公爵家令嬢 グレネ・コンラディン(1)
新学年になったクラスは騒然としていた。原因は黒板の前に立っている転校生だ。
転校生の名はグレネ・コンラディン。
理知的な瞳、長い銀髪、すらりとした体に、豊満かつ凶悪な胸を兼ね備えた美少女だ。それだけでクラスの男どもの心を奪うのに十分だが、クラスが動揺しているのには別の理由があった。
彼女は白の皇都からやってきた公爵家令嬢で、最近、皇家第二皇子の妃候補になったとニュースで報じられたばかりだ。
この庶民の高校に本物のお姫さまがやってきて、下々のものはもう狼狽えるほかない。窓際の席にいた一般庶民のライル・ローも、口をぽかんとさせて前に立つ美少女を見ていた。
グレネの横に立っている担任のリグさんは、さっきからずっと挙動がおかしい。おそらく緊張のせいで意識が途切れ途切れになっているのだろう。
なかなか静まらない庶民に、黒板の前に立つグレネは「こまりましたわね」と笑っている。ふと、グレネとライルの視線がぶつかった。
ライルは体温が数度上がったように感じた。
グレネは度の過ぎた美少女だ。このままあの瞳で見つめられたら10秒後には心はとろけて、もう10秒たてば彼女の前にひざまずき永遠の忠誠を誓っていてもおかしくない。
しかしグレネはこれからクラスメイトになるのだ。目をそらしたり、ひざまずいたりするのはまずいだろう。人間関係で最初の印象は重要だ。軽い挨拶から始めよう。ライルはそう考えて、にっこり笑顔を作って、ゆっくり左手を振ってみた。
その瞬間、グレネは目を大きく見開らき両手を口にあててライルを見た。グレネの予想を上回る反応に、ライルはギクリと固まった。
「(なんかまずったか、俺?!)」
一般庶民のライルにやんごとなき人々の礼儀作法なんてわからない。もし左手を振るということが貴族の間で何かの合図だったら、たとえば決闘の申し込みだったらどうしよう?
他の級友達もグレネとライルの様子に気がついて、交互に二人を見ている。
ライルは蛇に睨まれたカエルのように動けない。
先に動いたのはグレネだった。なんと、ライルに向かって駆け出したのだ。机をかき分け、椅子を弾き飛ばし、猛然と突き進んでくる。顔はまるで百年の仇敵を見つけ喜悦する鬼のようだ。
ライルは狼狽した。何とか友好的に解決できないかと頭を回転させたが、時はすでに遅し。グレネは両手は、もう、ライルの首にかかろうとしていた。
こうなったらやってやる!相手が公爵家でもなんでも、ただでやられるのはごめんだ。同じ死ぬなら一撃を食らわせてからだ!
「やっと!やっと!見つけまし………」
グレネが何か言ったようだったが、ライルには聞こえていない。ライルは伸びてくる両手の間に頭を滑り込ませ、グレネの顔面に向かって、思いきり額を叩きつけた。
ガシン!
教室に鈍い音が鳴り、ダダン!とグレネが派手にひっくり返った。
見事なカウンターだった。
教室がしんと静まる。大丈夫だ。お前たちに害が及ぶようなことはさせない。責任は俺がとる。
ライルは一人勝手なヒロイズムに浸りつつ、仰向けで倒れているグレネをのぞき込んだ。グレネは鼻血を出して気絶していたが、表情はなぜか幸せそうだった。
「このお姫さまは、なんで嬉しそうに気絶してるんだ?お前のご同類か?」
クラスメイトのジーガ・ダズが、グレネの横にしゃがみながら言った。
「俺はドMじゃねえ」
「なににしてもやり過ぎだ」
他の級友達も全員うんうんと頷く。確かに男が女をヘッドバットで気絶させたというのは、即通報されてしかるべき事案だ。
「こ、こういうときこそ、大人に頼ればいいんじゃ……」
ライルは大人の姿に助けを求めた。ここでいう大人とは担任のリグさんだ。しかし、黒板の前にいる小柄な女性教師はちょうど泡をふいて倒れていくところだった。
「……まあリグさんだし」
「リグさんだからな……」
ライルとジーガのため息がハモる。ライルがジーガに聞いた。
「このお姫さま、俺に襲いかかるとき何か言ってなかったか?」
「そういえば……、なんか『殺ってやる』とか、『皆殺し』とか言ってような……」
「目が合って5秒でそれかよ……」
「まあ、コンラディン家のご令嬢ともなればそのくらい言うかもな」
「なんで?」
「何といっても、白の皇都随一の武門だからな。多くの将校を排出しているし、先祖は竜と戦って勝ったらしいぞ」
「俺はそこのお姫様をやっちまったわけか」
「お前ならたいして不思議じゃあない」
ライルはジーガを睨んだが、ジーガは全く気にしていないように別のことを口にした。
「このお姫さまは何しに来と思う?」
ライルは倒れているグレネを見た。白の皇都の公爵で王子の妃候補になるような雲の上の貴人が、この青の商都の高校に転校してくるなんてあり得ない。その時ライルの頭に依頼の文章が蘇ってきた。
ー 君には今日、少女との出会いがある。その彼女……殺……くれないだろうか? ー
まさか。ライルは首振り、自分に言い聞かせるように言った。
「理由なんて知りたくないし、関わりたくもない」
ジーガはかはっと笑ってライルの背を叩いた。
「それはもう不可能だ」