竜
血の赤い円のなかに、グレネが立ち、ライルが倒れている。グレネは誇らしさを胸に、血の円に足を踏み入れた。
グレネは膝をつき、裾を血で染め、倒れているライルに手を差し伸べる。そっとライルの頬に触れると、ライルは冷たくなっていく。
グレネの頬に涙が一筋光った。悲しかったのではない。触れた指先から包まれるような暖かさを感じたからだ。
生臭く、鉄臭く、湿った、熱い風がグレネの体を吹き抜けた。
驚いてあたりを見回すと、ロロがおらず、黒い泥がなく、墓石もない。地下墓地ではない。魔女のいる夢見の回廊でもない。
そこは血の赤い円が鮮やかに輝く真っ暗な空間だった。
闇の向こうに、巨大な気配がある。じっと見つめると、暗闇の中に黄色い目が2つ開いた。人間の背丈の何倍もあり、黒目が縦に割れた、巨大な爬虫類の目。
竜だ。
グレネがライルをかばおうとする。
だが、ライルは消えていた。
血の円にはグレネ一人しかいない。
竜は光りを贄とし渾沌に神の言葉を滅ぼさん。
竜は闇の中からグレネを見据えている。一族の悲願が求めた竜。父や兄が見れば歓喜するだろう。竜に願い白い神を殺せば、人は死を克服し、新しい可能性が開かれるのだから。
しかしグレネは一族や悲願のことよりも、ライルの姿を探した。それしか頭になかった。
「よっ」
後ろから声をかけられた。振り向くとライルが笑って立っていた。グレネは安堵の息をつく。
しかし、すぐに気がついた。目の前のライルにはちゃんと左腕がある。ボロボロだったはずの体の傷が全て消えていていて、重症だったライルが全快している。
ありえない。このライルは一体?
グレネの心臓がドクンと脈打った。
ああ、このライルは魔女に植え付けられた想いが見せているのだ。これは10年間、グレネが夢見続けてきたライルの姿だ。グレネが愛だと言っていたものの正体は、この幻を造り追いかけることだった。
腕を引きちぎられたとき、ライルは選べと言った。一族の悲願か、グレネの願いかを。白の神を殺すのか、ライルと一つになるのかを。
悲願はグレネの誇りでもある。それは貴族としての責務であり、民の安寧を願う心に偽りはない。
願いはグレネの全てだった。それが魔女に植え付けられたものだとしても、ライルと一つになることを夢見た。
悲願と願いはグレネの中で一つであり、相克している。ライルから愛を得れば、彼と一つになり、竜を呼び出し、悲願を成就できる。だがその時グレネはライルを殺さなければならない。
竜がグレネを見据えている。
グレネは選ばなければならない。
グレネはライルの笑顔を、触れたときの暖かさを思い出す。
ライルさんは私を想ってくれた。
私は想いを受け取ることができた。
ならば何を迷うことがあるだろう。
グレネは心が定まり、竜を見上げ、そして堂々と言う。
「竜は何でも壊すというなら、私は壊してほしい。私の中のライルさんのすべてを」
グレネの中のライルのすべて。それは魔女に植え付けられたライルへの想いであり、心臓にかけらた魔女の呪いであり、それらに関わる記憶を意味している。
グレネは不死でなくなり、いずれ必ず塵に帰る。ライルのことも、どうでもよくなってしまう。ライルを忘れたグレネは、もうグレネでなくなる。
それはとても怖いことだ。少し前のグレネなら、それが与えられた幻だと知っていてもしがみついただろう。
だけど、とグレネは思う。
カーフィンクは言っていた。グレネからライルが失われたら何も残らないと。
ロロは言っていた。100年かけてでもライルを落とすし、好きになると。
グレネの冷たい血が熱くなる。
絶対に負けるもんか。
私はもう操り人形じゃない。次はちゃんと自分でライルさんを好きになってみせる。何度失っても絶対に取り戻してやる。ロロや他の女になんて負けたくない。
竜が目を閉じた。世界が真っ暗になり、グレネは一瞬まばたきをした。すると、グレネの目の前に、竜の顎が開いていた。生臭く、鉄臭く、湿った、熱い風がグレネの体を吹き抜ける。
後ろで笑っているライルの幻が消えていく。
グレネの中から今まで集めたライルの情報が消えていく。
10年間追い続けてきたライルが消えていく。
グレネは笑った。自分がいま夜空を飛んでいるように思えた。
次の瞬間、竜の顎がグレネの体を粉々に噛み砕いた。グレネだったものの破片が闇に散り、見えなくなった。