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十五センチの千羽鶴

作者: ゆまち春


「怪我で入院している千鶴ちゃんのために、千羽鶴を折りましょう」


 週明けの帰りのクラスルームで、二年一組の教壇に立つ道子先生は提案した。


「千羽鶴ってなんですか?」


 どんぐりが転がってもざわめく子供たちは、その提案に興味を示す。

 三十路で男は捕まえられなくとも子供釣りには長けている道子先生は、手応えを感じながら千羽鶴の説明を始めた。


「千羽鶴っていうのは、折り紙で折った鶴に糸を通した大きな飾りよ。入院しているとあまりお外が見られないでしょう。だから、カラフルな千羽鶴を見てお花畑やいつも見ている景色を思い出すの。それに、もっと大切な意味もあるのよ」


 教室窓側の最前列。陽の光が眩しいくらいに射し込む上に、教卓の目の前だからおふざけのできないハズレ席。

 その席で、千羽鶴という言葉に目を輝かせる男の子がいた。


「大切な意味って?」


 いつも声が大きく、クラスを取り締まるリーダー的存在であることと恰幅の良さから取締役とあだ名される男の子が、クラスの後ろから質問を投げる。

 道子先生は教室をぐるりと見まわして、子供たちが耳を澄ましたことを確認した。


「渡した相手に元気になってくださいって想いが伝わるのよ。千羽鶴をたくさん折って、あなたの怪我が治ることを祈っています」


 普遍的な意味合いの、小学生なら誰しもが持つべき感情。


「完成した千羽鶴にはそういう優しさがこもっているのよ」


 男女合わせて十九人の二年生はどよめいた。


 演技臭いかと内心では冷や汗を掻いていた道子先生は、ざわつく教室を柏手で静めた。

 どうやら上手くいったようだ。


「はいはい。じゃあ、皆で千羽鶴を作りましょうね。折り紙はクラスの入口にあるテーブルから好きなだけ取っていいわ。ただし、折り紙以外は折っちゃダメよ。紙飛行機は見つけたら没収しますからね」


 男子は「えー」とブーイングを始め、女子は「これだから男子は」と呆れる。

 二年一組の男女比はほぼ同じだ。怪我をした千羽千鶴が休んでいるため、やや男子の声が大きい。


「それから、大事なルールを発表します」


 千鶴先生はあらかじめ用意してあった大量の折り紙を、両手に持った。


 右手には青い折り紙。左手には赤い折り紙。


 他の色は一切なかった。


「男子は青い折り紙で、女子は赤い折り紙で、鶴を折ってください」


「どうしてー?」

「男子がサボらないようにでしょ」

「女子だってズルするかも」

「女子はしないもの」


 やんややんや。拙い彼ら彼女らの戦争が始まる前に、大人の道子先生は再び柏手を打つ。


「そうじゃないわ。青と赤の折り紙だけを使って、二色交互――青と赤が混ざりあった千羽鶴を作ろうと思うの。そうした方が、運動会の応援合戦みたいで、クラス皆で千鶴ちゃんを応援しているみたいでしょ」


 内心では男子がサボりそうという言葉で図星の道子先生だった。


「だから、男子は青。そして女子は赤。出来るだけ同じ数、作ってね。完成した鶴は、剥き出しだと寒いから折り紙があるテーブルの箱に入れてあげてね。一週間後に集めた鶴に紐を通して千鶴ちゃんに届けるわ」


 道子先生の説明が終わると、クラスルームが終わりの鐘を鳴らした。


「日直さん。さようならも一緒でいいわ」

「起立。礼。さようなら」


 十九個の声が塊となって発される。

 道子先生がテーブルに折り紙を置くのを見て、誰もがその場に集まる。


「一枚一枚!」

「押さないでよ!」


 年始のバーゲンセールに押し寄せるお母さんみたいなクラスメイトの背を見ながら、教卓の前の席で目を輝かせていた男子――相馬勇太は、隣の席を見た。


 空席。

 千羽千鶴の席。


 僕は先月の席替えで、くじ引きで偶然、彼女と隣になった。

 クラスの皆には羨ましいと言われた。


「俺、千羽のために千羽折るわ!」

「あーあ、これだから男子は。千鶴ちゃんがカワイイから折るんでしょー」

「ち、ちげーし!」


 千羽千鶴はよく笑う。誰に対してもよく笑い、雨の日も晴れにする明るい女の子だ。クラスの皆に好かれている彼女は、まさにアイドルやマスコット的存在だった。


 彼女は元気魔人の精霊だと勇太は思うことがある。


 授業中に千羽さんは、クジラの絵をカラーペンで虹色にして、死にそうなクラムボンにソファと薄型テレビを描き足してあげていた。僕がふとそれに気づくと、自慢するように彼女は教科書を見せてくれた。そして先生にバレやすいこの位置の机が災いして、よく怒られていた。


 怒られながらも笑う彼女が怪我をしたと聞いたのは、朝のホームルームの時間だった。


 笑い過ぎて自転車でコケてしまったそうだ。


 二年一組はアイドルが学校を休む事態に驚いた。何かしてあげたいと考えていた子供たちに提案されたのが千羽鶴だった。


 千羽鶴は優しさの象徴。


 勇太は道子先生の話を聞いて、そう感じた。

 怪我をした人が悲しまないように、たくさんの鶴を傍に置いてあげる。


 そんなことを考えていたら、教室を出たはずの道子先生が戻ってきた。


「それと、自分たちの手で折らないとダメよ。お父さんお母さんに頼んだらダメだから、鶴を折っていいのは学校にいる間だけ。放課後はダメ。授業中もダメ。休み時間の間だけよ。あ、早起きして学校に来るのは構わないわ。ついでに花の水やりもお願いね」


 そう言って、道子先生は折り紙を没収した。


 ブーイングの嵐をピシャリと跳ねのけられた生徒たちは、いつも通りの行動に出た。


 勇太も今日は折ることを諦めて、皆がグラウンドでガンバコをするというから遊んで帰った。

 明日、鶴を折ろう。鶴を折って、千羽さんの怪我が早く治るといいな。




 次の日、雨が降った。早く出たけれど、雨のせいでいつもと同じ時間に学校に着いた。


 クラスには女子が数人いて、鶴を折ろうとしていた。


「相馬君おはよー」

「おはよう。鶴、折り方知ってるの?」

「昨日ネットで勉強してきたから」


 固まっていた女子の内の一人が、横ピースで応える。自信があるみたいだ。


「僕も教わっていい?」

「いいよいいよ。椅子使いなよ」


 勇太はランドセルを席に置いてから、女子が集まる教室の真ん中に向かう。そこで、折り紙を持っていないことに気がついた。テーブルから青い折り紙を一枚だけ持って戻った。


「準備はいいかね?」


 ノリノリの女子に調子を合わせた他の女子や、勇太も頷く。


 クラスメイトの入院から始まった千羽鶴を折るというイベントを、少女たちは楽しんでいた。


 折り方を知っている女子が、ネットで見ただけの折り方を思い出しながら、赤い紙に折り目をつける。


 ノリノリ女子は机に置かれた赤い正方形の折り紙をひっくり返した。

 最初は二度、三角に折る。

 そしてそれを垂直に立ててから、内側を押し出すようにして畳む。


「次はね……えーっと……」


 そこまでは覚えていたが、そこからの折り順を忘れてしまっていた。適当に折っても鶴には辿り着けずに、同じ箇所を何度も繰り返していた。


「ちょっとちょっと、忘れたの?」

「いやー、こんな感じだったんだけどなー……」


 他の女子も折り方を知らないが、頼りにしていた女子も心もとない。


 勇太は危うげな声を出しながら、手つきだけはしっかりとした手順で紙を折った。


 畳むと、元の形の四分の一になった正方形が現れる。下から一枚をめくり上げ、上に持ち上げながら、左右の腕をしまいこんでひし形を作る。

 両側行う。


「あ、相馬君わかるの?」


 期待に満ちた声で、女子の一人が声をかけた。が、昨晩ネットで調べながら折った道筋を思い出していた勇太は、その声に気づけなかった。


 ひたすら紙を折る。


 首と尻尾がわかるように丁寧に折り目をつけて、腹の部分に空気を吹き込んで、勇太は最初の鶴を完成させた。


 尾っぽは流麗な輪郭を浮き出し、胴体は焼き立てパンのようにふくらみ、頭は気高い狼の如く前方を孤高に見つめる。


 千羽鶴らしい穏やかさはないけれど、恰好よくできた。自信作だ。

 勇太が自作にうっとりしていると、強い苛立ちを含んだ咳払いが聞こえた。


「あ……」


 気づいたときには、女子のグループの雰囲気は刺々しいものとなっていた。


「知ってたんだ。折り方」


 ノリノリだった女子が、勇太に対して敵意を向けた。


 朝のクラスルームに近い時間になっていたこともあり、クラスにはほとんどのクラスメイトが集結していた。


 全員が、教室の真ん中で起こった事件に注意を向けていた。


 勇太はそれに気づき、愛想笑いで切り抜けようとする。小学二年生にしては空気の機微がわかる少年だった。


「最後、最後だけ知ってた。最初の部分を覚えてなかったから、教えてもらって助かり、ました」

「……」


 敵意が謝罪の一言で消え去ることもなく、彼女は勇太を睨みつづけていた。


「どうしたどうした」

「う、うん。実は……」


 声が大きい取締役の男子が、輪の中にいた女子の一人に事情を聞く。ふむふむと訳知り顔に頷いた取締役は、「あー」と、修羅場とは似つかわない楽し気な声を発した。


 ノリノリ女子が振り向いて、取締役にも視線(ガン)を飛ばす。


「何よ。何が、あー、よ」

「いやいや。俺はわかっちまったからな。相馬が鶴を折れたのは、千羽のことが好きだからだろ」

「は?」


 二人の会話に、勇太の素っ頓狂な声が混じる。

 なに言って、と彼が差し込む前に、クラスに張りつめていた緊張感のベクトルが急旋回した。


「千羽目当てとかメンクイだな」

「相馬君、千鶴が好きとかメンクイだー」


 勇太の意見なんて尋ねずに、クラスの見解は収束していく。

 マズイと思ったころには、すべてが終わっていた。

 取締役は得意げな顔になって言う。


「こりゃあ、千羽鶴は相馬が作るしかねえな。大好きな千羽のためだもんなあ」


 男子は「サンセー」だのなんだのと提案に便乗した。


 男子なんてそんなもんである。

 千羽鶴というイベントも、話を聞いた場では楽しそうだと思っても、いざやろうとなると面倒くさい。 繊細に鶴を折ったら時間がかかるし、ぞんざいな鶴は見た目が悪くてもう一羽を作ろうとはならない。


 そして、それは女子も同じであった。


「それならしょうがないわね。相馬君が千鶴のために折るラブレターを邪魔できないもんね」


 ノリノリだった女子たちも作りかけの千羽鶴を机に放り投げた。

 彼女たちが楽しんでいたのはイベントだった。だから、飽きてしまえばやめるのだ。


 折らなくていい口実も見つかったから。


 勇太の内側に芽生えた感情は、鶴の青よりももっと冷たいものだった。それを伝えようとするとき、始業のチャイムが鳴り響き、道子先生が入ってきた。


「はい。席についてー。出来上がった鶴はテーブルの箱にしまって、作りかけは破れないようにお道具箱にしまってね」


 男子らは何事もなかったと座り、女子らは折る気のない紙屑をゴミ箱に捨てた。

 勇太は自信作をどうしようか迷った挙句、テーブルの箱に入れた。

 ヒューヒュー、と教室のどこかから野次が飛んだ。


 とても恥ずかしかった。同時に、とても胸が冷たく、痛くなった。でも、勇太にはそれがどうしてなのかわからなかった。


「はいはい。じゃあ日直さん、号令」






 折り紙に触れる時間は、休み時間だけ。


 五分休みには次の授業の準備がある。使えるのは、二十分休みと昼休み。けれど、勇太に真面目に折る気はなかった。


 千羽さんはよく笑う。けれど、好きな人じゃない。難しい言葉でいうなら想い人じゃない。向こうも、僕を好きだというわけではないと思う。両想いどころか、片想いですらない。普通の、友達だ。それ以上になる気なんてない。


 だから、勇太が休み時間に千羽鶴を折るのは、好感度のためじゃなかった。


 勇太以外には誰も触らないテーブルの上の正方形の折り紙。数枚ほど減らしても、減った感触がしない。


 休み時間には一羽。昼休みは係の仕事があって折れなかった。

 勇太は今日、二羽しか折れなかった。


 誰もいなくなった放課後の教室で数える。

 テーブルの箱の中には、二羽の鶴しかいなかった。


 このままでは千羽鶴は完成しない。

 それが嫌だった。


 胸に疼く冷たい感情が、大きくなるのを感じた。

 このままでは、このままでは――。


 千羽さんとの会話を思い出す。


「荷物持つの手伝ってくれてありがとう。ユウタ君は優しいね」

「……勇太だから。優しいの優じゃなくて、勇気の勇」

「わかってるよ。それでも、ユウタ君は優しいんだよ」


 思い出の中の千羽さんはいつも笑っていた。



 雨の中、帰った。そして次の日、学校へ行った。金曜日まで繰り返した。



 その間、誰も千羽鶴を手伝おうとはしなかった。

 それどころか、僕に話しかける人までいなくなった。

 男子は終わったイベントだと折り紙など見向きもせず、女子は真実のないうわさ話に僕を混ぜる。


 どうしてこうなったんだろう。

 優しさの象徴であるはずの千羽鶴づくりだったのに。


「さようなら」


 三々五々に、二年一組の生徒が教室から駆け出す。金曜日の放課後は土曜日と大差ない。

 森閑とする教室に残ったのは勇太だけだった。昼休みに折りかけだった鶴を、先生が教室から出て行ってから完成させた。


 テーブルの箱に入った鶴を数える。

 合わせて七つ。


 週の初めは一日に二羽以上折れている計算だった。けれど作った内の二つは捨ててしまった。それが鶴には見えなかったからだ。


 教室のどこかで噂をされながら作った鶴は、力が入り過ぎて縒れたり、破けてしまった。

 箱の中の鶴たちも不揃いだった。羽の長さが均一でなかったり、胴体がペシャンコになっている。


 それでも、たくさんの鶴が必要だった。そうじゃないと――。


 鉛筆を使って箱の中で無残に転がっている鶴の胴体に穴を開けた。その穴に紐を通した。

 七つの青い鶴が連なった見せかけの千羽鶴。

 筆箱から定規を取り出して、千羽鶴を計った。


 十五センチ定規一本分。


「少ない」


 思わず、声に出してしまった。


 これは相手の健康を気遣う優しいモノのはずなのに、とても悲しいものに見えた。


 そうだ、悲しいんだ。


 胸の内で青く冷たい感情が何だったのか、勇太は気づいた。


 一週間、クラスメイトにからかわれながらも千羽鶴を折っていたのは、これを見る千羽さんに悲しい想いをさせたくなかったからだ。


 クラスメイトが一人一個作っても、二十個はあるはずなのに、七個。

 たった十五センチしかない一色の千羽鶴を見せて、入院している千羽さんが笑わないのが嫌だった。


 悲しみの象徴に心が折れかける。折り紙よりも柔い心だと、笑おうとした勇太の目からは涙がこぼれていた。


 廊下を歩く足音が聞こえた。

 慌てて目元を拭った。

 何度がゴシゴシと擦った後に、僕がいる教室に入ってきたのは担任の道子先生だった。


「あらら、どうしたの? 忘れ物?」

「いえ」


 道子先生は、勇太が咄嗟に後ろ手に隠したものが、千羽鶴だとわかった。


「鶴、折ってくれてるんだ。偉いね。きっと千鶴ちゃんも喜ぶよ」


 柔和な微笑みを浮かべる先生。


 勇太は後ろ手に掴んだ真っ青な千羽鶴を、


「こんなもの、いらないよ」


 握りつぶした。


「これじゃあ、悲しくなるだけだもん」


 勇太は必死に唇を噛んで涙を出さないようにしていたが、肩が震えていた。

 先生は傷つけないように頭を撫でた。優しさを追った少年の頭を。


「千羽鶴は、千鶴ちゃんにあげない?」

「これならあげないほうがいい」

「じゃあ、どれならあげられる?」


 勇太が最初に想い浮かべたのは、大きくて綺麗な、天の川のような千羽鶴だった。それは、千羽鶴の話を道子先生から聞いたときに思い浮かべたものだった。


 入院していると部屋は白いしご飯は美味しくないし何より早く寝ないといけないらしい。夜の面白いテレビも見られないなら、せめてキレイな星空を見せてあげられたらと思った。


 けれど、それを作ることはできない。


 握りつぶした千羽鶴を見る。一つだけが原型を保っていた。


 最初に作った、自信作だった。


 不出来な七つよりも、不純物のない一心で折り上げたこれが千羽鶴に望んだ感情に近い形だった。


「これ」


 先生は頷いて、紐から自信作だけを抜き取った。


「どうするの?」


 少年の問いかけに、先生はやおら振り向いて、鶴の羽を持って飛行させた。


「鶴さんと一緒にドライブだー!」


 早く帰りなさい、と先生は甘言を残して教室から足早に出て行った。

 僕は一週間の成果をゴミ箱に捨てた。心が軽くなってしまった気がした。



――――――



 週明けのクラスルームで、道子先生はテレビを用意していた。

 僕が登校すると、教卓がある場所にテレビが持ち込まれていた。なんだろうと思いながら、鶴を一羽折った。


 折ったところで、もう千羽鶴は完成しないし、させようとも思っていなかった。

 朝の始業時間まで鶴を折って時間を潰した。


 いつもはチャイムと同時に教室の扉を開ける道子先生が、いつもより二分も早く扉を開けた。


「朝はやることがあるから、少しだけ早く始めるよ。席について」


 ブーイングも素知らぬ顔で、道子先生はテレビと携帯を繋げていた。

 何をするのか、とクラスの生徒たちは担任を見守っていた。

 やがて、道子先生はテレビに映った携帯の画面を操作した後、教室側に向き直った。


「おはよう。今日の号令はいいわ。それより、ビデオがあります」

「ビデオー?」

「そう。入院している千鶴ちゃんのビデオよ」


 入院中のクラスメイトの名前が出て、クラスがざわめく。


 千羽さんが怪我をした一週間前とは違うざわめき。そのときに僕の名前はなかった。今は、そこかしこで僕と千羽鶴という単語がボコボコと沸騰する泡のように出てくる。


「はいはい、静かに。じゃあビデオを再生するからね」





 テレビ画面は病室へのノックから始まった。

 ビデオというのは、携帯で撮影された動画のようだった。


『どうぞ……』


 と、くぐもった声がした。かろうじて人とわかる程度で、枯れ葉を擦り合わせるようなムシャクシャする声だった。


「誰だ? 千羽じゃないのか?」

「千鶴ちゃんじゃないよね。おばあちゃんかな?」


 ニチアサの悪役が発するようなダミ声に、クラス中が訝しむ。


『失礼するわね、千鶴ちゃん』


 開けた扉の先には、ベッドに寝ながら両足を吊るしたクラスメイトの千羽千鶴がいた。

クラスのざわめきが止まった。


 彼女の姿を一言で表すならば、「いたましい」。


 細い足は豚が詰め込まれているのかってぐらいに何重にも包帯が巻かれて、しかも動かせないように厳重な固定をされていた。天上から吊るされた両足は、首を斬られた犯罪者の体みたいだった。


 誰もがクラスメイトの悲惨な姿に息を呑んでいた。


『先生……』


 嬉しそうに千羽は口角を上げた。しかし呪詛でも呟きそうなダミ声のせいで、それが嬉しかったからなのかはわからなかった。


 画面の中に、彼らが知っている千羽千鶴はいなかった。


 怪我を負って瞳から光を失い心から笑顔が消えた小学二年生が横たわっているだけだった。


 カメラが千羽に近寄る。道子先生がベッドの横の椅子に座った。


『お母さんは?』

『ママは、着替えを取りに。何か、ご用事でしたか?』


 千羽の表情は硬い。口ぶりが見知ったものなせいで、生じたギャップと違和感が目を背けたくなる。


『一人は心細い?』

『はい。クラスが、恋しいです』

『そんな千鶴ちゃんに、じゃーん。クラスからのプレゼントの千羽鶴です!』


 画面から発される明るい声に、クラスの空気が凍てつく。


『……本当ですか』


 嘘だ。


 クラスの全員が思った。ノリノリだった女子も、取締役男子も、勇太も。


 投げ出した千羽鶴は、完成していない。


 あるのはたった数個の折り鶴だけ。


 それさえもほとんどが焼却炉で焼かれた後だ。


 勇太がずっと感じていた青く冷たい感情――千羽が悲しむということに、クラスの子供たちも気づいた。


 誰もが顔をあげることができなかった。


『ウソ』

『……そうですか』


 ダミ声からはどんな感情も読み取れなかった。


『でもね、はいこれ。千鶴ちゃんに』


 クラスの面々が顔を上げる。道子先生が何をしたのか、わからなかったから。

 だって、あげるものなんて何もないのに。


 画面には驚く千羽の顔だけが写されている。


 皆がもしかして千羽鶴を完成させたのか、と勇太を見るが、勇太は首を振って応答した。


『これって……』


 フェードインしてきたのは、一羽の青い鶴だった。


 尾っぽは流麗な輪郭を浮き出し、胴体は焼き立てパンのようにふくらみ、頭は気高い狼の如く前方を孤高に見つめる。


 勇太の自信作だった。


『まだ一羽だけれど、鶴よ。千羽鶴から自信作の一つだけを持ってきたの。残りは教室にあるわ』


 病室でカチンカチンと金属がこすれ合う音がした。千羽の足が揺れて金具がぶつかり合う音だった。


『嬉しい、です……嬉しいです。とっても!』


 上気した声は音割れしていた。それでも、それが千羽の本心からの言葉であることは、柔らかく歪んだ笑顔が証明していた。


 受け取った千羽鶴を大事そうに胸に抱く千羽。


『私が怪我して、一週間も学校に行かなかったから、皆、私のこと忘れちゃってるんじゃないかって……でも、鶴、なんて大変なのに、折ってくれて』


 千羽は窓を向いて涙を拭ってから、携帯のカメラに目線を合わせた。


『皆、ありがとう! 私、絶対元気になるからね!』



    ――――――



 映像はここまでだった。次の動画が自動再生されて慌てだす道子先生だったけれど、揶揄する言葉もなく、静まったままだった。


「そんな訳で、千鶴ちゃんに会ってきたわ。私が言いたいのは、自転車に乗りながら笑ったりすると、怪我の元になるから注意しなさいってことよ。――それとまあ、一つの鶴だと一人分の想いしか伝わらないけれど、たくさんの鶴があれば、それだけ千鶴ちゃんも早く治るかもね。じゃあ鐘も鳴ったから授業始めるわよ……と、言いたいところだけれど、テレビを戻してくるから十分だけ自習ね」


 道子先生は役目を終えたテレビを押しながら廊下に出て行った。


 先生がいなくなってから、誰も音を立てることができなかった。

 微かな物音ですら凍った空間をヒビ割って、胸中に湧きあがった感情が暴れだしそうだった。


 持て余した感情をどうすればいいのかわからなかった。


 勇太以外は。


「あのさあ」


 教室前方の窓側。陽の光が眩しいくらいに射し込む上に、教卓の目の前はサボることのできないハズレの席。しかし、そこからなら教室全体に声を届けることができた。


 立ち上がった勇太。


 椅子のがなり立てた音が、怯えたクラスメイトたちの視線を集める。


 先生のいない空間で、勇太は子供内ヒエラルキーのトップに躍り出ていた。


 勇太だけが真面目に鶴を折っていた。面倒くさがって押し付けることもサボることもせずに。


 完成しない千羽鶴が、千羽を悲しませると知っていたから。


 だからこそ、声を出せた。


「提案なんだけど、千羽鶴を作ってみない?」


 優しさの象徴の再建を。


「千羽鶴を作れば千羽さんも元気になるってわかったんだし、無駄じゃないから。だからもう一度、千羽鶴、作ってみない?」


 遊びに誘うように気軽に勇太は声をかけた。

 勇太は機微に聡い子だった。


 千羽さんはアイドルだ。そんな子が鶴を折るだけで元気になって笑ってくれるなら、皆、やりたいに違いない。


 けれど、勇太に押し付けた手前、クラスメイトたちは素直に賛成ができない。


 僕が皆を許して、折れないといけない。

 そうしないと、折り紙が折られないから。


 いの一番に取締役が動いた。


「あー、でも、相馬は千羽が好きなんだろ?」


 その確認に、勇太は強く首を振った。


「そもそも誤解だから。千羽さんは普通に友達だから。だから、千羽鶴を折りたい。男女の垣根なんか関係なく」


 一週間前に言いたかったことが言えて、ちょっとだけスッキリした。


「そうか、じゃあ先週のは俺の勘違いだったんだな。からかったりして、ごめん。そういうことなら俺も、千羽鶴作業手伝うよ」


 そういって、取締役はテーブルから青い紙を取った。


「じゃあ俺も」

「しゃーねーな。俺が千羽さんにいいところ見せるか」

「何、お前千羽のこと好きなの?」


 和らいだ空気に便乗して、次々に青い紙が減っていく。


「私もじゃあ手伝おうかな。千鶴、元気なかったし」

「あんなに怪我してたなんて可哀そうだよね」


 赤い紙も減っていく。一人が一枚ずつ紙を取って自分の机に戻った。


 けれど、誰も動かない。


 誰も、鶴の折り方を知らなかった。

 この一週間で、正しく鶴を折ったのは勇太だけだったから。


「……ねえ、相馬君」


 ノリノリ女子が、尖っていた気勢を引っ込めて、小さな声で「ゴメン」と呟いてから、目線を向けた。


「……鶴の折り方、教えてくれない?」






「千羽千鶴、ただいま復帰しました!」


 翌週明けのホームルーム。

 動画ではいたましい姿だった千羽が、完治した姿で教室に姿を現した。


「おかえり!」

「おかえり千鶴~!」

「やっぱ千羽がいないとな」


 クラスメイトに温かい歓待に、どうもどうもと目元を緩めながら挨拶する。千羽を教壇に控えたまま、道子先生はセルフドラムロールを始めた。


「デュルルルル、じゃん! それではこれより、束帯式をはじめまーす!」


 いえー、と盛り上がる二年一組の面々。

 道子先生は教壇に、とっても大きな箱を置いた。とっても大きい箱だったが、置いても大きな音は鳴らなかった。


 なんせ、中身は軽い折り紙しか入っていないのだから。


「じゃあ、糸を通していきます! はい、ひとーつ、ふたーつ」


 糸に連綿と折り鶴が通されていく。

 青。次に、赤。そしてまた青。

 交互にクラス作の鶴が通される。


 クラスメイトが休み時間もずっと折り続けた結果、勇太よりも手先が器用な子はたくさんいた。勇太も負けじと早く折ろうとしたが、教えを請うクラスメイトに見えないと咎められて多くは折れなかった。


 それでも、先週よりもたくさんの鶴が集まった。


 糸を滑り落ちて積み重なる鶴は、クラスメイトそれぞれの特色が出ているように千差万別。

そしてその全てが、他人を気遣った優しさの象徴。


「よし、じゃあ次が最後ね」

「はい、これです」


 千羽が最後の鶴を先生に手渡す。

 それは、病室で先生が千羽に手渡したものだった。


 相馬勇太の自信作。


 千羽鶴の一番上で、青い鶴が堂々と胸を張っている。


「二年一組の千羽鶴、完成!」


 道子先生が一本の糸を、掲げる。


「おおー!」


 掲げられた千羽鶴は、とてもとても長かった。


 十五センチ定規では計り切れない千羽鶴は、赤青の鶴が互い違いの向きを見ながらも、同じ糸でつながっている。


 バラバラの方向を見ていても、鶴同士の心が通い合っているようで、なんだか嬉しかった。


「千鶴ちゃん、そこに立って」


 道子先生が言うままに、千羽が教壇の前に立つ。先生は千羽の頭の横から千羽鶴を垂らした。


「おお……」


 クラスメイトは同時に感嘆のため息をついた。


 二年一組作の千羽鶴は、千羽千鶴の身長と全く同じ長さだった。


「おお、本当にピッタリだ。計算しておいてよかった」


 道子先生は空になったテーブルの上の折り紙容れを見ながら頷いた。


「じゃあ、この千羽鶴は、千羽千鶴子という名前にして、クラスに飾ろうと思います」

「きゃー、恥ずかしい! きゃはは」


 クラスメイトの一致団結した笑いが教室中に響いた。

 千羽千鶴子は、教卓傍の天井からぶら下げられ、僕からは子細までよく見える位置だ。


「久しぶり、ユウタ君」

「元気そうでよかった、千羽さん」


 隣に座った千羽さんは、いつも以上にニコニコとしているように見えた。

 僕は形ある優しさを見上げながら、顔を近づけた千羽さんの密かな言葉に、形のない優しさもあるのだと知った。


「やっぱりユウタ君は優しいね。鶴の自信作、ありがとう」

 




あとがきその1

この作品はカクヨムサイト内でファミ通文庫さまが行っていますコンテスト、『僕とキミの十五センチ』に投稿したものです。

もしも評価を頂けるのでしたら、下記のサイトにて評価をしていただければ幸いです


カクヨム版→https://kakuyomu.jp/works/1177354054883309833


あとがきその2

今の子供って折り紙するんですかね? 私の家には使われなかった折り紙が百枚以上残っています。昔からケチケチした性格だったため、数十枚に一枚しかない金紙と銀紙が使われずに貯蔵されていました。

当時はそれが宝クジの当たりのような感覚でしたが、大人になった今ではティッシュほどの価値も見出せなくなっていて……。そんなことが悲しくって、折り紙を題材にしました。

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