第12話
先生と別れ、瞳ちゃんを家に送る。
明日一緒に祭りに行く約束をし、送迎を源爺にお願いして家に帰ってくると、突然母さんが大声で喚き散らしながら俺に抱きついてきた。
「こーじー!」
俺の名前を叫び、強く強く抱きしめる。
「痛いよ、母さん…。」
珍しく取り乱しているようだった。
「今日、美術大学の名誉理事長の吉川って人に会ったでしょ。」
「う…、うん。」
凄い剣幕だ。
「あの人はね、日本だけでなく、フランスとかでも芸術勲章を貰ったことのある、日本を代表する画家なのよ!あんた、その人に認められたのよ!!」
!?
もう、パニックになりそうなほどだった。あの、語尾に「ね」をつけるキモくて服のセンスが最悪のおじさんが、そんなに偉い人だとは想像もつかなかったからだ。
「東京に来て欲しいって聞かれたでしょ?どうするの?」
俺は期待に満ち溢れた目線を外した。
「俺には…まだやり残したことがあるって言った。」
母さんは静かに聞いている。
「もしも、もしも瞳ちゃんが倒れることがあれば、その時まで一番近いところにいたいし、病気が治れば、その…、一緒に東京に行こうって瞳ちゃんに言った…。」
すると母さんは真剣な表情から、急に優しい顔になった。
「よく言った!それでこそ母さんの子だ!釣りバカの血が薄くて本当に良かったよ!」
今度は優しく抱きしめてくれた。
「偉いよ~。」
「俺は瞳ちゃんのためなら…、絵もやめられる。その決意はあるよ。」
「そういうところは母さんに似なくていいの。でも、あなたの信じる道を生きなさい。」
「うん…。」
その日の夕食はとても豪華だった。赤飯まで炊いてある。父さんが結婚記念日だっけ?なんて言って母さんを怒らせ怒鳴られていた。
おばあちゃんは、死んだじいさんに顔向けが出来ないなんて言って仏壇に手を合わせるほど呆れていた。
だけど、一年後の俺の姿を、今の母さんが見たら絶望するだろう。
廃人と化した俺の姿を…。
そして運命の8月15日、全ての歯車が狂いだした日を迎えた。
次の日、俺は早起きして源爺のところへ行った。
瞳ちゃんも起きていて、とても体調が良いって言っていた。
少し安堵し、さっそく源爺の軽トラックで高賀神社へと向かう。
新高賀橋のほんの少し上流で合流している高賀川沿いを山頂へ向かって登る。
道は狭く、景色は山深くなってくると、森が道路を覆いかぶさるように見えてくる。
民家も疎らになり、空気は徐々に冷たくなっていく。
人の気配や人工物が少なくなり、神秘的な大自然が三人を包む。
そして、石で出来た大きな鳥居が来訪者を神聖な場所へと誘う。
「わぁ~、大きい~…。」
瞳ちゃんは純粋に驚きつつ、くぐり抜ける鳥居を見上げていた。
狭い車の中なので、触れ合う腕と近い顔に俺はドキドキしっぱなしだ。
今日の瞳ちゃんは初めて見るポニーテールに、いつもの麦わら帽子、白のワンピースに白地に赤いラインの運動靴姿だ。
正直、ふとももが眩し過ぎて直視出来ない。
そして、死が近づいているとは想像出来ないほどの無邪気な笑顔。
実は源爺と俺は病気の天使を連れ回す悪魔なんじゃないかと思う時もあった。
天使は治療に専念すれば助かるかもしれない。
だけど…、この笑顔は、今ここにいるからだと信じたい。
ここに来なければ訪れなかった笑顔なのだと…。
神社に到着する。
「俺は祭りの準備を手伝ってくる。帰りは送っていくから声をかけなさい。心配するな、酒は飲まねぇ。」
そう言ってニヤッとした源爺は格好良かった。
俺達の為に、大好きな祭りで、大好きな酒を飲まないでくれている。
母さんも準備を手伝うため日が昇る前から来ているし、打ち上げの手伝いもするから帰りは遅い。
まずは境内に向かう。
小じんまりとしているが、神聖なる雰囲気が周囲を包んでいる。
今日一日、お邪魔することと、そして俺の一番大切な目的である瞳ちゃんの病気の完治をお願いにきた。
正式な作法は知らない。ただ、ひたすら祈った。
瞳ちゃんの病気が治りますように…。
瞳ちゃんが俺の描く絵を全部見てくれますように…。
瞳ちゃんが一日でも長く笑っていられますように…。
神様…、どうか、俺のお願いを聞いてください…。
そっと目を開けると彼女も同時に目を開け顔を上げた。
俺の方を向いてニコッとした。何をお願いしたかはお互い聞かない。
彼女は俺と腕組みをし離れない。
よく顔が見えなかったけど涙ぐんでいたのかもしれない。
取り敢えず神社の近くの駐車場にある展望台に行き、眼下に広がる山の裾野を見下ろす。
壮大で圧倒されそうな迫力に、こんな場所なら神様が居ると信じられそうな雰囲気だった。
祭りまではまだまだ時間がある。
「1枚描いていい?」
「うん!」
彼女は当然のように頷いた。むしろ描かないの?といった表情だ。
屋根のある休憩小屋に腰掛けて待っていてもらい、源爺の車からスケッチブックと絵の具セットを取り出す。
いつものように鉛筆で薄く下書きすると色を置き始めた。
森は深く神聖で、空気は冷たく、飛ぶ鳥は神の使いのように上空を旋回し、空は澄んでいてどこまでも続き、高台の休憩小屋では少年と少女が肩を寄せあっていた。
そして、いつ倒れても不思議じゃない少女を連れて、神に助けを求めに来た少年の絵が完成する。
彼女に見せると、また涙ぐんで、直ぐに笑顔になった。
「ありがと。」
俺の心の声が聞こえたのかも知れない。
絵の中の少年も少女に恋をしている。
風景は壮大で雄大だが、少年は神聖なる場所で神に向かって叫んでいた。
彼女を救って欲しい、と…。
俺は意を決して瞳ちゃんに言った。
「俺は瞳ちゃんが好き…。俺の彼女になってほしい。」
彼女はハッと顔をあげる。
直視出来ない。そして俺に抱きつく。
「私でいいの?」
「ひ…、瞳じゃなきゃ駄目なんだ、俺。昨日言ったじゃんか。俺の絵を全部見て欲しいって…。」
「うん…。うん…。私も光司が好き…。大好き…。」
彼女はギュッと、強く強く抱きついていた。
大声で泣きたいのを我慢しているようにも見えた。
小さく細かく震える背中をそっと抱きしめた。
彼女の体は細くて力を入れたら壊れてしまいそうで、暖かくて、繊細で、いい匂いがして、切なくて、切なくて、切なくて、俺も泣いてしまいそうだった。
もうすぐ訪れる恐怖に震える。
だけど、だけど俺は目一杯普通になれと自分に言い聞かせた。
彼氏らしく、そして彼女を想って、今日一日デートを楽しむのだと。
頭をゆっくり軽く撫でて、お互い落ち着かせる。瞳は大粒の涙を抱えた顔をあげて、俺の腕の中から俺の顔を見上げてきた。
この時の笑顔は、夜落ち着いたら描こうと思った。
今はとても描ききれる自信がなかった。
少しだけ距離を置くと、彼女は手を重ねて頭を俺の肩に乗せながら俺のつまらない世間話に付き合ってくれた。
祭りが近づき学校の友達がチラホラとやってきたが、俺は隠すこと無く彼女だと紹介した。
噂で知っている人もいたのかもしれない。
あんまり騒ぎ立てられることもなかった。
俺達の周りは案外静かに時が流れた。
日も高くなってくると、話す会話もなく、静かに身を寄せ合い、お互いのぬくもりを感じていた。
日差しは強かったが、小屋の屋根がそれを防ぎ、山を撫で下ろす風は少しひんやりしていて涼しい。
祭りはここから少し登ったところで行われる。
神聖なる石が置かれた、小さな祠があるところだ。
だけど急勾配で足元が悪い坂道を登らないと行けない。
なのでギリギリまで動くつもりはなかった。
太鼓や笛の音が聞こえ始め、そろそろ祭りの本番が始まる気配がする。
瞳を誘って移動することにした。
今居た休憩小屋は高台を広げた駐車場の端っこにある。
駐車場から道路を横切り坂道を登る。
祭り広場から高賀山を見下ろせるようにか、坂といてっても広くなっていて木々もない。左側には昔から使われているボロボロの階段があり、右端には高賀川の源泉とされる場所から流れてきた小川が流れている。
いざ登ろうとした時、近所の人に連れられてきた梅婆さんが合流した。
婆さんと一緒にゆっくりと坂を登る。
途中3回ほど休憩しながらゆっくりとゆっくりと。
そんな姿は周囲からはおばあさんに合わせて祭り会場に向かう孫達のように見えただろう。
だけど実際は瞳の様子を見ながら進んでいる。でも彼女は悲観していない。
そこまでしてでも、俺と祭りを見たかったのだ。
最初で最後の祭りを、大好きな彼氏と楽しみたい。そんな普通の一人の少女なのだ。
会場には最後に乗り込んだ。
俺達を待っていてくれていたかのように、到着と同時に祭り囃子が始まる。
俺はいつも一人で退屈そうに見ていた祭りを、今日は初めての彼女と見れる喜びと、来年はどうなっているか分からない不安を抱えながら、いつもと同じなのに、いつもと違うように見えた祭りを静かに見守った。