肉のオブジェ
とある古い建物の地下室。壁は赤く塗られていて床には黒いタイルが敷き詰められている。十数体のマネキンが死体のように打ち捨てられているなか、ヴェロニク・ブランキーは携帯端末でロロがヘリコプターから飛び降りるのを見て、ひとり楽しそうに笑っていた。
「そんなにライル坊のことがいいのかねぇ」
そう呟くとヴェロニクはまた静かに笑った。ロロは後ろを振り返らない。いつも前をだけを見て走っていく。ヴェロニクはロロが気に入っていた。だからロロからの急な呼び出しにも二つ返事で応じた。
ヴェロニクがやってきたとき、この部屋にはロロとマネージャーのワタナベタ、そして目を布のようなもので封印された男たち数十人がいた。だが、いまここにはヴェロニクひとりしかいない。ロロは中継のヘリコプターに乗り込んでいったし、ワタナベタもついていった。そして目を封印された男たちは……。
ヴェロニクは部屋の隅を見やった。そこには蝋燭の灯が届いていない。光が届かない暗い壁の所々に、黄色い濁った光の玉が不規則に並んで弱々しく揺らめいていた。ヴェロニクが燭台の灯りを手に近づいていくと、濁った黄色い点が一斉にヴェロニクを睨んだ。燭台を掲げると、壁に、あの目を封印されていた男たちが磔にされている姿が浮かび上がった。
ひとりとして人の形をどとどめていない。ある者は手と足が隣の男の腹と一つされ、ある者は顔と顔が縫い付けられていた。どれも元人間の肉塊のオブジェと化していた。肉塊には無数の管がつっこまれていて、その管はオブジェの前に転がっている首につながっていた。その首の目には聖書ほどの黒い板が太い杭で打ち付けられている。
「なかなかのアイディアだね」
ベロニクは艶やかなエナメルのブーツの先で、床に転がっていた生首を小突く。目を封じられた男たち、つまりカーフィンクの部下たちからグレネに呪いが逆流した原因、そして青の商都が黒い泥に飲み込まれた原因がこの肉のオブジェだった。
これは呪術的な装置。目を封じられた男たちの体から人間らしい形を奪い、グレネの呪いを受け止めるという意志の力を奪う。体に苦痛と辱めを加え精神を負の感情で染め上げて呪いを増幅し、苦痛の元凶であるグレネに投げ返す。
これを思いついたのはロロだった。話を聞いたとき、ヴェロニクは唖然とした。よくもまあそんな非人道的なことを考え出せるものだと思った。しかしロロの澄み切った目の前に異を唱える気にならなかった。地底湖のように澄み切った目。地獄までつながっているような濁りのない透明な闇をたたえた目だった。上手く言った時のロロの無邪気なはしゃぎようを思い出してヴェロニクはまた笑った。
ふと、冷たい空気がヴェロニクの頬をなでた。見ると部屋に霧が立ち込めている。ゾクリと、いいようのない不気味さがヴェロニクの肌を粟立てた。
「さすが世界的なSMショップのオーナー。えげつないものを作ったもんだ」
いきなり、突然、ヴェロニクの目の前に男が背中を見せて立っていた。男は歳は40歳前後で黒髪を後ろになで上げて、白いシャツに黒のボウタイ、黒のギャルソンエプロンという、まさにバーのマスターを思わせる服装に、なぜか赤いハイヒールを履いたナイスミドルだった。ヴェロニクは男の出で立ちを認めると、喉まで出かかっていた悲鳴をのみこんで、ほうっと大きく息をつく。
「アモスさん、驚かせないで」
ヴェロニクはアモスの後頭部にドスンと拳を当てながら言った。ライルの祖父、アモス・ローはヴェロニクの方に向き直って、肉のオブジェを指差して言う。
「それはこっちのセリフだ。こいつのお陰で上は大騒ぎなんだからな」
「大騒ぎって、どうせお祭り騒ぎなんでしょ?」
ヴェロニクに言われてアモスはクククッと笑う。
「みんな楽しんでるな、あれは。実害と言えば子供が2,3人転んだのと、アベの工房が木っ端微塵になった程度だ」
「どうやってこの地下室のことが分かったのさ?」
「時計塔でダンカンが聴いている」
「あの出歯亀ジジイ……」
ヴェロニクはあのギョロギョロした目を思い出して、ダンカンの顔がそこにあるかのように床を蹴った。
「だからってアモスさんが直々に来ることもないんじゃないの?」
「後々まずいことになるかもしれないから一応見に来た」
「まずいことって?」
「結界に引きこもっている魔女が出てくるかもしれない」
「あれが出てくるのかい?」
魔女の名にヴェロニクの顔から笑みが消えた。
「兆しがある。最近、赤と金の瞳を持った黒猫をみなかったか?」
「そんな猫を見た覚えはないけど、それがどうしたのさ」
アモスの藪から棒な質問に、ヴェロニクは首を横に振った。
「魔女はこの世界の中での存在を奪われた。だけどまわりからそこに存在すると認められれば、それはそこに存在するようになる。」
アモスは独り言のように言った。アモスは滅多に真面目な顔にならない。ヴェロニクはただだまってそのアモスの顔を見ていた。