材を採りに来たのだ。
擬似魔導の完成予想図はすでに出来上がっている。擬似魔導具は土産か景品用の照明具。実際に使える魚採り用の三股槍。そして簡単な工芸品にも見える漂流木材製の一体弓として製作し、それぞれ伝説の魔神の名をつける予定だ。
これ等を製作する際に必須となる素材があり、俺は今回の海中探索で「海獣の鱗類」と「サンジラの殻」と「虹色深海樹」を採取しなければならない。
これ等の素材が必要なのは魔獣素材に共通する虚構世界での安定性と能力及び魔法効果の増加効果が見込めるからだ。計画を実施するにあたり、擬似魔導具をある程度使用者に使いこなしてもらわないと困る。ここに来る途中に三柱合体と名付けた魔法乱舞を発動させる為にも、使用する探索者にとって十分な恩恵を得れる代物でなければ成らない。
三柱合体が発動すると使用者に虚構世界へ干渉する能力が付与される。表向きは使用者自身の経験に依存した独自の武具が召喚され自動装着される仕組みだが、この機能の正体は外部から虚構世界に介入する為の中継装置である。
俺はこの中継装置を外部から操作し浮遊島の三つの島、別命だと神々の箱庭たる虚構世界に生き延びた魔導生物かその手掛かりとなる証拠の有無を探るのが主目的だ。せっかく手に入れたこの力を更に高みへ導く為にも、魔導生物本来の魔導細胞は是が非でも欲しい。
その為にも今は重要な素材を三つ集めるの事を優先せねば成らない。昔は良質な鱗が海岸線でも採れたらしいが、今は海に潜り砂や石を掻き出さないと見つからない代物だと言われている。場合によっては海獣の幼体を直接狩るかもしれないので、海中探索にユイヅキを持って行く必要が有る。
そうして俺が次に倒すべき海獣の事を考え始めた矢先、掃除終わりの片づけ作業が終わったのか倉庫兼事務所内が静かになった。俺は視線を亀裂や磨り減った机から上げ、右隣の棚向こうへと移した。
「おまたせお客さん 私はセラ・ラノイ この店の看板娘をしている 用件をもう一度始めら話してくれないかな」
そう言いながら俺の死角内に在る、薄汚れ傷口が目立つ黒い革張りの長椅子に座った看板娘。俺より体がでかく女性では珍しい逞しそうな筋肉を青い作業服の半袖半ズボンから露出させている。
この国に入った当初は顔の骨格が少し違う人種に驚いていたが、今更ながら西大陸風の堀が深い顔と小麦色の髪は日に焼けた肌にお似合いのようだ。
「台風明けの探索季節に深い所まで潜る予定だから だいたい今日含めて四日間ほど潜水用具を貸して欲しい 出来れば呼吸用の管が浮きと繋がっている種類の物を望む もし無ければ圧縮容器付きの潜水服と必要そうな潜水器具も頼む」
挨拶程度に用件だけを話した心算だったが、セラは俺の注文内容を理解したようで、長椅子から立ち上がり道具を持って来ると言ってそのまま倉庫内奥へ戻ってしまった。
契約の説明や貸出料を含めた補償金の話も終わってないが、荷渡し業や引き上げ業以外の商売もしているとの情報が正しかったのは理解できた。そう俺が判断してから一分と経たずに、セラは大きな合成樹脂製の透明な浮きと幾つかの種類の潜水服用頭装備を持って来た。
「とりあえず水深百まで潜れる物を持って来たから此処で体に合う物を選んでしまって 私は先に下の格納庫で準備を始めるから そこの棚を使っていいから不要な物は外して下りて来てね」
そう言いながらセラは陸地側に有る屋内部屋の扉を開け、扉から下へ続いている階段を下って行った。
おそらく貸し出し契約を済ませる前に俺が必要としている潜水用具を選んでしまう算段なのだろう。倉庫内に置かれている古い物を使うより、下の船着場に置いてある物を使う方が手っ取り早いらしい。
俺は廃材から切り出した木材で作ったと思われる低い机に置かれた頭装備の一つを手に取り、汗や潮の臭いが染み付いた丸い金属製の頭装備を被った。
(少し手に取った時より重く感じる。この程度の重量なら動きが制限される事も無いが、内側を覆う保温用の断熱材は要らない。)
俺は硬式潜水服用と思われる最も大きな丸い頭装備を外して机に戻すと、今度は軟式潜水服用の分厚いゴムで覆われた黒い頭装備を手に取った。
(これは外側から閉めて固定する形式の物だろう。呼吸装置を簡単に取り外せるから、素人の俺でも扱い易いように出来ているらしい。確か潜水時間に限りが有ったような気がする。)
頭を左右に振ったり傾けたりした後、俺はゴム張りの装備を外して机に置いた。そのまま手元に手を戻さず最後の頭装備を取り二番目に大きなそれを被る。
(思ったよりも伸びるゴムだ。口周りの締め付けが程よく心地良い。結局、通常潜水用の装備の方が素人の俺には扱い易いか。)
俺は水中作業や同じく水中土木工事用の潜水服を諦めた。そして大きなゴーグル付きの潜水帽を被ったままユイヅキ以外の荷物を棚やロッカー内に押し込むと、長椅子から遠ざかり薄い青色の小樽の様な浮きを手に持ち階段を降りて行く。
階段は全木製構造で旅行鞄等の手荷物を持たずとも軋み音を発している。更に足元がやけに冷たく感じるので少し前にかがんで足元を見ると、木枠の隙間から緑色の海面が見えた。
(あぁ海の上だったな。身の毛もよだつとはこの事、泳げない身には水深が不明瞭な場所は辛い。)
俺はそのまま遅い足取りで階段を降り、倉庫を支えている堤防らしき基礎の上を海側に進んだ。
看板娘が格納庫と呼んだ場所は船着場になっていて、小型漁船なら二隻は入りそうな広さが有る。今は船が無い空っぽの船着場だが、船を留め置く堤防らしき基礎部には倉庫以上に様々な備品や機材が保管されている。
「へぇー その弓を背負って潜るからそれを選んだの 見たところ魔導具の様だけど随分かわった方法で調査するんだね」
そう言ったセラは沖へ伸びている桟橋と基礎堤防との継ぎ目辺りに置かれた大きな道具箱の蓋を開け、中から大人用の黒い全身密着服を取り出した。
大人用の全身密着服と言っても小柄で細身の女性等が着る類の物らしく、すこし腰や胸辺りの膨らみが目だっている。
(そう言えば身長を百七十一センチに設定したまま忘れていたな。まぁこれ以上でかくしても魔素の維持消費量だけが増えるだけだし、何より選り好みが出来るほどの金も無い。)
セラは俺に密着服だけでなく、水切りや各種呼吸用装置を含めた重り帯も箱から取り出した。流石にこの場所で着替えろとは言わなかったが、倉庫内に戻って試着を兼ねた寸法調整をすると言われ、俺は少しの間何を言うべきかわからなくなってしまった。
「ああ解った それと料金や補償金の話を聞きたい まだ宿を探してないから宿代の為に節約したいのだが」
セラは中から必要な装備を取り出した道具箱の蓋を閉めながら料金説明を始めた。内容はアトランタで情報収集ついでに見つけた求人案内広告に張り出されていた内容と同水準で、貸し出し用代金と装備の紛失や修繕用の預かり金を含めた四百五十G。海中探索が本格化する年越しはじめ頃を考えたら悪くない金額と言える。
「大切に扱えよ なにせ特に袋に入ってる物には替えが効かない装備も有る 説明書をしっかり読まないと溺れちゃうぞ」
セラは両手に密着服含め様々な機材や装備品を持つ俺を後ろから押しながら探索手順の説明を始めた。内容は最近の海の状況や船の航路に入る危険性。そして探索業界なら当然の自己責任範囲での活動遵守。俺にとって虚構世界が無い本来の探索業は初めてだが、やはりどの探索業も人が寄り付かない何かしらの危険性を内包している。
「堆層水域には入らないでね 今は孵化したイノラやサンジラが共食いをしている最中だから中間水域を越えた個体も来ている 迂闊に島や遺跡から離れて深場を泳いでいると食われちゃうぞ」
俺は話しを黙って聞きながらセラと共に階段を上がり、事務所とは壁で区切られた大きな寝台付きの個室に案内された。
「この部屋は親父の部屋だから散らかすと海に沈められるから注意してね」
俺がクッションを薄い生地の白いシーツで覆った寝台に腰掛けると、セラは唯一の出入り口から出て扉を閉めようとした。
「あっ そう言えば名前を聞いてなかった お客さんの名前はなんと言うの」
俺は己の名を言いながら上半身に着用している革の羽織ごと白いシャツを脱いだ。露になった細くしなやかな上半身は日に焼けておらず白く、脂肪どころか筋肉も少ない体は少年と殆ど変わらない体系だ。
「イクサユメなんて名前は珍しいね セフィロト出身のようだけど世界樹関連の影響で国に帰れなかったりして」
俺はパンツごとズボンを脱がそうとしつつ、手を止めて頭だけを戸口に向けつつ文句を言う。
「俺はあの国に用が無くなったから国を出た身 着替えが終わったら金を払うから扉を閉めて出て行ってくれ」
毎度あり。そう言い残しセラは扉を閉ざし部屋から退出した。寝台だけでなく書斎机や様々な写真たて等で飾られている個室で一人きりになった俺は、全裸のまま説明書を読みながら密着服を着る作業に移った。
州都アトランタ。種族人口486290人。陸地面積は153909㎡。ゼノン西海岸中央からアトラ平原一帯を占める州の政令都市。海洋気候帯に属していて年中温暖で降水量も多く。農産物と水産物の生産が主産業。
歴代の南北戦争で何度も戦場になったほど重要な地域で、二大河川の南大河タケノコの南沿岸部に巡らされた水運の要所。
水中探索の第一日目である十五日の昼頃。場所は発射場基地の南側に在る小規模な砂浜。
明日から始まる本格的な海中探査を前に、これからこの基地南側海岸から沖へと進み、地形把握と水中歩行及び探索活動への訓練を行う。その為に現在俺は準備運動を兼ねた各機材の総点検を行っている最中だ。
「忘れ物無し 点検項目の確認終了」
セラからも忠告を受けたが、基本的に海に入る前には必ず機材の点検を行なわなければならない。水中探索は観光目的の潜水行為と違い、原則何があろうと自己責任が適用されている。そして偶発的な事故であろうと漁業設備を破損させたら、高い罰金を科せられる場合が有ることも留意しなければならない。
(消波ブロック無しでも波が穏やかだ。波が少ないと濁りが薄くて釣りには適さないらしいが、素人の俺が潜るにはまたとない機会と言える。)
海は沖合い十二キロ辺りまで岩礁や小島等が複数在る浅瀬が広がっている。この遠浅の海の最大水深は八十メートル程で、島々の浅瀬と三十メートル前後の深い窪地が半分を占めている。
漁業水域内は比較的危険生物も少ないので、漁師達が管理している定置網や生簀等の筏にさえ近付かなければ、基本的に金次第で誰でも水中探索が出来る範囲と言える。
ただし発射場の堤防外側に在るラノイ台船からは潜らずに、装備を携えたままこの場所に来たのには理由が有る。それは船の往来が多い場所は原則潜水禁止の非潜水区域に指定されているからで、港街近辺の陸地から海に入るには、敷地内の南側に在る放棄堤防跡からでしか沖合いへ出れないのだ。
俺は背中に圧縮缶の代わりに空気管を巻いた巻き具を背負いながら浜辺を歩く。両手に持っているのは古い複合弓に戻したユイヅキではなく、小樽程度の青く透明な浮きに釣り糸代わりに空気管を通した潜水用具だ。
これがなければ水中で息も出来ず、危険生物や海獣の幼体対策に持ち込んだ銛と浮き袋の予備を探索しながら使えなくなる。特に海中では潮の流れもあり身動きがとり辛い。手元の動きを制限する様な装備を多く持つと、その分命取りになりかねない。
歩く際に白い砂を巻き上げていた両足の足鰭が波打際で波を被り濡れる。俺は足に伝わる水の冷たさに怖気づき、色々な装備袋を結んだ浮きを抱えながらゆっくりと海に入って行く。
目の前の海面に浮き漂わせながら波に逆らい、慣れない足鰭で柔らかい砂地を蹴って進む。浅瀬と言っても数メートル進めば頭まで綺麗に海中に沈み、腰に巻いた重りと両脇に挟んだ石のお蔭で体の揺れも少ない。
俺が選んだ潜水用具は身軽で活動し易いのが取り得の通常潜水装備。長時間活動出来るように浮きと繋がった空気管を咥えている呼吸器具に接続した水中遊泳と兼ねた装備だ。
(セラが言っていたとうりだ。この辺りは離岸流が遠くまで砂を運んでいる影響で一面砂地で覆われている。おそらく今も基地南側を削っているのだろう。消波ブロックの無意味さを水中に沈んだ古いブロックが物語っている様にも見える。)
水深三メートル足らずの浅瀬だが、底を歩いていると波で引き離されていた浮きが沖へと流され始めた。そのまま浮きが沖へと流され始めたのを真上に捉え、俺は重りに持って来た石を捨て歩行体勢から遊泳体勢へと姿勢を変える。
(川で流されるのとは全く違う。海を漂うとはこう言う事か。)
俺は感動に浸りながら少しずつ傾斜し始めた砂地を泳ぎ、浜辺から沖合いへと向かう。
今日は探索地形の把握と水中活動に慣れる為、沖合いに浮かぶ島々を往復する予定だ。俺の体を見せてから態度が馴れ馴れしく成ったセラは俺に潜水用具だけでなく空き部屋まで貸してくれたので、彼女の注文どうり目に付く目ぼしい物が有れば拾って帰る事にしよう。
(探索時期前のこの季節。海獣の一部や魔石が海没都市から漁業水域へ流れて来ている可能性は限りなく低い。明日から中間水域の探索を始めるから、今日中に境界を越えて拠点として使えそうな場所を探さないと。)
俺はここ数ヶ月、色こそ違うものの見慣れた砂砂漠を海中で再現したかのような浅瀬を進み続ける。十メートル未満の水底は遠くまで白い砂紋が続いていて、晴れていて波が無いので巨大な水槽内に居る様な錯覚を感じれる。
この辺りは水深が浅く大型の船では座礁してしまう。昔は海軍基地と発射場を往復する船舶用の水路が掘られていた様だが、見渡す限りそれらしき地形は見えないかった。
それから数分程時間が経ち。小魚の群や砂地を漂う海藻を見ながらを這う様な姿勢で泳ぎ続けている俺の視界に、ようやく海草に覆われた畑の様な場所が現れた。人為的に栽培されている様な海草群の畑だが、盛られている土をよく見ると岩らしき硬そうな堆積物が隆起しているのが判る。
(ようやく沖合いの増殖場に着いたか。しかし透明度が高いから小魚しか泳いでないな。通り過ぎる場所だけでも何かないか探してみよう。)
セラ曰くこの場所は元々資源保護を目的に沈められた基礎ブロックが在った場所だったそうだ。今では砂中に沈み堆積した砂利や流木やらと人工物等の瓦礫を海草が埋め尽くす場所で、この辺りの海岸にはこうした海草の群生地が等間隔で点在している魚介類の増殖場として管理されている。
俺は背丈が一メートルを越している長細い海草の林を進み、逃げ去る小魚達を見ながら海草が生えた岩に沈んでいる石を手に取りながら進む。
(図鑑で調べた程度の知識量では判別できそうにない。やはりユイヅキの解析能力を使わないと本格的な調査は無理か。)
南は海軍補給廠から北へ百キロ、タケノコ川河口を挟んで河岸段丘海岸の北端百まで続く遠浅の海。この海域は古くから好漁場として漁業が盛んだが、大陸沖で南北に続いている海底火山が近いので海獣の幼体の生息地としての知名度の方が高い。
俺は生存競争で敗れ朽ちた幼獣の亡骸の一部か、或いは海没遺跡の残骸の破片かどうかも判らない灰色に見える硬い石を捨ててはまた拾う作業を繰り返した。
そうこうしている内に海草の林の西側の端っこまで到達したので、俺は丘の様な斜面を越えてそのまま水深が深くなっている場所へ潜って行く。水圧をも計れる深度計によれば、このあたりの窪地は水深が二十五メートル程で、薄暗く狭い視界に体を流そうとする明確な潮流を感じれる。
天候が穏やかな今の季節なら台船や借りた漁船に乗らず此処まで来れるそうだが、台風が全て過ぎ去った探索季節は海が荒れ易く流が強く成る場所なのだろう。故に波が削った独特な砂紋が一面に広がっていて、砂丘の様な窪地が重なる様に続いている。
俺は貝殻や浜辺から流されて来たゴミが溜まった底を泳ぎなが沖へと進む。生身の人間なら減圧準備を経てから潜れる場所だが、この体にこの程度の水圧など無いに等しい障害だ。
窪地によっては岩盤らしき岩肌が露出していたり、磯場らしき小さな岩礁が密集している場所も在る。俺は比較的広く深い窪地内を泳ぎながら周囲を見回し、周囲に人や水棲生物らしき影が見当たらない事を確認、魔導細胞を活性化させて導力路を介しユイヅキと魔導回路を同調させる。
【生体同調完了。全ての機能に問題無し。ようやく私の出番ですねイクサム。了解、魔導探査を実行します。】
俺の体やユイヅキ本体から魔素のみが反応する理力の波が発せられ、水中を音の速さより早い魔導干渉波が伝播した。
すると付近に点在している小規模な岩礁内から幾つかの魔素反応が返って来る。何れの場所も若干水温が高く塩分濃度の高いらしく、ユイヅキを介した映像に微量な泡を吐き出す岩場が映った。
【濃度は微弱ですが岩の組成と結合した不活性魔素の残滓を確認。純度も低いので汚染源に成らず数年後には分解されるか砂中に消えるでしょうね。】
俺は複数の魔素溜まりで魔素を補給しようと判断し、泳いで小さな岩礁の隙間に身を横たえた。
魔素溜まりとは魔導生物や魔獣から魔物までの死骸に含まれる魔素等が大地に溶け出した場所で、かの厄災直後の時代に魔導汚染された汚染地域だった場所に多く現存している。そして国を跨ぐ大河の河口近いこの付近は魔素溜まりが多い地域なので、漁師達は毎年専門機関の調査を経てからその年の漁場を決めている。
俺にとってそれらの厄介な場所は水中活動だけでなく通常生活にも欠かせない魔素を補充可能な数少ない場所だ。当然ユイヅキに場所を記録させ珊瑚類や海草が生えた小岩程度の石が並ぶ底で体を休めながら、長時間の潜水を想定して体を海水に慣れさせる。
(微弱だが劣化した魔素が混じってやがる。おそらく此処にも海獣の肉片や骨の欠片が有った筈。海獣の生体核一つで周囲の生態系が変わるから、素潜りが得意な漁師達が定期的に汚染源を除去しに潜っているはずだ。)
沈静化していく魔導細胞が熱を吸収しているので、密着服越しに感じる冷たさが倍増して感じれる。俺は岩場の隙間で亡骸の如く仰向けで倒れたまま身動き一つせず、少しの間だけ僅かに揺れながらその心地よさを楽しんだ。
それから五分ほど経過し、魔素を少量確保した俺は再び広い窪地内を西に進み始める。
一見海は穏やかに見えても海中では大きな流れが出来ていて、数メートル前に進むだけで何度も針路を修正しながら泳がなければならない。俺は生身の頃から泳ぎが不得意なので何度も理力を使いそうになったが、ユイヅキが潮流を矢印で可視化してくれたお蔭で対処する事ができた。
体を揺らし足をバタつかせながら泳いでいると、窪地内の平らな地形が斜面に変わって水深が浅くなり始める。これは最初の目的地の島近くまで来た証拠で、俺は泳ぎに慣れた体を動かし一気に浅瀬を進んで浜辺を目指す。
【イクサム。もう島の潮流内に入ったので海面に出たらどうですか。泳ぎ始めてから早々に力むのは無意味な行為です。】
水深が五メートル程になると砂地に岩場が現れた。岩場は岩石を多く含む地層で、侵蝕から取り残されながらも流れ出た砂に大半が覆われている。今では多くの海草や小魚が住まうのに適した藻場となっていて、俺はユイヅキの忠告に従い海面へと浮上してゆく。
(たった一キロ程度の遠泳で随分消耗したな。これは体を一度変えてから潜らないと駄目かもしれない。)
俺は階段状に並んだ岩に足をつけ、段差を跨いで越えて浜辺まで上がった。足の動きが鈍く体が重く感じる。そうしてそのまま膝を着いてうつ伏せで倒れると、転がって仰向けの状態で青い空を拝む。
白い砂浜で外周が覆われた小島には海漂林が自生している。岩場や磯部を除いた平地に海漂林が密集していて、白い浜辺にもその樹から落ちた葉で溢れていた。俺はその浜辺から上半身を起こして腰を東側に見える陸地を眺めながら体を休める。
「でかい射出軌道だ でかすぎて解体できない話は本当かもしれない」
この小島は白い大地に建つ発射場の射出軌道と重なる位置に在るので、東西に延びた射出軌道の発射台しか拝めず奥行きが判らない。体感では数キロ分泳いだような気分だが、海岸線から一キロ程度しか離れてないので遠くまで来た実感はない。
俺は借りている装備品を入れた専用の腰袋を開け、中か折り畳まれた透明な密閉袋に入れられた地図を取り出した。地図には探索領域として行ける遠浅の海の構成図が書かれていて、島の位置や方角含めた各基点同士の位置関係が一目で解るように線で結ばれていた。
(せっかく一日を体の順応に費やしているんだから中間水域との境界付近に有る遺跡にでも行ってみるか。)
本日の予定はこの島から東西南北に在る経由地点を往復して、長時間の水中探索活動に体を慣れさせるのが目的だ。幸い天候にも恵まれているので海は透明度が高く、セラが潜水素人でも然程難しくない経路を教えてくれたおかげで手間取りもせず小島まで来れた。
陸地側の浅瀬にも海獣だけでなく危険生物が来る事も有るので油断は出来ないが、躊躇していても消耗するだけだで何も始まらない。俺はそう結論に至り地図上のある場所を右人差し指で指し示す。
(この小島から南へおよそ八百メートル地点に大きな岩礁地帯が在る。セラが言うにはこの場所は潮の流れが頻繁に変わる磯辺で四十メートル以上深い場所も有るそうだ。岩場には舟着き小屋が在り嵐の日や緊急時の退避場所として使われていると言っていたな。確か港街の電波通信局へ繋がる無線機が常備されているから、明るいうちに場所や現物を確めておいて損はないだろう)
俺は三キロが一センチ程度の縮尺で書かれている線を指で掴むように確め、もう一度距離を確認してから地図上でご近所に位置する南の岩場へ視線を移した。
「明日の夜は満月だから今は満潮前か もしかしたら人食い鮫や大剣魚が見れるかもしれない」
期待感を漂わせ危険生物の名を呟いた後、俺は再び浮きを携え浜辺を歩き南側の浅瀬から海中へと潜る。
浅瀬の磯部を超えるとすぐに水深が深くなり、二十メートル程の底を泳いぎながら地形を自身でも覚えつつ進む。
やはり砂地には魚影が無い。場所を変え更に深く潜っても同じで周囲の景色は殆ど変わらず、岸から流れて来たゴミを目にし始めた頃からようやく体が水圧を感じはじめた。
俺は深度計を見て水深が三十メートルを越えているのに気付き、圧迫感に対処しようと体の硬度を一時的に高めて対処する。すると手足の筋肉が何時もより伸びず、硬質化した皮膚に伸縮性が奪われているとユイヅキに教えられてしまった。
(不用意に理力が使えないと身体調整機能も使い辛くなる。この経験は何れ生きるだろうからしっかり憶えておこう。)
しかたなく俺は体が適応するまで手足をゆっくり動かしながら流される様に泳ぎ、両手で海底に転がっている岩等を掴んで強引に南方向へ進んで行く。
岩や流木等が砂に埋没した場所を通って、俺は更に深く薄暗い世界へと入って行く。当然視界が限定されているので殆ど前が見えず、手元も覚束無くなった俺は途中でユイヅキと生体接続し断続的に周囲へ魔導干渉波を放ち始めた。
魔導細胞内の僅かな魔素でも検出できる一種の生体レーダーが捉えた情報をユイヅキが解析し、俺の視界に無数の魚影を投影させ岩場の大まかな地形までも可視化させる。俺は周囲の岩場に潜む生物や暗闇の向こうを泳ぐ魚影を見回しながら進み、体が動くようになってから手足を動かして海中を泳ぎ続ける。
水深が四十を越えた辺りに来ると、視界内に表示されている前方の岩礁に崖の様な影を捉えた。その影は針路上に在り進めば進むほど明確に形を成してゆき、俺は例の退避小屋が在る岩礁地帯に辿り着いたと判断した。
【体長五メートルの魚影を右前方に確認。相対進路が交差しているのでこのままだと十数秒後に接触します。】
この遠浅の海に生息する体長五メートル級の魚など、人食い鮫以外にありえない。俺はすぐに腰に装着した古く小さい複合弓を取り出し、同じく腰の矢筒から返し刃が無い銛らしき大きな矢を一本取り出した。
【記録情報を参照した結果、有効な急所は神経系が集中している鼻先だと推定。対象は捕食生物なのでこちらの攻撃にも慣れている可能性を忘れずに。】
俺は足鰭を激しく上下させ、緩やかに浮上して岩場の崖近くの海面を目指す。ユイヅキの警告どうり脚力だけで泳いでも逃げ切れないので、銛を灰色の波模様を浮かべた複合弓に番えて引き絞りながらゆっくりと浮上していく。
(あれが人食い鮫か。危険生物や海獣は漁業設備や養殖場に被害さえなければ狩り放題だから、漁師でも探索者でも無い俺が持ち帰っても問題無いよな。)
脳内に密猟と言う単語がチラつき集中できない。若しくは水中抵抗で銛を矢の様に扱えないと理解しているから冷静なのだろうか。俺は明らかにこちらに気付いて近付いて来る黒い魚影を肉眼でも確認し、海面から八メートル程度の海草や長岩貝で覆われた崖沿いで人喰い鮫を迎え撃つ事に決めた。
【情報を訂正。対象の全長は八メートルと四十五センチ。成熟した生体の雌個体と推定します。】
俺は聞こえてきたユイヅキの声には驚かず、ただ自身の体より大きな頭と大きな口を開いた捕食獣に愕然とした。狩人時代に培った経験から手持ちの銛では致命傷どころか有効打を与えるのも難しいと悟り、高確率でこちらの装備が損傷するか生傷を受ける結果を簡単に想像できたからだ。
(ユイヅキ、理力を矢へ。物質干渉で噛み付かれる前に粉砕するぞ!)
俺の悲痛な思いを感じ取ったのか、意識を切り替え集中させなくとも銛の穂先に不可視の剣が形成される。俺はそのまま高速状態で目前まで迫って来た巨大な鼻先へ銛を向け、そのまま右手を離して銛を打ち出した。
左手から自身の方へ反発する力が加わり、俺の体が真っ赤な血の幕から強引に弾き出された。銛が弓から完全に離れる前に不可視の刃が相手を貫いたらしく、危うく外れそうになった左肩を押さえながら海面に浮上した。
「異能が使えるからと油断した結果がこれか 危うく装備を壊して追加の賠償金を払う破目になりそうだった」
ユイヅキは海面を赤く染め上げながら頭部を失い沈下していく死骸の位置情報を視界に投影し続けていた。死骸体内にまだ浮力が残っているようで緩やかに沈降している。呼吸を落ち着かせ押し黙った俺は距離まで追加表示された死骸から特定の部位を切り取りに海中へ戻ることにした。
人喰い鮫。一般的な多種多様な鮫と違い、鮫肌と呼ばれる決め細やかな凹凸面が成長と共に失われ鱗の様な甲殻に覆われる巨大魚。食性は肉食で食える物なら何でも飲み込むので性格は荒い。時に小船などを襲い船を沈めて乗組員を捕食する場合もあり、毎年海から帰らなかった数十人の大半がこいつの犠牲者だと言われている。
凶悪な海洋生物で寿命も長く成長すると海獣の幼体を捕食するので、基本的に浅瀬には十メートル未満の個体しか現れない。時にその歯や目玉は装飾品として加工され、網にかかった個体は船上で解体されて食肉用の珍味として出荷されている。特に尾の繊維質な肉には貴重な魚油が詰まっていて、乾物から調味料用の素材として取引されているらしい。
岩礁に在る小屋の位置と古い通信機器の使用方法を確認した俺は射出基地南の浜辺に戻り、そのまま素足で熱い路面を歩きラノイ台船に居たセラへ人食い鮫の尾を渡してから再び海へと戻った。
浜辺から再び海に入ってから一時間程で泳ぎ続け、何度か危険生物と遭遇しそうになりながらも沖合いに在る珊瑚礁の一まで辿り着く事ができた。俺はこの珊瑚礁に虹色深海樹が漂着していると期待して、海草の森が出来上がっている浅瀬を一時間ほど泳いだ。
しかし只の流木の破片や嵐等で壊れた筏の破片しか見つけられず、午後二時過ぎによ陸地からおおよそ七キロ離れた珊瑚礁内の小島に体を休めに上陸したのだった。
波等の浸食で丸く削られた岩場が目立つ岸を上がった俺は、そのまま人為的に削られた石階段へと足を進める。珊瑚礁内の島は堆積岩が侵蝕から取り残された岩の島で、島の上に石造りの小屋と灯台跡の塔が残っている。
【位置情報を更新。地形情報に現在地を記録します。】
予定を早めて探索の拠点となる場所を探しに来た訳だが、灯台を兼ねた漁師小屋として使われていた場所に難なく辿り着けたのはユイヅキのお蔭なのは言うまでもない。なにせこの珊瑚礁内に入る前の東五百メートル近辺で剣魚の群と鉢合わせしそうになったばかりで、もしユイヅキの進路変更案を無視していたら今頃鋭い剣魚の口先で切り刻まれていただろう。
(さすが元管理者様。俺でも見えない物を捉えれるなんて狩人ですら勝ち目ないな。俺の事は気にせずにこの調子でどんどん脅威を見つけてくれ。)
俺は満足気にユイヅキを称賛しながら足鰭を履いたまま石階段を歩き、滑らかに波風で削られた岩場から泥岩や礫岩が混在する壁を傍らに海を眺める。
(しかしこの辺りの海は生態系が豊かだ。たった数キロ沖合いに遠退いただけで環境が激変したと言って過言ない。おかげで漁師達や探索業者達がどれだけ海獣や危険生物を恐れているのかよく解った。)
地図上だと基地内港街からたった二センチ程度しか離れてない小さな点にいる訳だが、この島は侵蝕で一部分だけが残った岩礁の島だ。周囲一キロと数百メートル無いに小島は無く、水深四メートル程度の浅瀬に在る色鮮やかな珊瑚礁がこの島を中心に方々へと広がっている。
【古くから海の魔獣として恐れられている魔獣が築いた生態系が、結果として文明生物の乱獲から生態系を守る防波堤と成ってしまった。生存競争と淘汰で移り変わりが激しい海と言えど、大地からの汚染の影響を克服できたとは皮肉な話ですね。】
階段を上がりながら暇そうなユイヅキが、先程から俺の頭へ音声と言語情報を送ってきている。折角入手した鮫の尾が一切れも食えないまま出荷されると聞いてから不機嫌な状態が続いていて、俺に新たな味覚情報を仕入れさせようと常時広範囲を調べて新しい獲物を探している様子だ。
本来なら無意味な魔素の消費に繋がりかねない行為なので、魔素供給を絶って強制的に止めさせてしまうだろう。しかし今の俺は極力魔素の消費を抑えて行動しているので、消費量は確認した複数の魔素溜まりで休憩すれば回復する程度なので問題無い。
石階段を上がり小屋が有る岩場唯一の平地の丘を更に登った。遠くから見ると岩場と灯台含めた外見が古城の様に見えるから古城とセラは呼んでいた。地図上には旧第五埠頭跡と書かれているので城だった可能性は否定できないが、俺はその古城には見えない石造りの三角屋根が特徴的な小屋に入り体を休める場所を探す。
【足元右の石に腰掛けたらどうです。魔素溜まりとして申し分ない濃度の魔素が充満しているので、疲れた体を速やかに回復させましょう。】
急かすユイヅキとゆっくりとした動作で石に座り尻を圧迫する硬い感触に眉を顰めた俺。黒い密着服の前側に有る自在留め金を下ろして上半身を露出させ、魔素を効率よく吸収する為にあえて魔導細胞を活性化させ導力路を浮ばせる。
「天空樹で貧困生活から抜け出せたと言っても体自体はまだまだ未熟だな 魔導細胞の変換効率は天空樹どころか小型魔獣程度しかない 唯一救いの希少な魔素精製能力は体の調子に左右されがちで 未だに自力では海も泳げない始末 伝説を追うのに固執しすぎたかもしれない」
今の俺はこの体を手に入れた時の様な、液中だろうが関係無く理力を自在に操れる状態にではない。あの時は流が無く魔素に溢れた溶液だったからこそ水圧を諸共せず深い場所まで潜れた。あの時から更に体の内外が変わり、理力を除外しても五感どころか身体機能すら常人では到達しえない領域に居る。もし力の制限を全て解除したのなら、この近海に棲息する海獣やその幼体とも互角の勝負ができるだろう。
【私は貴方が他の浄化都市を訪れさえすれば寄り道しても文句は言いません。それに私と多くの経験を共有する事こそが真の成長だと繰り返し述べていますが、今の苦労を未来の糧とするならば意味を見い出すのも必用でしょうね。】
屋内の日陰に居るので、乾いた土から常に放出されている可視化した魔素が蒸気の様にも見える。俺はユイヅキの考えに思考を同調させ、休憩中に明日の予定の確認と探索して得た情報の整理を始めた。
(今日だけで色んな事があったから流石に疲れた。明日の探索を楽させようと思って此処まで出張ってきたが、結局疲れるだけに終わった。この辺りの大まかな地形と潮流を確認できたから、明日は朝早くから海に潜ろう。)
擬似魔導具の製作に必用な三つの素材。そして海没遺跡の現地調査が俺を待っている。今の段階では伝説の手掛かりを浮遊島と残骸と化した遺跡船に望むことしか出来ない。もしこの二つに手掛かりがなければ振り出しに戻され、最悪この国から出る事も考えている。
「さて そろそろ近場の島を回って拠点探しを始めるか」
俺は立ち上がり狭くもぬけの殻の小屋から出た。周囲に広がる青い海は海岸線より青く染まっている。いつまでもこの景色が続くはずはないので、とりあえず遠く北に在る遺跡から調べる事にしよう。
海獣。海洋性魔獣の略称。世界中の海で原住生物が魔導汚染で変異した個体の子孫が大半で、文明の海洋汚染や漁業資源の乱獲により数を減らしている。
現在ではゼノン沿岸と東大陸東岸南部とを結ぶ火山列島及び海底造山帯近海に複数の群が生息するだけで、二千年以上前に海だけでなく陸地すら襲った諸々の巨大海獣は全て絶滅している。
十一月十六日の午前九時過ぎ。朝早くから波が穏やかな満潮の海に入った俺は、現在古城の島の階段を登って浮きで運んで来た物資を小屋の中に移している。物資は両手と背中に合成樹脂製の容器だが、両腕で挟む様に浮き袋も携えている。
そのまま階段を登り終えると岩や石を積み重ねただけの小屋に入り、食料や飲み水等を入れた合成樹脂製の密閉容器を日陰に並べる。両手が自由になると浮きを壁際に置いて背中に背負った容器の結び目を解き始めた。
白い容器には湧き水が、赤い容器には魔素を多く含む北西のオートマグ周辺で取れた森の幸が詰まっている。どちらも魔素を多く含む秘境原産品だが、例の尾を業者に売って得た金の余剰金で購入したものだ。
俺は背中からもう一つ飲み水を入れた白い容器を降ろし、白と赤色に交互に並べた順番どうり赤い容器の隣に置いた。合成樹脂の容器は燃料だけでなく漁師達が飲み水や氷を保存する為に使っている容器で、全部セラから借りた物だ。
なにせ今日から明日の夕暮れ前まで海に潜り続けるので、市場で五百Gもの大金を払い調達した物資が腐ると困る。真水に海水が入れば魔素が分解されてしまうので、朝早くから水売り場とこの岩島を二往復して物資を運んで来た。
「大丈夫 しょっぱくない しかし折角早起きしたのにもう九時過ぎか すこし手間取ってしまった」
俺は白い容器の蓋を閉め、巻き具や浮き袋などの一部潜水装備を物資と共に保管した小屋内を見回す。これから始める海中探索で四十メートル以上深い場所まで潜るので、最大三十五メートルしか伸びない空気管は探索には使えない。
(昨日発見した珊瑚礁内の魔素溜まりで魔素を回復させながら素潜りで素材を探す。だいぶ体が海に馴染んだから五六分は息継ぎ無しで活動出来るだろう。)
俺は忘れ物がないか確認し終え、小屋を出て階段を下り昇り降りに使っている磯場に向かった。
磯場の岩礁は満潮で波に浸かっていて、階段を降りてから数歩進んだ砂岩の岩場まで波が寄せている。石灰質な礫岩の地層が目立つ壁に立てかけて置いたユイヅキと矢筒を広い、密着服に装着してから海に飛び込む。
前日同様に海中は透明度が高く遠くまで見える。波と風が穏やかで雲も少なく、食物連鎖の中位に位置する生物達は岩や珊瑚礁内の隙間や亀裂に隠れている。
前日の締めにこの近辺に在る幾つかの島を見てまわったのだが、セラが言う古城以外に探索拠点に適した島は無かった。ここから南の五キロ地点に在る水道橋の様な海中遺跡を夕暮れ前まで調べてから探索初日を終えたので、今日は何の未練も無く更に沖合いの深部を調査する予定だ。
赤い珊瑚類に日光が当たり赤色が強く目に映る。昨日から古城近辺を何度も往復しているので、ユイヅキの補助を受けなくても魔素溜まりの位置は把握済みだ。
海面で息継ぎを済ませた俺は、珊瑚礁北側の外縁近くに在る比較的大きな穴へ真っ直ぐ潜って行く。この穴は岩盤が侵蝕によって崩れた洞窟と繋がっていて、岩底に様々な生物の骨や珊瑚の残骸が海草の養分と成っている場所が有る。
海面から八メートル程潜り縦穴の深部に到着。すぐさま魔導細胞を活性化してユイヅキと同調しながら魔素を吸収する。勿論密着服の前側も開き胸を露出させると、心臓から全身へ魔素が行き渡る感触に体が落ち着き始めた。
【活性化指数は三割で各細胞器官への負荷は無し。心拍数は正常値のままです。】
俺は導力路を維持したまま緩やかに体を岩場に横たえた。目を瞑り体を変異させる準備が整うのを待ちながら、黒い天然樹脂製の密着服前側を固定した自在金具を限界まで下ろす。
海中で何時でも脱げる様に密着服の下には海用下着の青いパンツしか履いてない。上半身から密着服を外し細い体を露出させ、全身に張り巡らせた緑色の幾何学模様から多くの魔素を吸収する。すると髪の色や肌の色が変わっていき、本来の灰色に戻った髪の毛が光を求めて伸び始めた。
(昨日食った物を殆ど使ってようやく海を泳ぐ事が出来るように成った。これで探索も捗り深い底まで苦も無く潜れる訳だ。)
俺は背中まで伸びた髪の毛を輪ゴムを使い後頭部で硬く結び、日光を受け光合成する灰色の髪に太陽光を受ける為に縦穴から出る。完全に珊瑚礁の上に上がる途中で腰から捲れて離れようとする密着服の腕を腰に巻きつけ固定した。
普段から短く剃った髪の肌触りを気に入っているのだが、ユイヅキが考案した独自の酸素精製方を試すために一時的に姿を本来の容姿に近づけた。本来の姿は人目につき易い容姿なので人前で正体を現す愚行は犯さないが、今は海中なので一目を心配する必要は無いと判断したのだ。
【二酸化炭素及び水素の変換効率は一割程度と推定。静止するか浮遊状態なら増加しますが、この数値でも活動可能範囲内です。】
俺は珊瑚礁の上を西に進み、珊瑚礁の外縁に達してから急速に潜り始めた。みるみる視界が暗くなり体にかかる水圧が増加する。しかし短い時間の内に吸収した魔素と血中酸素量は充足していて、大した潮流も無い場所で両足を動かし続けるだけなら十分程度は活動出来そうだ。
水深四十メートルから五十メートル程度の海底は起伏が激しい岩場が続いている。この場所が海に沈む前は岩盤を覆っていた堆積層が有ったのだろうが、薄暗く限られた視界内に開けた場所は無い。
俺はセラから教わった遊泳法を思い出し、両足を閉じた状態で水を掻き始めた。潮流で沖へと流されているの状況と合わさり、少ない魔素の消費量でみるみる加速してゆく。
(確か名前はイノラ泳ぎだったはず。海獣の名前を付けたのがセラかどうか判らないけど、役立つ泳ぎ方なのは確かだ。)
速さにまだ満足してない俺は、昨日の人食い鮫や海蛇の類の様に体をくねらせ速度を速める。常時に周囲の状況を探っているユイヅキに魔素が吸われているが、俺の消費量に比べれば遥かに少ない消費量なので問題ではない。
(問題は海獣や危険生物と遭遇した時に執れる対処法の数が限られている事だ。陸上なら無意味な戦いを避けて進めば良い。しかし海中だとそれが出来ないのだから、まさに運が左右してくると言えるな。)
所々削られ細かく砕かれた石等が散乱している岩場。暗い視界なので岩の組成は解らないが、溶岩が冷えて固まった火成岩で間違いないだろう。そう考えながらも俺は黒い岩肌の所々に映っている熱源らしき白い影の数と形状を確認し、掃除屋の甲殻類や小さな鮫類の上を何度か素通りした。
この辺りの深い岩場に住む生物は、漁業水域に在る藻場や漁礁とは違い種類含めて個体数の絶対数が少ないようだ。中間水域内なので捕食生物から隠れ難い場所だと尚更少なく見える。浅瀬の底に漂っていた微生物も少なく、話に聞く微生物の死骸が漂う掃き溜め層も無い。
(まさか森と同じ様に境界化されているのか?海中の地形を弄るとしたらやっぱり爆破処理くらいか。)
俺は警戒しながら生物の少ない暗い海を西へ進み、時折足を止めて流れに任せて進みながら周囲の様子を観察し続ける。
それから更に海中を五分ほど進んでいると、左斜め前方の同深度に大きな白い影か映り俺は進むのを止めて真下の岩陰に隠れた。
【人食い鮫の未成熟個体と推定。総数は未確定ですが二匹以上は居るでしょう。】
いつも以上に頭に響くユイヅキの声を理解する前に、視界内に複数の白い魚影が映った。独特な三角背びれが忙しなく揺れているので狩りか食事の最中なのだろう。俺はユイヅキに探知範囲を前方だけ広げるよう命じた。
【了解。視認範囲を三十メートル広げます。】
瞬間的に五つの魚影が現れたのと同時に小さくなった。やや左前方の七十メートル地点に密集する六匹の人食い鮫は岩場に一点へと頭を突き刺している様にも見え、俺は何等かの死骸を食している最中だと判断した。
(ユイヅキ。奴等を完全に追い払うか気絶させるかして無力化する。最適な手段を割り出せ。)
人食い鮫が捕食する生物は多過ぎて一々推測しているときりが無い。視界内に居る六匹の人食い鮫は何れも全長三メートル足らずの未成熟な個体なので、そいつらが何を食しているのか気になって仕方が無かった。
【回答。理力で魔導細胞を暴走させ内側から破裂させるのが最も効果的です。一撃で仕留めないと後が面倒ですから。】
俺は左手を鮫達に向けながら岩場を蹴って進み、ゆっくりと接近しながら魔導干渉波の射程に入る瞬間を待った。そして十秒が経過する頃には距離が十分に縮み、鮫達が食事を終えた頃にはこちらに気付く距離まで近付く。
目標を捕捉したと報告するユイヅキの声が頭に響くのと同時に、岩場の一点の周りを泳ぎ続けている鮫達だけが拡大された。俺は導力路に魔素を巡らせを理力を発動させると、左掌からごく少量の魔素を圧縮しただけの魔導干渉波を放った。
左腕の幾何学模様が一瞬緑色に発光した瞬間、六匹の鮫が硬直し全身から大量の気泡が発生した。そして俺が数度瞬きしてから岩底に沈み、体中から発生していた気泡も消えてなくなる。
【対象の細胞組成だけを変質させましたか。これだと他の危険生物が寄って来る可能性が有りますが、調理器具無しで魚を焼けるのなら心配要りませんね。】
俺は一瞬にして身を焼かれて沈んだ大きな魚肉を目指して足を動かし、泳ぎながら腰帯に装備した借り物の中から水中照明具を取り出した。
(俺は下処理をしてない魚料理は嫌いだ。また今度どこぞの魚料理屋で食うからその時まで我慢するんだ。)
干渉波を放つ前から十分接近していたので、ものの数秒で白く変色した腹を逆さまに岩の隙間に横たえている鮫の死骸の場所に辿り着いた。そのまま俺は乾電池式照明具のスイッチを入れて死骸の数と位置を確認し、鮫達が貪っていた餌へと白い光を当てる。
(やはり海獣の肉片だった。元から小さかったんだろう、あと少し遅れていれば軟体類の死骸と見分けがつかない状態に成り果てていたに違いない。)
俺の上半身よりやや太い緑色の外皮に張り付いた脂肪膜らしき大きな肉片が揺らめいている。外皮の色から推測して海獣イノラの肉片だと思うが、セラの話では幼体の皮膚はこれほど分厚くはないはずだ。
【緑イノラ種の体組織の一部だとすると、全長八十メートル級の成体から出た肉片だと推定できます。おそらく沖合い三百キロ地域に在る海底火山から流れて来た死骸の断片が食われ続け、最終的に小さく分散してしまったのでしょう。鱗が残ってないのとは期待外れでしたね。】
固い海獣の鱗が残っている可能性が有ったが、ユイヅキの言うとうり期待外れだった。元から期待等していなかったが、緑色の外皮を見て少し希望を抱いたのは嘘ではない。
俺は明かりを消した照明具を腰帯に差し入れてその場から泳ぎ去る。明りを消す際に左腕に巻いた海中時計の時刻を確認したので、そろそろ息継ぎに海面へと浮上しなければ。
イノラ種。ゼノンや東大陸東部沿岸海域に多く棲息する海獣。成長するに従い食した餌や環境次第で体色や形状等が変化する。現在確認されている種類は全部で五種類で、雌雄同体の緑イノラから性別決定で赤と黒イノラに変化して最終的に女王イノラと海王イノラへと成長する。
なお、浮遊島の虚構世界の一つに出現する魔物の機械イノラと本種は全くの別物で、本物と比べても遥かに小さい。
(古城を出発してからそろそろ三時間か。正午過ぎまで欠片を集めてから一旦戻って新しい袋に取り替えよう。)
俺は現在沖合いから十キロ近い場所に位置する本物の遺跡跡で素材集めに勤しんでいる。遺跡自体は小高い山の様な島の頂に位置しているので探索範囲外だが、かつて城下町だっただろう山周辺の浅瀬に沈んだ街の跡を潜りながら目当ての素材らしき物を回収している訳だ。
深い井戸の底へ逆さまの状態で潜り、照明具の光を頼りに井戸に住んでいた海妖ダコが集めた海獣の殻を物色する。
【緑色と赤色の石に高濃度の魔素反応が有ります。強く握って砕かないよう注意してくださいね。】
先程までこの井戸に住んでいた十本足の軟体類は今頃身を焼かれたまま海面を漂っている頃だろう。吸盤に並ぶ鋭い爪と鳥の嘴の様な顎が厄介な相手だが、結局人食い鮫と同じく魔導細胞を介し内部から焼いてしまえば対処出来る相手だ。
(まあまあマシな大きさだ。纏まった量と質があるサンジラの殻は流石に残ってないよな。)
井戸の底は流木や砂利などが堆積していて海底から三メートル程まで底が上がっている。こんな場所でも天敵や他の海妖タコから十分に身を隠せるようで、ユイヅキの魔導探査で素材を探していなければ俺に見つかる事も無かったはずだ。
(殻はこの辺りを一往復すれば必要量に達するだろう。やはり問題は鱗と深海樹か。今の所欠片しか採取できてないから、沖合いの崖下を調べに潜らないと見つかりそうにない。)
俺は逆さまの状態のまま井戸から出て、そのまま姿勢を変えずに海面に浮上した。日が頂点に達していて強い日差しが俺の濡れた白い肌を焼こうとするが、生憎紫外線程度で俺の細胞組織を劣化させるには出力が全く足りていない。
腰帯の小袋無いに畳んでしまっていた採取袋の一つに、礫石の様な軽さの緑と赤の石ころを入れる。そして満杯になった袋の紐を引っ張り口を閉じると、袋の紐を腰帯に結んでしっかりと固定した。
「袋一つ満杯にするだけでかなり時間がかかる この分だと本当に明日の昼までかかりそうだ」
俺は腰帯から別の網袋を取り出外してから、それを手に握ったまま再び海中へ潜る。
灰色の長髪が引っ張られる感覚にすっかり慣れてしまい、十分以上潜っても体への影響は一切無い。そして中間水域の西側境界線近くを探索しているので、同業者はおろか漁業関連の船すら周囲には見えない。単独で遠浅の海の外縁部に在る堆層水域まで来たのが幸いしたのだろう。
水深十メートル前後の浅瀬に沈む街並みは、煉瓦造りの壁や石を積み上げただけの石柱が僅かに残っている程度だ。建物や通りには流れて来た流木や舟等の残骸が散りばめられていて、数メートルまで成長した海草や岩貝と肉食貝が瓦礫の下に隠れている。
(でかいのは海草や貝類だけじゃない。海玉虫や尾長蟹も大きく、そいつ等の天敵である軟体生物も大きい。白身魚の群だけで漁港の魚市場が埋りそうな程の数だ。)
息継ぎや浮力調整にも慣れたので水深十メートル程度は直に潜れてしまう。俺は潮流が渦巻く街の外へと流されないように倒れた石柱の残骸に掴まりながら魔導探査を発し、まだ未探索な水没遺跡南西側を調べ始めた。
(しかしこの水深なら珊瑚礁が出来ている筈なのに島の周囲に珊瑚類を見かけないな。やはり島で日光浴をしている海竜が食ってしまったのかもしれない。あいつ等が餌を食いに海に入ってくる前に探索を終わらせないと面倒事が待っている。)
俺は海流の影響で地盤ごと削られ岩ごと数箇所に集められた大穴の一つを穴の縁から見下ろし、魔導探査に反応する怪しい堆積物の正体を一つずつ探っていく。大抵魔素を放出しているのは海獣や貝殻と珊瑚の残骸だが、よく見ると流木からも微弱な魔素が漏れている。
天然物の大きな岩牡蠣と巻貝や真珠貝等が張り付いている岩場に幾つかの枝が刺さっていて、枝はどれも嵐等で折れたか倒れた海漂林から流出した物だ。俺は見ているだけでなく体を動かして穴の底へ潜り、一つずつ手探りで枯れ枝を拾い集める。
【イクサム。四時方向距離四メートル地点から高濃度の魔素反応が有ります。石材の下ですが貴方の力なら問題なく取り除けるはず。】
俺は拾い集めた出来損ないの虹色深海樹もどきを岩の上に置いて、ユイヅキが視界内に表示する矢印に従い切り出された石を強化した筋力で持ち上げた。
(おぉ。本当に黒から虹色に変色している。本物の虹色深海樹で間違いない!)
俺は四角く切り出された石を横に移し、石同士の隙間に挟まった七色の光沢を放つ滑らかな流木をゆっくりと引き抜く。両手で持ってもしかっりと感じれる重みに少しだけ懐かしさを感じた。
【大きい物を発見できたので一旦拠点まで戻りましょう。虹色深海樹は他の珊瑚虫によって変質した流木より形質が安定しているので、明日港街に持ち帰るまでは劣化しないはずです。】
長さ一メートル近い元海漂林の枝を両手に持ち、その太さと変質した樹表の肌触りを確める。これだけ滑らかで魔石と同様に変質した魔導材料なら、きっと良い弓が作れるに違いない。
俺はそう確信しながら網袋を元の場所に仕舞うと、目だち易い虹色深海樹を抱きしめたまま古城方向に頭を向けて泳ぎ始めた。大まかな地形情報を記録したユイヅキが進むべき針路を視界に投影してくれるので、体全身を使い魚の如き速さで水中を泳ぎ続けた。
クジラ種。イノラ同様にゼノン沿岸から東大陸東岸海域に生息する海獣。卵から孵化したばかりの幼生体は尾長蟹の様な形状だが、生長するに従い巨大化し全長二十メートル前後の海玉虫の様な姿に成る。全長が二十メートルを越えたてから性別次第で、雄はレイジラに雌はサンジラへと成長する。
現在確認されている最大の個体は全長百二十七メートルのサンジラで、約二百三十年前にゼノン北部沿岸海域に出現した個体が巨大海獣に認定された最後の個体とされている。
時刻は午後二時三十分前。腕時計を確認した俺は海面から再び海中へと潜り、危険生物の海竜が住まう遺跡島西側の斜面に転がっている岩や街の残骸を辿り西に進む。
島の西側は緩やかな傾斜が二百メートル以上続いていて、波模様に抉られた急斜面の断崖まで遺跡の残骸が残っている。しかし俺が探索する目当ての場所は斜面に点在する遺跡後ではなく、その外側に在る水深八十メートルの崖下だ。
【指定した巻貝の殻が重りに最適です。急激な水圧差で体が少し縮みますが生命活動に支障はありません。】
俺は砂利が堆積した道の只中に落ちている巻貝の殻を拾った。この二十センチ以上ある巻貝の殻で体を沈めつつ、ユイヅキの指示に従い泳ぎながら少しずつ体を膨張させ始める。
深さ八十メートルを越す海底に下りた場合、体が圧縮され浮力を失ってしまう。本来なら硬式潜水服を着用し作業用懸垂装置で吊り下げられながら探索を行う場所なので、理力を使わず魔導細胞のみで圧力から身を守らなければならない。
筋肉に力を入れ力瘤を作るのとは訳が違う。下半身を覆う密着服が内側から押し広げられ伸びて下半身が強く圧迫されるが、まだ崖は遺跡を百メートル以上進んだ場所にあって遠かった。
遺跡の瓦礫沿いを泳ぎながら変わる重心位置を維持する為に抱えた巻貝を胸辺りに移動させた時、その巻貝が勝手に動き始めた。
(ユイヅキ。この巻貝、宿狩りが入ってる中身入りだぞ。)
俺は自分の胸に挟みを突き立てようとする尾長蟹の様な甲殻生物を貝殻から取り出そうとして思いとどまった。
【我慢してください。少しでも重量均衡が崩れると下まで辿り着けず浮上する破目になりますよ。】
ユイヅキの忠告は正しい。残す海獣の鱗類を探す為にも、確率的に高い場所を重点的に探さなければ時間を無駄にしてしまう。擬似魔導具の製造の為にも、高純度の魔素と微細結合体体との相性が良い素材は限られる。何より季節外れに探索しているので、多少の不確定要素は指で大人しくさせてしまえばいい。
好戦的な宿狩りと戯れながら傾斜地形を下って行くと、一分もしなう内に急勾配な坂を見下ろせる崖手前の高台に到達した。この辺りは既に水深が五十メートルを越えているので、少し体を動かすだけで関節に負荷が生じる。
【魔導探査を開始。活性密度を上げるのも忘れずに。】
俺は崖沿いの斜面を足鰭で蹴って、急斜面な山肌を登山道から見下ろした様な場所から飛び降りる。そして両手に持つ宿狩り入りの貝殻を腹に乗せ、体をやや仰向けに傾けた状態で深く暗い海底へと沈んでいった。
体を潰そうとする水圧が徐々に大きくなる。十や二十メートル程度の浅瀬とは全く違う感覚に驚き下を見ようとするが、体勢が崩れるかもしれないと悟り我慢する。
【予想どうり無数の魔素溜まりが形成されてます。小規模な放出地点を除外した三十四箇所を私が指定するので、制限時間内に海獣の鱗類を探しましょう。】
俺を元気付けるユイヅキに心なしか気分が上向いた、と言う事は起きず。俺はただひたすら光量補正された薄緑色の岩場を泳ぎ、赤色で着色されて見える魔素放出場所へと向かった。
海獣類の鱗類とは、海獣の鱗や外殻が剥がれ落ちてから年月が経過した物である。大半が色素が抜け透明化した硝子結晶の様な破片だが、稀に鱗や外殻が形を保ったまま透明化した物も有るらしい。
海獣は死後、体内の魔導細胞から魔素が抜け出て細胞崩壊を起こし易い。故に脆くなった屍は他の海獣や掃除屋含めた回遊生物に食われるか、時間と共に微生物によって分解されてしまう。
この必然的に最も入手難度が高いお宝を砕いた粉末で、照明具の容器ごと反射板や凸レンズを製作する。だから必要量を満たす為に質の良い鱗類を探している訳だが、やはり魔素溜まりに有るのは海獣の肉片や骨等と変質した単なる岩ばかりだ。鱗自体は一年中沖から流れて来るので、浜辺に漂着した小さな漂流物でも良いのだが、ゴミ同然の素材では目的とする擬似魔導具は作れない。
沖合いの更に深い海へと傾斜した岩場を泳ぎ、残り少ない魔素反応が出ているとある場所まで来た時。俺は沖合いから水中を伝播して来た何かの衝撃を身に受けた。
【音響攻撃の一種だと推定。発信源を特定中。】
手に持っていた巻貝の殻が砕け、中身の宿狩りが足元の岩場に零れ落ちる。咄嗟に展開した魔導障壁で不可視の攻撃を防いだが、遅れて到達した潮流とはまったく別の流れに体が後方へと流される。
【衝撃により魔導障壁効果が減少。意識を集中させてください。】
俺はきりもみ状態を脱する為に岩の一つに手を掛け流に逆らう。そのままユイヅキへ広域解析を命じようとしたその時、俺の補正された視界内に巨大な物体が現れた。
(想定より来るのが早い。近くを通っていた個体が俺の魔導探査に反応したのか。)
俺は躊躇せず理力を発動させようと魔導細胞を活性化、導力路を全て機能させ全ての能力を解放する。
【不明領域減少中。理力起動状態から攻撃形態へ移行します。】
視界が一気に明るくなり、まるで海水を抜いたかの如くイノラと遠くの地形までもが見渡せる。そして百メートル未満まで接近して来た全長五十メートル程の緑イノラが口を開け、再び俺に咆哮を浴びせようとしていた。
【魔導砲回路構築。出力安定。射撃線を表示。】
俺は水を吸って膨張した海獣の腹部ごと、己の右手から放った青色光線でイノラを貫いてやった。熱を吸収してだいぶ弱体化した魔導砲だったが、所詮でかいだけの魔獣など俺の敵ではない。
そう達観する暇も無く、俺は浮き上がりそうに成る体を少し縮めて穿たれた怪獣の死体へと懸命に泳ぐ。魔導砲により水温が急上昇した海水が変温流動により急激にかき回されて泳ぎを阻害されてしまう。
(ユイヅキ。羽根を使って前に進めるか試せ。早くしないと折角鱗を入手できる機会を失ってしまう。)
ユイヅキと深層意識までを同調させ、俺は原初の翼の代わりとして授かったもう一つの能力を背中から発現させる。
【死神の翼を展開。操作は私が担当するので鱗の剥ぎ取りは任せますよ。】
背中から左右六つ合計十二本の枝の様な細く白い翼が現れ、理力を応用した磁気推進力で水中を強引に進んで行く。俺は背中を幾人もの腕が押している様な力強さを感じながら矢筒から銛を一本取り出し、同じく理力で不可視の刃を付与して熱を帯びた死骸へと投げ付けた。
熱せられた死骸の融解部から未だに多くの気泡が噴出している。耳を塞ぐような対流音ばかりが聞こえて周囲の状況と切り離された感覚のまま沖へと遠ざかり、銛が刺さった背中が吹き飛ぶ衝撃から体を丸めて守った。
【死神の翼を停止させました。そして対象及び付近の温度上昇が止まり急激に低下し始めました。おそらく尾の部分なら鱗が残っている筈。劣化が始まる前に回収しましょう。】
俺は自らの足を動かし足鰭で再び海底へと潜って行く。当初の想定より少し流されたが十分間に合う距離なので、腰帯から切断用ナイフと照明具を取り出して回収準備を終わらした。
海底に肉片として広範囲に散らばっている緑イノラの死骸。骨や外皮には溶融した痕がはっきりと残っていて、熱で魔導細胞ごと体組織が炭化した痕が見える。
俺は補正された視界内に在るそれ等残骸を大まかに区別し、ユイヅキの言葉どうり遠くはなれた場所へと流されている魚の尾と酷似した部位を発見した。
(根元が少し焦げてるがまともに残っていて助かった。こんな事になるなら初めから海獣を襲って材料を集めた方が良かったかもしれない。)
背びれの一部が残っている緑色の鱗が並んだ巨大な一部分。大きさは吹き飛んだ断面から尾の先端まで十メートル以上はある。尾の先端に進むにつれ鱗が小さくなっていて、まだまだ成長途中の個体だったのだと思い返せた。
俺はそのままナイフを突き刺し、強引に根元部分を切り裂いて大きな鱗一枚を剥ぎ取った。後から余分な肉片さえ取り除けば、魔素が濃いどころか魔導細胞が残っている状態の鱗を持ち帰れる。そうすれば予定していた探索の一気に片付き、ゆっくりと遺跡調査を進めれるだろう。
切断用ナイフを鞘に戻し、そのまま鱗を抱いて浮上する。おそらく海面から突如発生した水柱に驚いて海流たちが海へと逃げたに違いない。このまま遺跡を迂回して東に在る古城へと戻らねば、また危険生物に襲われて時間と魔素だけを消費してしまう。
かくして俺は古城へと戻り鱗を保管してから、残り時間を素材回収にあてがい海に潜り続けた。先に結論から言えば三つの素材を必要量集める事が出来た俺は素材だけを宿泊先のラノイ台船に持ち帰り、二日目の残り時間を素材加工業者の選定と海没遺跡の情報収集にあてた。
そして三日目である十七日早朝に余裕を持って海没遺跡の調査に出向こうと、夜が明ける前から準備に取り掛かっていた訳だが、ここで予期せぬ一報がセラの父親と共に俺の前に立ちはだかる。
虹色深海樹。流木などが海獣が居る海の魔素や不活性魔素で変質硬化した物。離岸流で流されてきた流木等に同じく変質した珊瑚虫が住み付き表面に珊瑚質な膜が出来上がる。
大抵は変化した潮流などで直に流木が沖合いへと流されてしまうので、なかなか美しい虹色の光沢が出来上がることはない。同種の変質した木材を深海樹と一括りに呼んでいるが、寄生した珊瑚虫の種類により様々な色艶や形状へと変質する。
探す際は漂流物が溜まり易い岩場を探せば見つかるが、殆ど干乾びて完全に石化した流木ばかりが流れ着く。
個人事業会社のラノイ台船で働きながら暮らしているセラ・ラノイ。引き上げ兼台船業を営んでいる実家の看板娘で、父親から倉庫管理から経理や料理洗濯と掃除まで任されている。
当人は海獣のぬいぐるみや模型を集めたりその死骸の一部等を集めるのが趣味らしく、俺に空き部屋と言いはり貸し出した自室にも多くの海中写真や海獣を描いた子供の落書きが有った。
部屋を借りる見返りに探索で回収した金目の物や食料を渡す事で合意したのだが、十七日の朝に娘の部屋から出て来た見知らぬ青年を目撃した父親によって契約が覆りそうになっている。
故に俺は海に行けないまま倉庫部屋の事務机を隔て、右隣に座ったセラと同様に毛髪が無い大男である父親と説教を受けている最中だ。
「おいお前等人の話は最後まで聞け そもそも俺の前で内緒話なんて出来ると思うなよ いいかお前達若い者が……」
上唇と鼻下の間だけ残した髭と太い眉毛。そして目を覆う黒いサングラスが日に焼けて黒く染まった肌を浮き上がらせている。また上半身に薄い布地の緑色シャツを着用していて、筋肉が逞しい日に焼けた腕と胸元を露出させている。
だが問題なのは頭髪が完全に絶滅した頭部より、ベルトを巻いた青と白の迷彩柄の長ズボンと軍用長靴だ。明らかに漁師だけでなく船主が着用する一般的な装具ではない。おそらく元軍属か予備役に所属していた傭兵だったのだろう。そして金属製の大物用釣竿すら簡単に圧し折りそうな太い指には瘤のような独特の手豆が出来ていて、以前何処かで聞いた重火器を扱い続けた兵士の手の特徴がある。
(昨日セラが言っていたが、確かにこの容姿はそうそう出会えそうにない。海坊主と言われているのも頷ける。孤児の頃に出合っていたら怖くて目も合わせれなかっただろう。)
俺は何時終わるか分らない説教を聞き流しながら、海に入る気満々で腕に巻いた海中時計をちら見した。
現在の時刻は午前七時五十三分頃。昨日までの生活を振り返れば、俺が浜辺を歩きながら海を見渡しセラが朝食を作っている時間帯だ。
「海獣騒動を聞いて船を走らせていた俺の気持ちを少しは察しろ いいかセラ こっちは昨日から働き詰めで睡眠も碌にとってないから頭がぼやけてる うっかり客を泥棒だと勘違いして大怪我させても不思議じゃない状況だったんだぞ そもそも客を家に泊めるなんて許した憶えは無い 何か有ったら直に連絡しろと教えたはずだ だいだい泊めるにしても金を取らず収集物で……」
セラの父親たるセラム・ラノイは引き上げ船に改造した河川用小型運搬船の船長だ。ここ数日は北の山を越えたすぐ近くに在る二大河川のタケノコ川にて船を走らせ、主に川沿いに点在する工業都市オートマグの造船会社へ荷を運ぶ仕事をしていた。
日付を跨いだ今日の午前三時頃に仕事が終わって船ごと引き揚げた訳だが、帰還途上で昨日昼頃に中間水域の堆層水域近くで発生した水中爆発の報を知って不眠のまま船を走らせて来たらしい。
俺は主に船舶燃料に使われている植物性生成油の酒の様な臭いを我慢しながら愚痴を聞いていたが、時間が惜しいのでそろそろ無関係な親子会議から離れる事にする。
「解りました 金を払いますのであと一泊だけこの船着き倉庫に泊めてください 今日は回収した素材を加工屋に運んだり探索用に沖の島へ運んだ装備の回収もしないといけないので それでは続きをどうぞ」
そう言い長椅子から立ち上がって借りている部屋に戻ろうとしたところ、薄着のシャツの首元を首ごと掴まれて止められた。
「流民の若者の癖に店の主の許し無しで逃げるんじゃねぇ お前にはまだ聞きたい事が山ほど有るんだ 娘との話が終わるまで大人しく座ってろ」
身長はおそらく百九十センチに届くかどうか。肩幅が広く年齢を感じさせない筋肉が呻って俺を持ち上げると、そのまま強引に座っていた長椅子へと降ろされる。
「親父 貴重な探索客を蔑ろにすると良からぬ噂が流れえるぞ 只でさえ人を威嚇するのに適した風貌たのに それを証明するような情報が広まったらどうするんだ」
俺とは違い寝ていたのを叩き起こされたセラは寝巻きのままだ。赤色の寝巻きの背には背びれの様な切れ端が縫われていて、寝巻きなのに取り付けられたフードへと鬣の如く続いている。
「若い娘の癖に長椅子で寝ようなんて十年早い 良いか俺達の店は万人向けの大衆店とは違うんだ 信頼は己の腕でつかみ取りゃなきゃ意味無ぇんだよ」
椅子に座らされた俺とは正反対に、いきなり立った女王イノラ風の寝巻きを着たセラと海坊主が立ったまま睨み合いと口喧嘩を始めた。身長差や性別及び趣味趣向の差を浮き上がらせた両者は口を動かし舌戦を繰り広げているが、口喧嘩の内容は日常生活から個人の趣味と多岐にわたるもので俺とは何の関係も無い話ばかりだ。
(ユイヅキを背負ったまま部屋から出ていたら違った展開になっていただろうな。なにせこの辺りで魔物討伐者や魔獣駆除業者は好意的に扱われてない。セラには副業で魔獣討伐をしていたと教えておいたが、この海坊主に知られたら叩き出されるかもしれない。)
セフィロトと違いこの国では貧富の差が激しい。治安も悪く、こうしている間に何処かの地域で何かしらの事件が発生している。経済重視の多民族国家と言えば海外や国外からの移民が付き物なのは歴史が証明している。俺はそう考えながら親子喧嘩を聞き流しつつ、周囲に飾って有る船や海獣含めた模型と写真立てを見ることにした。
(しかし同じ魔獣でも陸と海の違いだけで認識がこうも違うのだから、文明が決めた害獣なんて枠組みが文明の都合だけで幾らでも変わる事がよく解る。結局職にあぶれた者や犯罪者紛いの傭兵が相手にしている時点で負け組なのは確定してる。伝説を追いつつ職を安定させるにはまだまだ努力が足りてないらしい。)
二階の海側を閉める二階倉庫と陸地側に設けられた私室の壁隣に有る事務用空間。書類作業用の机と椅子は私室の壁伝いに一つしか無く、やはり観賞用の置物は低い継ぎ接ぎだらけの机を囲む棚に長椅子の周囲に密集している。
俺は見るだけでなく興味がわいた物を手当たり次第手に取り、主に写真や雑誌の切り抜きを調べて記録された情報を調べる。幾つかの写真立てやアルバムに挟まれた綺麗な天然色の写真には三人親子の姿が映っていて、父親の海坊主を除いて死んだ母親とセラの若かりし頃の姿が手に取るように解った。
(セラの海坊主は昔と少しも変わってない。どの写真でも半袖か走り袖と迷彩柄の長ズボンを履いて、必ずサングラスを装着した姿しか映ってない。この分だと結婚式も戦場帰りの様な衣装を着ていたのかもしれないな。)
俺はアルバムに挟まれた生後間も無い女児の裸体写真を目にし、そのまま分厚いアルバムを閉じて本棚に戻した。背後で口喧嘩を継戦しているラノイ親子は相変わらずなので気取られる事はないだろうが、念の為に同じ棚内でアルバムの左横に置かれえているアルバムらしき分厚い装丁の本を手に取る。
(これは探索資料集で間違いない。探索者だったセラの母親が残した遺品だろう。遺跡を撮影した写真や帳簿の様な何かの記録が書かれているから、迷宮探索者の探索手帳と同じ代物だ。)
もしこのアルバムもどき本物の探索手帳なら、俺は探索者が人生の大半を費やして獲得する財産の半分を盗んだ事になる。もし知られれば探索街から追放されるか訴えられて賠償金を課せられるだろう。勿論そんな話は探索街だけの話しなので、他者が人生の大半を費やした記録なら尚更読み進めたくなって当然だ。
(やはり海没都市の調査記録で間違いない。深度百メートルより更に深い場所に沈んでいる都市船の残骸を今更調べようとする者は居ないと思っていたが、俺より十年以上前にそれを実行した奴が居たとはな。)
俺は読み始めた日誌の様な手記部分に指を挟ませ、全部で三百ページ以上ある全ての項に余白が有るか無いかを確認した。結果、この探索記録集は雑誌から切り取った資料や手記等の紙媒体を張り合わせ一冊の装丁に纏めた本だと判った。三百どころか四百はくだらないページ数に製作者の執念を感じながら、俺は再び大部分を占めている日誌の様な探索記録を読み漁る。
(セラの母親は何の為に海没都市を調べていたのだ? 今の所それらしき事情を記した箇所は無い。どちらかと言えば水中探索者や引き上げ業者として携わった潜水業務関連の記録書にも思える。)
日誌には探索情報と一緒に、必ず営業収支表や家計簿を記す為か各種経費と報酬を纏めた記載が有る。まだセラが若い頃は名を知らない母親が店の台帳を管理していたのだろう。海坊主と結婚したのだからこの程度の事は出来て当然だろうな。
「父親の癖に娘を殴った事後悔しろっ」
俺が無関係な他人の家庭事情を推測していると、渦中の親子喧嘩が唐突に取っ組み合いに変わった。鳩尾を殴られ苦しそうに上半身を前のめりに傾けた海坊主をセラが格闘技の投げ技で投げ飛ばし、机が粉砕され大の男が床に沈んだ。
「今度からトイレ掃除は親父の仕事だからね さぼったら食事はないから覚悟しとくように」
そう言うとセラは顔だけでなく日に焼けた体を真っ赤にさせたまま、日課である水汲みに二階倉庫の出入り口から外へ出てしまった。
どうやら倉庫内に置かれた道具箱を整理整頓したり掃除含め飲み水用の水を遠くから運んで来るのに鍛えた筋肉なら、いとも容易く筋肉達磨の大男を投げ飛ばせるようだ。俺は狩りの知識以外は中途半端なので格闘技にも詳しくないが、おそらくセラは学生時代に格闘技を習っていたに違いない。
強い衝撃を受けてもずれない黒いサングラス。その下で目を開けているかどうかは判らないが、とりあえず俺は机の残骸と破片が散乱した床に体を仰向けで横たえ、サングラス越しに天井を見上げている様な海坊主へ声を発する。
「もしかして目を開けたまま気絶したのか それとも娘に投げられた父親の気分を味わっているのか 一つ聞きたい事が有るんだが」
体を小刻みに震わせ笑いを堪えながら声をかけた俺に頭だけを向けた海坊主。俺の顔から手に有る本を目にしゆっくりと起き上がった。
「それは妻の形見だから今すぐ棚に戻せ さもないと次は本当にお前を気絶させる」
年の功だろう感情的に余裕が有る冷静な声だった。俺は笑いを腹に押し込めつつ戸棚のアルバムの左隣に探索記録集を戻してから、再び口を動かす。
「見てのとうり俺はセフィロトの人間だ 古都ベルスに居た頃に世界中の遺跡に興味が湧いて ゼノンの事を調べながら国を出る準備をしている間に世界各地の遺跡ついてあれこれ調べた 俺がこの港街に来たのは魔導具職人に成る為の素材集めなんだが 実は個人的な用件で海没都市について幾つかの情報を探している」
何時もどうり嘘を吐いてはいないが真実は語らない。ただ遠回しに海没都市に死神の生き残りが居るかどうか手掛かりに成りそうな情報を聞きだす。
「特に海没都市や周辺で行われた遺跡探索で新種の海獣や魔物と遭遇した情報だとか 珍しい生体結晶や大きな核を引き上げた話の有無を知りたい 勿論セフィーナの探索街から各組合関係者と下請け業者がこの辺りの街に依頼を出しているかどうかも気になっている 海上輸送に携わっているなら噂話でも聞いたことは無いか」
セラムは俺とは反対側の長椅子に座り、腕を組んで考え事を始めた様子だ。セラの言うとうり俺の立場は客なので、無碍に扱うとこの口が悪い事をしでかしてしまうかもしれない。
「俺の妻キャシーは娘以上に海獣について知りたがっていた 何故この海に住んでいるのか 何時から海の支配者と成ったか あいつは何時もそんなことばかり言っていた 結局十一年前の海没都市探索中に行方不明になったまま帰って来なかった 沈んでいる遺跡船に生態の謎を解く手掛かりが有るとだけ言ってな もしあそこへ行きたいのなら送ってやってもいい 勿論何が有ろうが無かろうがお前の身がどうなろうが俺には関係無い事だ 娘に渡した尾鰭の件も有るから宿代と船代は取らない だから明日までに妻の形見をじっくり調べておくんだな」
海坊主は言葉を終えると立ち上がり、そのままセラの機嫌を取りに行くのか出入り口から出て階段を下りて行った。
俺は巨体が全木造の階段を軋ませる音を聞きながら自室に戻り、昨日持ち帰った素材を入れた袋と二つの大きな素材を小さく砕く為の準備に取り掛かった。
(運が良いのか悪いのか判らないが、どうやら海没都市を調査する手間が省けるらしい。さっさと所用を終わらせて、あの探索記録集を読む時間を確保せねば。)
乾燥した鱗は緑色の着色硝子や大皿の様に滑らかな状態のままで、虹色深海樹同様に亀裂や染みが一つも無い。この状態のまま港街に在る収集物や漂流物を加工する業者に渡しても良いが、流石にこの状態だと多く手間賃が取られてしまう。だからユイヅキと生体接続してから理力で組成を切断し、双方とも割れた硝子片や砕けた壷にでも偽装すれば費用を安く抑えれるかもしれない。
俺はユイヅキを肩に挟み紫水晶体に触って魔素を送り込む。するとたちまち視界内に生体接続前の動作情報が表れ、まだ寝ているユイヅキの水晶体を外部から活性化させて生体回路を同調させた。
【海辺で起してほしいと伝えたはずですが。なにせ昨日の魔導探査疲れが残っているので処理機能が低下してます。せめて魔素が豊富な魔導液にでも浸けてくれると助かるのですが。】
わざわざ聴覚野に干渉して音声情報を送って来ているあたり、まだ疲れが残っていて寝ぼけているのだろう。おれはそんな状態のユイヅキに時刻を確認するよう命じ、そのまま大きな鱗と虹色深海樹を覆っている紫色の布を剥がさずに床に置く。
【八時十分過ぎですか。どうやら水晶体内の結合端子の組成回復が想定より遅れていますね。少量でも良いので高品質な魔導液を所望します。】
俺は港街で高い魔導液を売っていそうな店を思い出しながら、風呂敷に包まれた怪獣の鱗と深海樹へ魔導干渉波を送り続ける。
魔素は分子結合や分離作用に関わっているので、この物質内に含まれている魔素を振動させれば結合が緩くなる。ただし理力による出力は最小限度を維持しないと、原子核と結合した魔素が離れて結合崩壊を起してしまう。
【魔素の乖離反応は検出できず。破砕しやすい強度まで下がりましたよ。】
俺はユイヅキを填めた探索者時代に貰った小さく古い複合弓を右肩から外し、両手で握り手を握ると風呂敷に包まれた素材を砕き始めた。
灰色の弓で焼き菓子を砕くような感触だ。軟らかく弾性のみが低下した二つの素材はとても脆い。だから表面だけを叩くよう意識しながら複合弓で叩き続け、風呂敷内の素材を小石程度の大きさにまで砕いた。
(粉が殆ど出てない。これなら専用の破砕機で魔素を分離させずに魔導物質だけを取り出せる。加工屋に預ける時に一部を魔導液に加工して貰えれば探さなくて済むだろう。)
ユイヅキを背負った俺は各種素材を袋ごと一つの古いバケツに入れ、蓋を閉めて抱えるとそのまま個室からでて廊下近くの出入り口から倉庫を出た。
港街の埠頭の堤防外に在る船着き倉庫からは街の港区が一望できる。船着場の護岸や桟橋に係留されている船の数は少なく、既に大半の漁船が出漁した後だ。
なにせ早ければ十一月の後半から台風が沿岸地方に来るようになり、海中探索が本格化する年明けから二ヶ月間はまともに漁が出来ない。大陸中から来た探検家や探索者が漁船まで借りて沖合いへと潜りに行く探索期間中は賑わうらしく、今の内に自分達の食料等を確保しておかないと期間中に稼げなくなるらしい。
俺は旧射出基地内に作られた大型船舶用の港である港街へと進み、湾内の海面上空を飛行する海鳥達が見える北護岸へ渡れる橋を渡った。南護岸には宿場や生鮮食品を扱った店が並んでいるが、この北護岸の通りには漁具や探索装備を扱った専門店と軽工業や土産品を生産している町工場が軒を連ねている。
木造の渡し橋を渡って東側に店を三つ越した場所に裏通りと繋がった細い路地が在る。俺は表通りからその路地に入って裏通りには出ず、路地内で小さな工場を構えている合成樹脂製の波板を屋根代わりに敷き詰めた小さな工場へと入った。
「誰か居ないか 海獣素材と深海樹の分解を頼みに来たから開けてくれ」
無色透明な硝子板が木枠にはめ込まれた引き扉を叩き、全く同じ言葉を二三度繰り返した。四度目の呼び出しをしようと息を吸い込み始めた瞬間、中から年老いた老婆らしき声が聞こえる。
「それゃあ換気用の引き戸だから横の扉から入りな」
皺枯れていながらも甲高い声が耳に入り戸を叩くのを止める。そして右隣に在る壁にしか見えない木板を隅々まで見つめ、通常より低い位置に埋め込まれた引き金を引いて扉を開けた。
海没都市アトラ。ゼノン西岸中心部に位置するアトランタ州の沖合い十五キロ地点に在る大規模な船墓場。
全長三百メートル級の艦船やその残骸が多数沈没していて、厄災時代以前の高度な技術によって建造された海上移動都市の残骸が残されている。
アトランタの名はその海上都市から派生した都市の名で、現代の州都は三代目のアトラでもある。
探索四日目の十八日朝。船着き倉庫内に停泊した河川用運搬船に搭乗済みの俺は、出港準備中の海坊主を他所に硬式潜水服の準備で忙しい。なにせ平甲板内で鋼線や突起部に固定されている大きな木箱から硬式潜水服を取り出し、昨日繰り返した装着用の密閉金具を全ての接続穴に取り付けるだけで数十分はかかるからだ。
俺は既に大半の部品を組み立てた状態で木箱に保管しておいた腕装備と頭装備を取り出し、重い潜水服用に開発された軽量外骨格に己の右腕ごと腕装備を装着する。既に黒い密着服に包まれた下半身の両足に重い潜水服を装着したので、潜水開始場所に船が到着してからすぐ潜水可能な状態に成るまでに胴体部を完成させれば問題無い。
(ユイヅキの状態に不備はない。それにしても水晶体で温度と与圧管理が出来る古い装備が残っているとは思わなかった。中古どころか骨董品で探索者をしていた頃が懐かしい。)
昨日の正午過ぎまでに加工業者に素材を引き渡し、この船で古城に置いていた物資の回収を済ませた。それから海没都市へ潜る為に装着する潜水服の説明をセラから聞き、夕暮れ前から母親の探索記録集を読みふけった俺は日没後に起きて来た海坊主の会話相手をしながら夕食を済ませた。
その後寝る前の深夜まで記録集を読み続けたが、結局全ての項に目を通す事は出来なかった。俺は加工業者から貰った余り物の魔導液に浸けていたユイヅキを取り出し、多くの魔素を与えながら鷲づかみの状態で残りの情報を水晶体に記録させていた。
その水晶体だけとなったユイヅキは現在、右腕に装着された巻き上げ装置に照明兼動作補助用水晶体として入れてある。腕の手首上に有る覆いの様な先端部が丸い強化硝子で覆われていて、直径五センチ程度の紫水晶体が魔導液に包まれながらその先端部で眠っている訳だ。
俺は装着した右腕の指関節を動かし、適切な抵抗値を探りながら手首の捻り部に有る摘みを回し続ける。
俺に貸し出された硬式潜水服は一階倉庫内の陸側置くに保管されていた三百年以上前の代物だ。見た目は河川や池等の流が少なく水深が浅い場所で作業する為に使用される金属外殻で覆われた潜水服だが、調節次第で海坊主の体も入る丸い胴と四肢部分は中空構造になっていて内部に緊急用浮き袋が内蔵されている。
発売当時から現在の既製品と比べても大きく重いのが災いしたのだろう。特殊な用途を除いて殆ど使われおらず年代物なのに一番良い状態の物だと海坊主が自慢していた。
俺は潜水服の動きを補助する魔導液を兼ねた安い魔石由来の潤滑油で動く外骨格に補助されながら、左腕に作業用固定腕を取り付けた左腕装備を取りつける。両腕共素体の耐圧殻に専用の探索装備を金属製固定帯で固定してあり、一般的な腰に回すベルトの留め金と同じ方法で脱着が可能だ。
「出航するぞセラ 乗るんなら早く降りて来い」
船尾の最後尾に位置する箱状の操舵操船室から大きな声が船着き場に響き、直後背後から耳を震わす警笛の船笛が二度鳴らされる。
(勘弁して欲しい。無線機を装着してなかったら鼓膜が破れてたかもしれない。)
俺は海坊主に直接文句を言わないまま引き上げ懸垂装置を操作し、吊り具から吊り下げられている胴装備を丸い頭装備近くの甲板に横たえさせた。
胴装備は首から股関節までを水から隔離する一体成型された金属外殻だ。頭部と股関節部を除いた大部分が円筒形状で、人間に例えるなら左脇辺りに装備を前後に開く為の固定金具が有る。
俺は胴体部に巻かれた硬質合成樹脂の専用帯を外してから、木槌でその固定金具を叩いて金具を外した。すると自動で装備前側が右側に開き、魚の開きの様な状態で内部が露出する。俺は自身の体より小さな棺桶に入る気分で潜水服後背部に横たわり、体を小刻みに動かして密着服の上に纏った外骨格の接続端子を噛み合わせていく。
「ごめんごめん 御柱を組み立てるのに時間が掛かっちゃった」
俺が一人で棺桶に成るかもしれない潜水服と格闘していると、階段を降りて来たセラが船に飛び乗って来たので床が少し揺れる。
(そう言えば十八ならもう十分大人な体だよな。俺の故郷には大きな乳持ちが居なかったから、揺れる胸を間次かで見たのは何度目だっけ?)
そう考えながら上半身を起こして腰の固定具を確認していると、白く塗装した碇の様な木製の御柱を何処かに置いて来たセラが後ろから手を伸ばして来た。
「手伝うよ これは母さんが練習用に使っていた潜水服だから親父より詳しい ほら体を倒して」
セラは着用作業を慣れた手つきで進めるので、俺は体を押さえつけられながら潜水前に懸垂装置で吊るされる状態まで大人しくしていようと決めた。
今回の船旅にセラが同行するは母親の命日が近いからだ。何でも十一年前の最後の遺跡探索以来、毎年母親の命日である十一月二十二日かその日に近いセラムの休日に船で母親が潜行した地点に出向いている。この国では死者の弔い方や死体の処理方法を遺族が選べる制度がある。この法により死体の焼却処理から遺品整理まで業者に委託する事も可能で、国に死亡届けさえ出せば面倒な葬儀をせず死体を無料で処理してくれるのだ。
「イクサム 今日は波があるから少し揺れる 俺の操船は荒いが甲板に食った物を吐いたら許さんぞ」
船底後方に有る内燃機関が出力を上げ始め、係留柵から解放された台船が倉庫の船着場からゆっくりと出て行く。獣とは違う発動機の呻り声を聞きながら各部位との接続作業をセラの手に身を任せ、俺は視界内に表れたばかりの雲が浮く青空を見上げる。
(セラの母親は大型の遺跡船が密集して沈んだ場所を探すと言い遺して行方不明に成った。海坊主の言い分が正しいのなら、セラの母親は大規模な探索組織ですら避ける場所へ単独で潜った事になる。仮に消息を絶ったのが探索期間中だったとしても、捜索を引き受ける業者が現れないだろう。)
港街と化した基地の奥へ続く水路を守る防波堤から遠ざかり、水深が深い場所まで来ると船が二次加速を始めた。加速して行くと船が後方へと数度ずつ傾き始め、安定性が取り得の台船が波を蹴って上下に揺れ始める。
海坊主曰く、この船は元は河川用小型台船だった船の底に圧縮式推進装置を二つ取り付け、高速艇としての運用も出来る万能型の船らしい。沖合いの海獣が出没する水域まで船を向かわせるのだから速度が重要なのは解るが、今の俺は吊り下げ用の懸垂装置に磁力で固定され吊り上げられているので。平らで大きな靴底が甲板から離れた状態だと激しく揺さ振られ視界が安定しそうにない。
(自重で少しは安定するはずなのに。これだと俺だけ完全に積荷扱いだな。頭装備を胴と接続して密着する空気圧管が閉まりそうで怖い。)
現在船は島々の浅瀬を通り針路を南東へと向けている。船が加速し始めてからセラが操船室に入ってしまったので広い甲板内には誰も居ない。俺は箱型の操船室前側に搭載された半電動式の十トン級懸垂装置に吊られたまま、現場海域に到着するまで群青色の水平線が幅広の船首と何度も重なる景色を見続けた。
船は出発してから三十分近く減速せずに走り続け、中間水域の沖側の水路を北上していた対潜駆逐艦近くを通って港街から十八キロ程南東の沖合いに到着した。船は停まらず堆層水域を沖へ減速しながら進んでいて、操船室から戻って来たセラが潜水服の最終点検を行っている最中だ。
「ねぇイクサム私の声は聞こえてる あと少しで遺跡近くの船墓場に着くから懸垂装置を伸ばすよ 伸ばし始めたら直に船が傾いて勝手に曲がり始めるから 背中の空気管が全没するまでに固定具を外すよ」
俺は足元の右側死角から聞こえた声に対し右手を動かし、分厚い手袋を纏っている様な感覚の右手を握りしめて了承の合図を送った。
足回りの点検が終わったのだろう。セラは懸垂装置を操作して宙吊り状態の俺を甲板まで下ろし、尻辺りの外殻が金属板に接触した位置で再び固定する。
「こっちの点検は終わったから 変換装置を動かして問題が無ければ引き上げるよ」
俺は手探りで胸元に有る幾つかの回し摘みを回し、両腕の操作端末を操作して巻き上げ器と固定腕の動作確認を行う。
(内臓発動器に問題は無い。これで残った準備は口元のろ過装置を密閉接続するだけか。)
右腕潜水服に装着した盾の様な巻き上げ装置。これは海中で高所から降りる際に先端の鉤爪を引っ掛けて降下する為の装置で、水深二十メートル程度なら船から直接海底に降りる時にも使うそうだ。
左腕潜水服に装備した油圧式伸縮装備。先端の二又動作腕で物を掴んだり圧し折ったりするだけでなく、一メートル程伸び縮みする棒を高速射出して何かを砕く事も可能だ。
再び右手を握り合図を送ると、背中の首後ろにある手摺の様な継ぎ手を掴む磁力式の吊り具が引き上げられ始めた。そのまま甲板上から右舷へ体が移動し、重心変化で傾いていく船が死角へと消えていく。
俺は両手を握り合わせ肘と膝を曲げた姿勢を執り、周囲一面で揺れている青い波へと降下する準備を終わらせた。
「忘れるなよイクサム 三日経っても戻って来なかったらお前の荷物を全部売っちまうからな」
海坊主の怒鳴り声が頑丈な潜水服の集音装置に伝わり、生命維持装置と共に起動させたばかりの各種計測機器が集中する頭部装備内に響き渡った。
俺は外部音響装置が無い潜水服の中から聞こえない愚痴文句を零しつつ、足元からゆっくりと海中に入っていく己の大きな体へと意識を集中させる。
(気密と水密に異常は無い。最終手順どうりろ過装置を右手で押し込んで、掲げた左手を開けば固定具から解放される。)
ゆっくりと沈み続ける体の肩辺りが海面下に潜ったので、頭部装備のガスマスクの様な口元のろ過装備を押し込んでやる。すると大量の空気が口元から流れて来る音が頭部内に響き渡り、右手の端末表示板が光って背中の海水変換装置が正常に稼動している状態を表示した。
「昨日船着場で沈みながら訓練したとうり これで一安心できる」
俺は右腕を口元から離しながら左腕を動かし、背中の空気缶脇に差し込んだ大きな銛を引き抜いてから右手に握らせつつ左腕を海面から突き出す。そして閉じていた左手を開いた瞬間、船から俺を見ていたセラが懸垂装置から太い鋼線で吊り下げた固定具の掴み手に流れている電流を逆流させた。
後頭部から潜水服の金属外殻を叩いた様な音が聞こえた瞬間、真っ暗な海中へと単独降下が始まる。裸眼でも解るくらいに視界が空色から青を越えて暗い色へと移り変わり、三半規管だけが加速度を増しながら落下している状況を伝えてきた。
「深度六十 七十 八十」
俺は水深が百を越える前から体勢を前に傾け、体を水平近くまで傾けてから背中の空気袋を開いた。減速した後は潮流に流されながら真っ暗な世界を無灯火のまま沈下し、予想地点の水深百五十メートルの砂地へ到着するのを待つ。
(今照明を灯したりユイヅキを起動させると海獣や危険生物に気付かれる。船墓場内の沈船の残骸に着くまでは方位盤だけが頼りだ。)
頭部の目元のみに横長形状で曲がった耐圧硝子が填め込まれていて、二枚の硝子板の間に振動吸収用の赤色液晶が充填されている。赤色液晶により頭部内の計測表示類が発する光が赤色波長だけ外に漏れるので、基本的に深海生物の目にこちら光が見える事はない。
光が失われ弱々しかった赤い光が視界を埋め尽くすように成り、ほぼ同時に海底の砂地が視界内に現れた。俺は重い体を動かして銛を握る両手と膝当てや爪先を下に向けると、着地時の衝撃を吸収する態勢で砂地の砂を舞い上げる。
舞い上がった砂で視界が鮮やかな暗色系の赤に染まっている。そんな中でも俺は感覚を頼りに体を動かし、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
(砂漠の砂より硬い砂地だ。確かに従来の砂漠と違って有機物と結合した魔素を多く含んでいる地形で間違いない。微生物に骨まで分解された死骸が死んだ微生物の死骸と合わさってる。船墓場と言うより海の墓場その物とも言える。)
長さが百七十センチを超える銛を両手に携え、活性化させた微弱な魔導細胞で砂地を蹴って進む。浮力が無く水圧やら潮流などで身動きが制限され易い環境だが、強化外骨格内に充填された魔導液が重い潜水服を軽やかな等身大人形へと変えていて動き易い。
それから俺は右手に装備してある反射方位盤を何度も確めながら砂地を進み、三分と経たないうちに降下地点から西へ四百メートルの場所に沈んだ探索船の残骸近辺に到着した。
赤く着色された視界に現れた船体は、一目で百メートル以上の長さを有する大型船だと判る。排水量が一万トン近い船の残骸は引っくり返った状態で二つに分断されていて、海獣の爪による引っ掻き傷が海中生物の住処と成っている。
(どうやらこれが目印の沈船らしいな。この場所から海没都市へ沈船の残骸が軒を連ねた道が続いてる。一種の海底探索道と化した船墓場を西に進めば、二三時間程度で遺跡船沈没地点へと辿り着けるだろう。)
俺は南北に船体を横たえる比較的新しい沈没船の南側を迂回し、赤くぼやけた視界を見回しつつ様々な残骸が散乱している砂地を歩き始めた。
赤と黒の二色で全てが完結した世界は冷え渡っていて、頭部の耳上辺りに装着された集音装置が絶えずくぐもった何かの音を拾い続けている。俺は探索者や潜水夫でも単独では潜らない場所を歩きながら周囲を見回し、時折聞こえて来る音を無視してユイヅキに魔素を送る。
強化外骨格を動かす魔導液が充填された人工筋肉は合成繊維の伸縮性を考慮して保護されてない動作時に魔導液自体が熱を発するので、その余熱が常に冷えている外殻越から体温を奪うわれる体を温めているのだ。
【生体回路の同調終了。視界の互換機能で視覚野同士を同調させます。】
聴覚にユイヅキの明瞭な声が聞こえた後、横長で上下が狭まっていた視界が通常の視界へと切り替わった。相変わらず手元は装着した太い装備のままだが、両手で保持している俺より長い銛がどの様な常態か一目で解った。
(回路の調子はどうだユイヅキ。問題無いならこの船墓場を越えて遺跡船が沈んだ場所まで走るぞ。)
ユイヅキは魔導液に含まれる様々な魔導物質を分解吸収し、魔導回路の修復を終えたと明言した。俺は元気そうな声を聴くと、ユイヅキの支援を受けながら筋繊維内の導力路と魔導路内の魔導細胞を活性化させ大きく砂地を蹴った。
対潜四号駆逐艦。海獣用に建造されたゼノン海軍所属艦艇。船体全長は百二十五メートル、乗員は三十人前後。武装は対潜ロケット及び魚雷類、そして海獣用の水中音響及び電波兵器が搭載されている。
ゼノン海軍では葉巻型潜水艦の船体構造を水上艦にも適用した艦船を採用している。海獣から輸送船や大陸間交易船を守る船団護送の任務に特化した艦船が多く、戦闘艦と大半は一号から五号の艦艇規格された艦種で構成されている。
数千年の歳月を海中で過ごしても朽ちぬ船体。全長三百から五百メートル程度の巨大艦船が無数に沈み横たわる海底は崖沿いから遠くの平野部へと続いている。
この景色は、紫水晶体が捉えた熱源や微弱な光等をユイヅキが合成処理した海没都市の一部のみがしか映っていない。大半は光が届かないまま潮流などで攪拌された斜面の外側に埋もれていて、材質不明な遺跡船の間にも微生物に分解された木製や金属製の残骸が散らばっている。
俺は地割れや浸食により四段上に別れた崖を一つずつ下っている。右手の巻き具を駆動させて高さ十数メートルの岩場から階段状に続く岩礁へと降下している最中で、体が回し駒の様に回らないよう手足を動かすのに気を取られ風景を眺める余裕が無い。
【水深が二百メートルを越えました。海獣が活動する深度に到達したので一時魔導探査を中断します。】
右腕装備先端に有るユイヅキが微弱な電波放出を止めたので、周囲の視界が一気にぼやけて不鮮明となった。
海獣類は音だけでなく魔導細胞を刺激する如何なる魔導波長にも反応を示す縄張り意識が強い生物だ。基本的に群れたりはせず体の大きさ次第で縄張り範囲を広げる習性がある。
そして堆積層と呼ばれる海域では、海獣や微生物等の死骸と沖合いの海底火山や二大河川から運ばれて来た養分が年中混ざり合っている。生物の死骸のみならず鋼船も短期間で分解されるので、沈殿した様々な物質に覆われた遺跡船が山の様に見える事もあるらしい。
岩礁に着くと腕を上下に振って崖上に固定した鉤爪を引き剥がす。なんでも釣針が大地に引っ掛かった際に小刻みに振れば離れるそうで、この方法と同じ原理で頭上から落ちて来た鉤爪を回収する。
巻き上げ器が自動で極細の鋼線を巻きあげ、誘導電流で駆動する精密な小型発動機が二十秒程度で鉤爪を元の場所に戻した。
(魔素溜まりが近いから浮き袋を使って崖から飛び降りてしまった方が早いんだが、やっぱり海獣に見つかるかもしれないと臆病になってしまうな。)
俺は流れ出した溶岩流が固まった岩礁の坂を蹴って下り、そのまま崖下の最下層に位置する砂地へと到達する。深度が一気に上昇したので潜水服の関節部が強く圧迫され、少しだけ身動きがとり辛い。
「堆積層ならぬ堆層海底の魔獣の巣に到着 ようやく遺跡の領域内に辿り着いた」
俺は粉骨と同じ色である筈の砂で覆われている赤い地の底を歩きなが、この辺りに棲息している危険生物や海魔と区別されている魔獣の姿を探す。百名以上の潜水夫や水中探索者を擁す大口の探索業者でも手こずる相手なので、最低限の知識しか持ち合わせてない俺では逃げ隠れが通じない面倒な生物と言える。
【右側崖下から接近してくる動体を検知。熱源数は一。形状から大型の魚類と推測。】
ユイヅキの報告を聞き足を止めて右側へと向き直る。周囲には岩や何等かの残骸が転がっているが、大きな体の俺が隠れるのに適した場所は見当たらない。
「天空樹の斑ふぐよりでかいんじゃないか 一口で俺を噛み砕けそうな歯だな」
赤い視界内の前方可視化可能領域から現れたのは、頭部から鰭を含めた尾までの全身を外殻で覆った暴食魚だ。全長十四メートル程度は有るだろうから口もでかく外郭も分厚い。そしてこの銛との相性は最悪と言っても過言ではない。
【対象が五十メートル範囲内に到達。迎撃してください。】
俺は出力を最低限まで絞った不可視の刃を銛の先端部に顕現させ、そのまま向かって来た巨大魚目掛け跳び上がって銛を振るった。
(俺を喰らおうなど百万年早い。生きたまま刺身にされる恐怖を知れ。)
銛の鋭利な先端部が岩を引っ掻くような手応えが合ったが、大きな前歯が有る上顎の先端部から左方向へと外殻に深い傷を与える事に成功する。
理力の刃が外殻に深い亀裂を刻み、内部の神経系や血管を切断して血が噴き出した。戦意を喪失した暴食魚は暴れる気配も無く通り過ぎ、そのまま崖沿いへと真っ直ぐ泳いで行った。
(奴の血の匂いを嗅いで他の生物が集まって来る。海魔に見つかる前に俺も離脱しないとな。)
俺は再び砂地を蹴って前へ進み、浮き沈みが激しい潜水服を高い身体能力で強引に先へ進ませた。
この堆層海底には暴食魚だけでなく多くの危険生物と海獣以下の魔獣として区別されている数種類の海魔が生息している。
沖合いの深海から浅い地形なので魔物は居ないが、磯蟹の変異種である賊蟹を筆頭に、剣魚が二メートル以上成長した槍甲魚や人喰い鮫の生体と海魔ダコの生体である大王ダコ。先程遭遇した斑フグと輪郭が似ている獰猛な暴食魚等と遭遇し易い。
海洋性危険生物は魔獣ではないのでどれ程大きくとも危険性は低い。何せこの海には海魔と呼ばれる捕食者が居るので、連中も海が騒がしくなる様な状況になれば直に逃げ出すだろう。なら今の俺にとって脅威となるのは、やはり海獣未満の魔獣である海竜類の水牙竜とテトラ。そして海の亡霊とも言われている烏帽子立ての三種で間違いない。
砂地や起伏が有る砂丘に点在する探索船の破片や残骸に近付き、海魔の棲家である可能性が高い場所に近付かないよう心がける。そして今回の探索目的である死神の生き残りを探し、伝説の痕跡を見つける為に中心部へ入る為に身軽な状態を維持しなければならない。
例え沈んだ探索船の残骸で使えそうな装備や金目の物を発見したとしても、腰と腹の前含めて左右両側に装着した回収袋に物を入れるのは帰還途中へと後回しだ。
そう固く近った俺は、売れば一株五百G相当で換金可能な高級香草である裸子植物の様な海草の群生地を踏み荒らして先を急ぐ。
(媚薬の材料にする為に何処かの探索業者が植えた竜線香の畑だろう。確か固い枝を折ると海魔が嫌がる成分が出てくると記録集に書かれてあったな。)
ユイヅキの補正により、限定的な範囲内だけだが昼間の様に明るく再現された斜面には、階段状の段差が人為的に造成されている。俺はその畑らしい場所を駆け上がって小高い丘を越え、白い砂が堆積しただけの斜面を下って行く。
坂を下った先に赤く染まった大きな遺跡船らしき構造物が見える。方々に在る探索船の残骸とは比べ物にならない程巨大で、俺は坂を走って下りながら記録集で基礎船に分類されている大型の遺跡船だと推定した。
【止まりなさいイクサム。前方の構造物付近に複数の熱源を検知。生物の群が左方向から中心部へと移動している模様です。】
俺は赤黒い壁の先の認識できない空間へと顔を向けたまま立ち止まった。
ユイヅキには何かが密集して回遊していると海水の流だけで判別可能な能力が有るが、生憎俺の目には補正限界距離にそそり立つ赤と黒の単調な風景画しか認識できない。
【記録情報から推測して剣魚の大群だと思われます。潮流に沿って回遊する習性が有るので、おそらくあの流れに沿って進めば遺跡中心部へ最短で行けるかもしれません。】
ユイヅキの意図を理解し、俺は海底の砂地斜面を走り出した。何百メートルも離れた位置で船体を横たえている遺跡船目掛け直進し、銛を片手に襲って来た深海鮫や邪魔なだけの暴食魚の幼体を排除する。
探索船。全長百から二百メートル程の強化炭素合金船体に、大型の懸垂装置や海底まで届く鋼線を搭載した作業船。定置網を改造した電気策や頑丈な有人式戦闘潜水艇を装備していて、襲って来た海獣や海魔から探索者業従事者や本船の防衛に使用している。
基本的に船団を組んで海中探索を行うので海獣や海魔に襲われる事は稀だが、近年でも海獣に船を沈められたり破損さられる事案が多発している。当然専用の潜水服を着用していても海の魔獣に襲われたら死ぬので、探索業者は今年も年末頃に高額な報酬で各地の出稼ぎ労働者を多く雇うだろう。
遺跡船は探索船や海軍の戦闘艦艇とは違い、何れも浮力区画と推進機関を別々に建造した構造をしている。浮力区画の外壁には何かしらの作業区画や注排水区画が備え付けられていて、船本来の流線型で水流抵抗を考慮した設計思想など何処にも見当たらない。
潮流に背中を押されながら岩盤層の亀裂内を歩き、何度も三十メートル以上先の天井を見上げ、回遊都市であった証拠でもある船底部格納庫らしき構造内部を泳ぐ幾つかの魚影の様子を探っていた。
(深海魚の群だ。ああして流が早い場所の近くを根城に選んだ方が、そのまま流れにのれて外敵の襲来から逃げ易い。記録集の生態系考察どうり、大型の魚が住む場所は深海植物から離れた場所が多いようだ。)
大地に横たわる亀裂は岩場が割れて沈下が始まっている境目らしく、南東側の岸壁が二十度近く傾斜している。傾斜したか岸壁には生物の死骸を糧に生長する茎が長い深海植物が自生していて、葉とは思えない小さな草が微生物の死骸を口元へ集めようと上下に揺れている。
(この亀裂部に入る前に見つけた水牙竜の死骸もこいつ等や甲殻類の餌に成る。いかに全長四五十メートルの長細い死骸だとしても、一年もすれば綺麗に骨だけと成っているに違いない。)
亀裂を北西方向へ進み平らな岩盤層に横たわる巨大な遺跡船を通り抜けると、不鮮明な視界だろうと関係無しに大小の遺跡船や船に搭載されていた設備が高く積み重なっている不出来な足場が現れた。
目の前の瓦礫や残骸で亀裂の道は完全に塞がれている。もし白い堆積物に覆われ深海植物が蔓延る瓦礫の隙間を通るのなら、装着した潜水服を外し体すら小さく縮めなければ通れない。そんな不安定な場所をこれから登って、隣り合って沈んでいる遺跡船へと登って先へ進まねば中心部へ辿り着くのは不可能だろう。
(固定腕を使うには些か頼りない足場だ。積もりに積もった灰の様な堆積物が詰まっているだけの場所も有るだろう。踏み外して足場から転げ落ちるどころか、瓦礫の山が崩れて生き埋めになる可能性も有る。)
そう考えながらも砂地に半分埋っている白く大きな箱状の瓦礫へと右足を乗せ、そのまま左足を持ち上げて一段目を登った。さらに周囲を何度も見回して登れそうな場所を見定めつつ、同じ様に右足を上げて丸いタイヤの様な何かを踏み強度を確める。
「不法投棄された物ではないな こんな沖合いまで回収したゴミを捨てに来る輩がまだ居たのには驚いた」
セラの母親が残した記録集には、七十年前まで行われていた不法投棄により流れ出た廃液等の影響が細かく記されていた。
なにせ巨大な人工物が沈んでいるのだから工業廃棄物を棄てても今更問題には成らない。古くから海没都市近辺の沿岸部は侵食による影響で住み辛い土地だし、何より海獣が漁船を襲うこともある。工業都市や基地から出た廃棄物を処理するのに適した場所なのは俺でも知っていた事なので、まさか海獣や海軍の監視をすり抜けて廃棄物を棄てに来る産廃業者が今も居る事に行政側の腐敗を感じれたのだ。
登り始めてまだ一分も経過してない。見た目よりも瓦礫の山は頑丈で、地上から二十メートル付近まで簡単に登れてしまった。
(横倒しになった船内から自然と流出した瓦礫の山を登ると、最終的に遺跡船内へ入れる上部構造物の穴に近づける。後は遺跡船同士を繋ぐ係留用の吊橋を登れれば、魔導探査で周囲の地形を遺跡船ごと丸裸にできるだろう。)
俺は帆柱の様な格子状の瓦礫を登り終え、横倒しになった遺跡船の上部構造物から垂れ下がっているケーブルの様な管を伸ばした左腕で掴んだ。
「収束配線の一種だろう 朽ちずに残っているなら掴まっても千切れたりしない筈だ」
ケーブルを両手で掴み、握力だけでなく手袋外側を保護する外骨格の拘束力を強める。手元から肩の接続部へと魔導液が集中していく最中、俺は魔導細胞を活性化させて殆ど伸縮しないケーブルを強く握る。
(これだけ力を高めれば足を離しても大丈夫だろう。収束配線が千切れさえしなければ一気に上まで上がれる。)
平たい靴底を意識して持ち上げると、思いのほか簡単に体が浮いた。そのまま腕に力を集中させてケーブルをよじ登り、三十秒程度でケーブル根元から上部構造物の上部に位置した鉄塔の根元へと到達した。
遺跡船自体は巨大な住居棟か橋桁の基礎構造物を海に浮かべた様な形状で、船幅も五十メートルを越えている。何よりこの遺跡船は他の物と比べても保存状態が良いので、簡単に左舷側の頂上部へ上がる事が出来た。
「これが化石皮膜に包まれた遺跡の正体 船体構造ごと変質してる」
船の表面はノミ等で削った様な粗い岩肌になっていて、長年堆積し続けた魔導物質により完全に変質している。セラの母親が遺したき記録集にもこの変質経緯を調査した幾つかの記録が残っていたが、素人目には魔素を少量放出する合成石材の建造物にしか見えない。
等間隔で並んでいる何かを支えていたであろう化石化した柱の梯子を登り、ようやく左舷側面部へと到達した。俺は上部から船底まで平面が続く舷側を歩きなだらかな上り坂の先から見える暗闇へと魔導探査を行った。
【魔導及び魔素反応を検出。波形構造を解析しています。】
ユイヅキが不透明な複数の反応を整合し、断片的ながら一帯に沈んでいる遺跡船を近場から一つずつ形にしていく。積み重なった船は無いが並んで沈んでいたり、連結状態で沈んだ都市船が緩やかに形を成してゆく光景を立ち止まって見守る。
「凄い数だ 遺跡船だけで百隻以上沈んでる これほどの規模を調査するとなると百人単位でも数ヶ月はかかるだろうな」
セラの母親が遺した記録集に記載された地図を思い出し、視界に次々と浮かび上がる大地に埋没した残骸から現在位置を割り出した。
(中心部の中央船からまだ三キロ離れてる。代謝機能を制限すれば生理現象も遅らせれるけど、流石に沖合いで待機しているセラ親子を待たせる訳にいかない。)
右腕の端末内に装備された液晶時計の時刻を見て、午前九時四十二分を確認した。降下したのがおよそ一時間ほど前なので、背中の空気缶の蓄電量が無くなるまで残り五時間を下回っている。
俺はユイヅキに解析の中断を命じ、魔導細胞を活性化させると七十メートル以上の高所から飛び降りる。水中だろうと重い体が下の岩場へと落下し、両膝と胴外骨格関節に負担を掛けて着地した。
【魔素溜まりの場所と高濃度の魔素漏洩を検出した地点を表示します。】
比較的起伏が少なくなだらかな凹凸しかない平らな岩場を走り、俺は西に在る海没都市の中心地へと向かう。この化石化した遺跡船の残骸には多くの生物が生息しているが、今の俺にはユイヅキと理力と言う魔導概念を超越した力が有る。たとえ厄介な海魔の棲家に侵入しようが、銛を一振り一刺しして薙ぎ払い、周囲の海水ごと煮沸すれば簡単に障害を突破できた。
止まらず走り続けながら強引に海魔の巣を突破した俺は、潜行開始からおよそ二時間後に遺跡船の本体とも言われている都市母船前に到達した。周囲は水深二百メートル程の白い堆層海底が続いていて、母船含め周囲の遺跡船は半分が砂中に埋没している状態だ。
(歩雲等に伝説の沈んだ浮遊島の様に見える。浮遊島の伝承かほら話はこれを最初に見た奴が流した噂かもな。)
俺は遺跡船から流出した様々な区画の残骸に挟まれた抜け穴を通り、先ほど補給した魔素を早くも使って大口を開けている母船舷側内の格納庫区画へと走る続ける。
【水牙竜との距離八十メートル。魔導干渉波の範囲内です。】
格納庫は写真等で見た大きな平屋屋根の造船工廠内と殆ど同じ大きさだ。格納庫内は堆積した白い砂で床が埋っていて、俺を執拗に追って来ている面倒な海魔を迎撃するのに適していそうな場所だ。
(奴の魔素が少ない鱗の所為で干渉攻撃が半減してしまう。狭く身動きがとり辛いあそこなら反撃できる。)
格納庫の様な高さ二十メートル以上で横幅はその三倍は有りそうな区画内に入り、黒く染まって見える空間内を更に突き進む。周囲に残骸は一つも無く、壁も天井も黒い空間が奥まで続いているのが解る。
入ってから百メートルは走っただろう。ユイヅキが視界の隅に追跡者の映像を投影してくれたお蔭で奴の意図が手に取るように解った。なので餌を観察しながらゆっくり泳いで来た巨大な水牙竜へと再び対面し、五十メートル程度まで詰まった相手へと全力で駆け出す。
(ユイヅキ。久しぶりに最大出力を出すぞ。)
全身の魔導細胞を活性化し、魔導路で集約させた魔素を右手に集める。そして銛を左手に持ち替えながら体全体から魔導干渉波を発生させ、海中へと当らない筈の右正拳突きを放った。
理力によって空間を伝播する魔素干渉波が針路変更しようとした海蛇の様な体の牙獣を包み込んだ。そして格納庫内の砂を巻き上げて人工的な渦が複数現れたのとほぼ同時に、青色の鱗で覆われた竜の体から大量の気泡が噴き出始めた。
俺はそれらの泡へと引き戻し作用がある干渉波を送り、海に溶け込む前に水牙竜から出た大量の魔素を右手のユイヅキへと吸収させる。
「そうだな あれ程大きな個体だったから海獣に匹敵する量の魔素が摂れて当然と言ったところか」
様々な海魔や危険生物の棲家へ踏み込んで邪魔者から魔素を奪いながら此処まで来た。当然怒り狂った海魔を何度も排除して進んでいるので海の荒れ具合は深刻だ。ただ俺にとってそれは好都合なので、帰還途上に必要量の魔素さえ吸収できればどうなっても構わない。
【先に進みましょう。強引に突破した影響で何時海獣が現れても不思議でない状況です。】
全くそのとうりだ。俺はユイヅキの言葉に少含まれた焦りを感じ、何時も以上に魔導細胞を活性化させて格納庫奥へと走り続ける。
堆積した砂は時化の時に乱れた潮流に乗って奥まで運ばれたのだろう。その堆積した白い砂は見るからに様々な生物の死骸だった物で、いったいどれだけの生物がこの地で朽ち果てたのか想像を絶する量だと言っておこう。
俺は格納庫だと勘違いしていた長いトンネル内を走り続け、入り口から入る際に直進したまま入った四角いトンネル内を越えて母船内へと辿り着いた。
「ただの中庭ではなさそう 大富豪の庭園以上で王様の墳墓以下の大きさだ」
母船中央部は屋敷や豪邸に有る庭とは全く違う、広々とした吹き抜け構造だったらしい。記録集にも大まかな概略図でしか記されてない場所は、大半が区画ごと砂に埋没している。
(魔神伝説と関わりの有る時代の遺跡だが、どうやら当時の面影を残した場所は無さそうだ。ユイヅキ。)
ユイヅキに命じ右腕を前方へ伸ばすと、何時もより強力な出力の魔導探査波長を巨大な中庭へ放たれた。
俺は解析途中でありながら伸ばした腕の位置を軸に時計回りの回す。広範囲を調べるには周囲を囲う内壁内も調べて方が都合が良い。だらか歩きながらユイヅキの精密解析を補助しようと、魔素含め俺の生体回路と魔導路も演算に貸し出してやった。
【解析終了。地上露出部分に複数の魔素溜まりと魔素放出地点を確認。見取り図を表示します。】
視界に立体像が表示されたが、縮尺を知ると母船の大きさに驚く。何せ砂に下半分が覆われているとは言え全長が五百メートルを超えているからだ。おそらく双胴船と同様の構造物だったのだろう。正方形に近い船体の中心付近に居るのに内部からでは全体像を目で捉える事は不可能だ。
(厄災の時代。魔導戦争を生き延びた船団の残骸。魔素溜まりも放出地点も地面に近い位置に密集している。この下に魔素を放出する原因が有るのだろうが、専用の機材じゃないと土砂を取り除けそうにない。)
俺は百メートル四方何も無い砂だけの窪地へと下りながら、堆積した土砂を掘って船底部へ到達する方法を考えた。最も有効なのは船体内部に侵入して船底部へ降りれる道を探して、その道に溜まった土砂だけを取り除く方法だ。
【残念ですが我々の作業量範囲内を越えていますよ。今回は伝説の痕跡が無かったと判断して引き上げましょう。埋め合わせに帰路で発見した換金品を回収しながら予定合流地点の島を目指せば制限時間終了直前に合流できます。この試算には迂回経路や回収作業に費やす労働時間も含めているので、比較的余裕を以て合流できる筈です。】
高性能な相棒のユイヅキが言うなら間違いは無い。そう判断した俺は腹部の収納袋を開けてからその場にしゃがみ、積もりに積もった砂を両手で掬うと収納袋一つ分に詰め始めた。