赤黒く染まった白衣をきた女(1)
「こ、ここで反省していなさい!」
「うおっ?!」
リグはライルをある教室に勢いよく放り込むと、ピシャリと扉を閉めて鍵を閉めた。
「痛い痛い痛い………」
ライルは真っ赤になった背中をさすり呻いた。リグはライルの体を引きずりながら、石畳の坂を登り、校門をくぐり、階段を3階分登りこの教室まできた。おかげでジャケットは途中でなくなり、シャツは擦り切れ、むき出しになった背中から血が滲んでいる。
扉の向こうから何かガチャガチャと音がする。ガキンと大きな鍵がかけられる音がして、続いてジャラジャラという鎖を何重にも巻く音と、ダンダンダンと板を釘で打ち付ける音までしてきた。
「…………俺を封印するつもりですか?」
ライルの首に冷や汗が伝う。「はは、まさかね」とライルは空元気で笑うと教室の中を見回した。教室には頭が入る程度の小さな窓が一つしかなく、晴れの日の午前中にもかかわらず薄暗い。机と椅子が10人分ほどあり、壁は窓がある以外は全て本棚だった。カビと埃の匂いが鼻をつく。ライルは扉に手をかけてみるが、ビクともしない。小ささな窓にはご丁寧に鉄格子がはまっている。まるで牢獄だ。
腕時計を見ると、ロロが痴漢に誘拐されて30分ほど経っている。ロロはあれからどうなったのか。グレネは自分に任せておけと言い、リグも首をつっこむなと言っていた。確かにライルが積極的に関わる理由は無い。だけど、それでいいのか?
何がおきているのか状況がまったくわからない。
この痴漢の騒動の原因はグレネにあるらしい。痴漢達は呪いの苦しみから逃れるために、その大元であるグレネを殺したいという。グレネにかけられた呪いは、彼女が生きることを望む限り、彼女に苦しみを与え続ける。それを終わらせるにはグレネを絶望させなければならない。
ならば、ライルがグレネを拒絶し絶望させれば、すべて解決するのか?だが「すべて」とは何を指すのか?ライルは自分が何に巻き込まれたのかすらよくわかっていない。何をすべきなのか自分を定めることができない。
「さてどうしたものか……」
ライルが近くの椅子に腰を下ろすと、鼻にカビと埃とは違った、微かな刺激臭を感じた。それはよく知った臭いで、久々に嗅いだ気がする。ニンニクの臭いだ。
ニンニクは悪魔払いのアベさんが買い占めたために、ここ数日市場から姿を消している。カビと埃の臭いしかしない部屋で、なぜニンニクの臭いがするのだろう。
ライルが臭いをたどり、教室の隅へ行くと、何かを柔らかいものを踏んづけた。すると「うぎゃ!」と足の下から悲鳴が上がった。ライルは慌てて、悲鳴が上がった場所を見るがそこには何もない。だがニンニクの臭いはその場所から臭ってきている。
ライルがゆっくり手を伸ばすと、何もない空間でふにゅんとした柔らかいものに触れた。「?」ライルはその透明な柔らかいものをモミモミと執拗に揉んでみる。これとよく似た感触をつい最近も経験した気がする。ライルはその正体を思い出そうとさらに感触を楽しむ。
「変態!!」
いきなりライルの左頬が、透明な何者かにひっぱたかれた。驚いてみると、何もなかった教室の隅に女の姿があった。女は柳眉を釣り上げライルに罵声を浴びせかける。
「あんたね!人が気持ちよく寝ていたのに何するのよ!!」
女は赤いニットの上に赤黒く染まった白衣を着ていて、長い黒髪が膝のあたりまで伸びていた。年は20代後半に見え、胸も尻も標準的な少し釣り目がちの美人だ。赤黒い白衣の袖から覗く白い手には、薬品でできたようなシミがいくつもあった。そして全身から強烈なニンニク臭を放っている。
ライルは女の姿に呆れて言った。
「アベさん………?こんなところで何やっているのさ…………?」
アベと呼ばれた女もひっぱたいた相手が顔見知りだとわかり目を丸くした。
「なんだ、ライルじゃない。あんたこそここで何やっているよ?」
「俺は先生にここで反省しろって閉じ込められたんだよ」
「じゃあ私と同じね。まったくあの子は私のオカンかってーのよ」
アベは椅子を引き寄せると、ドカと椅子に腰を下ろして足を組んだ。一つ一つの所作が合理的で無駄がなく、そして動くたびにニンニク臭が強くなる。濃紺のスカートから伸びる白い足が、薄暗い教室の中で眩しい。
アベは青の商都では名の知れた悪魔払いだ。共同墓地の地下に工房を構えていて、夜な夜な怪しい実験をしては周囲の住人から気味悪がられている。街の奇人変人三傑の一人だ。
最近は、街を騒がせている痴漢は悪魔のせいだと言って、街中のニンニクを買い占め魔除けを作っていたはずだ。二日前、アベの工房から漏れる臭いがひどいと自警団に苦情が入って、ジーガたちがその処理に向かっていたが、あの後もアベによる臭気公害は収まらなかった。街中のニンニクを煮詰めているのだから、周囲の住民は気の毒というほかない。
「リグさんと知り合いだったの?」
「悪友よ。
いっつも私に説教してくるから鬱陶しいんだけど。
昨日も魔除けを作っている臭いが近所迷惑を通り越して
公害になっているとか言ってきてね、
はいはいって聞き流してたら怒っちゃって、ここで反省しなさいだってさ」
まさかリグがこの変人に教育的指導を行うとは、ライルは想像すらしていなかった。
「仕方がないからここで寝ていたら、あんたが失礼にも踏んづけてくれたってわけ」
「失礼も何も、姿が見えないんじゃしょうがないだろ。何で姿を消していたのさ?」
「クセになっているだけよ」
普段どういう生活をしていれば、そんなクセが身につくというのか。放置プレイ変種なのだろうか。
ライルが言う。
「街中のニンニクを買い占めるなんて、いつもの酔狂にしてもやりすぎじゃないか?」
「だれが酔狂よ。大真面目よ私は。
あーあ、あとは小分けにするだけだったんだけどな」
アベは長い足をぶらぶらさせて口を尖らせる。
「なんで痴漢に魔除けなんだよ」
ライルがずっと不思議に思っていたことを聞くと、アベは「何言っているの?」と小馬鹿にした顔で盛大にため息をついた。
「あれが普通の人間ではないからにきまってるじゃない。あの痴漢は、10年前にこの街に現れた魔物と同じなの。魔物相手なら魔除けが必要になるのは当然でしょ」
「10年前の魔物って、魔女が来たときの?」
「そうよ。それ以外に何があるっていうのよ。って、そうか。あんたは覚えていないのか」
「………」
10年前、魔女は青の商都に現れた。ライルが妹の首を切り落としたのもその時だ。ライルはそのことを覚えていない。あの女に操られて妹を殺す人切り包丁と成り果てていからだ。アベは強張っているライルの顔を観察しながら話を続けた。
「10年前、魔女は無数の魔物を伴ってこの街に現れたわ。追い払うのに、大量の魔除けが必要だったのよ。量は今回の10倍はあったわね。あの時は街じゅうがパニックだったからいくら臭いを出しても誰も怒らなかったんだけどな。…………そうか………だったらパニックを自分で起こせばリグも怒らないんじゃないかしら!ね、どうっ?」
「どうもこうも、もっとダメだろ」
「えー、そうかなぁ」
アベは自分のナイスなアイディアを一蹴されて、また口を尖らせて長い足をぶらぶらとさせる。見た目は20代後半の一応美人なのだが、こういう仕草は子供っぽい。
「そんなことよりも、痴漢と10年前の魔物と同じって、どういうことなんだ?」
ライルは話を脱線させじとアベに詰め寄る。
「今回の痴漢も10年前の魔物も、同じ死者の呪いで動いているのよ」
「死者の呪い?」
「死者の情念を力の源にする呪い。追い払うには、その死者を供養しないといけないんだけど、10年前は魔女がその死者の女の子をずっと引きずっていたから手を出せなくてね。今回の痴漢も、あのとき魔女が引きずっていた女の子の呪いで動いているのは間違いないわ。…………って、どうしたの?」
アベはライルの顔が真っ青になっているのに気がついた。息が「ハッ、ハッ」と浅く短くなっている。アベが「大丈夫?」と声をかけても、ライルは返事ができなかった。
ライルの頭の中で、断片だった情報が急速に繋がり始めていた。
ロロを誘拐した痴漢はカーフィンクの元部下であること。
カーフィンクの部下はグレネの呪いを分散し、共有していること。
グレネの心臓は幼い時にかけられた魔女の呪いによって動いていること。
痴漢たちと10年前の魔女の魔物は、ひとりの死者の呪いで動いている。
その死者はと魔女が引きずっていた女の子の死体であること。
情報の断片たちが黒い触手を伸ばし、つながり、絡み合う。その中でポッカリと暗い可能性が開き、ライルは息を呑んだ。
まさか、グレネはすでに死んでいたのか?
ガンガンガンと教室の扉が強く叩かれた。
「ラ、ライル君、それにアベ、早くここから出て来なさい!」
声の主はリグだった。二人をこの牢獄のような教室に放り込んだ張本人が「出てきなさい!」とは一体何を言う。ライルとアベは呆れ顔でお互いを見た。
「先生が俺たちをここに閉じ込めているんでしょう!?」
ライルが言うとリグが扉の向こうで言葉に詰まる気配がしたが、リグもすぐに態勢を立て直して言った。
「い、今はそんなこと言っている場合じゃないのよ。街全体に避難指示が出ているの!」
「避難指示?」
ライルは首をひねった。地震が起きたわけでもないのに一体何から避難しろというのだ。
「ああ、これは少々まずい」
ライルの疑問に対する答えは扉の向こうのリグからではなく、アベからもたらされた。アベは大きな画面がついた携帯端末をみている。ライルも横から画面を覗き込むと、そこに映っていた映像に思わず「なんだこりゃ」と声を上げた。