序 - 空の巻 -
「遅すぎる……!」
場所は九州、小倉にある、人の寄り付かない小さな島。
その北東の海辺にて、一人の女は苛立たし気に地を蹴っていた。
艶のあるサラサラとした髪を後ろで結い、キリとした目元に背筋の伸びた凜とした立ち姿は、一見すると 美青年に間違えられる。
その身に纏う研ぎ澄まされたオーラと、洗練された身のこなしは、正に威風堂々。
家父長制の背景があるこの時代、紺の袴を着込んだ彼女は、他の女達とは明らかに違っていた。
「なんなのよもう! ひょっとしてアイツ、決闘の約束をすっぽかすんじゃないでしょうね」
彼女は、この地で、一人の侍を待っていた。
決闘とは即ち、命を懸けた果し合いである。
そう、彼女もまた侍であった。
彼女が侍として生きようと決めたのは、わずか5歳の時である。
彼女の父親は、鐘捲流剣術の開祖、鐘捲自斎の門下生であった。
彼女が5つの誕生日を迎えた日、その父親に連れられて、剣術道場の門を初めて潜る。
この日が彼女の運命を決定づけた。
彼女は、道場で剣術の稽古をしていた伊藤一刀斎の剛剣に、魅入られたのである。
その日から彼女は、家で物干し竿として使っていた、彼女の身の丈ほどもある木の棒をがむしゃらに振るうようになる。
始めは、「女子が武士を目指すなど」と皆に叱られ、呆れられた。
しかし、彼女の、常人ならざる天賦の才は、その逆境をものともしなかった。
彼女の才はすぐに開花し、その腕は、一刀流、伊藤一刀斎に見込まれる。
彼女は、一刀斎に「武士としての名」を貰い、鐘捲自斎の弟子となる。その時から、生涯を刀に捧げることを決めた。
彼女の評判は、昇り龍の如き凄まじい勢いで天下に轟いていった。
小柄で細身の体格、女のような顔立ちの侍が、一回りも体格の大きい猛者共を次々となぎ倒していく。
ゆらりゆらりと、揺れる水面のように、敵の刀を受け流し、目にも止まらぬ速さで繰り出す斬撃は、まるで妖術のようであるとさえ噂された。
名のある剣豪を一人、また一人と切り伏せていき、いずれ何人もの大名が彼女を欲しがるようになった。
武士としての頂、『天下無双』に、あと少し手を伸ばせば届きうる。
現在の彼女は、齢若干22にして、それほどの境地にまで至っていた。
今日の果し合いも、今まで通り勝ち、生き残る。
彼女は、そんな思いでこの地に立っていた。
しかし、今日の果し合いは、いつもと少し勝手が違った。
約束の時間になったというのに、相手の男が一向に姿を現さないのである。
「……これもアイツの作戦の内なのかしら」
あえて、時間を置くことで、こちらの心を揺さぶる気なのだろうか、と彼女は思った。
しかし、試合の前に、試合場所の地の利を知っておくことは、有利に違いなかった。
当日の挙止進退に、また、附近の木立の有無とか、太陽の方向によって、どっちへ敵を立たせて迎えるかなど、尠すくなくもいきなり行って勝負にかかるよりは、作戦上にも、心の余裕にも、差があるはずだ。
彼女は、前もって罠でも仕掛けておこうかと、一瞬思ったが、止めた。
「兵法ではすべて、早速の機というものを尊ぶ。
こちらに備えあるも、敵が備えを破ろうと、備えの裏を掻いて来る場合は、かえって、こちらが出鼻の誤算を取ってしまうような例が往々にある。臨機に自由に、ありのままな心をもって臨むに如かず」
師である鐘捲自斎のその言葉を思い出していたからだ。
「フン、まあいいわ。これでゆっくり集中できる」
彼女は、背中に差していた刀を抜いた。
腰ではなく、背中だ。
通常であれば、いざという時、咄嗟に抜けるよう、腰に帯刀するのが望ましい。
しかし、彼女の刀は、腰に帯刀するには、あまりに長すぎた。
「この日のために、名のある研ぎ師に研いでもらって正解だった。刀が喜んでいるように見えるわ」
その刀は、晃々と百年の冴えを改めて、淵の水かとも、深くて青黒い鉄肌から――燦として白い光を跳ね返した。
研ぐ前に、痣のようにあった、うすい斑紋も消えているし、血あぶらにかくれていた錵も、朧夜のようにぼうっと美しく現れていた。
「あなたとここまでこれて良かった」
彼女は、幼少の頃からの友である、その刀に飽かず見入ってしまった。
下関の波打つ海は、湧きあがる雲の峰とも坐ながらに対い合っていた。
――その雲の峰の影も、下関の海の色も、剣の中に溶けていたのだ。
『この身と剣は天地と一つ』
彼女は剣に反射する自分の顔を眺めると、心と体が切り離されたような感覚に陥った。
自分が自分であって、自分でない感覚。
刀が自分の体の一部となるようでいて、さらに自然に溶け合っていくような感覚。
こういった、一種のトランス状態に入れる時こそ、最も鋭い剣が振るえることを体が知っていた。
今日はすこぶる調子がいい。
彼女は波風に当たりながら、長く美しい刀を空に掲げた。
刃長3尺余、子供の身長ほどはあろうかというその長物は、野太刀「備前長船長光」
――通称「物干し竿」である。
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「しまった。寝坊した」
潮は上げている旺だった。
海峡の潮路は、激流のように迅い。
赤間ヶ関の岸近く、一人の侍を乗せた小舟は、真っ白なしぶきをかぶっていた。
「ぶはっ、しょっぺ!」
舟の中ほどに、膝広く坐っていた侍は、そのしぶきをもろに食らった。
彼は、果し合いに向かっていた。
しかし約束の時間であった辰の刻は、とうに過ぎている。
敢えて遅刻する作戦などでは無かった。
彼が遅れた理由は単純明快、寝すごしたのである。
「まあいいや、焦ったところで舟の速さは変わらん。なるようになれだ」
そう言って彼は、舟の中、仰向けに寝そべった。
仰ぎ見た空は深く碧い。
長門の山に白い雲が、旗のように流れているほか、雲の影も無かった。
「あー……波の音と風が心地いい」
命を懸けた果し合いの直前だというのに、彼の心は一点の淀みもなく、その碧い空のように、広く澄みわたっていた。
彼もまた、自然体であることが、剣を剣たらしめると知っていたのだ。
「む?……あ、しまった忘れた」
何を忘れたのか、あろうことか、この男は刀を忘れたのである。
彼は、昨夜、泊まっていた宿に、金と刀を置いてきたことに今更ながら気づいた。
おそらく、今頃は金も盗まれ、刀は商人に売られていることだろう。
「ま、いいか」
だというのに、この男が狼狽することはなかった。
あってもいいけど、無くてもいい。
この男にとって、刀とはそういう存在であった。
無心。
戦乱の世、侍の唯一の拠り所であるはずの刀に、彼だけは欠片も執着しなかった。
彼の生涯は、紛れもなく剣と共にあり、彼は剣を振るうために生きてきた。
何人もの侍を斬って斬って斬りまくり、刀一本で何百もの屍を築き上げた。
――だが、彼にとっての剣術の極意、その果ての果てにあったのは『無刀』だったのだ。
刀が無い方が強い、という訳ではない。
『どっちでもいい』のだ。
剣に寄りかかりすぎれば、剣を持たない自分という存在の弱さに気づく。
それ自体は、心に生じた小さな波に過ぎない。
しかし、それが不安の方に揺れれば、その弱い自分を見まいとして、心を固く閉じてしまう。
不安はやすやすと恐怖に変わり、敵意へと育つ。
その逆も厄介だ。
剣を嫌い、自分に執着すればそれは盲目になる。
目も心も開いているようで閉じている。
分かれ道はいつも心のうちにある。
つまりだ、
――真ん中が一番良い。
彼が剣に生きる生涯の果てに、たどり着いたものはそれだった。
天に身を委ねる。
人の運命は天によって完全に決められている。
――しかし、それが故に自由なのだ。
例えば、海の水の流れる先はどこか。
流れの速さ、遅さ、水自身は決めていない。
風や外からの力、つまり自然に、完全に決められていて、ただ従っているのだ。
――それが故の、完全な自由。
彼は舟の真ん中に寝そべり、波に揺られながら、空を仰ぎ見る。
果し合いに臨む上で、今の状態が最高だと、彼もまた確信していた。
刀は無い。
しかし、不思議と負ける気がしない。
水を絶対に刀で斬ることができないように。
彼は、心の在処を真ん中に保ち続けること、天に身を委ね、自然と一つになることに、究極の理を見ていたのである。
「おい」
「へい、何ですかい?」
彼は舟を漕いでいた弟子の男に声をかけた
「これ貰っていいか?」
「何です?」
「舟底にあった櫂の割れ」
「そんな物、要りはしませんが、どうなさいますんで」
「戦うのさ」
「へ?」
彼は、櫂を手に取った。
片手に持って、眼から腕の線へ水平に通して見る。
幾分、水気をふくんでいるので、木の質は重く感じる。
櫂の片刃に削げが来て、そこから少し裂けているので、使わずに捨ててあった物らしい。
「ははっ、こりゃいいや。うん、振れるな」
彼は、櫂を振りながら上機嫌そうに言った。
それを見て、弟子の男は言った。
「師匠、何故そんなに楽しそうにしていられるのですかい?」
舟を漕いでいた弟子の男でさえ、心にかかって、幾度も幾度も赤間ヶ関の浜を――平家松のあたりを目じるしに――振り向いたことなのに、この人には、微塵も後ろ髪をひかれる風は見えない。
命のやりとりへ臨む者は、皆、こういう気持ちになるものだろうか。
否。弟子の男にとって、彼はあまりに冷た過ぎるようにさえ思えた。
「何でだろうな。俺も分からん」
「分からんってそりゃどういう……」
「多分、風が気持ちいいからじゃねえかな」
弟子は思った。
こういう話などしていて一体いいものだろうか。
舟を漕いでいる自分でさえ。目的の場所に進んで行くにつれ、肌に粟を生じ、気は昂まり、胸は動悸が激しくなってきたのだ。
自分が試合するのではなし――と思ってみても、どうにもならなかった。
今日の試合は、どっち道、死ぬか生きるかの戦である。
今乗せてゆく人を、帰りに乗せて帰れるかどうか――。乗せてもそれは、惨たる死骸であるかも知れないのだ。
弟子の彼には、分らなかった。一緒に乗っている男のあまりにも淡々とした姿が。
空をゆく一片の白雲。
水をゆく扁舟の上の人。
同じようにすら見えるのであった。
実際、侍の男は、この舟が目的地へ進むあいだ、何も考えることがなかった。
彼はかつて、退屈というものを知らずに生活して来たが、この日の、舟の中では、いささか退屈をおぼえた。
ふと、侍は舷から真っ蒼な海水の流紋に眼を落して見る。
深い、底知れず深い。
水は生きている。
無窮の生命を持っているかのようである。
しかし、一定の形を持たない。
一定の形に囚われているうちは、人間は無窮の生命は持ち得ない。
――真の生命の有無は、この形体を失ってからの後のことだと思う。
眼前の死も生も、そうした眼には、泡沫に似ていた。
――が、そういう超然らしい考えがふと頭をかすめるだけでも、体じゅうの毛穴は、意識なく、そそけ立っていた。
それは、ときどき、冷たい波しぶきに吹かれるからではない。
心は、生死を離脱したつもりでも、肉体は、予感する。筋肉が緊まる。
ふたつが合致しない。
心よりは、筋肉や毛穴が、それを忘れている時、彼の脳裡にも、水と雲の影しかなかった。
「うん、やっぱり……真ん中が一番いい」
侍は、手で刀を作り、――シュッと、体の中央から垂直に切る仕草をしながら言った。
「真ん中?」
弟子の男には、彼の言っていることが分からなかった。
この人は、自分の見えない場所に立っている。
ただ、未熟な自分にも一つだけわかることがある。
――この人こそが『天下無双』だ。
その確信だけはあった。
---
「ようやくきたわね……」
女は浜辺で、刀を抜いて待っていた。
大きな業刀のぬり鞘が陽をはね返し、銀狐の尾のように光っている。
既に陽は中点に近かった。
小舟に乗っていた男は、左右の袴の裾を高く掲げ、海水の中へ飛び降りた。
飛沫も上がらないほど、脛の隠れる辺りまで、どぼっと降りて、ざぶざぶざぶと地上へ向かってきた。
引っ提げている櫂の先端も、彼の蹴る白い水泡と共に、海水を切っている。
それを見て、浜辺で待っていた女は眉をひそめた。
「木刀……? いや舟の櫂?」
刀を持たず、櫂一本で降りてきた侍を見て、正気かと疑った。
ついでにへらへらと笑みを携えているのである。
果し合いに来た男とは到底思えなかった。
続いて発せられた言葉も、また、彼女の逆鱗に触れた。
「いやー、すまんすまん。うんこしてて遅れたわ」
「……」
女は、目の前の男を見て、わなわなと怒りが湧き始めた。
自分を誰だと思っている。
舐められている。
そう思わざるを得なかった。
「あんたが卑怯者って噂は本当だったみたいね。こんなに遅れてきて、挑発までしてくるなんて」
「挑発? 何のことだ?」
「ふざけないで! その櫂でチャンバラごっこでもするつもり?」
女は苛立たし気に言った。
自分はこの日のために、刀を研いで来たというのに、この男はそんなもので私に挑むつもりなのかと。
「あー刀か。まあ、これがあれば充分だろ」
「ッ!!」
その言葉を聞いて、堪忍袋の緒が切れた。
女は、頭をぽりぽり掻いている男に向かって、斬りかかった。
「――ッ!」
が、それを寸前で堪えた。
――否、斬りかかれなかった。
男の恰好はみすぼらしく、表情も言動も軽い。
しかし、立ち姿は緩みなく、その所作にもまるで隙が感じられなかったのだ。
今、先に斬りかかっていたら、斬られていたのは自分だ。
その光景が脳裏によぎり、女のこめかみに冷や汗が流れた。
「どうした? 始めないのか?」
「――どうやら、3年前とは別人みたいね」
女は改めて刀を構えた。
目の前の男は、隙だらけのようでいて隙が無い。
彼女はすぐに理解した。
櫂は、挑発でも自分を見くびっているわけでも無い。
彼もまた、彼の理に従っているのだと。
この男は、こんなにも巨躯であっただろうか。
対峙した時の圧力を感じてそう思った。
女と男は、初対面では無かった。
かつて、京にいたころ、吉岡の道場にて一度、出会っている。
女は、吉岡道場に客人として招き入れられていた。
門下生と稽古をしている最中、この男が乗り込んできたのだ。
まず初めて男と会った第一印象は、『野蛮人』だった。
ボサボサの頭に、ところどころ破れた袴。
獣のような殺気をむき出しにして、門を蹴破り、ズカズカと乗り込んできた若い男。
剣の名門、吉岡に身一つで道場破りとは、どこの田舎者が来たのかと思った。
男は、その場に道場の当主であった「吉岡清十郎」がいないことを確認すると、「雑魚に要は無い」と残し、嵐のように去っていった。
女はこの男に対し、「未熟だ」と感じた。
まるで子供のようだと。
この男に、かの剣豪、吉岡清十郎を斬れる道理が無い。
彼女の長年の剣士としての勘は、そう告げた。
しかし、その勘は、想像の斜め上を行く結果となって、外れることになる。
1年後、その噂は、すぐに日本中に響き渡った。
その男は、吉岡清十郎を始めとして、弟の吉岡伝七郎、さらにその門下生である侍70人全てを一人で相手にし、その全員を斬り伏せたというのだ。
1対70の試合。
それも相手は、あの剣の名門、吉岡道場の剣豪達だ。
『天下無双』
話を聞いた誰しも、その4文字が脳裏に過った。
女は自分の耳を疑った。
かつて、道場に無礼に乗り込んできた野蛮な男が、あの吉岡を一人で叩き潰したというのだ。
それもどうやら、かなり信憑性の高い噂らしい。
それからの女の決断は早かった。
――確かめたい。
天下に届く昇り龍と称えられていた自分と、その男はどちらが強いのか。
本当にあの未熟だった男が吉岡を切り伏せたのか。
天下無双とは一体何なのか。
男の器量を、確かめたい。
その一心で、果たし状を使いの者に届けさせた。
そうして今、二人の剣豪はこの地に立っている。
「あの吉岡の剣豪達を一人で斬ったというのは本当かしら?」
女は剣を構えながら尋ねた。
鋭い眼光は、男の眼を捉えて離さない。
「どうかな」
男は言った。
「事実だとしたら、是非複数の敵と斬り合うコツを教えてほしいものね」
女は男を試すような目で尋ねた。
「そうだな、一番良いのは多勢に無勢の戦いなどしないことだ。とっとと逃げるのが最善だろう」
女はそれを聞いて違和感を覚えた。
目の前の男が70人を斬り殺した人間には到底思えなかったからだ。
だが、続く言葉は少し違った。
「そうもいかないときは……色の違うところから崩す。
一番出来るものから斬る。すると、全体に動揺が広がり、集団が案外脆く崩れることがある。
どれだけの数がいようと、同時に斬りかかれるのはせいぜい2人か3人までだ。
多数がひとつの命をなしている集団など無い。
ひとりの体ですらが、腕の一人相撲だったり、脚が遅れたりする。
一度ばらした個がまたひとつになって動くのは簡単ではない」
それは、まるで実際に経験してきたような、酷く実感の篭もった言葉だった。
しかし、女の違和感は消えなかった。
いや、むしろもっと強い違和感が彼女を襲った。
――目の前の男が、あまりに自然体すぎるのだ。
肩を落とし、脱力しきっていて、それでいて、目は空のように澄んでいる。
こうして、刀を突きつけているというのに、まるでそれをおもちゃでも見るような目で眺めているのだ。
3年前に、この男を包んでいた獣のような殺気が、まるで感じられない。
背後の波、太陽までが彼と一つの風景になっているような錯覚に陥る。
自分も、剣を振る時は極力脱力を心がけるようにしている。
しかし、それとは比べ物にならないほど、この男は自然に溶け込んでいる。
――確かめたい!
彼女が持つ、彼に対する好奇心はより一層強くなった。
手に持つ、長刀が陽の光を跳ね返しきらりと輝いた。
「――そう……。一つだけ分かったことがあるわ」
女は刀を両手に持ちながら、目をつぶった。
「なんだ?」
男はそれを、興味深いものを見るような目で言った。
「――考えても仕方ないってことがね。あなたという人間を知るには、これしか無い。そうでしょ?」
女は、再び刀を構えた。
男もそれを見て理解した。
今度は本気だ、と。
男は、面白くて仕方ないという顔で言った。
「ハハッ、分かってるじゃねえか! そうだよ、いくら考えても答えは陽炎のようにぼうっと消えるもんだ。知りたいことはそいつが知ってる!」
男も笑いながら、持っていた櫂を構える。
そこで、また男の雰囲気が一変した。
――剣。
いや、持っているのは櫂で間違いない。
あれで、人を斬れるものだろうか。
しかし、この男が持つとそれは、剣のようにも見える。
いや、違う。
この男自身が剣なのだ。
まるで、その男の心が溢れだすように、櫂の先から、水滴が零れ落ちている。
その水滴が、砂浜にじわりと染みて流れていくのと同じように、女の心にも水が流れてきたようだった。
「――不思議ね。私は今日この日のために生まれてきた。そんな気がする」
女は言った。
「奇遇だな。俺もだ。これほどワクワクした試合は今まで無かった。こうして向き合うとあんたのことをもっと知りたいと思える」
男は言った。
女はその言葉を聞き、少し、動悸が速くなった。
違う形で出会っていれば、この男とは……
と、一瞬脳裏をかすめたが、それもすぐに波に浮かぶ泡のように消えた。
こうして、剣を交えられるこの形が最高なのだ、と確信があったからだ。
「――いざ」
じり、と女は地を踏みしめた。
「待てよ。名乗らないのか?」
男は言った。
お互いの名はとうに知っている。
どちらも、天下に轟く名。
嫌でも耳に入っている。
しかし、この場で名を名乗ることに意味がある気がした。
女は、一瞬、本名を名乗ろうかと思ったが、止める。
武士として生きてきた名を、名乗ろう。
今まで剣に捧げてきたこの生涯を、その名に誇ろう。
「――巌流、佐々木小次郎」
「――作州浪人、宮本武蔵」
渋染の鉢巻に、幾分つりあがった眦はすでに普段の彼のものではなかった。
射るという眼はまだ弱い。
武蔵の眼は吸引する。
湖のように深く、敵をして、自己の生気を危ぶませるほど吸引する。
射る眼は、巌流のものだった。
双眸の中を、虹が走っているように、殺気の光彩が燃えている、相手を射竦めんとしている。
眼は窓という。
思うに、ふたりの頭脳の生理的な形態が、そのまま巌流の眸であったであろう。また、武蔵の眸であったにちがいない。
こうして、二人の生命は今、完全な戦いの中に呼吸し合った。
元より武蔵も無念。
巌流も、無想。
戦いの場は、真空であった。
そして、二人の刃が交わろうとしていたその瞬間、事態は起こった。
――二人の足元から眩い光が、周囲一帯を見えなくするほどの、白い光が、カァーッと湧き出てきたのである。
「なに、なによこれ!?」
「む、眩しい」
二人の剣豪は、その光に包まれながら、フワリと宙に浮いた。
光は粒となって、二人の周囲をふわふわと舞い始めた。
「わわっ! なに!?」
「ぅお、ははっ! すげー浮いてる!」
そのまま大量の光の粒に包まれながら、二人は空へとぐんぐん上がっていく。
「ははははっ!! すげーすげー! 巌流、お前、妖術使いってのは本当だったんだな!」
「んなわけないでしょ! って笑ってる場合じゃないわよ! なんなのよこれえええええ!!!」
二人はそのまま上がっていき、ボフッと雲を突っ切った。
そこで、ようやくお互いの姿を再び視認する。
「巌流、お前、体が透けてるぞ」
「え?」
巌流は、自分の手のひらを見た。
――武蔵の言う通り、体が半透明に透けていた。
「って、ええええ!!?? な、ななんなのよこれは」
「はははっ、なんか知らんが、小次郎破れたり!」
巌流は、そのまま光の粒に包まれながら、徐々に体が薄くなっていく。
あり得ない体験。
自分は幻でも見ているのだろうかと思った。
しかし、不思議と嫌な気分ではない。
光に包まれるのは、心地いい。
「よく、分からないけど! 多分私は神に選ばれた! そんな気がする!」
武蔵も同じ気分だった。
この感覚、この光、この景色、全て幻ではない。
肌が、血が、神秘的な何かの力を感じ取っていた。
「って武蔵、あんたも透けてるわよ!」
「うおっ! ほんとだ!」
二人の体はみるみるうちに透明になっていった。
もう、お互いの体は光の粒に包まれていて見えない。
「――武蔵ッ――――!!」
薄れゆく意識の中で巌流が、武蔵に向かって何かを叫んだ。
しかし、武蔵はそれを聞き取れなかった。
ただ、光に心地よく包まれる中で、空から島を見下ろしていた。
「(なるほど……舟の形に似ているというのは本当だった)」
消えゆく最後に、武蔵の頭にあったのはそれだった。
その島は、海に浮かぶ小舟に似て見えることから「舟島」と名付けられた。
慶長17年、小倉藩領「舟島」
――この島は後の世に、巌流島と呼ばれることになる。