黒いモザイク(4)
ライルたちがヴェロニクのオフィスで痴漢のターゲットを絞り込んでいた頃、グレネとロロは、黒猫の後について狭い石畳の路地を歩いていた。
周りの景色は相変わらず、狭い曇り空と白い壁ばかりだが、ほんの少し人の気配を感じる。黒猫の案内で、さっきの迷路からは脱出しつつあるようだった。しかし、なぜ黒猫がここの道を知っているのだろう。
「ここで待っていましょう」
黒猫はそう言って軒の小さな屋根に飛び乗り、丸くなった。
「何を待つのよ?」
黒猫は耳をピクリともさせず、ロロの質問を聞き流す。
「ったく」
ロロは黒猫を睨み、白い壁にもたれかかった。ふと見ると、グレネが辺りをきょろきょろと見ている。つられてロロもなんとなくあたりを見てみると、そこは今まで迷っていた路地とは別の場所だった。壁は白一色ではなく、建物も古い物、新しい物、レンガ造りの物、塗り壁のものと様々になっている。
「もしかして、出られたのかな」
ロロは路地の向かいにあった建物まで歩いていき、そっとドアを開けて中をのぞいた。中は真っ暗だったが、奥に何か気配がある。「あのー……」暗闇に向かって呼びかけてみるが返事は返ってこない。「誰かいませんか?」もう一度、さっきよりも大きな声で呼びかけると、暗闇の中で大きなものがズズズと動いたように感じた。
ロロが建物の中に入ろうとすると、いきなり目の前の暗闇が舞台の幕のように落ち、ロロの背丈より何倍も大きい爬虫類の黄色い目がギョロリとこちらを睨んだ。「ひっ」ロロは声にならない悲鳴を上げながら慌ててドアを閉め、再び開かないように全身でドアを押さえつけた。
「な、なんなのよ、あれ………」
黒猫が嗤った。
「あまりうろちょろすると、帰ってこれなくなるわよ」
忌忌しげに黒猫を睨むロロに、グレネが小声で話しかけた。
「出るどころか、もっとややこしいことになっているみたいです」
グレネはそう言って、自分の通信端末の画面をロロに向けた。ロロが見ると、そこには14時10分と表示されている。
「時間がまた戻っちゃっているわね」
「ここを見てください」
「日付がどうしたの?…………何これ、10年前?!」
ロロも胸の谷間から乱暴に自分の端末を取り出してみたが、そこに表示されている年月日もやはり10年前の日付だった。
「ちょっと、ここはどこなのよ!」
ロロは黒猫に怒鳴ったが、黒猫は気持ちよさそうに目をつむって丸まっている。
「ここは10年前の世界なんでしょうか?」
「そんな、SFじゃないんだから……」
ロロは笑い飛ばそうとしたが、その声は弱々しい。
「ロロ、あなたは10年前って何をしていましたか?」
「さあ……、もう忘れちゃったわ。そういうあなたは何をしていたのよ?」
「私は……」
グレネが逡巡を見せたとき、黒猫がぱちりと目を開けた。
「来るわよ」
路地の向こうから黒い人影がゆっくり歩いて来るのが見えた。
それは大柄な女だった。
歩き方はまるで夢遊病者、もしくは何かを求めてさまよっているように見える。女が近づくにつれて、グレネとロロの耳の奥に錆びた機械のような不協和音が響く。
女の異様にロロは息を飲んだ。女はロロやグレネよりずっと長身で、全身に黒いドレスを纏っていた。黒のドレスは女の体に完全にフィットしていて、その豊満な体の線がありありとわかる。左手に何かを引きずりながら、ふらふらと歩いてくる。
だが何より異様なのは、女の顔だった。ロロは見ているものが信じられなくて何度も目をこすった。なぜなら女の顔には黒のモザイクがかかっていたからだ。ふらふらと歩く女の顔が、右へ左へと揺れるのに合わせてモザイクが女の顔を隠している。黒のモザイクには時折ガガガと赤くノイズが走る。ノイズが走るたびにグレネとロロの頭に軋むような痛みが襲った。
「なに、あれ……」
ロロは黒モザイクの女が左手で引きずっている物を見て、悲鳴を上げそうになった。女は左手で小さな女の子の髪の毛をつかんで引きずっているのだ。
その女の子はフリルの多い黒のドレス姿で、髪は銀髪。死んだようにぐったりしていて、手足がおもちゃの人形のようにバラバラに動いている。白目を剥き、口から黒い泥のような物をゴボゴボと音を立てて吐き出してた。女の子が引きずられた後にべっとりとした黒い線が、長く石畳に伸びていっている。
ロロがたまらずに叫んだ。
「あれは何なのよ!!」
黒猫は涼しい顔をして言う。
「どっちのことを答えればいいのからしら?」
「どっちもよ!」
「歩いてくるのは魔女。そして魔女が引きずっているのはグレネ・コンラディンよ」
「!?」
ロロが驚いて横にいるグレネを振り返ると、グレネはもう何度も繰り替えしみたつまらない映画を観るような目で、黒モザイクの女と引きずられている少女を見ていた。ロロは何かを言おうとしたが、それより早くグレネが黒猫を振り返って言った。
「あんな物がここから出る鍵だと言うのですか?」
「鍵と言うより、あれが出口よ」
「出口?あれが?」
「あなたの中にある魔女の呪いと共振させるのよ」
「………なるほど、それで外にいる私の肉とつなげようっていうわけですね」
「その通り」
「でも、ロロは?」
「大丈夫。あの子も似たようなモノだから」
グレネは目を剥いて黒猫を見た。そしてそれとわからないように横目でロロを見た。ロロは前からやって来る魔女に気を取られ、グレネの視線に気がついていない。
「どうすればいいの?」
「魔女の顔に触れるだけでいいわ」
グレネは警戒と不審の目で黒猫を見たが、黒猫のほうはのんびり右足で顔を洗っている。グレネは魔女のほうを向くと、少し躊躇った後、ゆっくりと歩き出した。慌ててロロが着いてきていた。
「ちょ、ちょっと、あんた!あれがあなただってどういうことよ?」
「10年前、まだ幼かった私は魔女に会っていたそうです」
「目の前のあれがその時の再現だとでもいうの?!」
「私は忘れてしまいたいのですが、やはりそうさせてもらえないようです」
「そうさせてもらえないって、いったい誰に?」
「神様を殺したがっている人たちにですよ」
グレネは魔女を見据え向かっていく。魔女に近づくほど、耳に響く不協和音は甲高くなり、脳髄を襲う痛みが鋭くなる。魔女の顔に触れられる所にまで来た時には、不協和音と痛みで目を開けているのがやっとだった。
グレネが魔女の前で立ち止まると、魔女も立ち止まった。魔女の顔は黒のモザイクで全くわからない。だが、魔女がモザイク向こうからこちらをのぞき込んでいるように感じた。
グレネは片手で痛みが襲う頭を押さえながら、もう片方の手を魔女の顔に伸ばした。指先が黒いモザイクに触れようとしたとき、赤のノイズが放電のようにほとばしった。
グレネは反射的に手を引こうとした、が、魔女がその腕を掴み取りグレネとそしてロロを引き寄せた。逃れようとする二人。だが魔女の握力は常軌を逸しており、グレネの力でも振りほどくことができない。「くそっ!!」ロロが胸の谷間から拳銃をとりだし、黒のモザイクに向かって3発打ち込んだ。
黒猫が嗤った。
次の瞬間、魔女の顔を覆っているモザイクが激しく乱れ、魔女が凄まじい悲鳴をあげた。それは全てを破壊し、あらゆる生き物を呪うが如くだった。グレネとロロもたまらず両手で耳をふさぐが、意識を砕かれそうになる。
魔女の絶叫に辺りの建物は激しく震えた。魔女の顔を覆っていた黒いモザイクが一気にあふれ出た。黒いモザイクは魔女を、建物を、街を飲み込んでいく。そして魔女の腕を伝ってグレネとロロをも飲み込んだ。
「なに…………!?」
「っ……………!!」
二人が何か叫ぼうとしたが、黒のモザイクは一気に二人を覆い尽くし、その叫び声諸共、完全に飲み込んでしまった。