歪む(3)
「グレネ、お前は死んでいないと言うんだな」
「そうです」
「生きてここにいると言うんだな?」
「ご覧の通り」
「ならば、お前からグレネ・コンラディンという幻想を取り上げたらどうなる?」
「?」
「グレネ・コンラディンとは有象無象の欲望が集まってできた幻想だ。お前という人間の本質とコンラディンとは何ら関係がない。もしいまのお前からコンラディンという幻想を取り除かれたらお前はどうなる?」
「そのとき私はただの一人の女になるでしょう」
「その一人の女は何を欲する?」
「何をと……いわれても……」
「お前は何を望む?」
「それは……」
「お前は何を愛する?何を目指す?何を憎む?お前がただ一人の女になるという時、そのときのお前のなかには何がある?」
「…………」
「お前にはなにもありはしない。お前は空っぽだ。お前があると言った意志も心も陽炎だ。もし生きている人間がすべてを奪われても、その痛みや苦しみを超え、また欲望に向かって歩きだす。しかしお前にはできない。なぜならお前は死者だからだ」
「私にも望むものはあります」
「ライル・ローか」
「そうです。彼を手に入れるのが私の望みです」
「ならば、お前からライル・ローが失われた時にはどうなる?」
「そんなことさせません。禁忌を犯してでも取り戻してみせます」
「お前なら実際そうするのだろう。しかし私はこう言ったのだ。お前からライル・ローが失われたときに、と」
「どういう意味でしょうか?」
「お前は考えたことはないか。自分がなぜライル・ローを求めているのか、その理由を」
「考える必要などありません。人を好きになることに理由などないでしょう」
「それが出会ったことも、見たこともない男でもか?」
「出会っていなくても、私はこの手帳で誰よりもあの人のことを知っています!」
グレネはバスバに持たせていたカバンから引ったくるようにして、魔女の皮の手帳を取り出した。魔女の皮を剥いでなめして作り望む相手のことをなんでも教えてくれるという魔具だ。だが、カーフィンクはすっと首を横に振った。
「それは順序が反対だ。お前がその体になってライル・ローのことを欲するようになってから、その手帳を使えるようになったんだ。お前以外にその手帳を使えるものはいないんだ」
「それでも私はずっとライルさんのことを……」
「それはいつからだ?」
「……10年前からです」
「そうだ。それまでお前はまだライル・ローの存在なんて知らないし、もちろん魔女の革の手帳も手にしていない。お前がライル・ローを欲し始めたのはお前の命が失われてからのことだ」
「一体それがなんだというのですか?いつからなんてそんなことどうでもいいことです。私が心からライルさんを愛していることに変わりありません!」
グレネにはカーフィンクの言葉が破滅の預言に聞こえた。だから必死に抵抗していた。この人ならざる体に宿った心にしがみつこうとしていた。カーフィンクもそのことはよくわかっている。これ以上語ることはグレネを追い詰めることになる。だからこそ、カーフィンクは言葉を続けた。
「お前のライル・ローを求める心は、魔女がその体に植え付けたものだ。お前の愛は幻想だ」
グレネの視界がぐにゃりと歪んだ。
グレネの眼前に破滅があった。ライルへの愛はグレネを人間につなぎとめている唯一の紐帯だ。これが霧散すればグレネは自分を人間につなぎとめられなくなる。人間でなくなるならグレネは何になるのか。ケモノか?バケモノか?いや、ケモノもバケモノも意志を持っている。だがグレネの場合はそれすら幻想だ。グレネにはすでに命すら無いのだから。
ならばなになるのか?ただの木偶人形だ。繰糸によって他人の思い通りに動かされ、不要になれば捨てられる道具になってしまう。
道具に人を愛することができるのか?
ライルへの愛を語る資格があるのか?
ライルと共にいることが許されるのか?
ライルを求めることが認められるのか?
そんなの認められる訳がない。許されるわけがない。
ー「そんなだからあなたは女じゃないのよ。ただの木偶なのよ」ー
歪んだ視界の中で、ロロの言葉が反響する。
木偶がライルを求めて言い訳がない。
私はライルを諦めなければならないのか。
ライルを忘れなければならない。
ライルさんが他の女のものになるのを、だまって見ていなければならない。
嫌だ!
そんなの嫌だ!絶対に嫌だ!
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ!!
作り物といわれた心のリミッターが全力で働き出す。グレネの中にあるあらゆるものが、自己が木偶人形になってしまうことを全力で否定する。
あの人を失なわないためならなんでもする。
すべてを差し出せというなら差し出そう。
地に這い足をなめよと言われたら喜んで舐めよう。
神様に情けを請えというならいくらでも請おう。
だが、グレネは愕然とする。
グレネの願いを聞いてくれる者などいないのだ。
あの皇都にいる白い神ですら決して自分の願いを叶えないではないか!
グレネの現実がぐにゃりと歪んだ。