最終話 「ただいま」
橋場の家と別れを告げてから一ヶ月。
恐ろしい程平穏な日々だった。
新しいスタートということで俺も仕事を探し始めた。
雪希はヒモ生活、主夫なんてどうだろうかと提案してきたが断固として断った。
そんな仕事先を探しながら家事にいそしむ。
男として情けない気もするが、それでもそんな日々が輝いていたんだ。
しかし完全に絶ったはずの因縁は終わっていなかった。
その日は雪希の仕事が休みで、昼からぐーたらしていた。
「今日の夕飯はー?」
この辺のやり取りは記憶を失っている間と大して変わり無い。
相変わらず雪希は家事全般が駄目だ。
だがお陰様で俺の料理の腕はめきめきと上がっていた。
「何が食べたい?」
「えーとね…信二!」
「はいはい…」
「何よー、信二だって私のこと食べたいんでしょー」
「じゃあ今日はお姉様の大好きなすき焼きにしましょうかね」
「すき焼き! これだから信二大好き!」
一緒に暮らしてみて思ったことだが、昔はあんなにお姉ちゃんっぽいと思っていた雪希も今では逆に妹の相手をしているような気分だった。
たまに姉らしい姿を見て頼りになるのだが、基本的にずぼらなためどうにもこっちから甘えようという気が起きなくなる。
むしろ雪希のほうからやたらと甘えてくるからこっちが甘える隙がないというのもある。
しかし今まで雪希も一人ぼっちだったことを考えるとその気持ちも分からないでもなかった。
だからこそ、これからもっと幸せにしてやろうと俺も強く決意出来る。
「じゃあちょっと食材買ってくるよ」
「うん、はいお小遣い」
「………」
「ん、どうしたのかな?」
「お小遣いって…やめてくれよ…。第一これは雪希の食材でもあって…」
「あれー、でも信二君はうちにお金入れてるのかなぁ?」
ヒモの辛いところだった。
早く仕事探さないと…。
そんなこんなでお金を受け取り俺はスーパーに買出しにやってきた。
すっかり通い慣れたため何処に何があるのかほとんど熟知している。
「お…今日は牛肉が安いのか…」
日頃から通っているため値段の相場まで頭に入っていた。
折角の休日だし、何より雪希は肉が大好物だ。
安かったのもあって普段より俺は肉を多めに買うことにした。
大量の肉を見て雪希はどんな反応をするのか、それを今考えるだけでも何だか楽しみになってきた。
改めて自分でも主夫が板についてきた気がする。
戦利品を手に軽い足取りで家に向かう。
そしてもらっていた合鍵をドアに差し込んだ瞬間に違和感を覚えた。
閉めたはずの鍵が開いている。
嫌な予感がした俺はドアを開くとすぐさま居間の様子を見ようとした。
しかし居間に広がる光景は見るに耐えないものだった。
一瞬時が止まったように思える。
平穏な日々に突然訪れた惨劇。
一緒に挟み合っていた食卓から滴る血。
テレビに飛び散った血。
壁にこびりつき、ズルズルと痕の残った血。
何処を見ても視界に入るのは血、血、血、血。
だが居間に雪希の姿はない。
最悪の結末が脳裏に浮かぶ。
あるはずがない、こんな非現実的な事が起こるはずがない。
しかし俺は恐怖でその場から動けなかった。
まだ寝室を見ていない。
確認をしなければいけない。
しかしもし…そこに…雪希が…
「嘘だ…こんなの…嘘だ…」
居間に充満した血の匂い。
吐き気を覚えるがそんなこと気にしていられる場合じゃなかった。
俺は天に祈るような気持ちで寝室へと一歩ずつ歩み寄る。
寝室は家を出た時と同じで明かりはついていなかった。
しかし、俺が寝ていた床に俺以外の誰かが横たわっていることは確認出来た。
明かりをつけなくても分かった。
窓から差し込む月の光。
目が慣れてくるとそれが誰か判別するのに時間はかからなかった。
「雪…希……」
ぐったりと横たわる雪希の横で崩れ落ちる。
「雪希…なぁ…ただいま…」
そっと体を揺さぶるが雪希はビクともしない。
それどころか触れた手に生暖かい、どろっとした物が付着した。
気が狂いそうになるのを必死に堪えて、俺は震える手で明かりをつける。
そこにいた雪希は無残な姿だった。
人間の所業とは思えない程に体中を刃物で切り裂かれていた。
微かな希望を胸に、彼女を抱き起こす。
「雪希…返事してくれよ…なぁ…ゆき姉…」
しかし彼女は動かない。
彼女の重みが腕に圧し掛かる。
まるでモノみたいだった。
人形のように雪希は動かない。
鮮血で染まった胸に耳を当てるが、心臓の音は聞こえない。
だらりと垂れた腕を取り脈を測ってみるが、指先に伝わる鼓動はない。
震えているせいだ、俺が震えて混乱しているせいで分からないんだ。
そう思い手首を頬に当てるが何も感じない。
体中が血まみれだった。
そしてこれが全て雪希の血だと理解した瞬間に俺の中で何かが切れた。
「あ…あぁ…うぁ…」
誰だ…誰がこんな真似をした…。
俺は息絶えた雪希を強く抱き締めながら、自分の中でどす黒い感情が沸き上がるのを感じた。
その時だ。
俺の後ろから気配を感じた。
ゆっくり振り返ると、そこには見知らぬ男が血まみれの包丁を持って構えていた。
「お前が…殺したのか…」
男は覇気のない俺を見たせいか、思った以上に動揺していなかった。
あるいはこの男が殺しに慣れているのか…それは分からない。
ただ一つ、分かる事がある。
「お前が…雪希を…殺したんだな…」
体中の血管が沸き上がるのを感じる。
毛穴全てが開き毛が逆立つような感覚を覚える。
そして頭の中はただ目の前の男への殺意。
その気配を感じ取ったのか男が包丁を持ったまま俺に突進してくる。
「うあぁぁぁぁっ!」
俺はその男から逃げるどころか逆に突進する。
男はその対応が予想外だったのか一瞬動きが怯んだ。
しかし俺は相手が刃物を持っているにも関わらず相手の目の前に踏み込み、包丁の刃を握りそのまま奪い取る。
得物を奪われた男は咄嗟に逃げ出そうとするが俺は迷い無く奪った包丁で男の背を突き刺した。
何度も、何度も、何度も、何度も、男が倒れ息絶えても尚、背中に隙間無く包丁を突き立てる。
骨に当たっても骨ごと貫く。
内臓という内臓を全て破壊しつくす。
うつ伏せだった男をひっくり返すと今度は胸を包丁で何度も突き刺す。
まるで骨抜きをした魚のように刺した手応えを感じなくなると俺は包丁を手放すが、その時男の着ていたコートに封筒が入っているのを見つけた。
血まみれの手で封筒を開くと中には手紙が入っていた。
そこにはこの家の住所と、俺と雪希の名前…そして特徴が書かれていた。
だが俺はこの字に見覚えがあった。
そうだ、この男は雇われたんだ。
「…許さない…絶対に…許さない…」
俺は倒れている雪希を抱き起こす。
そして雪希の顔を見て気付いた。
「怖かったよな…そうだよな…」
涙の痕。
どれ程の恐怖を味わったのか一瞬で分かった。
そしてこうなった原因は俺だ。
俺のせいで雪希は死んだ。
こんな事が許されていいのか。
俺が憎いなら俺を殺せばいいだろう。
死ななかったからか?
生きているから、俺と雪希を今度はまとめて殺そうと?
悲しみと怒りが俺の限界を超えて、自分の中で処理出来なくなる。
「ああああぁぁぁぁぁぁっ!」
思い切り叫んだ。
近所迷惑なんて事は頭にない。
とにかく叫びたかった。
力の限り叫んだ。
喉が枯れると俺は雪希の血を啜った。
全て一緒になる。
もう絶対に離れないと約束したんだ。
その辺にあったタオルを手に取り、雪希の顔を綺麗に拭いてやる。
ふと右手を見ると手の平はバックリと切れてどす黒い血が溢れていた。
「…終わらせてくるよ、全て」
雪希の血が染み付いたタオルを右手に巻き付けて止血する。
俺はゆっくりと雪希を持ち上げ、居間に移動する。
テーブルをどかし、その場に横たわらせた。
そして持っていた煙草を彼女の横に添える。
「安らかに眠ってくれ…俺もすぐ行くよ…」
そう告げ冷たくなった唇にキスをすると、壁にかけてあったコートを羽織る。
犯人を串刺しにした包丁を再び手にして俺は家を後にした。
適当にタクシーを拾って橋場の家まで向かう。
金なんて持っていない。
到着すると持っていた包丁で運転手を脅して降車した。
運転手は俺が降りるとすぐさま逃げ出す。
俺はご立派な橋場家の門の前に立ち、虚ろな目で空を仰いだ。
そして暗い天蓋へ向かって一人ごちる。
「なぁ神様…俺はどうすれば良かったんだ…」
雪希はもう向こうに行ったのだろうか、そんなことを考えながら俺は門をよじ登り、正面から家へと入ろうとする。
しかし当然ながら鍵が掛かっていたため、庭の窓を蹴破って家に侵入する。
そこには食事中の義父と義母がいた。
「し、信二…?」
俺の普通でない様子を見て義父が激しく動揺しているのがよく分かる。
虚ろだった俺の目は奴らの姿を見た瞬間に炎が灯った。
復讐という名の炎が。
堪えきれない殺意を必死に抑えながら、俺は右手に巻き付けたタオルを解く。
そして持っていた包丁を逆さまにして一緒に右手にもう一度、強く巻き付けた。
「な、何をするつもりなの…」
「決まってるでしょう…復讐ですよ…」
左手と口でぎゅっとタオルを結ぶ。
これで準備は整った。
居間を見てみると義父はいなくなり、義母は必死に電話に向かって叫んでいる。
抑えていた殺意に身を任せて俺は一気に駆け出した。
逃げ出す義母を追い掛け台所に追い詰めた時、突然後頭部に衝撃が走った。
振り返るとそこにはゴルフクラブを持った義父がいた。
「し、死ねぇっ!」
しかし二打目は俺の脳天を外し、肩に当たった。
「…ねぇ父さん、何でいつも殴るの? 俺いつも頑張ってたのにさ…何処が気に食わなかったの…?」
ジリジリと距離を詰める。
義父はその迫力に押されてか、俺が近付くほど離れていった。
しかしその距離を一瞬で詰め、迷うことなく胸に包丁を突き立てる。
肋骨の間を通って内臓まで刃が届いたのが分かった。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
叫んだ瞬間にはすでに包丁を抜き、今度は心臓目掛けて刃を立てる。
「ひぎゃあぁっ! だ、誰か…助けっ…!」
その言葉を聞いて俺は包丁を抜くとそのまま解放してやる。
目の前でムカデのように這いずり回り、俺から逃れようとする義父。
いつの日だったか…逆の立場でこんな事があった。
その時は確か胸を灰皿で殴られたんだっけ。
肋骨が折れたけど、原因は木から落ちたという事にされた。
今になってみれば折れた肋骨が内臓を傷めなくて良かった。
「でも…お返ししなきゃ…」
逃げる父の胸を掴み、上半身を起こす。
「や…止め…伸二…」
「じゃあ最後の一回ね…」
胸の奥深くまで突き刺し、力強く抉る。
凄い勢いで血は溢れ、タオルは一瞬で真っ赤に染まった。
そして義父は瞳孔を開いたまま動かなくなった。
「……次は…母さん…」
「うわあああぁぁぁぁぁ!!!」
振り返ると包丁を持った義母が突進してきていた。
避ける間もなく、立ち上がった俺の胸に包丁が突き刺さった。
痛い。
でも今まで受けてきた痛みと比べればこの程度の痛みは大したものではない。
俺は義母の腕を掴み、一気に引き寄せると横から首元へ包丁を突き立てた。
「かっ…!」
短い悲鳴をあげたと同時に首元から大量の血が噴き出す。
義母は必死に噴き出す血を止めようと両手を首に当てるが止まる気配は無い。
数秒後その場で事切れた人形のように無造作に倒れ、床には溢れ出る義母の血が広がっていった。
「…あと一人」
胸に刺さったままの包丁を引き抜くと、心臓の鼓動に合わせて血が溢れ出る。
「…雪希…もうすぐだから…」
顔を濡らす返り血の上から涙が伝った。
不思議と痛みはない。
気付けば殺意も何も無くなっていた。
ただこの一家を皆殺しにする、それだけのために自分が生きているようだった。
残った一人は二階の自室だろう。
胸から溢れる血を気にも留めず、俺は義兄の部屋へ向かう。
ドアを開けようとするが鍵が掛けられていた。
だがつまり義兄はこの中にいる。
俺はドアを蹴破った。
「うわああぁっ!」
そこには窓から逃げようとしていた義兄がいたが、怖気ついて飛び降りられなかったらしい。
「お、落ち着けよ伸二…!」
逃げ出すのを諦めると義兄は腰が抜けているのか、その場に座り込んで必死にあとずさっていた。
「俺はお前の味方だ!」
「そういえば兄さん…母さんによく有りもしない事を色々言って…怒られる
俺を見て笑ってたよね…」
「親父の相続金は二人で山分けしよう! な! 悪くない話だろ!」
じりじりと義兄に詰め寄る。
「俺…皆の事好きだったよ…」
「お、俺だってお前は大事な義弟だと…!」
「家を出る時…死ねって言ったよね…」
「あ、あれは嘘だよ! 母様に言えって言われてさ…!」
「ウソツキ…」
義兄の前に立ちはだかり見下す。
「…し、死ぬのは、おおおおお前だぁっ!」
隠し持っていたカッターナイフを握り締め義兄は俺目掛けてその刃を立てた。
カッターは脇腹に食い込んだがそのまま中で刃が折れる。
「あ…あぁ…ぁ……」
刃を失ったカッターを見て義兄の顔が絶望で青褪める。
そんな様子を気に留める事なく、俺は義兄の頭を左腕でしっかり固定すると思い切り包丁を兄の頭部に突き刺した。
頭蓋骨を貫いた感触が右手に伝わる。
「ぎゃあああああああああぁぁぁぁっ!!」
断末魔の様な叫びを上げる義兄。
耳障りだったため俺は頭に突き刺さった包丁をグルリと反転させる。
「うぎゃがぁああああああぁぁぁああ!」
じたばたと暴れるが頭はしっかり固定しているため逃れる事は出来ない。
段々と抵抗する力が弱くなり、義兄が完全に動かなくなるのを確認すると右手のタオルを解く。
頭に刺さった包丁はそのままにして、タオルを持ったまま俺は再びリビングへ戻った。
「父さん…母さん……」
瞳孔を開いたまま倒れている父の隣に座る。
「………」
俺は何となくコートのポケットに手を伸ばし義父から貰った薬を取り出した。
今思えば、言われた通りこの薬を飲んでいれば全てが何事もなく終わっていたのかもしれない。
こうして家族を殺す事も、最愛の女性が死ぬことも無かったのかもしれない。
「…は…ははは……」
そうだ、俺が飛び降り自殺なんかしないでこの薬を飲んでいれば雪希に出会うこともなかった。
そうすれば彼女が死ぬこともなかった。
「全部…俺のせいか…」
生きていちゃいけない人間なんていない、雪希のその言葉を思い出した。
分かっている。
死ぬことの愚かさは分かっているんだ。
でも雪希のいないこの世に何の未練がある?
「…あれ」
段々と目の前が白く霞んできた。
俺の胸から溢れている血は決して少なくない。
「そろそろか…」
雪希のいる所へ行ける。
そう思うと勝手に笑みが零れた。
ふと人の気配を感じて振り返るとそこに血相を変えた木島が息を荒くして立っていた。
「し、信二…これは…」
リビングの惨劇を目の当たりにして木島は混乱しているようだった。
しかし俺の胸から溢れる血を確認すると駆け寄ってきた。
「お前この怪我…! 誰にやられた!」
「そこで…死んでる家族だよ…」
体を支える力を失い倒れかけた俺を木島は抱き留めた。
最期は親友の腕の中というのも悪くない。
「まさか…お前が…」
「ごめんな…遊ぶって約束…守れそうにないや…」
「ば…そんなの治療してからでいい! すぐに救急車を…!」
そう言って携帯を取り出そうとする木島を俺は制す。
「何でだよ信二! まだ助かるかもしれないだろ!」
「いいんだよ…もう…いい…」
意識が遠のいていくのが分かった。
これが死ぬという事なのだろうか、別に走馬灯も何も頭を駆け巡らない。
ただひたすら体が重く、眠たかった。
雪希はこんな事を考える暇も無く死んだのかと思うと俺の目から涙が溢れ出した。
「木島…最後に頼みがある…」
「最後なんて言うな! きっと助かるから諦めるなよ!」
木島は俺の手に握られたタオルを奪い取ると、胸の傷口に強く押し当てる。
それでも溢れる血は止まらず、タオル越しに溢れ出した。
「雪希を…綺麗な墓に埋めてやってくれ…」
「雪希さん…? ま、まさか…」
そして木島は気付いた。
過去の過ちを、この一家は再び犯してしまった事を。
すると慌てふためいていた木島の表情は落ち着きを取り戻していた。
「そっか…頑張ったな信二…。任せろ…二人一緒に…立派な墓建ててやる
よ…」
そう言う木島の唇は震え、必死に涙を堪えているのが分かった。
「ありがとう…親友…」
笑顔でそう告げる。
思えば木島には苦労ばかり掛けてしまった。
俺と関わったばかりに、こいつの人生もおかしくしてしまったのかもしれない。
それでも、俺のために涙を流してくれる友人が目の前にいる…それだけで心が満たされていった。
「最後ぐらい…親孝行して…逝くとするか…」
「何だって…? 何て言ったんだ信二?」
ずっと持ち続けていた小分け袋から一錠の薬を取り出す。
「おい、何だよそれ…やめろ信二…」
怪訝な顔を向ける木島を気に留めず、俺はその薬を飲み込んだ。
飲み込んで数秒後、突然体の内部から激しい痛みが駆け巡る。
痛みは苦しみへと変わり、一歩一歩死に近付いていく。
普通なら叫び暴れるところだが、生憎とそんな気力はもう残っていない。
「おい信二! 何を飲んだんだ! 信二!」
耳元で木島が何かを叫んでいるが、その声はもう俺には届かなかった。
暗く閉ざされていく意識の中、目の前に雪希の姿が浮かび上がる。
そして完全に意識が消える直前、雪希は酷く悲しそうな笑顔で俺に向かって両手を伸ばした。
俺の選んだ選択肢は間違いだったのだろうか、雪希はこんな事を望んでいなかったのか。
しかし今となっては確認する術もない。
答えは向こうで聞くとしよう。
信二の傷口から流れ出る血はまだ温かかった。
しかし弱々しい呼吸すら無くなり信二は木島の腕に抱かれたまま静かに息を引き取る。
一度ならず二度も。
この橋場の家に住み着いた悪魔を呪うと同時に、己の無力さが堪え切れずに爆発した。
木島は泣いた。
まるで信二の怒り、怨嗟を代弁するかのように力の限り叫んだ。
橋場の家から信二の監視を頼まれた頃から木島はこの家に巣食う悪魔の正体を調べていた。
歳を重ねる毎に分かっていく真実。
何度も信二に全てを明かそうとしたが、ただでさえ憔悴している彼にそれらを伝える事はトドメを刺すようなものだった。
だが堪えきれなくなって由香里が殺された際に容疑者に成りすまして手紙で事件の真相を伝えてしまった。
抜け殻のようになっていた信二に復讐心でもいい、心を取り戻して欲しかったのかもしれない。
だが親友の未来のために自分の人生を捧げる決意は全て失敗に終わった。
家族との和解を考えていたことがそもそも愚かであった。
大学時代、彼の生活を報告したのは自分。
そして雪希と共に暮らしていた事を報告したのも自分だった。
縋る様な思いで今度こそ信二に手を出さない様に頼み込んだがそれすら無駄に終わった。
それどころかそのせいで二人は死んでしまった。
そう、こんな事になったのは全て自分のせいだ。
泣き叫び気が狂いそうな思いで木島は目を覆いたくなるような周囲の惨劇を見渡す。
これは全て自分のせいなのだ。
倒れている信二の義母が握っていた包丁が目に入った瞬間に黒い衝動が襲い掛かってくる。
罪を償う方法はこれしかない。
だが突然雪希に言われた言葉が彼の頭に蘇った。
それは信二が大学に入る前の事だ。
信二の監視を続ける事と橋場家の真実を知っていくうちに、彼は自分自身どうすればいいか分からなくなっていた。
もしかしたら自分のせいで余計に信二を苦しめているのではないかと考え死のうとした事がある。
苦しい日々にも関わらず優しく接してくれる親友。
その親友の事を思えばとても自分がやっている事が正しいと言える自信はなかった。
だが唯一世界の残された彼の家族である雪希との連絡を絶つ訳にもいかないし、それを伝えて信二に動揺を与える訳にもいかなかった。
何より今更どんな顔をして今まで自分がやってきた事を伝えればいいのか分からずにいた。
そうして死ぬかどうか悩んでいた事を、雪希に相談した事があった。
兄弟のいなかった木島にとって雪希は彼にとっても姉のように思っていたのか、愚痴を零すような…冗談半分で言ったつもりだった。
しかしその言葉に雪希は死んでいい人間なんて存在しない、と真剣に伝えた。
そして木島がいたから雪希は絶望から救われたと。
そう言って感謝する雪希には驚かされたものだが、そんな今は亡き彼女の言葉が木島の脳裏に蘇った。
「俺は…どうすればいいんだよ雪希さん…」
腕の中で安らかに眠る信二を見て再び涙が込み上げてくる。
残された者の気持ち、それが初めて分かった。
まして肉親を全て失った悲しみ、それを幼少期から背負ってきた信二の事を思えばその苦労は計り知れない。
「なぁ信二…俺はありがとうなんて言われる資格はないんだよ…」
だがその言葉に対する返事はない。
罪を償う方法は分からないが、これからこの罪悪感を持って生きるのが罰なのではないか。
だとしたらここで死ぬ事は許されないだろう。
「お前に見合う親友になるためにも…俺頑張るから…だから…」
木島は親友に最後の挨拶を済ませると己が今やるべき事を始めた。
それから数年の月日が流れた。
事件後、警察に全ての真相を話した木島だが、ただ静かに彼等を眠らせたいという願いから信二の犯行はニュースで報道される程度で終わった。
一家惨殺事件、犯人は養子、犯行動機は復讐…心を打つ事件は真相だけ明るみにし人々の記憶からはすぐに消えていった。
あの惨劇を覚えている者は自分だけでいい…それが木島の出した答えだった。
そして信二達の命日、新たに二人の遺骨が納骨された広沢家墓地の前に木島は立っていた。
「元気にやってるか信二。俺は元気にやってるよ」
墓石の前で手を合わせてその向こうにいるであろう親友に向かって語りかける。
「俺に出来ることなんてこれぐらいしかなかったけどさ…ちゃんと約束通り
雪希さんとお前を…綺麗な墓に入れてもらったよ」
彼等の墓に訪れる人間は木島ぐらいだった。
だがだからこそ彼は毎年欠かさず墓参りに訪れる。
「お姉ちゃん待ってよー…」
と、そこへ同じく墓参りに訪れたのか幼い姉弟が木島の後ろを駆け抜けていった。
そしてその後から姉弟の両親と思われる人物が現れ一礼すると二人を追いかける。
そんな家族の後姿を見て木島は自然と笑みが零れた。
「向こうで家族みんな幸せにな、親友よ」
最後まで読んで頂きありがとうございます。
これからも修正点などご指摘頂ければ加筆していこうと思うので感想などございましたらお気軽に聞かせてください。
また作者自身の最長編作「Whim of God」にも目を通して頂けると幸いです。