五章前半
第十一話「魔導具職人イクサム」
神暦二年の十一月。天空樹大異変から二年が経過した十一月の十日。俺は二大河川に挟まれたゼノン内陸地の砂漠地方に在る州都「ソドム」近郊の北高原で、俗に二輪軌道車と呼ばれる大型二輪車で荒野を走っている。
周囲は見渡す限り赤い砂と岩肌が露出した荒野だ。木は無く感想に強い雑草が岩陰などに生えているが、生物が食い繋いで生きられるだけの量は無い。
時速五十キロを維持しながら土埃を巻き上げ大型の自動二輪車を走らせている訳だが、今日も近辺に棲息する魔獣の探すのに手間取っている。
朝早くからソドム北の百キロ辺りに在る岩石地帯周辺を捜索しているが、今の所魔獣はおろか同業者にも出くわしてない。やはり近辺の魔獣を集中的に狩ったのが今になって生態系に影響を及ぼし始めたのだろう。なにせ今日はオルケイア一匹しか駆除しなていからな。
「また油圧がおかしくなりやがった しょうがない あの峠を上ったあたりで休ませよう」
緩衝機構に使われている油圧サスペンションは制動装置にも油圧を供給している。この乾いた暑さに一応ながら生身の俺より先に二輪車が悲鳴を上げるのは毎度の事だ。だから俺は発動機を吹かさず慣性で長い坂道を登って行く。勿論止まる前に周囲の探査も忘れない。
俺は唯一背中に装備したユイヅキを手に取り、生体痕で脈打つ魔導路を水晶体と同調させる。すると紫色の水晶に薄っすらと光が灯り、微弱な魔素が水晶体や俺の体から放出されだした。
この魔素は空気中の分子と直に結合して安定化するが、どうしても結合する際に微弱な電波が発生してしまうので魔獣に感づかれ易い。それでも狩りの前段階に地形情報を含む周囲の状況や天候を把握出来るので、薄っすらと光る生体痕さえ隠せれば何時でも狩りを始めれる。
【同調完了 広域探査を開始】
俺の視界に啓示が表れほぼ同時に気温や湿度を含めた、方角や体温などの補足情報も表示された。勿論現在の俺は虚構世界ではなく現実世界の荒野にいる訳だが、こうして大した装備も無くこんな辺境に居られるのも相棒のユイヅキのおかげだ。
【斜面頂上から西方向三百メートルに魔素放出反応を検知 情報を映像化】
魔獣や魔物は体内循環に魔素を用いている。生物が心臓や筋肉を微弱電流で動かすのと同様、血液の流で微弱な電流が発生する訳だが、この電磁流動は魔素の結合と分離作用に影響を及ぼしやすい。魔素が見える俺とユイヅキは必ず生物の周囲に発生する固有の熱変化や魔素反応を知覚できる。
俺はユイヅキから送られたその視覚情報を頼りに、僅かな熱反応から駆除対象の魔獣の種類や大きさを確めながら大型二輪車を峠の頂上に停めた。
なにせこの辺りは起伏に富んだ場所と平坦な場所が混在していて、岩陰に隠れた獲物を探すだけで手間が掛かる場所だ。俺が一人で魔獣の巣を駆除した事もあるが、最近魔獣の数が減っている。鉱山街周辺に出没する魔獣を駆除し照明部位を回収しながら日銭を稼いでいる俺の様な流れの個人駆除業者にしてみれば、そろそろ場所を変える頃合だ。
(解析から追跡処理に変えろ。どうせ巣作りの最中のオルケイアだ。待っていても向こうから来てくれる楽な相手に多くの魔素を消費する必要は無い。とりあえず周辺の地形情報、半径五百メートル分をくれ。)
俺は古い液化燃料式の内燃機関を大きく吹かし動力音を荒野へ響かせる。あえて音を発して向こうに俺の存在を知らせるわけだが、魔獣の能力を推し測るにはこの方法が手っ取り早い。
【イクサム 目標の魔素活性率が上昇している 狙うなら今が好機ですよ】
種明かしをすると、理力による探査によって魔獣の位置はおろか周囲の地形までが詳細に知覚できる。ユイヅキと繋がれば大半の情報が視界に表示されるので、最新鋭の各種探索装置や魔導設備と同等の解析能力を有訳だ。これは魔物と魔獣の捕獲や討伐行為で金を稼ぐ各都市の討伐隊、そして政府や研究機関の調査隊含め専門家数十人程度の戦力に相当する能力だ。
複合弓の紫水晶の思考回路は俺のものと比較しても圧倒的に優秀な演算能力を誇っている。文字どうり頭脳の役割に適したユイヅキがそう判断したなら間違いは無い。俺は相棒の問いを信じ、動力を駆動系に伝達させ大型二輪車を右側の坂道へと進ませる。
砂利や小石を跳ね飛ばし硬質ゴムで覆われた転輪が坂道で更に加速する。俺はユイヅキの解析情報から送られる地形情報を頼りに大型二輪車の進行方向を調節し、都合よく露出した岩に堆積した砂利などで形成されたジャンプ台へと最後の加速を始めた。
【目標を補足 オルケイア一匹を確認 確定座標を表示】
俺は太陽に照らされた赤い台地でもはっきり見える白い円を視界内に捉え、表示されている距離情報から最適に射撃角度を割り出す。同時にハンドルを固定させてから両手を握り手から放し、背に担いだユイヅキを獲物へ向け弦を引き絞る。
予め複合弓には、二種類の鏃ならぬ魔獣用の殺傷武器を装着した矢のどちらかが装填してある。今回俺が高台から岩場を大型二輪車で飛び越える曲芸をしたのは、装填された矢に蟻型の巨大甲虫用の衝撃弾頭が装着されていたからだ。
俺は放物線を描き宙に飛び出した二輪車に跨り、上半身を左へ傾けながら獲物との射線が開ける僅かな瞬間を待った。大型二輪車が放物線軌道の最上部手前に差し掛かった瞬間。蟻にしては角張った頭に位置する大きな顎と小さな複眼と触覚が見えたので右手を弦から放す。
今回の会敵遭遇は僅かな間で終わった。何せ相手は数メートルの高さが有る岩の隙間に隠れていて、解析情報からも射線の確保が難しいと判断できた。既に三十以上の魔獣を駆除してきたが、僅か一秒程度の瞬間に射線を通したのは今回が初めてだ。
風で巻き上げられた赤土を被った大岩が並ぶ隙間に矢が消え、直後に爆発音と僅かな閃光を耳と目で捉える。俺は加害判定の解析をユイヅキに任せ、地面近くまで落下している旧式の大型二輪車を上手く着地させようとハンドルの握り手を掴んだ。
着地場所が赤土が干乾び固まった場所だったので、二つの転輪が砂にめり込み緩衝機構が大きく沈むだけで事無きをえる。俺は反動で上下に激しく揺さ振られながら重心を保ち続け、着地地点から数十メートルの距離で進路を緩やかに反転させる。
【目標地点から魔素放出による熱反応を検知 体液の蒸発規模から致命傷効果あり】
俺は表示された啓示を確める為に大型二輪車を岩場の隙間へと走らせる。もしかしたら今の衝撃で二輪車の筐体に亀裂が入ったかもしれない。借り物なので壊すと弁償義務が発生するから、それなりに頑丈な中古を選んだ。まぁ壊れるのなら俺がクロマに帰ってからにして欲しい。
少し話を逸らして解説しよう。この大型二輪車は俗に二輪軌道車とも言われているが、軌道線を走る鉄道と同等の安定性で非整地を走る装軌式車両と同じ適応性が有るからそう言われている。この国でも燃焼用燃料で走る二輪車は少なく、安価と言えど都市部を覗いて殆ど普及してない。勿論娯楽用の二輪車と二輪軌道車は設計思想の段階から別物なので、混同するのは開発者への冒涜に当たるから話はこれくらいでお終いだ。
俺は三メートル程の大岩が地面から露出している辺りに大型二輪車を停め、装備から保冷容器入れと手斧を外すと、徒歩で魔獣のオルケイアが場所へ進む。
周囲の岩場は風の浸食で堆積層の砂が吹き飛ばされて露出した岩盤の一部。地下に住まう魔獣から見ると、巣を作るに適した場所として申し分ない場所だ。
俺はそんな岩場を縫うように歩きながらユイヅキに警戒を任せた。生体魔素供給源である俺の五感能力は基本的に生物の範疇から抜け出せていないので、視野を拡大させる事が可能でも直接岩の向こうを透視するのは不可能だ。
(隠密状態に移るから、生体電流と魔素の放出を遮断しろ。そして距離が七十を切ったら魔導波で再探査を行え。絶対感づかれるなよ。)
魔獣にも色々な種類が居るが、その中でもオルケイアは魔導細胞内で魔導因子が変異して進化した巨大生物系の魔獣として有名だ。見た目は羽根付きの黒蟻を大よそ五メートルまで巨大化させた蟻もどき。一般的な蟻とは少し違い甲殻に凹凸や突起が出来ているが、頭部・胴体・腹部の三つの体と中央の胸部から生えた六本足は変わっていない。
オルケイアのオルは潜む物を意味する古い言葉らしく、この地方にはオルケイアの雌個体であるオルケイヤ含め同じ名を持つ魔獣が数種居る。そんな魔獣から獲れる魔石の生体核は魔導具や工業品の材料として使われていたらしい。昔の話は今は関係ないので獲物へと神経を集中させよう。
大小の岩が積み重なった斜面を抜け、俺は矢を放ったオルケイアが居る筈の大岩が並ぶ場所に入った。この場所は風化が激しく花崗岩の岩の大半が崩れ赤く変色している。
現在着用している防塵除けの羽織含め、革の長靴から革手袋と頭のつば広帽子まで褪せた赤系衣服で統一している。オルケイアは陸上生物だが生涯の殆どを巣穴ですごすので色覚が弱い。おそらく若干の色合いの違いなど殆ど認識できない筈だ。
【発見位置から七十メートル線を越えたので魔導探査を開始します】
おれはユイヅキの警告を確認し手足の動きを止め石に化ける。背中に背負う弓の水晶体から放たれた強力な魔導波が周囲の地形へと溶け込み、共有している視覚野に魔素溜まりと思われる不特定多数の反射物が映像化される。
【対象識別 標的に生命反応無し 完全に骸化してます】
俺が設定した魔獣の死にぞこ無いを意味する古い言葉。魔獣や魔物は生命活動が停止しても直に死語硬直は始まらない。何故なら生体核や生体結晶に構築された擬似神経が脳の代わりに体を動かそうとするからだ。その挙動は歪で纏まりが無く痙攣現象と勘違いされ易いが、生きている感覚機能が餌を捉えたりすると息を吹き返したかの如く襲って来る。あの死神の影響を受け魔導細胞が変異した種なのだから、伝説のとうり生命力も高くなるはずだ。
俺は脇目も振らず自力で跳躍し岩の上を飛び跳ね骸へと急行した。大きな岩の上から下に居るオルケイアの骸を観察すると、頭部の前側を炸薬の衝撃で失っても立っているオルケイアの姿が見えた。
(脳みそごと思考回路を破壊したから状態維持が限界そうだ。探査と解析を終えて休止状態に移れ、後は俺が片付ける。)
視界から投影情報が無くなり、砂塵除けのゴーグルから見える本来の風景に戻った。俺はそのまま岩の上からオルケイアの胴体に飛び移り、魔獣のみから採れる魔石たる生体核を取り出す作業に移った。
まず始めに手斧でこの凹凸状の黒い甲殻を割る。破砕作業に注意すべきは内臓に含まれる体液で、強酸性の融解物質を含む体液が金属製品に付着すると煙を出して金属を溶かしてしまう。あの大型二輪車と保冷容器含め手斧に至るまでの駆除装備一式は借り物なので、絶対こいつの体液を装備に付着させてはならない。
蛇足だが。まだ成長途中を演じているこの体は、十六歳の健全な男子特有の細くバラつきがない体だ。もし生身のままこの殻を破壊するのなら手斧ではなく槌の類を使うだろう。
当然未熟な力では殻を壊すどころか中身の臓器を傷つけてしまう恐れが有る。なので理力で魔導細胞を活性化し強化した腕力を活かし手斧で小突くよう殻に小さな亀裂を刻んでいく。
蟻は丸い形状で甲殻の強度を保っている。その蟻を巨大化した魔獣たるオルケイアの外殻は甲殻型魔獣種の部類では柔らかい方だ。現に手斧の鋭利な先端部や頭で硝子を砕くように叩いてやると、脆くなった表面から小石が剥がれる様に砕けていく。
やがて破砕箇所が小さな窓枠の様な形に成ると俺は叩くのを止めた。そして手斧を腰帯の後ろに挿し革手袋を外して腕の袖口を肩近くまで捲くると、幾何学模様の生体痕が緑に薄く輝く両手を握り合わせ、黒い窓の中心部を叩き始める。
オルケイアの甲殻も大部分は楕円形だ。湾曲し内臓器官を丸く包む事で強度を得ている。その強度を担保する膨らみに不完全な窓枠を設けたことで、外部から局所的に生じた力を逃がしきれず甲殻に四角い局所破断が出来る訳だ。
「少し硬いな 成長途中だからか」
車の扉を閉めた様な音と共に、黒い甲殻が割れ四角い穴が出来た。俺は不要な殻を除去し窓枠を清掃すると、羽根を動かす為の筋肉を掻き分け素手の両腕を奥深くまで差し込んだ。
すると両手が周囲の臓器より硬く弾力がある袋のような部位を掴んだ、それは心臓の心室から生えた四つの核袋の一つで、オルケイアの血液に流れる魔導因子が魔導細胞以外の場所で魔素を取り込んで出来た生体核に他ならない。
手探り状態の俺は理力で、心臓部と核袋を結ぶ臍の緒の様な管を焼き切った。一つずつ核袋を取り出し、腰帯の両側に挟んだ保冷容器の一つも取り出す。
核袋は片手だと掴みきれない大きさだが、内部に入っている生体核は核袋の体積に見合わぬほど小さい。この核袋自体に脳細胞特有の神経構造が出来ているので、硬い外膜の内側の大部分はきめ細かい繊維の海綿組織で覆われている。
俺が用が有るのは魔石に分類される生体核だけだ。爪で表面を撫でながら爪先から小さな理力の刃を発生させ、不可視のメスで核袋を切り裂いた。
俺は核袋をひっくり返し内部の空洞から溶けた魔導細胞の保存液を排出する。中心部まで至る大きな切れ目を入れてやったので両側から外膜を押すと簡単に楕円状に萎み始めた。
最後に萎み南国果実の様な匂いを放つ核袋に片腕を突っ込み、内部で繊維に絡まった生体核を抜く。手にした魔石は小石程度の大きさで見た目に反し重かった。右掌に石を置いて観察すると、乳白色に歪んだ真珠の出来損ないの様な魔石に含まれる熱が魔素と共に伝わって来る。
俺は大きさと形状を確認し、抜き取ったばかりの生体核を水筒の様な保冷容器に入れた。そして残りの核袋から生体核を取り出す作業を始める。
容器内は二重構造になっていて中空構造内には水を入れてある。なにせこの熱く乾いた大地は有機物からも水分を奪い構造を脆くする。生体核と生体結晶は劣化が早いので、急いで余熱を逃がし魔素結合を止めないと品質が下がってしまうのだ。
【結晶強度と魔素含有量は規定値を達成しています。擬似魔導具の材料として問題は無し。これで赤水晶も完成しますね。】
視界野ではなく聴覚器官を担当する神経系を通し、脳内に若い女の声声が聞こえる。俺の魔導路を介さず水晶体から魔導波を送って俺に鑑定結果を伝えたのは、天空樹の元管理存在達が融合した新しい種の集合意識体であるユイヅキだ。
俺はユイヅキの様に独力で通信用の精密魔導波は出せない。俺が得意なのは豊富な魔導因子を制御して固有の魔導細胞を活性化させた身体強化。そして元来の手先の器用さと探索者時代に培った魔法応用力を合わせた理力の活用法だ。
(ああ。ようやくあの面倒な作業から解放される。こんな文明圏から遠い場所から一刻も早くおさらばできるな。)
俺は分子結合が不安定な最後の魔石を取り出し、保冷容器に入れて蓋をする。容器入れは帯状に並んだ革のポケットなので、最初の頃は滑りやすい金属肌で保冷容器が落ちないよう、丁寧な動きに慣れるのに苦戦したものだ。
飛び乗った時とは大違いで、ゆっくりと体を伸ばしながら地面へ足を伸ばしオルケイアの胴から降りる。骸化していても間も無く死後硬直が始まって肉が腐り始めるので、俺が岩場から抜け出すまでに亡骸が倒れてしまうはずだ。
足が地面に着くと転ばぬように重心位置に注意を払う。これまでに動く骸から何度も生体核を採取しているので、今更転倒する事は無い。
俺は再び岩場を縫うように歩き、大型二輪車が在る坂道の下を目指す。もしもの為にと用心しても損はしない。道中俺は背中に担いでいたユイヅキの複合弓を両手に持ち替え、板バネに増設した予備の矢を填める弾倉から別の矢を取り出し何時もの固定位置に番えた。
歩きながらになるがこの地域の話を紹介しよう。今俺はセフィロトの西隣に在る国、南大陸内に二つ在る国の片方のゼノンに居る。
国に関する説明は追々するとして、この広い荒野はゼノン中央高原特有の乾燥した気候帯に属している。南に在る州都ソドムは人口三万人程度の小規模都市で、州面積だけが広い群都の様な都市と言われている。
ソドム周辺は荒野ばかりで年間を通し降水量が少ない。作物などの大半を西方面から輸入しており、昔から近辺の鉱山でん鉱業を主軸とする生産業が栄える地方だ。
俺は現在、そのソドム経済圏を潤す貴重な魔石採掘所や鉱山周辺に出没する魔獣を狩って生活している。ただし魔獣駆除による僅かな報酬では満足な生活は送れないので、魔晶石や魔結晶の材料と成る魔導結晶や低品質魔石を集めながら各地の鉱山街と州都を行き交う放浪生活を送っていた。
この地方に着てからそろそろ一ヶ月になる。忙しい毎日を送っていたのでこの地にいつ来たのかは覚えてない。まぁそれも今回の魔獣駆除で終わりだな。
俺は岩陰から出て停めてあった大型二輪車に近寄り、腰から水筒型の保冷容器二つと手斧を元の位置に戻した。そして緩衝機構の油圧装置と圧力計を調べる。
「油圧は正常だ 今まで散々酷使してきたが腕の良い整備士に恵まれて良かった」
この二輪軌道には様々な装備が乗せられている。時には荒野で野宿する事も在るので、救急箱や非常食を含め非常用テントは欠かせない。液冷配管を増設して後部の箱に設置した簡易冷蔵庫の温度計も確め、俺は座席に跨った。
【この場所からなら道に戻るだけですが、地形情報を表示しますか?】
いつ聞いても驚くほど雑音が無く抑揚も無い若い声に気分が引き締まる。何せ俺は天空樹から脱出する為、ユイヅキに体の主導権を渡した時に一度だけだが統合型管理者と名乗った人型の姿を見ている。今とは違う細い体に長い紫色の髪の毛には本当に驚いたと記憶している。
(頼む。それと帰り道は多少時間を食っても構わないから平坦な場所を探してくれ。)
俺は脳内で認知した了承の返事を聞きながら全てのペダルを踏んで点火装置を回した。尻から突き上げる様な振動の後に呻り声を上げる発動機を確認し、ブレーキとギアペダルを放して発進させた。
ゼノン。南大陸西側半分を占める多民族国家。人口は七千二百万人程とセフィロトより多いが、居住可能面積はセフィロトより少ない。全部で十一州、四群、三都の行政区分に分られた18地方政府が管轄している議会制民主主義国家。
南大陸の経済と産業を担う資本文明国でもあり、世界第二位の経済国家でありながら貧富の格差が世界一大きい事で知られている。古くから同国を流れる二大河川のキノコ・タケノコを中心に栄えた大河文明を礎にもつ国だが、現在は砂漠化の影響で大半の遺跡が風化寸前の状態に在るらしい。
そして問題なのは文明圏の近くに今も魔獣が生息している事と、かつて世界中に建設された浄化都市がこの国だけ完全に崩壊してしまっている事だ。現在唯一迷宮化されている浮遊島に手がかりが有ると思うが、かの伝説を追う手掛かりが見つかるまでまだまだ時間が掛かりそうだ。
高原地帯の平均標高は海面から千二百メートル程だ。勿論落差が有るが谷底などを除外して砂利や砂と岩が転がる赤土の大地が広がっている。
そんな土地を大型二輪車で走れば、空気中に含まれる砂塵等の粒子が否応無く鼻や耳穴から入ってくる。だから赤い大地を走る際は必ず顔の下半部を大きな緑の手拭で覆っているのだ。
今の俺が着用しているのは赤茶色い革製の長靴と同じ色の革手袋や、下着の上に生地が薄い服。そして各種ポケットを多めに縫い合わせた防塵用の羽織と、使い古した道具携行用の腰帯を装備している。
大きな左右一体形のゴーグルで目を砂埃や乾燥した風から守り、その上に目立ち難く艶を消した暗い赤色系の帽子を被っている。唯一目立つのは首元に巻いた緑色の手拭で、国を発つ際に買ってからまだ一月程度しか経過してないのに、もう皺と綻びが目立つようになった。
各種装備をバイクの横に装着すると僅かだが重心が偏ってしまう。そこで重心位置を尻の位置で調整さえすれば、あとは車体が自重で重心均衡を保ってくれるので、移動の時は簡易制動用の握り手を片手だけで支えるようにしている。
もし都市部を走るならこの行為はやめなければならない。片手運転だろうとよほどの事情が無ければ、警官に見つかっても言い訳できず拘留されてしまう。勿論公道を走るには免許が必要だが、身分を保証できる物など無い俺に免許試験を受けさせてくれる公的機関など在りはしない。だから俺は各鉱山街と都市間を結ぶ道路は走らず、こうして荒野の只中を走っている訳だ。
時刻はまだ正午過ぎだが気温は四十度を越えているだろう。自前で熱制御が可能な体なので汗を掻く事などないが、やはり古い二輪軌道車には酷な環境のようだ。先ほどから座席の下に在る冷却装置が熱くなっている。おそらく冷却液の熱吸収物質が劣化し始めているのだろう。こんな場所で内燃機関が焼きを起せば徒歩で帰るだけでなく、折角入手した魔石が駄目になってしまう。
(ユイヅキさん。今から冷却系を冷すのに冷却魔法を使うから、どうか車の操縦を肩代わりしてくれないか。)
マイ・フリールが俺を覚醒者と呼んだ理由が最近になってようやく解るようになった。虚構世界で変調に飲まれ後遺症を負った者の中に、通常世界で魔導現象に対する何等かの感受性や特殊能力を発揮する特例が少なからず存在する。
俺はその特例の中でも極端に悪化した部類で、ほんの少し魔導因子を活性化しただけで周囲の魔素に影響を齎すほど危険な存在らしく、ユイヅキによる調整介入が無ければ碌に力を発揮する事も出来ないポンコツだ。
【了解しましたイクサム。存分によそ身をしても大丈夫です。】
俺は背中に背負う弓を持ち上げ、水晶体が填まった部分が肩から大きくはみ出るよう固定する。そして上半身を後ろに倒しながら右に傾け、右手を座席下の冷却機関に触れない位置まで近づけた。
右腕以外の感覚が途切れ、勝手に動く体と視界から意識を逸らして理力による物質干渉に集中する。理力と言う恵まれた能力を使いこなすには日々の鍛錬が重要で、今や移動中に老朽化した大型二輪車の機嫌をとるのに活用している。
理力で熱源の分子振動だけを取り除いてやり、熱くなった右手を冷ましながらハンドルの握り手を掴む。俺の鍛錬に付き合うユイヅキも慣れているので、一々伝えなくても操作神経の切り替えは円滑だ。
(もう急ぐ必要もないから噴かすのは程ほどにしとけ。それより温度計の針は正常値かユイヅキ?)
俺の意図が伝わり視界が拡大された状態でハンドルの中心へと自動で定まる。速度計や機関回転数と電圧を含めた温度計は正常値に戻っていて、俺は左手の熱さが我慢出来なくなり冷却作業を終えた。
【イクサム、そろそろ体を戻しますよ。近くにオルケイラの巣が在るので山道から山を登る迂回路を通りましょう。】
俺は体の自由が戻って直、視界内に表示された分岐点の位置を確認する。右側は崖で百メートル以上下に川が流れているが、丁度この川が対岸の岩山に在る面倒な魔獣の巣との境界線になっているらしい。
崖沿いの道から山肌を一部切り開いて通された山道の道に入る。緩やかな坂道のおかげで再び冷却液が加熱する事も無く、山越え経路として視界内に表示されたクロマへの黄色い誘導線と数字が白く変わった。
【行き先は旧鉱山街クロマ。所要距離六・八キロ。同時間は十五分三十秒ほどです。】
ユイヅキの調子はいつも良い。俺から供給された魔素は暑い環境でも劣化しないらしく、余裕さえあれば俺と世間話をして時間を潰したりもする。
俺は急ぐ事もせず削られた山肌に沿って峠道を進み、長い下り坂を慣性で疾走して山を越えた。山を越えると数キロ四方に広がる平野部に出たが、目的地が在る盆地方向の平野を進まず、山沿いの岩が転がる崖伝いを北上する。
荒野には整備された道路以外に道は少ない。殆どが古い時代に鉱脈を探す為に邪魔な岩を除去し山を削った採掘跡ばかり。先ほどまで通っていた断崖沿いの道は古い時代の交易路だったらしく比較的平らな状態だったが、平野部の雑草や小岩が散らばっている場所でも陥没するほど脆い場所が在ったりする。
そんな誰も寄り付かない土地柄か、一度魔獣が住み着けばなかなか駆除されず放置されている。おかげで俺は一月近くの間誰にも邪魔される事は無く、思う存分生体核の収集に専念できた。
特に巣穴に何度も入り群がるオルケイヤを理力の衝撃波や即席魔導砲で殲滅するのは痛快で、顔に笑みが貼り付きそうなくらい大量の魔石を手にした時は今でも如実に思い出せる。
【イクサム。思い出に浸るのは構いませんがいきなり思い出し笑いをするのはやめてください。視ていて身持ち悪いですよ。】
若い女の声で愉悦に浸る気分が台無しになるとは、俺もまだまだ若いな。それでも俺はこの地に住まう魔獣共を駆逐する勢いで狩った日々を思い出す。特に初めて出会った巨大生物系甲殻魔獣のオルケイラとの戦いを思い出すと、あの時心と体を駆け抜けた様々な衝撃は当時の俺に多くの教訓を与えた。
俺は大型二輪車を走らせながらこの地に住まう魔獣達について考える。どの種も少ないエネルギーを効率よく循環させ体組織を維持している荒野の魔獣だ。痩せた土地で生きれる生物は少ないので、どれだけ世代を重ね繁殖しようが魔導細胞を適応させても魔物には成れない負け組みでもある。
この地にはそんな魔獣も含め複数の陸上種が存在しているので、定期的に鉱物資源を乗せた輸送便や採掘施設を襲う魔獣が絶えない地方でもある。だから駆除の仕事なら幾らでも有り、魔獣を討伐する傍らで鉱石を採掘しようと考えていた。
それらの考えは俺が余所者である流浪の旅人だと言う現実の前に脆く崩れ去った。保安局の保安官達には公共施設を余所者に無料で利用させ、さらには自分達が守る領域に余所者が踏み込むのを快く思ってない。ならず者で知られる魔物討伐団が街に入ろうものなら厳戒態勢が敷かれ、団員は身柄調査の為に数時間拘束されると聞く。
俺は少し前の自分を思い出しながら帰路へと大型二輪を走らせる。もう少しで街が在る盆地内へ下りれる旧登山道に出られる。
魔獣。魔導細胞が変異し独自で周囲の魔素を取り込むようになった生物。基本的に変異前の個体は獣や畜産動物等の人工種と甲虫が多い。体内で精製される生体核は癌細胞が変異した結晶とされ、それに何かしらの要因で生体回路が構築させ魔物化する。
(砂で視界が悪くなりそうだ。東よりの最短経路に進路予測を修正できるか?)
俺は白い砂と乾いた丘陵が続く荒野を時速六十キロ前後で走らせている。小さな岩や窪みは盆地内の至る所に有り、前方数百メートル先に在る元鉱山施設だった停留所への経路をユイヅキに表示させる。
俺の表向きの仕事は魔獣の駆除だが、入手した魔石類の一部を報酬から差し引く代わりに工房へ持ち帰っている。魔石は魔導具の製作に使用しているが、作業場の工房には宿泊用具が一切無い。
本物の住まいとして使っている拠点は州都ソドムに在る小さな一軒屋だ。その家は収納小屋を改築した物で水周りと電源のにしか無く、書類上の本拠地として使っている。つまり基本的に本拠地には帰らず旧鉱山街クロマの安宿を寝泊りに利用しながら、停留所を経由し荒野と街を往復する毎日を送っている訳だ。
そのクロマだが、高原地方でも数少ない盆地の中の台地に在る地下街だ。古い記録ではこの辺りは湖の底だったそうで、白い砂の大地の至る所に在る小岩周辺に僅かだが多肉植物や乾燥に強い植物が群生しいる。
盆地内の小規模な砂丘駆け抜け、ようやく貴重な水場である堀の前までやって来た。そのまま堀の外側を反時計回りに回り、錆びた鉄骨と亀裂が入った合成石材の橋脚に渡された橋を渡る。
俺は古びた路面の道に二輪車を走らせ、停留所として使われている大きな駐車場脇の二階建て事務所の裏側で二輪車を止めた。勿論待機している係員を呼び出すために警笛を鳴らすのも忘れない。
「また生きて帰ってきやがったな お前が荒野でその車ごと朽ち果ててくれれば こっちも面倒な整備をせずに済むのに」
全く本音を隠さない小柄な白髪の老人が帰還した二輪車を出迎えに来た。どうやら事務所隣の公衆便所で生理現象を終えて来たようで、視覚情報に表示された老人の手に付着している水分が蒸発している。
「仕事を増やして悪いな なかなか軽快に走るもんだからとばし過ぎたかもしれん」
中身入りの保冷容器二つを大型二輪車から取り出し、白い対熱服の上だけ着用している老いた整備士からも無言で離れる。俺はそのまま労務事務所と交通案内所の隙間を歩いて停留所内に出た。
(この合成路面で卵が焼けそうだな。取り合えず日陰伝いに歩かないと保冷容器の効果が消える。)
停留所を含めた街唯一の交通機関が集まる場所を通り、俺は東側に聳える大きな台地へと向かう。
旧鉱山街であるこの街クロマ。一言で言えば俺が育ったマルマルと同じ農業が盛んな田舎町だ。なんでも元々魔獣の巣だった場所を改造した鉱山だったらしく、今は鉱石採掘よりも坑道内に設置した水耕増殖場で農作物や魚などの水産物を生産している。
停留所から街へ入る唯一の入り口へ続く一本道。街内部の導力炉で発電された電気が、道沿いの電柱に架けられた電線を通って停留所内の各種設備を動かしている、
この地方からして見ればこのクロマは、俺が育った町より小規模なのに食料生産が盛んな中規模拠点として栄えている。今は百キロほど南に在る州都ソドムから定期便と貨物便が寄るくらいで、本筋の交易路から外れていても各鉱山都市への食糧供給で経済が潤っている訳だ。
俺は保冷容器に直射日光が当たらぬよう両腕で円筒形の水筒を抱きしめながら歩く。勿論これは只の見せ掛けで、日陰になった胸の辺りの空気に含まれる分子の振動を理力で抑えているだけだ。
しかし直接保冷用の水を凍らせる訳にはいかない。俺は標高三百メートル程の台地に開けられたトンネル内の日陰をめざし走った。
クロマは台地内に掘られた坑道を改造した地下街だ。この街も含め多くの鉱山街は地下に在り、地上に冷暖房用の熱交換設備を備えている。熱交換設備を使い日中に夜間用の温水を作り、夜間は冷房用冷却水を作る。仕組みが単純な仕掛けだが、大規模な配管網を整備しなければ自然環境を生かした設備を維持するのもままならない。
トンネル内から出てくる冷えた空気にも慣れた頃、太陽に照らされるのとは違う陽気がトンネル内から流れて来た。空気は十分に潤っていて荒野では殆ど感じなかった水の匂いが鼻の粘膜に纏わり付く。
(また何処かの空調管を修理してる。居住区外だといいが、あの雑菌臭は強烈だからな。)
俺はこの街が常に抱えている問題の一つに眉を潜めつつ、そろそろ抜けるだろうトンネル反対側の出口へ道を真っ直ぐ進む。普段なら定期的に車両の出入りがあるトンネル内だが、今日は珍しく屋外作業の大きな車両とも出くわさなかった。
俺がこの街を選んだのは周囲に魔獣が出没し易いからだけではない。大規模な鉱山街と離れているおかげで住人の数が少なく、居住区内の店で出される魚の酢漬けを中心とした料理が美味しいからだ。
なにせ岩石砂漠や砂砂漠と殆ど変わらない地形が混在するソドム州は汗を掻き易い地域だ。旅人だけでなく労働者にとっても養殖された魚の酢漬けは水分と疲労を回復させるのに最適な栄養源。俺もこの味のおかげで出没魔獣の情報収集がやり易い。
【イクサム。最近動物性蛋白源が偏ってます。しっかりと家畜の肉も食べましょう。】
俺は定期的に魔素を吸収すれば生きられる魔導細胞の持ち主なので、わざわざ毎日他人の料理を口にする必要は無い。それでも一定数の住人は魚料理味を求めてこのクロマに立ち寄っている。適した時間帯に居酒屋に行くと魔獣の出没情報が仕入れやすいから、情報量代わりに魚を食して何も問題は無い。
トンネルから出た俺は、しばらく蛍光灯や電飾で飾られた地下繁華街を真っ直ぐ歩いた。所持している保温容器が入った手提げ鞄を、魔導具工房として使用する為に借りた作業場に持ち込む。その為道の途中に在る右側の裏路地の一つに入り、天井や店先の照明光が殆ど入らず人通りが無い薄暗い路地を歩く。
裏路地を歩きながら俺は自身の過去について考え始める。ただし過去と言っても二年前から現在に至るまでの経緯を思い出すだけだが。
俺は二年と一月前までエグザムの名を語り探索稼業に身を置き、あの天空樹大異変の際に事件の中心的存在として深く関わった探索者の生き残りだ。俺が天空樹の管理存在たるカスパーと接触した時、俺が天空樹の初期化計画に選ばれた理由と天空樹に起るかもしれなかった暴走の真実を知った。
カスパー曰く、およそ五千年前の厄災で世界を滅ぼしかけた魔導生物エグザム。西大陸唯一の国家ゼントランにて活動を停止したあの死神だが、実は同種の個体の中に駆除されず名と姿を変えて生き残った魔導生物が居たのだ。
カスパーやセフィロト内の迷宮管理存在達がその生き残りに該当し、対生物浄化都市の建造時に管理中枢として肉体を分解された魔導生物エグザムの生き残りだと言っていた。
何でも四つに別けられた永久機関の魔導核が再び天空樹を介し融合すると、カスパーの管理を外れ独自に成長していた天空樹が魔物を越えた巨大魔導生物に変化してしまう。俺は探索組合が裏で実行しようとしていた最後の統合とやらを阻止し、尚且つ天空樹の免疫機能に阻害される事無く核のカスパーに接触できる魔導細胞の保持者として、他の管理者達に唯一選ばれた元人間だった。
あの巨大な天空樹の生体組織に有る魔導細胞は、人の物と比べ量だけでなく魔導因子自体の種類も圧倒的に多い。少数の原子結合物である単分子と様々な分子が結合した高分子を比べる様な話だ。俺の魔導因子配列が、天空樹の魔導細胞を自壊させる崩壊現象を起す鍵として適格だったらしい。
あの事件で俺が種として飛ばされる間に万単位の住人が死んだそうだ。死人に対し弔いの言葉も気持ちも持えていない俺だが、今も調査名目で拾ってくれたジャッカスへの感謝の思いは忘れずに留めている。何せ彼の知的好奇心は凄まじく、もし俺が忠告してなかったら今頃迷宮管理機構の手駒に消され故人に成っていただろう。
そもそも組合が何故あんな危険な行為を行ったのか、単に知らなかっただけではないと俺は考えている。例え陰謀による出来事だったとしても、俺は鍵役の報酬として役目を終えた管理者達の意識を統合したユイヅキを手に入れる事が出来た。
あの蟲の王は今や地上に返り咲いた伝説の証言者として注目されているらしい。文化保全委員として、考古学者としてもあの事件の真相に最も近くまで迫ったジャッカスなら、もしかしたら自力で真実の頂きへ辿り着けるかもしれない。
大通りと呼ばれている大きな空洞内から方々へと新たに掘られたトンネル。その一つである八番坑道は今や人口石材で壁や天井が完全に塗り固められていて、足元の灰色の床に複数の水溜りが出来ている。
俺は裏路地からその八番坑道に入り、蛇行した道を真っ直ぐ進む。この辺りの坑道は殆どが連絡用通路として使われていて、天井や壁内部に埋められた電線網同士を繋ぐ配電盤が不規則に配置されていた。
俺はそんな道の先に在る小さめの空洞空間に用がある。その場所には木造平屋建ての高床式作業場が在り、平たい屋根と軋む床が特徴の古い作業場が俺の工房だからだ。
カスパーは自身の僅かに残った記憶領域から俺に天空樹と世界の真実を教えた。当たり前に存在している魔素の起源、魔導細胞に汚染された生物達、そしてあの厄災を生き残り浄化都市の外で生き延びた者達の子孫が獲得した能力。
俺はそれらの情報をユイヅキと共に受け取った訳だが、かの管理存在達が自らの起源を否定してまで俺に託した想いに気付くのに長く時間を掛けてしまった。結論から言えば世界中の迷宮や遺跡にも死神の片割れが生き残っている可能性が高い。生存確率が最も高いのは言うまでも無く天空樹以外の魔法迷宮で、この国の浮遊島がそうだ。
異能の力に目覚め伝説の一端を知ってしまった俺は、かの厄災が再び発生するのを阻止する為に行動している。しかし残念ながらこの体は魔者に近いので、虚構世界に入り迷宮に眠る存在をこの目で見極める事は出来ない。
その為にも連絡通路から元採掘区画だった空洞内に入り、電気配線や空調設備用の配管が奥のトンネルから壁伝いに通されている場所の反対側に在る木造の階段を上がった。
俺はこれから、作業小屋内に在る設備を使い擬似魔導具を製作する為の材料を作る。古いが照明設備は生きているので、服のポケット内に入れていた鍵を取り出し木製の扉から鉄枠とを結ぶ錠前を簡単に外せた。
工房内の床と壁は板張りで、天井を支える柱は全て壁と一体化している。天井の梁の間は合成樹脂製の断熱遮音材で塗り固められており、昔この場所を作業員が休憩所に使っていた痕跡だ。
床面積32㎡の建物内には木製の作業台と椅子含め、長辺の両側の壁沿いに古く年季が入った分解路と融合炉が四つ、短辺の奥の壁側に簡易型の合成炉が一つ在るだけだ。寝具や水周りの設備は無く、最低限の清掃用具とゴミ箱を隅に纏めて置いている。
長辺の通路側の壁に強化硝子を嵌めた二つの窓が有り、外の岩肌に吊るされた古い蛍光灯の光が差し込んでいる。俺は全ての窓を半開きにし天井に設けられた換気配管に設置された換気扇を回すと、慣れた動きで作業の準備に取り掛かる。
(侵入者が押し入ろうとした形跡は無い。鍵だけだと不安だったが、今までの気苦労も全部杞憂に終わった気分だ。)
保安官が定期的に巡回しているとは言え、基本的に辺境の街は何処も治安が悪い事で有名だ。特に余所者の俺を犯罪者から守るだけの余裕が保安局に無いのは確実で、自らの身と財産は全て自分で守らなければならない。
【貴方が金庫や箪笥を外に出したので、だれもこの家に魔導具用の水晶体が有るなんて想像すらしないでしょうね。】
ユイヅキの言うとうり、俺は作業に邪魔そうな家具や金目の物を保管できそうな物は全て床の下に置いてきた。なにせこの作業場を擬似魔導具製作用に、中の機材含めて役所から借りるのに千Gも出している。幾ら敷金も含めた額だとは言え、相場の倍近い値段は足元を見られている証拠だ。
俺は二つの保冷容器の片方の蓋を開け、中から大きく質が言い乳白色の塊を二つ取り出した。四つの生体核のうち劣化が少ないその二つを分解炉に入れ装置を起動させる。
この分解炉と呼ばれる装置は、生体核を清掃し有機物と無機物に分解する機能が有る。白い冷蔵庫を横に倒した様な見た目だが、魔石を順に清掃・解体・分離する工程の大部分を担っている。
生体核を入れたのは洗浄室だ。部屋と言っても作業部屋の事ではなく、この分解炉に備わっている三つの箱の内部空間で、回転する人工海綿体と籠が石を回しながら挟んで表面の汚れや雑菌を洗浄してくれる。
俺はその洗浄室で生体核が殺菌剤と非酸化材を混ぜた重曹粉末で表れるのを待ちながら、解体用の破砕装置が入った隣の容器の扉を開けた。中には歯車状の破砕盤が埋め込まれていて、小さい顆粒状に砕けるまで生体核は砕かれ続ける。
契約時にも書いたが、表向き俺が此処で行っている作業は擬似魔導具と呼ばれる簡素な魔導具用の魔素反応部品の製作だ。お土産品や玩具等の消耗用魔導具として世界中で親しまれている魔核。虚構世界では何等かの魔法触媒になる宝石の様な結晶も、文明圏では特定の色に光ったり発光塗料の材料くらいしか活用法が無い。
数分も掛からず内蔵した音響装置が単純な電子音を発し、俺に洗浄工程が終わった事を告げた。俺は洗浄室の蓋を開け中から生体核を摘み具で掴み取り出すと、二つとも右隣の破砕装置に入れてしまう。
この作業を何度繰り返したのかはもう思い出せない。俺は蓋を閉め破砕盤を回す為に端末器機を操作し、最後に主電源を装置に接続させた。
中から石が削られる鈍い音が聞こえ始める。俺は破砕工程が終わるまでの三分間に洗浄室を洗い、破砕室の下に有る受け取り皿を何時でも取り出せるよう下部に設けられた小さな扉を開け、更に右隣に内蔵された分離室の蓋も上げる。
再び目の前で単純な電子音が鳴り響き、俺は顆粒状に砕かれた黒と白の粒が入り混じった受け皿を取り出した。この四角い受け皿を素早く分離室の上蓋に乗せてから、鉛合金製の重い内蓋を開いて内蔵された磁気分離式回転装置に全ての顆粒を入れる。
この円筒容器でもある装置が事実上分解炉の本体だ。装置の中で最も内部容量がある大部屋に入っていて、熱や強力な紫外線が漏れないように全面鉛と銅の分厚い合金板で保護されている。
円筒容器に顆粒を流し容器を密閉した俺は無言どころか口を硬く閉じ、操作用のスイッチが並ぶ警告灯を注視する。半透明の擦りガラス内に有る豆電球が点いた瞬間スイッチを入れ、全ての装置に電源を入れてから二つの蓋を閉めた。
自動洗濯槽の様な円筒容器の回転が加速し、磁力の影響で分離槽本体が浮き上がったのが音で判る。駆動音が静かな音に変わり装置の振動も大人しくなったが、いつでも緊急停止機構を作動させれるよう装置の前から離れる事はできない。
俺はそのまま三分ほど装置で行われる分離工程の推移を見守り、全部で八つの警告灯が全て消えるのを待った。そして無事に分解工程が終わると分離装置から離れ、一旦作業を中断して破砕盤の清掃を開始した。
オルケイアの生体核からは質が悪い魔核しか作れない。所詮魔物の成り損ないなので魔獣に限った話ではないが、討伐証明として高品質の生体核を納入しても安く買い叩かれてしまう。
俺は数分の間、欠伸を噛み殺しながら清掃作業を続けた。顆粒から不純物の鉄や炭化した有機物を確実に分離させるには、今も慣性で回転を続けている回転装置が自然と止まるまで待つ必要がある。
やがて分離工程の終わりを告げる電子音が鳴り、俺は再び上部の二枚の蓋を開ける。勿論加熱された容器を素手で触ると火傷するので、焦げた後が目立つ専用の耐熱手袋を両手に填めてから高速回転していた分離槽を装置から取り出した。
作業前に分離槽には水を入れておいたが、今は完全に内部で気化している。そのまま容器の固定具を外すと大惨事になるので、俺は隣の融合炉に内蔵されている抽出装置の蓋を開け分離装置と似たような構造の大きな円筒容器内へ分離槽を入れた。
ここで不要になった耐熱手袋を外し、大きな蓋を閉め融合炉の抽出装置を起動させる。これは熱吸収作用を用いた熱伝導式結晶精製装置で、高温加圧状況下の液化魔導物質を一気に冷まし熱伝導作用で魔導因子から魔素を薄利させる融合前の処理装置だ。
なんでも魔素は電子移動によって結合している分子や原子から離れ易いそうで、電磁交流を流し内部で水素原子ごと電子を攪拌させるそうだ。
電磁加圧時とは反対の磁気誘導で急減圧される分離槽。装置を覆う合成樹脂が冷たくなり氷点下に近付くと、ものの一分程度で半結晶化が完了した。
俺は抽出装置と融合炉の本体である隣の扉も開ける。融合炉は洗濯槽の様な二つの容器の間に内臓されていて、片方を開けた蓋の下に見える接合部に分離槽を差し込んで融合準備を始める。
融合炉は抽出した半結晶魔導物質を安定化させる為に、石英や水晶と植物性粉末や窒素酸化物を混ぜ合わせる装置だ。本来ならこの装置で加工処理前の魔核である汎用魔導結晶が精製されるのだが、俺が必要としているのは半結晶化した魔導物質と結合中の溶媒だ。
俺は右側の容器内に材料が揃っているのを目視で確認し、双方の上蓋を閉じて操作端末を操作し融合炉に材料を投入する。
融合炉内は真空に近い気圧に保たれた圧力釜の様な容器で、各材料はこの圧力差で一気に円筒容器から吸い取られる。後は化学反応で半結晶体が凝縮されながら底の型に沈殿するのを待てばいいが、俺はいつもここで通常とは異なる魔導結晶を精製する為に手を加えている。
まずは内部機材を取り出す為に融合炉本体が入った格納扉を開け、直接素手で中央の圧力容器を掴む。次にその容器と繋がっている上の取り込み口の弁を閉めてから、挿入部との固定も外し型容器ごと装置から本体を取り外す。
俺は理力を魔素に干渉させて取り外した容器内の溶媒をゆっくりと掻き混ぜる。その間に結晶化を適度に阻害しながら合成炉の場所まで持って行った。
この合成炉は魔導結晶を含めた魔晶石や魔結晶を更に何等かの物質と合成させる装置で、この工房内に唯一在る古い水晶体製造用の合成炉だ。古いので多目的演算が可能な魔導回路を刻む事はできないが、回路自体は理力でどうにでもなるので、言わば俺にとって合成炉とは精製に適した容器に過ぎない。
俺は既に三つの擬似魔導具を製作するのに必要な、青と緑色の水晶体をこの容器で完成させている。現在は三つ目の赤色水晶体に順次魔導回路を形成させ為、新しい半結晶体を補充する傍らで定期的に新しい水の入れ替えを行っている。
俺は大きな圧力釜の鍋蓋を持ち上げ、合成炉内の様子を観察する。重水に浸された円筒容器内には不出来な枝の形をした結晶体が中心で赤い水晶体を育てている最中だ。水晶体の大きさはまだ飴玉ほどしかないが、綺麗な新円状でこれから一気に大きく成長するだろう。
俺は格納容器を持ち上げ、底に在る弁を開き固まる前の半結晶溶媒を大きな容器内に入れた。
溶媒の流入が終わる頃に余分な水が溢れかいり、周囲の溝を流れ装置の外へ出て行く。俺はその最中に素手を水の中に入れると、まだ軟らかい水晶体を優しく触れながら理力を発動させる。
【回路同士を生体接続中、これより収縮します。】
俺は右手でユイヅキの本体である紫水晶を背中の複合弓から取り出す。左手は赤い水晶体に当てているのでユイヅキの魔導回路を自身の魔導路と繋げ次第、体積を増した水晶に回路を書き込みながら成長情報を与えてやる。
二つの水晶体が光はなち紫と赤い輝きが室内全体を照らし始めた。まだ若く小さな水晶体は生体路の情報処理能力が低いので、水中で気泡を発生させながら熱も発していた。
世間一般では水晶体などの魔導体に回路を構築する事を刻植と呼んでいる。探索街以外だと熟練の技師や魔導技師が刻植作業に携わっているが、半導体に構築される情報集積回路の能力向上で廃れていく技術だと危惧されている。
俺はこの工房で行える全ての作業を終え、白い結晶枝を伸ばしながら成長を加速させる水晶体から左手を放した。最後に少しだけ赤い光を見届けてから大釜の蓋を閉め、水温が適温に保たれているか温度計を確認する。
【イクサム。早く私を元の場所に戻してください。貴方の手は熱過ぎて回路が焼けてしまいそうです。】
俺はユイヅキを複合弓の中心部に有る溝に填め金具で固定した。以前使用していた複合弓は体が成長して使い辛くなったので、今はソドムの借家で大切に保管している。
その後清掃作業に励み十分ほどで外出準備を終わらせた俺は、ユイヅキを背負い直し二つの円筒容器を手提げ鞄に入れて工房を後にした。
それから俺は第八トンネルと呼ばれている坑道路を抜け、再び地下繁華街の大通りを歩いている。今から採集した残りの生体核を保安局の魔獣課に届けに行くので、次の目的地は繁華街を更に奥に進んだ突き当りに在る鉄壁横の保安局だ。
地下繁華街が在る大通りは全長百六十メートルの大きな横穴だ。天井と壁は等間隔にアーチ状の支柱が支えているだけの作りで、掘った当初の面影を今も残している。地下なので当然暗い所も在るが、大通りは何時も天井と店先の照明で眩しい。
俺はそのまま道を突き当たりまで歩き、管理区画とも繋がっている左右の道に分かれた壁の前で止まった。
この鉄壁は居住区へ続く正門であり、正門から入ってすぐ右の岸壁内に在る保安局が事実上この街の最後の砦でもある。
俺は開いたまま固定された高さと幅が十メートルの両開き柵扉を抜け、向かって右側の壁の内部に有る石階段を登る。
淡く青い照明具の光で照らされた階段は途中で左方向へ直角に曲がっていて、俺は地面から二階位置に在る空洞内へ入った。
空洞内は天然洞窟を改築した場所で、雨漏り箇所が人工石材で覆われている場所が所々目立っている。大きな鍾乳石を切ったテーブルと椅子を横切り、俺は快適そうな冷たい空気が流れる受付で討伐証明の為に魔獣鑑識係を呼んだ。
「直に対応するから一番奥の窓口に移動してくれ おおい部長ぉぉ 討伐証明をお願いしますよぉ」
この長い黒髪の男の声は何時聞いても良く響く声だ。こんな辺境の保安官事務所に詰めているより、どこぞの劇団で大声を奏でたほうが似合っていると思う。
俺指示に従い受付横に並んだ窓口の中で一番遠い壁隅の窓口に移動した。そして手提げ鞄から二つの水筒型保温容器と討伐証明手帳を取り出し机に並べる。
「今日は二匹だけだったようだな あんなに狩られても逃げ出さない個体も居るから面倒な奴等だよ」
俺に渋い声をかけて来たのは生体核の鑑識係と経理を兼任している老いた保安官だ。俺は何時もどうり手数料としては多めの五十Gを払い、何時もどうりの短い口調で討伐証明を頼んだ。
セフィロトより広いゼノンにおいて、魔獣が出没する地域では治安だけでなく経済も悪い。なので一保安官にも独自の裁量権が与えられており、旅人達や魔物討伐者は多めに金を払い自身の潔白を証明している。要するにこの者達は街の公共設備を余所者にタダで使わせる気はないのだ。
名もしらぬ白髪の老いた保安官は水筒の蓋を開け中身を台の上に転がした。そして天井に備え付けられている白熱電球に翳し、一つ一つの石の輪郭に七色の線が表れている事を確認する。
「なかなか状態のいいもんを持って帰って来たな これならダースに流して問題無い」
保安官は生体核を机に置いたまま丸椅子から立ち上がり、二体分の駆除報酬と生体核七つ分の買取費用を取りに自室に戻ろうとする。
「待て保安官 俺がこの街で狩りをするのは今回が最後だ だから預かっていたその容器も返す」
俺の言葉に老いた保安官は一旦足を止め、机に置いてあった保冷容器を取り受け付け置くに向かった。岩肌億から流れる空気は冷たく湿っていて、俺は地上の熱さを忘れるほど肌に馴染むこの場所に来れなくなる事を少し残念に思った。
その後直に戻って来た保安官は、俺の討伐証明手帳の外套箇所に日付と共にオルケイアの印を押した。何時もどうりの作業手順で印字を確認し、報酬と共に手帳を返却皿に入れて窓口から去る。
俺は千G紙幣一枚と複数の硬貨を財布に入れ、手帳と共に財布を手提げ鞄に入れて窓口から離れる。そのまま人が少ない保安局事務所から大通りに戻り、今度は通りの反対側に在る管理局へ向かった。
州都ソドム。人口三万人弱の高原都市。ゼノン中央高原地帯のほぼ中心に在る事から、よく地理教本に同国の中央地に近い都市として名前が登場する。州面積が95,231㎡と群面積より広いので州に指定されているが、基本的に経済規模は群都と殆ど変わらない。年間の降水量が少ない乾燥気候に属していて、鉱業が盛ん。
「やれやれ この街は公務員が少ないから手続きが面倒だ 借りた作業小屋を返すだけでえらく時間が掛かった」
管理局から出た俺は繁華街へは戻らず居住区内の大通りを歩き始める。次の目的地は情報収集を兼ねた居酒屋で、途中の建物から横道に入って裏通りに面した場所に在る「魔者の集い」と言う店だ。
魔者とは魔導具と魔素を併用し特異な技を使う者達の総称で、昨今では世界共通の概念として認知されている。この国だと特殊な訓練法で身に付けた魔法知識に精通する武芸者が相当し、古い時代から様々な戦いの最前線で活躍してきた。
本来武芸者とは、虚構式探索が導入される以前の豊富な魔石資源で独自の武具が簡単に造れた時代に存在した傭兵を指している。
東大陸から伝来した古の格闘家がこの地に魔導よる身体機能の活性方を広めたのを切っ掛けに、魔導開花期の始まりから終わりまで様々な魔者が現れた。
中でも魔導戦士と呼ばれる古い魔導具を使う厄災で失われし正統な魔導技術を継承した者達は、それより以前に存在した魔法騎士や魔物使いと呼ばれていた一種の武芸者と同じ存在だろう。
俺はその魔者の名が入った店の前で立ち止り、小さな窓枠が密集した入り口の引き戸越しに店内を見回す。
(夕刻前だと言うのに客が少ないな。見える範囲でもたったの十一か。)
店内は奥まった造りで、調理台と対面する個人座席と二人から三人用の机が入り口付近に並んでいる。そして店の壁側半分は多人数用の個室で仕切られていて、今の所その個室を使っている客は居ない。
何時までも入り口の前で立っていると怪しく思われるので、俺は窓ガラス付きの引き戸をずらしそのまま敷居を跨いで店内に入った。引き戸は錘によって自動的に閉まるので、そのまま扉近くの店内の中心に在る個人用の対面席に座る。
この店は若い夫婦が経営していて安い定食と量が多い魚料理が上手い。なので俺は厨房へ声をかけず注文をとりに来る女の子を待ちながら、何時もどうりユイヅキの集音機能を使い周囲の音を探る。
【また盗み聞きですか。もう魔石を調達する必要が無い事を忘れたのですか?】
ユイヅキの言うとうりだ。一月近くこんな事ばかり繰り返していたから、すっかり盗み聞きが習慣化してしまっている。まぁそれでも生産区で働く農業関係者と、地下管理区と台地頂上に在る温水設備を毎日行き来する保守点検労働者の愚痴を聞くと落ち着くので辞めようとはしないが。
(今日は何処の街からも輸送便が来てないらしい。運転手の世間話が聞けないと情報源が電波放送しか無くなる。あんな暈しが入ったあやふやな情報を鵜呑みにするよりは幾らかましだ。)
電波放送と言っても、この辺りは州都から離れているので地方短波局の電波情報しか拾えない。入り口付近からも見える奥側の棚に置かれたテレビに映る映像は天気予報と時事ネタが繰り返し長されているだけだ。
【確かに都市の市民権すら買えない貴方では施政情報など聞いても無意味ですね。さっさと食事を済ませて今後の予定を詰めましょう。それと味覚情報の同調を忘れずに。】
俺にとっても外部記憶装置であるユイヅキは情報収集に余念が無い。常に多くの情報から様々な概念を学習する思考学習機能が発達している水晶体だからだ。
ユイヅキから提供されている魔導補助機能の枝を俺の味覚野と繋げる為に腕を組み目を瞑っていると、耳が近付いて来るサンダルの足音を拾った。
「今から揚げ用の鍋が壊れて使えないので油料理は炒め物だけです 注文をどうぞ」
俺は白い前掛と頭巾を羽織り長い黒髪を後頭部で結わえた女の子に食いたい料理を伝える。この子は夫婦の娘らしく、何時も正午から日没までのあいだ店を手伝っている。
「白鯉の酢漬け 玄米肉野菜炒め定食ですね 五分程で出来上がるので料金は三百二十Gです」
俺は手提げ鞄から財布を取り出し、色白でまだ小さな右手に数枚の硬貨を握らせた。
この店はクロマで取れた食材を安い値段で提供している唯一の店だ。他所に出荷できない未成熟な物や状態が悪く輸送途中で腐ってしまう食材を使用している。味への影響は無いので品数の少なささえ気にならなければ問題無い。
容姿年齢十歳の少女が告げとうり、注文してから五分前に料理が運ばれて来た。この料理はセフィロトで慣れ親しんだ玄米と調味料を使わない肉野菜炒めが舌に馴染む。独特な酸味の白身魚と地下茎野菜の歯応えが十分に胃を満たしてくれる。
【食事をしながらでよいので、擬似魔導具で光の槍を再現する計画案を纏めましょう。なんらな視覚野に図面を出しましょうか?】
食事中だがユイヅキの言うとうり俺達には悠長に味を楽しんでいる時間は無い。食事が済めば借りた工房の整理と清掃をしなければならず、明日この街から旅立つ準備も控えている。定期便に乗りながら魔導具を製作できれば楽だが、俺の理力を以てしても設備無しでは作れない。
(魔導因子を破壊するには直接接触以外に解決法は無い。やはり水晶体を機能停止させて一時凍結し、使用者と同調する時だけ覚醒する仕様が最適だ。幸いな事に仕組みが解ってるから本物の光の槍を再現する必要はない。残りは合体分離機能と適合適性の向上化方法か。)
エグザムと呼ばれた死神を殺した伝説の武器「光の槍」。カスパーらの外部記憶担当であるバルタザルの記録情報に分散したその情報が残っていた。
歴史叙事詩の「死神伝説」に登場する光の槍は、地上を支配した月の民を守護する福音戦士の主兵装だった。しかし本物はまったくの別物で槍の形すらしておらず、魔導細胞内の特定の魔導因子を結合崩壊させる粒子を放出する魔導砲の類だった。
解り易く言えば地上を支配しようとした魔導生物を駆逐した謎の最終兵器「福音戦士」用に製造された粒子加速器型兵装。接近戦から精密狙撃まで全射程を網羅した超兵器とでも言うべきか。
【虚構世界に持ち込ませる際に分離状態にするのですか。所有者ごと吐き出される可能性は減るでしょうが、それだと三つの魔導具に分散させた主要機能の統合を間接的に操作出来なくなりますよ。それに使用者の意思で合体と分離機能を操るとしたら、意思機能である使用者も統合する事になります。】
確かにこの方法だと水晶体か使用者のどちらかが機能低下を起こせば光の槍に成らない。外部から俺達が補助すると言っても、たかが擬似魔導具で魔法乱舞に相当する大魔法を使うのだ。死神を殺す槍を完成させるならこれ位の問題には目を瞑るべきか。
(なら使用者を熟練の探索者から経験が浅い奴に変更しよう。予備も含めて四五人、出来れば同年代で顔見知りの間柄の奴等だ。そいつ等の成長を待つ位なら幾らでも待てるだろ。それに必要な時に槍が完成していなければ意味が無い。確実に弾かれない魔導具を作るには金も技術も足りてないからな。)
魔導具の合体自体は珍しくない。現在の浮遊島の探索事情を調べる手段は限られている。そしてこれ等の構想を形にする設備は探索街にしかない。何よりも玩具の様な簡易な魔道具で虚構世界を探索するのは、かつての俺の様な複雑な事情がある奴だけだ。
【結局今の私達に出来る事は、これから作る予定の玩具の名前を決める事くらいですか。水晶体を装着する躯体の案くらいは有りますよね? まさかセフィーナに到着してから案を纏めれる余裕が有ると考えていませんか?】
俺はユイヅキとの接続を切り、一時的に自我を孤立させて名前を伝えるべきか迷う。なにせこの名前は俺達が探している魔導生物の生き残りを神格化させた名だ。わざわざ死神の名が気に入らず改名したのに、厄災を彷彿とさせる名しか思いつかない自分が腹立たしい。
そんな思いは思考を切り離しているので伝わらず、俺の孤立状態が長いと判断してユイヅキが思考に強制介入してきた。俺はこれからも長く付き合う相棒の為に、しょうがなく考えておいた名を伝えることにした。
(名前はもう決まっている。それぞれの固有属性を区別する為に、かの魔神伝説に登場する魔導生物の名を与える事にした。どうせ魔導具職人として登録するのだから別の名にしたかったが、どうせ見かけは小道具と大差ないから誰も気にしないだろ。)
ユイヅキは討伐すべき死神と深く関係している魔神の名を、俺と旧管理者達の外部記憶から検索して引き出そうとしている。俺はユイヅキの演算攻勢に耐えつつあえて答えを教えない。なにせこの情報があるのは人間だった頃の記憶だけだ。
それから五分ほど時間が経過し、俺は運ばれて来た料理に舌鼓を打ちながらユイヅキの質問に答えていた。ユイヅキは単純な消去法で答えが俺の頭の中だけに有ると理解したようで、俺の思考領域に侵入して正解の名を二つも読取りやがった。
俺は最後の答を悟られぬようにユイヅキの演算を魔素の供給量を減らして妨害していると、背後の店の入り口から砂と硝煙の臭いを漂わせた一団が入って来た。
(ユイヅキ。緑の来客を監視対象に設定。奴等の声を聞き逃すな。)
ユイヅキを介し紫水晶で調べなくても判る。こいつ等は俺と同じく魔獣討伐をしながら出没地域を放浪している討伐団だ。入って来た八名の若者で構成された討伐団かどうかは判らない。全員が羽織型の緑の耐熱服を着用しているので、資金と人員が充沢な討伐団の構成員だろう。
事前に店の個室を予約していたのか、八名の男女は店の奥に在る大部屋形式の個室へそのまま歩いていった。俺はユイヅキに多目の魔素を送って自らの魔導路も一部だけ活用する。
あいつ等の服装からして南か北の森林地方と山間部で魔獣や魔物を相手にしている輩だ。おそらく不足している魔物の情報も補えるだけの話が聞けるかもしれない。
【領域感知内で再補足。音声情報を再生します。】
俺の耳に間近で会話を聞いているような声が聞こえて来る。勿論これは錯覚だが、雑音が無く済んだ笑い声と同じ声が奥の部屋から聞こえている。
「臭くて仕方ないだろ 何せ風呂も入らずこんな辺境まで放浪便だけで来たんだ わざわざ呼ばれて来てやったのにあんな対応はないぜ」
この声は少し長めの髪を赤く染めた男の声だ。一番先に店に入り俺の後ろを左に曲がって真っ先に奥へ歩いて行った奴だ。確かに汗が乾いたような匂いを漂わせていたが、あの程度獣の体臭と比べれば生活臭と大差ない。
「あれでいいじゃないかオルグ 俺の故郷なんて治安維持をまともに出来る奴が居なかったんだぞ だから今回の依頼は当りに違いない」
八人の男女は声だけでなく姿も若い。生体魔素も活発で俺より五六歳は年上のはずだ。この他民族国家特有の肌や髪の色が混在した容姿を忠実に受け継いでいて、俺の様に髪を短く剃らず伸ばしているのも今の流行の髪形なのだろう。
「当りにしては街に近付いた時から魔獣の姿を見かけなかったな こんな辺境で魔獣を駆除しても討伐報酬は渋いのに 誰かが俺達より先に獲物を狩っているかもしれないな」
五人の男と三人の女は性別ごとに異なる会話をしている。女三人組は街の様子や繁華街で何か買うか話し合っているので無視しているが、双方とも近くで別々の会話をしながらこの店の魚料理について決めかねているようだ。
「そう言えば聞いたんだが西海岸の海没都市に行われていた発掘がどうなった誰か知らないか あれだよ昔星海開発船の発射場が在った場所だ」
「ああ あそこは波の浸食で海岸線が後退しているから発掘なんて無理だよ おそらくその話は海洋調査の件に脚色されたホラ話だ それにあの辺りの遺跡は盗り尽くされているから もし発掘するなら海の中だぞ と言っても俺が住んでいた頃からあの辺りの地形調査は滞っていたから おそらく開発公団が資金集めに何かの情報を流したんだろ」
高い声の若者達が面白そうに笑っている。直接耳に届く声にも長旅の疲れは感じれず、俺の期待は少しずつ低下し始めた。
【どうやら彼らは今日が結成五周年の記念日のようですね。結成してから単独で放浪便用の車両を調達できたのなら、今後の活動に期待できる討伐団と評価すべきかと。 拡張音声の再生を続けますか?】
俺は魔導因子の活性化率を下げてユイヅキの問いに間接的に答えた。同じ屋根の下で仲良く世間話や自虐ネタに興じる者達と共に食事をしに来たのではないので、俺は残り少なくなっていた野菜と肉の炒め物を口に放り込んで噛み続ける。
(そう言えばベルスに居た時、ジャッカスから海没都市の話を聞いたな。四百年くらい前はあの辺りはまだ陸地だったらしい。確か現在とは違って湖に面した湖畔沿いで、海岸線は西の遠くに在ったと言っていた。)
俺はジャッカスから聞いた「海没都市アトラ」の話を思い出す。勿論大半はユイヅキの外部記憶に残した情報なので、ユイヅキに頼んで記録情報の読み込みを行う。
ジャッカス曰く迷宮認定されず都市跡のまま遺跡化した海没都市アトラでは、古くから遺跡を発掘する引き上げ業者と遺跡の漁場で漁を営む漁師達との間でいざこざが絶えない地域だった。およそ400年前にまだ海岸線が内陸の湖と繋がる前は漁業が活発だったが、大きな湾が形成され湖が喫水域に変わると、水質と水温の変化で魚群が減ったそうだ。百年ほど前の「衛星群崩壊事件」で星海開発が頓挫した事から、今では星海開発基地がうち捨てられたまま波風に侵蝕されている。
現在は他所の地域から流れていた違法居住者により新しい宿場街が出来、都市や基地跡の残骸や瓦礫で出来た住居が並んでいる流行の観光地と化している。引き上げ業者も居るが大半は河口沿岸で漁をする漁師で、海に沈んだ海没都市の残骸である船の部品や破片が網に引っ掛かることがあるらしい。
【記録日は一年と半年前。丁度貴方がイクサムとしてベルス周辺で魔獣の駆除を始めるようになった頃ですね。私の情報にある海没都市の名は洋上都市船の項目に備考として有るだけです。洋上都市船は厄災を経験し生き残った数少ない文明都市なので、行方不明になった魔神の消息を探る手掛かりが有るかもしれません。そして文化指定都市セフィーナに近い気候帯なので、環境に魔導細胞を慣らす為にも調査する事を推称します。】
管理存在の記憶を継承しているユイヅキが行けと言うのだ。死神を探す手掛かりが有りそうな場所なら何処へだって言ってやるさ。しかしこの街から国を横断して西海岸に向かうならどの交易路を使おうか。あの辺りは都市開発から取り残されている地域だから、必ず州都アトランタを経由する必要があるな。
(宿に帰ったら預けている旅行鞄の中から地図を探さそう。金は問題無いが現地ですこし稼がないとセフィーナでの生活が危うくなる。まぁ初めて海を見れることだし、今日はこのまま宿に戻るとするか。)
俺は食事を済ませ店から出た。店を出る際に時刻を確認したら五時過ぎだったので、安宿に着く頃には太陽光で温まった比較的熱い温水を浴びれる。
十一月になって日照時間が長くなったから魔導細胞に活力を入れる日光浴も存分に出来る。明日から定期便生活に戻る事も考え、今日はしっかりと体を洗っておかなければならない。
幾ら外が灼熱地獄だろうと定期便の旅客大型車の中に入れば否応なく汗の臭いを嗅ぐようになる。あの乾いた空気と魔素に乏しい生ぬるい冷風地獄を味わいたくないので、衣服が焼けてでも屋根無しの定期便を選ばなければ。
そう考えながら居住区内に拡がった裏通りを歩き、長期宿泊契約を結んでいる安宿へ急ぐ。シャワーを浴びてから作業場の整理と水晶体製造の痕跡を消す作業も残っているので、寝るのは夜遅くになってからだろう。
魔神伝説。物語の舞台は厄災に世界が覆われようとしていた戦乱の時代。南大陸で福音戦士と共に魔導生物の軍勢と戦った魔法騎士達の活躍を記した叙事詩。主に三人の魔法騎士を主軸に物語が進行する戦記物で、主題ともされている三柱の魔神を従えた選ばれし者の葛藤と苦難が描かれている。
この物語は厄災直後から文明の復興期とされる魔導創世期に書かれた短辺小説を再編集した物で、多民族国家ゼノンの起源となる防衛戦争を記した唯一の資料とされている。文字どうり国家の統治と存続を証明する神話と化した伝説なので、政治や文化的な理由で幾度となく再編された経緯が有る。
なお最も新しく再構築された同物語は、十代前半の少女三人が虚構世界に召喚され世界を救う為に侵略者と戦いながら虚構世界の秘密を暴く仕様に成っている。
俺は孤児院時代に、数十年前に造版されたこの改訂版を森に持ち出し狩りの片手間に呼んだ事がある。敵役として終盤に退場する黒の神官が主人公と敵対した理由を考慮すると、この作品で一番の被害者は主人公を差し置いて黒の神官である彼なんじゃないかと思う。
それから五日後の15日の朝。俺は再び各地を旅する魔導具職人として、長距離定期便の車内後部座席に座っている。身なりは頭を含め全身を覆う白色の日射外套を着用していて、魔獣駆除や魔者討伐で地方を旅する討伐者と大差ない。
旅行用の革袋である背嚢を膝の上に置き、ユイヅキと手提げ鞄は座席の下に置いてある。この長距離便は
都市間便や都市鉄道等に使用される大型台車に半装軌式無限軌道を装着した非整地踏破用の導力車だ。大量の魔石を材料とする発動機の運動蓄電盤が半導液と動力伝達機関を介し駆動輪を回している。時速は平均して60キロ程度だが、長距離を少ない補給で移動出来るので、今も交通網が整備されてない地域で活躍している。
既に車窓から見える景色は樹木が少ない植物が多い茂る丘陵地帯で、定期便はアトラ星海開発区が在る自然保護区内を走っている。この辺りは乱伐により土砂崩れや洪水が発生し易い地域だ。都市開発から取り残されて以来、交通網の整備すら放棄されたままの状態が続いている。
俺が乗車している二十数人乗りの定期便は正規の都市間交通便から外された旧式らしく、今は州都アトランタと海没都市アトラ地区を結ぶ唯一の定期便だと誰かが言っていた。勿論同地区と都市を結ぶ交通網なら空路と河川交通が機能指しているので、金が有る奴はこんな古い大型導力車に乗ったりはしないだろう。
定期便は昨夜から一晩中走り続けている。まだ日が昇ってからたいして時間も経過してないので車内は寝静まった様に静かだ。
俺はその静かな後部座席で腕を組み瞼を閉じながら、頭の中でユイヅキともうじき到着する観光地と化した海辺の街で行う予定を再確認しているところだ。
(そうだな。治安が不安定だが観光客相手に高く設定された宿泊費を払う余裕は無い。野宿出来そうな廃墟や放棄された施設には許可が無いと立ち入れない。港町で雨乞い可能な場所を探すしかないだろ。)
俺達はアトラへ向かう途中に立ち寄った州都アトランタで様々な情報を見聞きした。とくにゼノン国内の経済事情や政治界隈は、格差是正を求める賃金の引き上げや公共財の再整備で常に揉めている。セフィロトの様に中央と地方で完結する経済事情ではないので、次に定期便が停まるアトラ開発区の情報を仕入れるのにたいして苦労しなかった。
【海没都市の探索状況と魔素溜まりの確認。魔神伝説に関係する情報収集と実地調査を行う為にも、例の潜水業者の協力が必要です。天気予報では四日間は天候が安定しているので、寄り道せずに港町の潜水業者を探してくださいね。】
今は討伐者風の身なりだが、俺は定期便を降りてから旧アトラ開発区に観光客として入る予定だ。開発区周辺の街は基本的に警備や法秩序が緩いので、専用の身分証の提示が不要な点は魅力的とも言える。今の俺は放浪者である旅人。街で働く労働者でもないので、おそらく格安の宿泊施設にも泊まれないだろう。
【私の記録では、魔神伝説に登場する三体の魔導生物は魔法騎士が操る機械獣に融合したと記されています。暴走した魔導生物の中枢たる巨神が討たれ戦争が終結してから姿を消したのなら、やはり人目に晒されない場所を選ぶはず。国内各地に有る厄災時代の遺跡は全て観光地化されているので、もし浮遊島に三体の生き残りが居ないのなら、沈んだ洋上都市船が最有力と考えていいでしょう。】
魔神と呼称された魔導生物の生き残りを追う手掛かりは、伝説を記した最初の物語にしかないと言われている。まだこの国に来た頃の俺はこの事実を知らずゼノンの南東部から東部の遺跡を探し回り、貴重な旅費の大半を失ってしまった。
当初は初版とされる本の原本か複写本を探して各地の図書館や新聞社を探し回ったが見つからなかった。なんでも原本と複写本は二千年以上前の王国時代に禁書政策で焼かれてしまって現存してないそうで、有志によって再構築された物語が通信情報網の掲示板に掲載されている事を知った。
俺は近場で唯一情報通信網が整備された南東部の州都であるカルネアの情報局に赴き、通信情報端末から魔神伝説再構築版をユイヅキに写させた。
結論から言えば、魔神が何処へと消えたのかは判らなかった。しかし魔法騎士の下から去った理由として幾つかの仮説が紹介されていて、俺はユイヅキと協議して仮説の一つに書かれてあった魔導生物の寿命説を信じる事にした。
【かの死神も含め魔導生物の死骸は大地や海を不活性魔素で穢しました。たった一体の魔物が死ぬだけで周囲の木は枯れ大地は血の色に染まってしまいます。魔神として能力を高める為に敵対した魔導生物の魔導細胞を取り込んだのなら、体外へ排出される不活性魔素の量や種類も桁違いに多いはず。天空樹も始まりは魔導生物の死骸を肥やしにして育ったので、迷宮に取り込まれてないのなら朽ちた屍が深刻な魔素汚染を引き起こしたことでしょう。】
元々は死神の生き残りを探す為に始めた旅だったが、結局魔物を除いてかの魔神以外に有力な魔導生物の残党は居なかった。ゼノン都市国家時代から遡る事四千年以上の間に狩り尽くされたのだろう。魔導生物の血は大地を穢したが地中で分解され魔石を含める多くの鉱物資源に変化した。その後に表れた異形の生物である死神の成り損ないも魔導資源として乱獲され、漁師や輸送船の乗組員を悩ませる海獣を除いて殆ど駆逐されている。
俺がこれから行く港町で潜水業者の力を借りアトラ都市艦と呼ばれた洋上都市の残骸を調査するのも、周囲の一帯が海獣の幼体に分類される魔獣イノラの生息地として有名だからだ。
(初めて海を見た後に、今度は始めて海に潜り魔物の幼体の縄張りに入る訳か。上手く業者を騙せたとしても、かなり忙しい四日間になりそうだ。)
悪路を進み揺れる定期便の中でユイヅキと談笑していると、車体がぬかるんだ坂道を登り終わったと同時に右折し舗装された道路を走り出した。
俺は車内左側の窓へと顔を向け、車窓一面に映ったやや緑がかった浅瀬と青い水平線に揺れる波模様を眺める。
(これが本物の海。確かに塩を含んだ生臭い空気を感じる。たしか師匠は命のスープだとか言っていたな。)
前側の席の窓が開いていて、そこから外の空気が車内に流れ込んでいる。俺は色々な匂いを掻き消す海の香りをしばらく堪能した後、感無量の思いを心に仕舞い定期便を降りる準備を始めた。
定期便はアトラ開発区内の新興宿場街へ続く舗装道路を走っている。舗装道路は海に面した断崖の上に在るので、定期便は緩やかな曲がり道を進みながら崩れ近くなった崖の縁を幾つも通りすぎる。
俺は膝に置いていた背嚢を外套の下に背負い、手提げ鞄を膝上に置いてユイヅキを拾う。丁度定期便が減速を始めたので他の乗客も降りる準備を始めた。
高所から見渡せる海には小島や岩礁などが幾つも点在している。特に岩礁付近には話で聞いた海洋農場と呼ばれる遺跡に碇を沈めた浮き桟橋が見え、十数隻におよぶ小型の漁船が人工島周辺で網を回収している。
(沖合いの海嶺火山に大型海獣が出没するから沿岸にしか出れない。さらにイノラ等の小型海獣が居るから浅瀬の沖合いで漁も出来ない。今は嵐明けの魔石が採れる期間じゃないから操業している船は少ないと聞いたんだが。)
収集した情報によると、今定期便が走っている道路は沿岸沿いに整備された唯一の道らしい。南へ八十キロ地点に在る海軍補給廠と開発区内北に在る星海開発船発射場を結ぶ軍用道路だったらしいが、今は南に在る堤防ダムの橋が上がっていて軍施設へは行けない。
「当便はまもなくアトラ宿場街に到着します 忘れ物に注意し立ち止まらず速やかに降車しましょう」
運転手の中年女性が車内アナウンスで目的地の停留所に着く事を告知した。緩衝機構が働いているのか怪しいこの大型導力車を何年も乗り回しているのか、運転席には様々な種類の置物が飾ってあった。
定期便は真っ直ぐな道を緩やかに減速しそのまま道路脇を越えて右折する。直には停まらず雑草が生え放題の広い空き地で大型動力車を旋回させ、車体前側を道路に向けさせ停車した。
【ようやく着きましたね。なかなか独特な空気ですが堪能している余裕はありませんよ。】
俺は慌てる事無く列の最後尾をゆっくり進み、運転席隣の搭乗口から多年草が生え放題の空き地に降り立った。
空き地は宿場通りの最南端に位置してるが、周囲には畑の農産物を塩害や強風から守る防災林の沿岸松が植えられている。空き地内は広く労働者を募集している者や、海で取れた海産物や貝殻等の簡単な装飾品を売っている複数の露天商が来たばかりの客に声を掛けている。
(海の海獣を除けば陸に魔獣や魔物は居ないからな。こんな辺鄙な所まで来る物好きは確かに居るようだ。)
俺は海の幸を鉄板で焼いている屋台の傍らを通り、磯の香りに惑わされながらも宿場通りへ進む。
通りに面している宿泊施設は噂どおり廃材や流木等で作られた独創的な住居ばかりだ。強度計算や保守設備等はお構い無しに様々な海獣を模した像が建てられていて、風通しが良い内部に寝具や食事用の机が並んでいる。宿の中には珊瑚色を模した赤や黄色い塗装が塗られただけの木造家屋も在り、宿泊している客が朝から宴を催している。
おそらく建物の材料の大半は浜辺や港街で拾ってきた漂流物だろう。沖合いに沈んだ遺跡船や魔獣の骨等が海流によって岸まで運ばれてくるので、通りには巨大な巻貝の殻をくり貫いた宿らしき物体も有る。
【のどかな場所ですね。中央平野近辺に近いのに人や物も少ない。まるでベルスの遺跡付近に出来た下町を歩いている気分です。】
俺はユイヅキの感想を肯定した。なにせこの沿岸地方は年中暖かく降水量にも恵まれていて、何処かの辺境地方特有の猛暑や寒波等と無縁な地域だ。住民の中には道端に座りラジオや古びた電化製品を修理している者や、宿屋の前で客引きをする者まで居て、基本的に現地人は帽子を被り半袖半ズボンとサンダルを着用している。
その一方で白い外套を纏い背嚢で膨らんだ背中に複合弓を担ぎながら歩く俺は周囲の景色から浮いている。あからさまに討伐者の服装なので誰も俺と目を合わせようとしない。商売上怪しい奴と取引すると他の客にも怪しまれるのは誰でも想像できる事だ。
しかし俺はそんな視線などお構い無しに、左手の高台から見渡せる海を見ながら緩やかな下り坂を下って行った。
住民達はこの宿場通りを簡単な名で団地と呼んでいるようだ。その団地は断崖の上から斜面を下って砂浜近くの平地まで続いていて、舗装道路も北の岬まで海岸線に沿って沿岸部に延びている。
一キロ以上先に見える岬にはこれまた年季が入った白い灯台一つ在り、岬へ登る峠道が在る高台の向こう側はまだ見えなかった。
俺は罅割れが目立つ道路を歩き、低くなった海岸線から海を眺めている。低い場所からでも海の遠くまで見渡せ、五キロ以上先に在る沖合い小島同士を結んだ海獣除けに建造された古い海道遺跡も見える。
(今もこの辺りは海の侵蝕と大地沈下に晒されている。二千年前の古い都市跡もあと五百年もすれば完全に沈む。もう壁として機能してないから、海獣に沈められた船から積荷を引き上げるのも命がけな訳だ。)
潮風が短い髪の毛を揺らそうと海側から強く吹き付ける。すると数十メートル先の白い砂浜から砂塵が立ち昇り、一瞬だけ俺に飽きるほど見慣れた砂漠の日常風景を思い出させた。
それから俺は十数分ほどなだらかな坂道をゆっくり歩き、岬の頂上付近に敷かれた峠道の頂上辺りで立ち止まった。
「あれが星海開発船の打ち上げ基地か ここから見る限りではたいして荒れてないないように見える」
事前に調べたとうり岬の北側には白い人工石材の土手に囲まれた発射基地が在り、東西に横たわる二キロ近い長さの滑走路の横に全長三キロを超える星海開発船用射出軌道が在る。
基地の東側半分は海岸線からはみ出していて、海風の影響か大きく上へ反り返った海を向いたジャンプ台の一部が錆びている。発射場は今や滑走路が航空便や飛行船の発着場として一般解放されているだけで、星海船用の整備棟や管制塔などが半分残っているだけだ。
(そろそろ怪しまれないよう観光客として溶け込まないとな。海獣監視任務中の海洋官は目が言いと聞く。あいつ等にユイヅキを見られると面倒事が増えてしまう。)
潮風がもたらす海辺の空気に慣れた頃、俺は峠道に人影が少ない事を確認し頭から足首までを覆っていた外套を脱ぐ。そのまま外套にユイヅキを包んで背嚢の外帯に挟み、首元に提げていた砂塵除けゴーグルを頭に装着する。最後に外出時に何時も被っている革帽子を被り、緑の手拭を首に巻けば変装完了だ。
【今の内に言っておきますが、弓の代替品になる物を見つけても使うかどうかは私が決めるので、勝手に荷物を増やしたら駄目ですよ。】
俺は討伐者から物好きな旅行者に様変わりし終え、放棄された発射場の海側に在る港街を目指し峠を下り始める。
(解ってるから心配するな。入れ物は漁具に使う人工樹脂製の浮き袋にするから、水中でも問題なく景色が楽しめるぞ。)
目的地の港街は滑走路と発射軌道の間に在る大きな元用水路を囲む三階建ての住宅街だ。この港街は普段は漁業で栄えているが、毎年の十二月後半から一月の終わりまでの休漁期間に水中探索拠点と化す。国を跨ぎ砂漠を渡って大陸各地から宝探しに来る愛好家や収集家が長期滞在する場所なのだ。
俺は緩やかな坂道を下りながら坂道の先にある旧検問所の基地出入り口を目指しす。この放棄された基地が今は海洋資源探査と採掘の為の調査拠点と成っているので、情報どうり開放された検問所で港街から運ばれた海の幸が売られている。
第十二話「三種の神器」
海鮮屋や観光案内も兼ねた引き上げ案内所が在る基地の南門から入り、硬い人工石材の基礎で築かれた平たい土地を歩き続けた結果、俺はとうとう廃墟と化した数十メートルの建屋施設群を抜けて港街である三階建て住居群に辿り着いた。
「まさか東側を迂回するとは思わなかったな おかげで二十分以上時間がかかってしまった」
金属や木製の薄い板材を張り合わせた壁と屋根が狭い通りの両側で大きな壁を築いている。その壁には様々な塗料が用いられていて、無差別な大きさや換気設備と配管類の配置に統一性は無い。
俺は海の匂いよりも乾いた塗料が独特な臭いを発している通りを歩きながら、目当ての潜水業者の店を探している。もちろん港街に入ってから道行く住人に無差別に声をかけ潜水業者の店の場所を聞いて回っているのだが、今の所休業中の店ばかり紹介されて時間を無駄にしている。
【水中探索専門の店は諦めましょうよイクサム。時期が早い事は判っていたので、先ほど聞いた引き上げ業者の店に行きましょう。】
州都アトランタで業者の下調べを行っていた最中、この港街の漁師達が時期次第で様々な稼業に手を出している情報を掴んだ。引き上げ業者とは潜り屋と呼ばれる潜水業者を補助する業種らしく、数こそ少ないが年中仕事の為に海へ船を出している。何でも水中探索時期以外にも設置した漁具や養殖生簀などの設備点検と補修を行っているらしく、先ほど若い主婦から埠頭の桟橋近くで操業している台船屋を紹介されたばかりだ。
(そうだな。そろそろ気分転換の為にも海へ出たいから埠頭が在る桟橋へ向かおう。)
俺の黒い髪はこの国では少し目立つ部類だ。その所為か、先ほどから遠くの街から出稼ぎで戻った若者を見るような目で俺を見る視線が絶えない。勿論声をかけられ身分の説明を求められても問題無いように返事は考えてある。
「そこのお兄さん もしかしたらアルサさんの子どもかい 出稼ぎから戻って来た様な恰好だね」
魚ではなく海草含めた貝と野菜を売っている少し太った女性からお声が掛かった。丁度店の前を歩いていたのは俺だけなので、俺は迷う事無く言葉を返す。
「いや違うよ 俺は国中の田舎を旅している旅人だ この辺りの海に興味が湧いて現地までやって来たんだ」
重要なのは怪しまれず笑顔で話すことだ。このたった一つの要点さえ実行すれば、誰も俺を討伐者だとは思わなくなる。
俺はそのまま中央水路南側の通りを東に進み、住居が無く漁具が置かれ船着場と化した堤防沿いを行く。堤防から水路側へ傾斜した土手に多くの船が陸揚げされており、皆五十トンにも満たない小型の漁船ばかりだ。
【埠頭反対側の看板が見えてきましたよ。あの赤い碇の看板が有る台船小屋が引き上げ業者のラノイ台船ですね。話しに登場した大きな三角屋根はあそこだけです。】
ユイヅキの言うとうり水路の中央近くまで延びた埠頭の向こう側、つまり水路外の沖に張り出した船用の木造家屋が紹介された引き上げ業者の店だ。
外見上から、一階は海面の上に在る船を保管する為の舟倉庫で二階が店を構える事務所なのだろう。三角屋根の外側に三階部分と思われる大きな足場が組まれていて、様々な衣服が物干し竿と釣竿に干されている。
俺はそのまま道を直進し、海側に面した人工石材の堤防を足場に組まれた金属製の簡素な階段を登った。堤防を越えると階段は堤防上で上下に別れていて、俺は止まらずに上へ続く階段を上がる。
(手摺が錆付いてる。太くなかったら今頃折れていただろう。)
革靴の靴底に埋められた硬質ゴムが剥がれ落ちた錆や少量の砂を踏む。重い荷物を持っているので自重が嵩張り、金属板を支える金属パイプとネジが軋み声を上げた。
間近で三角屋根を見上げると、防腐材以外の塗料が施されてない木目表面が裂けているのが判る。相当月日が経過したような有様で、遠めで見たときより年季を感じる。
階段を登り終えた俺は二階にある玄関の戸を叩いた。一度だけでなく二度三度と叩き続けると、中からくぐもった女の声が聞こえる。
「今手が放せないから入って来て 鍵は開いてるから」
俺は板張りの右側外壁に設けられた両開きの扉を開ける。扉は分厚い木材で覆われていて少し重いが、蝶番が何等違和感なく動き扉が開いた。
「ラノイ台船にようこそ 土足のままでいいからこっちに来て 船主は留守にしてるけど用事は私が聞くから大丈夫だよ」
板張りの壁の中で声を聞くと、外から聞いた時とは正反対な明るい声が耳に響いて聞き取り易い。俺は木箱や観葉植物が並べられた窓沿いの通路を歩きながら内部を進み、二つ扉を越えた先に有る広い作業部屋らしき事務所兼応接室の窓側から様子を窺う。
「水中探索前の事前調査をしに来たんだが 街の潜水屋は何処も休業中で頼めなかった ここは引き上げ業と潜水道具の貸し出しをしていると聞いたのだが本当か」
板張りの床には机含め重そうな棚や道具箱が置いてあって、それらの上に小麦色の短い髪が生えた後頭部が見える。どうやら声の主は備品の整理を行っているのか、俺が入って来てから小道具を動かし雑音を発て続けている。
「うちは潜水服から簡単な漁具まで海関連の物なら何でも取り扱ってるから 金さえ払えば水中探索の補助に船も出せるよ でもちょっと今忙しいから そこの椅子で雑誌でも読みながら待っててね」
俺はちょっと以上に忙しそうな若い女の言葉に従い、目の前に有る簡単な木作りの椅子に座り作業が終るのを待つ事にした。