第29話
昼食を瞳と一緒に過ごした後、俺は彼女を残して検査へ向かう。
最近は落ち着いてきたし、血液検査の数値的にも問題はない。
リハビリも順調で、逆に何をしても楽しいとすら感じる。
回復が順調な証拠だと説明された。
一通り検査が終わり部屋に戻る。
車椅子からベッドに戻ると、直ぐに瞳もベッドに上がりシーツに足を滑らせ、寄り添うように座る。
他の人は食後の昼寝といったところか、皆寝ているみたいだ。
彼女は俺の肩に頭を乗せて、静かにこの場の雰囲気を楽しんでいるようだ。
シーツの下で俺の手を握ってくる。
「光司…、私に嘘はついてない?」
突然そんな質問をしてきた。
「隠したり嘘をつく必要なんかないよ。」
「これからも?」
「もちろん。」
「じゃぁ、質問。」
この時になって嫌な予感がした。
「光司は…、本当は絵を描きたい?」
きた。そうくると思った。
ここで俺が絵を描きたいと答えれば、それは目を奪い返す事を意味する。
だけどそれは瞳の病気の心臓も戻ることになる。
「このまま描けなくても、瞳がいれば俺は満足だよ。」
「嘘。」
「嘘じゃないよ。目が見えていた時から覚悟してた。絵と引き換えでもいいから瞳を助けたいって。」
「嘘つき。」
「本当だよ。」
「私はね、光司に感謝してる。その気持ちだけで涙が出るくらい。」
「だったら…。」
「でもね、私は一生光司から絵を奪って生きていくなんてできない。」
「…。それは誤解だよ。それに、これ以上瞳にリスクを背負わせる訳にはいかないよ。俺は今、満足なんだ。」
「でも私は満足しない。」
彼女はスッと頭をあげる。
「冷静に聞いて。私の病気は認可が降りてどこでも手術が出来るようになったの。それに山岡先生は今、海外留学中で私の病気の治療の技術を学びに行ってる。実際に手術もしたって連絡も受けた。リスクは下がってるの。だったら、光司の目も治したいよ。私も頑張るから、光司にも後少し頑張って欲しい。二人で乗り越えたいの。」
「それでも俺は…。絵が…、絵が描けなくても瞳と一緒にいたい。一生そばに居て欲しい…。」
もぞもぞと瞳が動く。俺に馬乗りになりぎゅっと抱きしめてきた。
「聞こえる?光司がくれた心臓の音…。」
トクン…トクン…
「聞こえるよ…。」
「私が光司に魔法をかけてあげる。目が見えなくても絵が描けるように…。」
「そんなこと…」
出来るわけがない。
「出来るよ。だって魔法をかけるんだもん。」
瞳の鼓動が少し早くなった。
「私は光司の絵がもっと見たい…。光司は絵を描きたい?」
最初と同じ質問に戻った。
嘘はつかないって約束からの質問。
「俺は…、大切な人を失う辛さを知っている…。」
その言葉に瞳の鼓動が一回だけ大きくなった。
「私は…、今、大切な人を失いかけてる…。」
彼女の言葉は俺が死んでいることを指す。
あながち間違ってはいない。
精神的に安定し、体力も回復してきて余裕が出来ると、無意識に絵の事を考えてしまう。
手で触れられる物を丹念に調べて脳裏に予想図を描く。
リアルに描いたり線画風だったり水彩画風だったり…。
正直楽しい。
この映像を実際に描きたいとう衝動は日に日に大きくなっていく。
でも…。
俺の我が儘で瞳を危険に晒すつもりはない。
あの切なくて、苦しくて、目が覚めた時に瞳が生きているかどうか心配する毎日を思い出したくない。
「逃げないで…、私と一緒に…、二人で乗り越えたい…。」
今度は俺の心臓が高鳴る。
「光司…。本当の気持ちを教えて…。」
再びギュッと抱きしめられる。
瞳の体温や匂いが俺を包む。
とても安らぐ心臓の音…。
「俺は…。」
いつの間にか震えていた。
選択出来ない。こんな選択、俺には出来ない。
「大丈夫…。私が魔法をかけてあげる。」
俺は…。いつの間にか涙が零れていた。
ポロポロと溢れ落ちる。
彼女の背中をギュッと抱きしめた。
「私を信じて…。私も光司を信じる。だって、目を取り戻したら私は直ぐに倒れちゃう。」
その言葉に俺の思考は一気にマイナスへと振り切れた。
嫌だ!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
瞳を失うなんて…。
「でも信じてる。私は光司を信じてる。必ずここに連れてきてくれるって。」
あぁ…。あぁ…。二人で戦う意味、それを理解していない俺は正真正銘の馬鹿だ…。
彼女は俺が死んでいると言った。
そうか…。そうだね…。でも…。
「でも…。でも…。俺は…。」
でも瞳は生きている。
こんな奇跡は二度とない。
二度も起きない。
「私もね、このままでも良いかなって思う時はあるの。でもね、やっぱりそれは違う。絵が描けない光司も好き。大好き。だけど絵を描いてる光司はもっと好き。寿命がくるまで光司の描く絵を見続けたい。それじゃぁダメかな?」
「俺はもう何年も絵を描いて…ないし…。」
「大丈夫。今直ぐにでも描けるわ。私の魔法でね。だから描いてみよ?」
ハァ…、ハァ…。
俺は重大な選択を迫られていると感じていた。
呼吸も荒くなり体は小刻みに震える。
「光司…。」
優しく俺を包む瞳。上から生暖かい涙が落ちてきた。
「描きたい…」
「うん。一緒に描こう…、私が目になってあげる。」
「ウゥ…。」
俺は声を殺して瞳の胸の中で泣いた。
止まること無く涙が溢れる。
俺が絵を描くことを諦めない、それはすなわち目を取り戻すことに同意したことになるからだ。
「やっと、正直に言ってくれた。へへへ…。」
彼女は涙声だけど嬉しそうだった。
「じゃぁ、魔法をかけてあげる。」
そう言うと両手で俺の頬を包み、上を向くようゆっくり持ち上げ、そっとキスをする。
「涙を拭いて準備をしましょ。ちょっと待っててね。」
俺は何がなんだか訳も分からず涙を拭う。
瞳はベッドから降りて、何かを準備している。
暖かかった体が少しずつ冷えていく。
そこへ伊達じいさんの孫の聡美ちゃんが、学校帰りに遊びにきた。
「おじいちゃーん。」
元気で明るい声が部屋に響くと、伊達じいさんも菊池ばあさんも起きだしてきた。
聡美ちゃんは、伊達さんのベッドの脇の椅子を持ち出し座る。
何やら学校での出来事を楽しそうに話していた。
菊池ばあさんはどうやらお茶の準備をしている。
急須にお湯を注ぐ音、蓋を閉める音、湯呑みに注ぐ音と聞こえる。
瞳はベッドから降りて、どうやらバックから何かを取り出し、ベッドの上に置いた。
「はい。」
と嬉しそうに言って膝の上に置かれた物。
それは懐かしくて恋しくて待ち遠しかった物。
俺のスケッチブックだった。