悪夢の中の儀式
ライルはひんやりとした暗い空間の隅に立っていた。
強い香が鼻を刺激している。
竜臥香の匂いだ。
耳にはさっきから錆びた機械のような不協和音が低く響き、頭が芯が軋むように痛む。暗い空間の中には所々にロウソクが置かれており、暗闇の中のごくわずかな部分を照らし出している。
ロウソクが照らし出しているのは金で装飾が施された一脚の椅子と、そこに座っている白い服を着た銀髪で碧眼の美少女。それに横に立つ黒い服を着た大柄な女と、少女の前で跪く数十人の男たちだ。
ライルはロウソクの明かりが届かない暗闇に目を凝らした。そこには何も見えないが、何かがいるのを確かに感じる。暗闇の中から大勢の人間が椅子に座る少女を見ているのがわかる。
不意に闇の中の一部が動いたように見えた。その中で金と赤の宝石が光ったのかと思うと、一匹の黒猫の姿が浮かび上がってきた。その魔的な美しさを持った黒猫がライルのところに歩いてくる。
「ここは?」
ライルが普通に黒猫に話しかけると、黒猫は口を真っ赤な口を開けておかしそうに笑った。
「猫に質問するなんて、あなた頭は大丈夫?」
「こんなところで喋って笑う猫が普通であってたまるか」
それを聞いて黒猫がまたおかしそうに笑う。
「ここは、これは誰かさんの悪夢の中よ」
ライルは後ろのポケットから端末をとりだして時間を見た。画面には10年前の日付が表示されている。
「夢見の回廊か」
「あら、知っていたの?」
「だいぶ昔に作られた集団催眠結界。封印されたはずだけどな」
青の商都はずっと昔から商業で栄えてきた。富を奪いに来る外敵に対抗するための大掛かりな仕掛けや、建造物が至る所に残っている。夢見の回廊もそのような遺物の一つで、集団に対して精神干渉を行い、眠らせたり記憶を操作したり、場合によっては狂気に陥れることもできるという代物だ。
いまライルは何者かによって起動された夢見の回廊によって精神に干渉を受け、この薄気味悪いイメージの中に取り込まれたのだった。
ライルと黒猫が話していると、ロウソクで暗く照らし出されている男たちの影のいくつかが動き出した。
男の一人が椅子に座った少女の前に出て頭を低くしひざまずいて、透明な杯を頭の上に捧げ持った。すると椅子の横に控えていた黒い服の大柄の女が少女と男の横に立った。
その女の姿にライルは驚いた。女の顔に黒モザイクがかかっていたのだ。
時折モザイクの上に赤い稲妻のような光が走り、その度にライルの頭が軋むように痛んだ。ライルは痛みにたまらず、頭に手を当てて、黒モザイクの女と、少女と、杯を捧げ持つ男を見守った。
黒モザイクの女は銀色に光る細長い棒のような物を取り出した。そして棒を少女の胸の前で水平に持ったかと思うと、いきなりそれを少女の胸に突き刺した。
ライルは思わず声を出しそうになる。だが少女は顔色一つ変えず、わずかなうめき声すら漏らさなかった。杯を捧げ持つ男も、その後ろで控えている他の男たちも、ロウソクの灯が届かない暗闇にいる何者か達にも気配の乱れはない。
少しすると少女の胸に突き刺さっている銀色の細い棒の先端から黒い泥がポタリポタリと流れ出てきた。少女の前に跪く男が、捧げ持った杯で黒い泥を受け止める。そして杯が黒い泥で満たされると、男は顔を上げて杯をあおり中身を一気に飲み干した。
一人が杯を飲み干すと、次の男が同じように少女の前で跪き、杯を捧げ持って少女の胸から流れ出る黒い泥を飲み干した。それを何人と、何十人と繰り返していく。その間、胸に銀の棒を突き立てられた少女は、まるで人形のように表情も姿勢も何一つ変えない。
黒猫はライルの顔を見上げた。
「やけに落ち着いているのね」
「いいや。十分に混乱している。誰が俺にこれを見せているんだ?」
「知らないわよ」
「お前じゃないのか?」
「私はここに迷い込んだグレネとロロを出してやろうとしただけよ。あなたが来るなんて予想外だったわ」
ライルはしばらく黙って何かを考えた後、ふたたび黒猫に聞いた。
「あの女の子は誰か知っているのか?」
「ええ、知っているわ。なんとグレネ・コンラディンよ」
「ふむ……」
黒猫の返事を聞いてライルはまた黙った。黒猫はライルの反応が気にくわない。
「あんまり驚かないのね」
「面影があるからな」
黒猫は鼻をフンと鳴らした。
「あなた、つまらないわね」
「そりゃどうも。それで、あれは何をやっているんだ?」
「教えてあげない」
黒猫はそっぽを向いてしまった。ライルはため息をつくと、少女のほうへと歩き出した。
ライルがロウソクの灯が届く所まで来ても、少女も、黒いモザイクがかかった女も、跪いている男たちも、誰もライルに反応しない。ここは夢見の回廊によって誰かの悪夢が再現されているだけ、いわば映画の中のような世界だ。観客がスクリーンの前で何をしても、映画の中にいる役者達は決められた演技を繰り返すだけだ。
ライルは椅子に座るまだ幼いグレネを見た。人形のように白く滑らかな肌、大きな青い瞳、しっとりと輝く銀髪。もちろんあの巨乳はまだ影も形もないが、それでも幼いグレネ・コンラディンは度の過ぎた美少女だった。できるならお持ち帰りしたいと思う。
その美少女の胸には銀の棒が突き刺さっていて、その先端からは黒い泥がポタリポタリと落ちていっている。それでも幼いグレネの表情に苦悶などなかった。まったくなかった。
この世界はグレネの悪夢なのだろうか。
それとも他の誰かの悪夢なのだろうか。
ライルはグレネの前に跪いている男たちを見渡した。人数は100人ほどおり、一人ひとりが杯を手にしている。一人ひとりが精悍で理知的な顔つきをしており、全員が鍛え上げられた武官を思わせる。
ライルの目が一人の男の顔で止まった。見覚えがある。ヴェロニクのオフィスに押し入ってきた侵入者の一人だ。侵入者は目を黒い布のようなもので覆われていたが、間違いない。ライルはもしやと思い、他の男の顔も見ていく。すると予想通り、オフィスに侵入してきた他の2人もそこに跪いていた。
ライルは今度は幼いグレネの横に経っている黒のモザイクがかかった大柄な女を見た。女の顔にかかっているモザイクを見ると、耳に響く不協和音が大きくなり不快さが増す。この女の存在は、目の前で繰り広げられてる異様な光景の中にあっても、最も際立って異様だった。
「この大女が一体なんなのか、わかる?」
いつの間にか黒猫が足元に座っている。ライルは耳に響く不協和音に顔をしかめながら答えた。
「もしかして魔女……なのか?」
「あなた、本当につまらないわね」
黒猫は不満げだ。
「現在のグレネとロロもこいつを見たのか?」
「ええ、見たわよ」
ライルの頭はだんだん混乱してきていた。
目の前で行われている儀式は一体何なのか?
グレネと3人の侵入者達の関係は一体何なのか?
なぜ魔女がいるのか?
なぜ魔女の顔にモザイクがかかっているのか?
一体誰が夢見の回廊を動かして、ライルにこんな物を見せているのか?
そしてなにより、胸から黒い泥を流し続ける美少女、グレネ・コンラディンとは一体何者なのか……。
ライルが考えを巡らせていると誰かの視線を感じた。見ると椅子に座って胸に銀の管を刺されている幼いグレネがライルを見あげていた。ライルは慌てて周囲を見回した。この幼いグレネが一体誰を見ているのかを調べたのだ。だが誰もいない。幼いグレネはライルのことを見つめていたのだ。
ライルは信じられなかった。ここは現実ではなく誰かの記憶の中にある風景を映画のように再現しているだけだ。だからこの幼いグレネがライルのことを認識することはないはずだ。
それでも幼いグレネは、どこか嬉しそうな目でライルを見つめている。ライルも恐る恐る、その幼くて大きな瞳を見つめると、なんと、全く表情を変えなかったグレネがニコっと精いっぱい笑って見せた。
その笑顔は可憐で健気だった。だから、余計悲しく感じた。ライルは思わず幼いグレネに手を伸ばした。触れることはできない、相手はただの幻影だとわかっていても、そうしたかったのだ。
突然、黒モザイクで覆われた魔女が、全てを叩き割るのかと思うような悲鳴を上げた。ライルはたまらず両手で耳を塞ぐ。魔女にかかってたモザイクが急激に大きさを広げ、椅子に座る幼いグレネを、その前に跪く男たちを、そしてライルが見えている物全てを暗闇で一気に覆い尽くした。
頭を割らんばかりに響く魔女の絶叫と、激しい頭痛で意識がたたき割られそうになりながら、ライルは夢中でグレネに手を伸ばした。しかしその手が空を切る。
そしてグレネの笑顔がすべて黒く塗りつぶされたとき、錆びた金属音が爆発的に大きくなった。ライルは再び両手で耳を塞ぎ、両目を固くつむったが、容赦なく襲ってくる不快音に意識を保てなくなった。