竜をめぐる三角関係(1)
只今、夜の9時。
場所はライルの祖父がやっている小さなバー、兼自宅。ライル、ロロ、グレネは、バーの小さなテーブルに座っている。奥にライル。その右にロロ。テーブルを挟んで向かい側にグレネという席順だ。
店には3人しかいない。普段ならライルの祖父が常連客を相手にしているのだが、今日は早々に営業を諦めた。夕方にロロを目当てにして群集のせいで店を開けられなかったからだ。その祖父はどこかへ消えてしまっている。
ライルの右手には包帯がグルグルに巻かれていて、その上からロロがべったりと抱きついている。そんな二人を、グレネが冷たい目で睨んでいる。かれこれ30分ぐらいこの状態のままだった。
風船から塔に飛び降りた時のケガが思ったよりひどくて、一週間はこのままかもしれない。
怪我の手当てをしたのはロロだった。ライルは自分でできると言ったのだが、聞き入れてもらえず、ほとんど無理矢理手当てをされてしまった。自分の右手を会ったばかりの女に任せるのは不安だったが、ロロは慣れた手つきでライルの右手を洗浄、消毒し、素早く包帯を巻いた。思いの外本格的に手当てをされ、ライルが「そんなに丁寧にしなくても」と言ったら、ロロに本気で怒られてしまった。
ケガの手当ても終わって、ライルが「今日はもう遅いからこれで……」と席を立つと、今度はグレネがじとっと睨んで、有無を言わさない迫力で「ちょっと、そこに座って下さい」と再び座らされてしまった。そして今の状態になっている。
沈黙を破ったのはロロだった。
「ねえ、ライル。どうしてここに公爵家のご令嬢がいるの?」
「それは……」
ライルがどう説明したらいいのか、言葉を探していると
「私が、ライルさんを愛しているからです」
と、グレネが例のドヤ顔で、これ以上無く端的に説明をした。
ロロはすぐにライルの腕を強くとって詰め寄り、
「ライル、もう浮気?」
と、ライルを上目遣いでじっと睨み体を密着させてくる。その仕草はまるでやきもちを焼くアニメのヒロインで、ライルはキュンとしてしまった。が、その横でグレネの眉間の皺がどんどん深くなっていっているのに気がついて、ライルは慌てて首を横に振った。
「浮気なんてしてない!それに付き合ってもいないのに、なぜそうなる?!」
なぜか狼狽えていた。浮気どころか何も悪いことはしていない。二人とも今日会ったばかりだ。
ロロがさらに体を密着させる。
「さっき言ってくれたじゃない。絶対に離すなって」
「それは、あれだろ!」
「ライルさん。『あれ』とはなんですか?」
今度はグレネが低い声で質問してきた。店の空気が凍ったように緊張する。
「さっきは、かなり危なかったんだよ!ほら、こんなケガもしたし」
ライルは自己弁護するがすでに冷や汗でびっしょりだ。何も悪いことはしてないのに。
「その、女のせいですね」
グレネの目がゆっくりとロロに向けられる。ロロも正面から睨み返す。ライルの咽はカラカラだ。本当に、何もなにも悪いことはしてないはずなのに。
「まったく。私じゃない女と空を飛んでたなんて、いいご身分ですわね。うらやましい……」
「へへ、いいでしょう?」
グレネが睨むがロロには効いていない。ライルが脂汗を吹き出しながら二人の間に割り込んだ。
「グレネ、なぜそのことを知っている?」
「私の愛をなめていただいては困ります」
グレネは例のドヤ顔で言う。ストーキングされていたのか?ついさっき、魔女の皮の手帳のことを指摘したが、どうやらそれ以外の情報収集手段もあるようだ。
「塔の前で俺たちを待っていたのも……」
「愛です」
グレネの情報収集力は、広範囲、且つ、即時的でかなり強力なようだ。
「へー。グレネ様ってストーカーなんだー」
ロロがわざとらしく大げさにドン引きして言うと、グレネはロロに向かって大きく胸を張った。
「ストーキングと愛の区別もつかないのですね。
そんな上げ底アイドルに何を言われても、痛くもなんともありませんわ」
高らかに言い、胸をぶるんと揺らした。ロロは咄嗟に両手で自分の胸を隠した。ライルが首をかしげる。
「上げ底?」
「そうです」
グレネが大きく頷く。
「な、な、なんのことよ!」
ロロは胸を隠しながら強がったが、残念ながらすでに涙目だ。ライルはロロの胸を指さした。
「この胸が?」
「ええ」
「偽物?」
「そうです」
「……あんなに柔らかいのに?」
「揉んだんですか?」
グレネ目が不穏に光った。
「そんなことしていませんです!」
ライルは全力で首を横に振る。グレネはジトっとした目を向けてながら答えた。
「特注品だそうです」
「あんた、なんで知っているのよ!」
ロロは半泣きで自分の胸を隠している。
「そんな……、だって……、このことを知った奴は事務所が片っ端から消しているはずなのに……」
「消しちゃったんだ」
ロロの告白に、ライルはアイドルの闇を見た気がした。
「私たちの力を侮らないでいただきたいですね」
「そこは愛じゃないんだな……」
得意になるグレネにライルが突っ込む。グレネはライルを横目で睨む。
ロロがビシィと指さした
「そんなことより!なんで、公爵コンラディン家令嬢で、第二王子妃候補のグレネ・コンラディンが、こんなとことで、ライルへの愛を宣言しているのよ!」
グレネも異議ありとばかりに、ミシっと額に血管を浮かべてロロを指さした。
「ならば、どうして映画の主演も決ったばかりのトップアイドル、ロロ・セロンが、仕事を放ってライルさんの隣にいるのですか!」
二人はお互いに指を突きつけながら、眼光のみで火花を散らした。
ライルはうんうんと頷きながら二人の言い分を聞いていた。まったくもってその通りだ。
こんな自分がいきなり公爵家令嬢とトップアイドル、二人の美少女から迫られるなんてハーレム展開にしても程がある。しかも二人とは今日出会ったばかりで攻略期間ゼロだ。それで好きだとか愛していますと言われても、少しも嬉しくない。
本当に?
いや美少女とお話ができたから少しは嬉しい。
少し?
いやロロのあの柔らかさを思いだすとすごく嬉しい。
あ、でもあれって偽物なの?
女って怖いな……。
グレネとロロはお互いに指を差したまま、にらみ合っていた。ライルには割って入るような度胸もなく、ただその様子を見守っていた。
膠着するかと思った時、ライルの視界の隅で黒影が動いた。店の隅、照明が届かない所の写真立ての前に何かいる。
ライルが目を凝らすと、影の中で小さな金と赤の瞳が光った。驚いて声を上げそうになったとき、金と赤の瞳を持った何者かがバーカウンターに飛び乗った。それは一匹の黒猫だった。艶やかな光沢をたたえた毛並みを持つ、とても美しい猫。右は金色に、左はルビーのように赤く輝く瞳がとても美しく、魔的な魅力を持っている猫だった。
「びっくりした」
ライルがゆっくり黒猫に手を伸ばすと、黒猫はライルの手をかわして跳ね、3人が座っているテーブルの真ん中に降り立った。ライルも、グレネも、ロロも、3人とも目の前に降り立った黒猫に釘付けになった。黒猫はゆっくりと、呆け面で自分を見ている3人を見回すと、グレネとロロに向かってその端正な顔を醜く歪めるように笑った。ライルには確かに笑ったように見えた。
グレネは黒猫の笑顔を見て、自分の心に黒い物がわき出てくるのがわかった。彼女はこの黒猫を知っている。今日も勝手に自室に入ってきてグレネを苛つかせていった。黒い猫。魔の使い。人間を見下す者。こいつは、なぜ、いま、ここにきたのか。ここで何をしろというのか。からかいに来ただけか?グレネは思わず「こいつ」と小さく漏らした。
黒猫はグレネの苛立ちを嗤いながら、ゆっくりしなやかに尾を揺らしていた。が、忽然トンっと跳んだ。トン、トン、トンとテーブルとイスの間を飛び移り、あっという店の出口に立った。出口の辺りの照明が届かず暗くなっている場所。その薄い暗闇の中で、金と赤の瞳が細く歪む。ライルは目を凝らし黒猫を暗闇の中に見ようとしたが、黒猫はすでに闇に溶けるようにいなくなっていた。
あっという間のことだった。3人とも沈黙している。それは黒猫が姿を表す前とは全く違う沈黙だった。ライルはびっくりして、グレネは苛立ちで、そしてロロは衝撃を受けて言葉を失っていた。
だがロロは黒猫に衝撃を受けたのではない。彼女の目は黒猫が消えた出口ではなく、グレネを凝視している。グレネはロロの視線に気がつき「なんですか?」と言おうとした。だが、ロロの表情の異様さに声を飲み込んだ。ロロの表情は自分のドッペルゲンガーでも見たかのように強張っていた。
ロロが慎重に口を開いた。
「あなた、見えたの?」
「何をですか?」
「さっきの、黒猫」
「ええ、見えました。それが?」
ロロの顔がいっそう強張った。そしてライルに聞こえないように小さな声で言った。
「そう、あなたも竜に願いを叶えてもらう為にここにいるのね」
その言葉が終わらないうちにロロは胸の谷間から拳銃をとりだし、グレネに銃口を向け、一切躊躇うことなく引き金を引いた。
グレネは両目を剥いた。同時に理解した。ロロも自分と同じなのだと。刹那、銃が火を吹くより速く、テーブルがロロに向かって跳ね上がった。グレネが蹴り飛ばしたのだ。銃の乾いた音が破裂する。しかしグレネは微塵も怯まない。床を割るがごとく踏み込み、忍ばせてあった短剣を一閃。テーブルもろともロロを叩き切る。
瞬きの間、機は必殺。
が、手応えがなかった。グレネの短剣はロロの首に届く前に二本の指で受け止められていた。ロロの指ではない。彼女はグレネの動きに反応できていない。グレネは短剣を受け止めた手を無視して手刀を突き出した。と思ったら、グレネの視界の天地が回り、背中が激しい衝撃に襲われた。投げ飛ばされた。グレネは即座に体をばね仕掛けのように起き上がらせようとする。しかし、ロロを助けた何者かに首を鷲掴みにされ床に叩きつけられた。
「まだやるなら、捻り切るぞ」
見知らぬ男がグレネに馬乗りになり警告した。男の顔は影でよく見えない。横ではロロがライルに取り押さえられていた。男の左手はたやすくグレネの首をねじ切る力があることがわかる。
「参りました」
グレネは静かに目を閉じて両手を挙げた。ロロも同様に両手をあげている。男は二人に抵抗の意志はないと認めると、グレネの上からどいた。ライルもロロを解放した。
グレネはゆっくり立ち上がり、自分を制圧した男を見た。男は歳は40歳前後のスマートなナイスミドルだった。黒髪を後ろになで上げて、白いシャツに黒のボウタイ、黒のギャルソンエプロンという、まさにバーのマスターを思わせる服装をしている。ただ一点、足下が赤いハイヒールなのがかなり奇異だ。男はボウタイを調えながら、グレネとロロを見て、そして、深々と一礼した。
「古の傾国と傾城にお目にかかることができ、恐悦至極」
そう言い顔を上げると、ニっと八重歯を見せて笑った。グレネとロロは、男が何を言っているのかわからず首をかしげた。
「いつからいたんだ?」
ライルが掃除を始めながら男に聞いた。
「いま帰ったばかりだよ」
男も答えて散らばったテーブルの破片を片づけ始めた。男二人はてきぱきと店を片づけていく。グレネとロロは、あっけにとられてどうしたらいいかと掃除をする男二人を見てた。男がそんなグレネにほうきを手渡した。
「傾国のお姫さんはこっち。傾城のお嬢さんは、向うからバケツを持ってきて」
手伝えということらしい。グレネとロロは一気に弛緩した空気に戸惑いながらも、せっせと掃除を手伝った。店はすぐに片づいた。テーブルも予備を引っ張り出してきて元通りなった。
「お疲れさま」
男はグレネとロロを労い、カウンターに入っていった。
美少女二人の乱闘の騒ぎなんてなかったかのように、バーは元の姿に戻った。